──キャラメル・ママは、松任谷さんにとってどんなバンドでしたか。
キャラメルというと、当時青山にあったパイのチェーン店、アンナミラーズでのミーティングばかり思い出します。(略)
キャラメルは話し合いばかりやっているバンドでした。なにを話し合っていたのか──思い出せませんけれど。ヴィジョンが見えなかったんだと思います。ヴォーカルがいなかったことが大きかったんでしょうね。
それでも、とにかくスタートをしようということで、細野さんのソロアルバム、『HOSONO HOUSE』を狭山でレコーディングしたんだけど、あれは、僕にはバンドの活動とは思えませんでした。だって、細野さんのソロアルバムですから。そういった気持ちのギャップがキャラメルにはいつもありました。
よく、キャラメル・ママが発展したバンドがティン・パン・アレーと言われていますが、 どこまでがキャラメルで、どこからがティンパンなのか、僕にもあいまいなんですよ。確か細野さんがマッスル・ショールズ・スタジオのイメージを提案したんじゃなかったかな。
キャラメルからティンパンになる頃に、風都市から、桑原オフィスに事務所も変わった。ただし、音楽の方向性は相変わらず不確定で、給与の安さも改善されませんでした。
自分たちの強みは何か──。やっぱりクリエイティビティと演奏技術ではないかと僕たちは自己分析しました。だったら、サウンド・クリエイト集団になったらどうかと。
それが、ティンパンのスタートだった気がします。キャラメルは、僕の中では、卵のまま孵化することなく終わったバンドです。
サウンド・クリエイト集団をイメージした頃(略)
[荒井由実と吉田美奈子からオファー]
どちらもデビュー・アルバムでした。「オレ、やることあるの?」
決まった時に僕がそう言ったことを憶えています。由実さんも美奈子もピアノを弾きながら歌うシンガーソングライターだったからです。
結局、どちらも、僕はピアノではなく、オルガンやアコーディオンを演奏しました。二作同時進行だったので、バンドで西新宿にあるヤマハのスタジオでサウンドを構築してから、それぞれのスタジオに行ってレコーディングしました。
交際のきっかけ
ドラムスとベースは基本のリズムが決まればそこで役割は終わりですけれど、キーボードというパートはレコーディングに参加する時間が一番長いんですよ。
由実さんは僕に意見を求める人でした。僕の意見に積極的に耳を貸してくれるので、会話が多くなり、僕の役割も拡大していった。音楽的な方向性も一致しました。その一方で、美奈子は、最初から自分の世界観をしっかり持っていて、それを軸にレコーディングが進んでいきました。だから、僕はあくまでも一人のミュージシャンとしての参加です。でも、美奈子のレコーディングがつまらなかったわけではありませんよ。彼女の発信する世界観は僕も好きでしたから。
シンガーソングライターとしての、当時の由実さんの音楽のイメージは、パープルグレーです。暗くはないけれど、かといって明るいとも言えない、ミステリアスな、見たこともない色でした。一方、美奈子はブラック、かな。
死ぬほど聴いたアルバム
──『ひこうき雲』と『扉の冬』をやって、細野さんのレコーディングもやって、それでも給料は三万円ですか。
少し増えて八万円くらいかな。ただし、どんなに忙しくても八万円。だから、音楽の仕事は楽しかったけれど、不安でしたよ。「僕は音楽で食べていくことができるんだろうか」──と、いつも自問していました。大学へ入り直して、教職課程を取って、音楽教師になることもまじめに考えたほどです。この時期のことを僕は自分の「暗黒時代」と言っています。
その頃、よく聴いていたアルバムがあります。(略)
マリーナ・ショウの『フー・イズ・ディス・ビッチ、エニウェイ?』です。
当時原宿にあった輸入盤専門店 「メロディハウス」で勧められて、ものすごく衝撃を受けました。僕の好きな音楽のフレーバーが全てミックスされていたような気がしました。忘れられない出会いです。その日から、数年間は毎日、おおげさではなく、本当に盤がすり切れるほど、このレコードを聴き続けました。(略)
まず、ベーシストのチャック・レイニーとドラマーのハービー・メイスンが生むグルーヴがすさまじかった。特に、ハービーの演奏から感じる筋肉の躍動感は、それまでに聴いたことのない音楽でした。(略)
