フィッシュマンズ全書 小野島大

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: Kindle
 

 〈コメント〉チバユウスケ

チバユウスケフィッシュマンズは、明治学院大学で同じサークル「ソングライツ」に所属していた。チバの一学年上が茂木欣一柏原譲、三学年上が佐藤伸治という関係である。
 大学は1、2年が戸塚で、3、4年が白金。だから伸治さんとは滅多に会わなかったけど、欣ちゃんや譲とはしょっちゅう会ってた。チケット買ってくれって言われて。で、渋谷のラ・ママでライヴ見たのが伸治さんに会った最初かな。
 最初の印象は、ふんわりしたバンド。うまいなと思ったし、いい歌だなと思った。歌が好きだったかな。声も歌詞もメロディも良かった。曲の合間に喋る感じがまた、うまいんだよね。客をつかむ呼吸。

(略)

ファーストが出たときは、俺はライブのほうがいい気がしたな。レコードはちょっと軽い感じがした。

『空中キャンプ』で変わったって言われるけど、俺はそういう印象はない。俺にとってはフィッシュマンズは伸治さんの歌だから。(略)伸治さんの歌は、伸治さんそのものだった。たぶん、すごく正直にやってたんじゃないかな。あんまり架空の世界じゃない気がする。そういうリアルなところは、俺も影響受けてるかもしれない。(略)
 でも伸治さんには挨拶するぐらいで、個人的なことはあまり知らない。俺の見た限りでは、すごく自信に溢れた強い人って印象。(略)
 伸治さんて、寝そべってる印象があるんだよね。フェスか何かで一緒になったんだよ。確か俺らがデビューしたばかりで。で、伸治さんのところに行って「お久しぶりです」って言ったら、「久しぶり~」って寝そべって手を振ってたイメージがある。最後に会ったのは、その時じゃないかな。(略)

レゲエ

東京Walker 91/5/28号

ミュート・ビートとたまを足して2で割ったみたいなバンドだなってよくいわれる」 (略)

[三人編成の]第1期フィッシュマンズの頃は、ブランキー・ジェット・シティみたいだったとか。

salida 91/5/31号

小嶋 (略)小玉さんはプロデューサーっていうよりメンバーに近い感じでしたね。(略)

小玉さんって本当にレゲエ好きみたいですね。僕らは……レゲエっていうか縁側なんですよ。縁側で一服……そんな感じですよね。

 アリーナ37℃ 91/6月号

──(略)レゲエをやりたくて始めたバンドなの?

 さとう いや、全然。ただ歌いやすいからで、べつにスカやレゲエはどうでもいいんです。あと、音がゴチャゴチャとまざってるのはすごいイヤだから、それでこういうのをやってるだけ。スカやレゲエはかえって聴いてない。ストーンズとかTレックスとか好きだから。

 宝島 91/6/24号

 おじま 単純に小玉さんしかいないんじゃないかって思ったから。今回はあまりプロデューサー然とした人を必要としなかった

(略)

──実際やってみてどうだった?

さとう もう、凄いよ(笑)。

おじま 凄いけど、プロデューサーじゃないよね(笑)。メンバー、バン・マスって感じ。

ゆずる 今までやっててあやふやだったところを全部明らかにしてくれたんだよね。特にリズム隊なんかエライ進歩したっていうか。根底から考え方が変わったね。今までは歌についていくだけで、歌がこけるとみんなこけるって感じだったんだよね。(略)

リズムを安定させて、その上で歌がドーンと伸びるみたいな、そういう気持ち良さがわかったという。

STAGE GUIDE 91/7

佐藤 (略)昔、モッズ系っていうか、JAMとかフーとか演ってたんですよ。で、演ってみて自分とはちょっと違うんだなあ、って。それがあって今の僕があるという。

〈コメント〉こだま和文 

 彼らはホントに無邪気でしたよ。音楽のことしか頭になくて。佐藤くんなんか、どう楽しく過ごすかとか、ものすごく先が開けている感じがあったし。あの一丸となってる感じというか、一生懸命さが良かったんですよね。(略)
 最初に会った時のことは、覚えていますよ。僕のライヴですよね、同じ学園祭でね。(略)ものすごく個性的な感じがしましたよね。 すごく華奢で(略)小動物のような、東南アジアとか南米とかの絵本に出てくる少年のような。それで、ものすごく明るいんですよ。

(略)

最初のデモ・テープは、なんかユーミンみたいだった。アレンジもね、ティン・パン・アレーとかに近い質感があったんですよね。そんなにレゲエでもなかったし。(略)

[1st録音では]参考のために、僕がロックステディのミックス・テープを作って彼らに渡して、まずそこから始めたんです。彼らはリズムが散漫だったんですよね。これはソウルっぽいとかこれはファンクっぽいとか、これはレゲエっぽいかなという。(略)僕は一回、レゲエとロックステディをしっかりさせようと思ってね。レゲエのリズムを解釈すれば、すごいオールマイティになれるから。(略)

(略)

リズムにおけるカリビアンなるものというのは、絶対この先強いぞって思っていたから。(略)