[この頃、スティーヴ・ガッドが]日本人のドラマーにすごく影響を与えて、一時期だれもがガッドをイメージした叩き方になったほどです。
でも、僕はずっとハービー派です。あの短距離選手のような躍動が好きでね。(略)バラードのナンバーですらすごいスピードを感じます。「デイヴィー」とか「ローズ・マリー」とか。
(略)
都会的なR&B。汗を感じない、風のような音楽です。
あのアルバムは、楽曲やパフォーマンスがスペシャルなだけでなく、偶然性も味方しています。マリーナ、チャック、ハービーの脂が乗りきっている演奏が時代にジャストにはまっている。
(略)
僕には、死ぬほど聴いたアルバムがほかに五枚あります。スタイリスティックスの『ザ・スタイリスティックス』、ポール・サイモンの『スティル・クレイジー・アフター・オール・ディーズ・イヤーズ』、スティーヴィー・ワンダーの『ミュージック・オブ・マイ・マインド』、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』、ボブ・ジェームスの『BJ4』。(略)
この六枚があれば、ほかにはもういらないと思うくらい大切です。どれも奇跡が起きている。(略)
[『スリラー』や『バッド』]には奇跡は起きていないと思う。
[『オフ・ザ・ウォール』は]タイトル・チューンもロッド・テンパートンです。マイケル、ロッド、そしてプロデューサーのクインシー・ジョーンズの一番脂の乗ったタイミングが重なっている。ロッドはね、「オフ・ザ・ウォール」以降は、それを超えるような曲を書いていないんですよ。
「生まれた街で」
『MISSLIM』からコーラス・アレンジを山下達郎に任せて、その最初の曲が「12月の雨」でした。このアルバムのコーラスは、山下、ター坊、美奈子、アッコちゃんと、その後の日本のポップシーンの第一線で活躍するメンバーです。
(略)
アレンジで僕がよく憶えているのは「生まれた街で」と「私のフランソワーズ」です。ストリングスのアレンジを僕が初めて手がけました。
(略)
「生まれた街で」は、アレンジャーとしての僕のキャリアにおいて、特に大切な曲かもしれません。初めてストリングスのアレンジを手掛けただけではなく、それまでの自分にはないリズムを構築できたと思えましたから。
この曲のアレンジは、ブライアン・オーガー&ザ・トリニティ(略)の音がヒントになっています。あくまでも考え方を参考にしただけで、サウンドはまったく別なものになっていますけれどね。
「生まれた街で」のデモテープを初めて聴いた時に、生ぬるい風が吹いているような感じを覚えてね。それをどうやって音で表現しようかと考えて、あのリズムにたどり着いた。リズムというのは本来シンプルなものだけど、林と細野さんと話しながら、バリエーションを豊かにしていきました。そこにストリングスや管楽器やコーラスをからめていったら、それまでに見たことのない音の風景に出会えた。
(略)
[給料はまだ]八万円です。それと、アレンジ料が一曲一万六千円だったかな。十曲やると十六万円です。まだ暗黒時代でしたね。
[ハイ・ファイ・セットのアレンジをするようになり暗黒時代脱出]
「去れよ、去れよ、悲しみの調べ」というロックテイストのアルバムでした。レコーディング・メンバーもロック系です。ギターは竹中(尚人。その後のChar)。ドラムスとベースは、大先輩のロックバンドのミュージシャンでした。
このレコーディングは、僕がイメージするグルーヴがなかなか出せなくて難航しました。(略)ドラムスとベースの人たちと、ちょっとかみ合わなかったんです。でも、先輩だから、無理も言えない。
途方に暮れていると、竹中が僕のところにやってきてね、オレが話してきますよ、と言うんです。それで、竹中が二人を断ってきた。
あの時、竹中だけが若くて、まだ高校生でした。その高校生が僕よりも先輩にあたるミュージシャンを説得した。助かりました。どう話したのかはわかりませんけれど、穏便にいったようです。というのも、竹中はその後二人にステーキをご馳走になったらしいので。
[色々やったまだ60点のできだった「ルージュの伝言」]
それでひらめいて、また山下を呼んだんですよ。(略)彼は美奈子とター坊と伊集加代子さんを集めてコーラスをつくってくれた。あれで抜群のアメリカン・ポップになりました。だから、「ルージュの伝言」に関しては、山下の力がすごく大きい。結果的に由実さんのポップ・シンガー路線を開拓してくれました。
「卒業写真」はもともと、由実さんがハイファイに書いた曲です。でも、そのときはあまりアレンジが加えられていなかった。それで、僕のほうではちょっと変わったことをしてみたくて、キャラメル時代の跳ねたリズムをやろうと細野さんと話しました。茂は勝手にワウ・ペダルを使ったギターソロを弾いていた。確かワンテイクで録ってしまったはずです。
メンバーそれぞれが二曲か三曲ずつ持ち寄ってつくろうということになって、坦々とレコーディングした覚えがあります。ティンパンはいつも、坦々とやっていましたから。というよりも、ちょっとぎすぎすしていたかもしれませんね。この状況でバンドとしてきちんとコーディネーションされたアルバムになるんだろうか──と思いました。四人がてんでんバラバラでした。このアルバムは、確か赤坂にあったクラウンレコードのスタジオでのレコーディングです、あそこの音もあまり好きになれませんでした。
『TIN PAN ALLEY 2』
当時も、今も、これでいいの?という疑問符が消えないアルバムです。これをバンドの作品と言っていいの?と。
レコード会社との契約があったから、そしてティンパンのメンバーは器用だったからできてしまったものの、アルバムというのは、本来そんな安易につくってはいけないと思っていた。もっとしっかり熟成させるべきだったと思います。
このアルバムの後、ティンパンのメンバーで集まる機会は徐々に減りました。ただ、僕に関していうと、ほかの三人との結びつきが薄いことも大きかったんじゃないかな。(略)
細野さんと林と茂は、それ以前も、それ以後も、一緒にやっているんです。僕を除いた三人の関係性が強いバンドです。
細野さんに関していうと、僕とは、ミュージシャンとしては水と油だと思っています。けっして融合しない。常に考えていることが違う。しゃべっている言語が違うと思うことすらあります。
(略)
[関西と関東で]笑いのツボが違う。あれは理屈ではなくて、感性ですよね。細野さんと僕の違いもそれと似ていると思う。かっこよさの基準が違う。かっこいいと感じる対象も違う。でもね、だからこそ、細野さんとやると、いつもおもしろい。一緒に演奏するたびに感じます。(略)
[『自伝鈴木茂~』]を読むとね、僕はカントリーのミュージシャンということになっています。出版前のゲラ刷りを見せてもらって驚いたけれど、おもしろいから、直してほしいとも言いませんでした。
茂とは、ティンパンだけでなく、その後の由実さんのアルバムのレコーディングでも、拓郎のバンドでも一緒にやっています。それなのに、僕をカントリーのミュージシャンだと勘違いしているんですよ。そのことでもわかるように、僕たちはおたがいのことを知っているようでよくわかっていないのだと思います。
大切にしている映画
僕には心の中で大切にしている映画がいつも必ず五つありましてね。今は『男と女』『未知との遭遇』『グッバイガール』『マディソン郡の橋』『アイガー北壁』です。
(略)
『未知との遭遇』からは、音楽も影響を受けている気がします。音楽に影響を受けているということは、つまり考え方にも影響を受けている。あの映画を象徴する五音階も印象深い。この作品は音と映像、どっちが先にできたんだろう、と思いながら観ました。
それと、この映画、物語が進むにしたがって、不安感が安らぎになっていくでしょ。そこが好き。それを考えると、同じスピルバーグでも、『ジュラシック・パーク』はどうも苦手でね。ただ恐怖をあおられているように感じるからです。(略)
[『激突!』は]主人公の気持ちになって観ると恐ろしい。でも。時々、主人公を執拗に追い、恐怖を植え付けるタンクローリーのドライバーに自己投影することもある。そういう時に、自分の中の暴力性を感じますね。
(略)
『マディソン郡の橋』は僕にとってかなり大切な映画です。イーストウッドとメリル・ストリープが迷って迷ってなかなか関係を進めないところに共感できる。人はだれでも、守りたいものと捨てたいものがありますよね。それを代弁してくれている作品だと思います。ストリープの夫たちが帰ってくるシーンは悲しいですね。
フィリップ・シュテルツルの『アイガー北壁』は、最近好きになりました。最初は二度と観ないと思った。嫌な映画だとね。でも、もう一度観たら、ロマンティックなんです。
──須藤薫さんの『Chef’s Special』に収録されている曲「あなただけI LOVE YOU」のアレンジは、大瀧詠一さんと並んでクレジットされています。
川端さんの関係だったと思いますよ。川端さんは、薫ちゃんと大瀧さんのディレクターでしたから。それで、『Chef’s Special』の翌年の大瀧さんの『A LONG VACATION』にも僕はストリングスやピアノなどで参加しています。
ただ、残念なことに、『A LONG VACATION』には、ストリングスのほかには僕の名前のクレジットはなかった。それで表記を担当したスタッフにクレームを言ったことで、大瀧さんとも疎遠になってしまいました。大瀧さんと僕の間には何の問題もなかったのに(略)。大瀧さんのスタッフと僕は昔から仲がよくなかったんですよ。そのままの関係で、大瀧さんが亡くなられてしまったことが悔やまれます。
僕がフォージョーハーフにいた頃、大瀧さんも狭山と似たような福生の米軍ハウスで暮らしていたので、当時から交流がありました。
(略)
長野県の松本にあった富士弦楽器に一緒にギターを買いに行ったこともあります。(略)ドライバーは僕で、大瀧さん、細野さん、茂と男ばかり四人で、一泊二日で行きました。青春ですよ。
「守ってあげたい」
「守ってあげたい」のレコーティングでも、音楽の小さな奇跡が起きています。レコーディングで、由実さんの声と、コーラスのBUZZの声を何度も何度も重ねていくうちに、突然、鮮やかな風景が見えたんです。
抽象的な表現になりますけれど、この曲を僕は、なんというか、しゅわっとした音にしたかったんですよ。当時は今ほどエフェクターが発達していなかったので、ドルビーを使って効果を狙いました。ドルビーで録音して、ドルビーをはずして再生すると、高音域が広がる効果が得られたんです。すると、エア・サプライのようなコーラスになった。そこにね、風景を見た。
こういうことは意図的にはできません。努力だけでは到達できない奇跡の領域です。
夫婦関係
音楽づくりについては、まず結婚して最初の一、二年はつらかったですよ。これは、僕たちだけではなく、世の中の多くの夫婦が似たような経験をしているかもしれませんけれど、単純に新しい生活になじめませんでした。
その上、結婚して一作目の『紅雀』が思うような評価を得られなかったので、しばらくは微妙な状態が続いていた。おたがい、こんなはずじゃあなかった、と思っていたはずです。だから、由実さんは「趣味は社交」と言って、よく出かけていたし、僕は働きまくった。
(略)
僕は子どもの頃から結婚願望が強くてね。夫婦とか家族を定型化して考えていたところがあった。でも、人間関係って、百組あれば百組全部違うでしょ。
(略)
四十年も一緒に暮らしていると、楽しいことも、そうでないことも、いろいろ起こります。そういうプライベートの出来事や、そこから生じた感情を、僕は、作品にフィードバックさせようともしました。自分で自分を悪魔じゃないかと思ったことも、ときにはあります。そんなことをくり返し、自分たちだけの夫婦関係を築いてきました。
こうしたことを踏まえて、シンガーソングライターとしての由実さんの音楽を僕がブロデュースし、さらにショーの演出をすることが、果たして理想的なのだろうか──。自分に問いかけることはありますよ。四十年にわたって僕がやりつづけていることが、彼女のまだ見ぬ可能性を狭めているんじゃないかと考えることは、どうしてもね。
でね、僕が由実さんのプロデュースをやることによるメリットは五一%、デメリットは四九%だと感じています。
メリットがわずかに上回っているのはどこなのかというと……、それは彼女の安心感、かな。(略)
そう思えるから、今もなお、僕が彼女の音楽をプロデュースし、アレンジをしている。
安心感というのは、間違いなく、作品の仕上がりに反映されます。逆に緊張感も。どちらがいいかは分からないけれど。
僕と由実さんは、たぶん、その二パーセントのメリットの部分でおたがいに納得し合っで、ここまでやってきているんだと思います。