 だからファーストがレゲエになったのは、僕の意向ですよ。半ば強引だったと思いますよ。それに佐藤くんは必ずしも100%賛同しなかったと思うんです。そこにはちょっと衝突があって。すごくレゲエ好きな男でしたけど、それと自分たちのバンドでこれから出していこうとするものとはね、分けて考えていたという部分は、当然持っていたと思いますよ。ある種のレゲエ・バンドってくくられたくないとか、自分の中にはもっといろんな要素があるんだとか。だけど、僕は一番いいと思うことをやるってことですから。彼もバンド全体としても、それを納得した形になった。

(略)

最後の言葉を交わしたのも(略)亡くなる前の年(98年)の野音ですよ。その時僕は酔っぱらってて、なにかぼやいたと思うんですよね。佐藤くんはそれを察知したかなにかで、楽屋のソファーの陰に隠れたんですよね。(略)

酔っぱらっていたから、なんだよ佐藤、なんでそんなによそよそしいんだよ、みたいな、そういう感じで言ったんですよね。なんで隠れたのか、わからないですね、今となっては。
 佐藤くんは、すごくウェットな男なのに、すごいクールでもあった。繊細だし。自分の居心地というものを、ものすごく感じ取っている人だから。かといって難しい男じゃないんですよね。すごく江戸っ子なところもあって(略)

スパッと割り切れたところもあったし。だから願わくば、もっと話がしたかったな、と思う何人かの一人ですよね。あんなに想いを残す人も、そうはいないですよ。

ダブ、ヒップホップ

BANDやろうぜ 92/12

──(略)結構過激なダブ処理もありますよね?

佐藤「(略)録ってる段階から、1日の終わりにはダブ大会、みたいな。今回はそれが結構目玉だったなっていう」

茂木「<頼りない天使>なんてすごい収穫になりましたね。これはダブの理想的な到達点ですね。そこまで言わせてもらいます。歌ものに関してのという意味ですけど

 デイリーan 93/4/9号

佐藤「唐突だけどね、最近ヒップ・ホップ に凝っているんですよ(笑)。(略)レゲエとヒップホップって結構似ているんだよね。勢いっていうかリズムの強さに共通するものがある。(略)

それに音の詰め込み方が凄い。ムリヤリ詰め込んでいるんだけど、ちゃんと音楽になっているってところ。(略)

だから次の作品にもきっと影響が多少出てくるんじゃないかな。レゲエという基本は崩さないけど、音楽的でない音の入れ方とか」

〈コメント〉窪田晴男 

[2ndアルバムプロデューサー]

 僕にプロデュースのオファーをした理由というのは、特になんにも。あいつらもにゃもにゃしてるから(笑)。どうも自分たちの中でははっきりしているらしいんですけど、それをちゃんと外に表現したりするのが、あんまり上手な子たちじゃないんですよね。(略)

 すごくヘンなアルバムになったのは、まず、レゲエ・バンドですっていう骨格が見えた方が、絶対この子たちは当たるだろうって思ったんですよね。で、レゲエだったらダブだろ的な。彼らにポップ・チューンのスマッシュ・ヒットが出ても、その次が出るか出ないかが、ちょっと僕にはわからなくて。それよりも、佐藤伸治の得体の知れない才能とバンドの音楽性、そっちを出したいと。たとえばクラプトンもいろんな音楽やるけどあの人はブルースですみたいな、あれと同じように、いろんなことができるけど基本にレゲエが見えます、みたいなバンドの方が、バンドとしても長持ちするだろうし、売れるだろうなって当時は思ったんですね。それにこの子たちが自分たちでプロデュースするようになった方が、よりおもしろいものができるに違いないと。(略)

バンドと佐藤くんを自由にしてあげるのが、僕の役割かなあって。それと誰もやっていないようなことを俺達やってるぜ、という風な自信をつけさせてあげたかったんですよね。

(略)

 佐藤くんについては、おまえが天才だってことがわかったから、おまえは放し飼いにするって(笑)。だからおまえは好きに歌詞を書いていいし好きに歌っていいし、好きにやりなさいと。僕が全部面倒見てあげるから、やりなさいと。整頓された歌唱とか売れ線どうのとか、そうじゃない魅力がこの子にはあるなと。(略)ひたすら彼が愉快であることがバンドにとっても良いはずだと。

 あのアルバムの後も、レコード送ってくれていたんで、聴いていました。ああ、どんどん好きな方向へ行って、どんどんいい意味でわかりづらくなってるな、ポピュラーでなくなってるな、って思いましたね(笑)。でも、それもいいかなと。あのアルバムでは、要するにレコーディングの場合は演奏するだけじゃなくて、卓(コンソール)の側にも音楽がある、ということを、彼らは覚えてくれたんだと思います。そういう意味では、その後、なにか妙にクスリ臭い音になったりとか、いろんな風になっていくということの、ある種のきっかけ作りはしたのかしらと思いますね。
 佐藤くんが亡くなった時は、あれはねえ、ちょっとショックだったな。譲くんが抜けた時のコンサート(98年)に行きそびれてるんですよ。あの時佐藤くんは、相当絶望していただろうし。ただ、ドラムと2人でも音楽は作れるよ、ということをひと言言ってあげようと思っていたんだけど、それはちょっと言いそびれちゃってて。そのへんがね、未だに自分の中でもにゃもにゃしてるんですけどね。 

Go Go Round This World!

Go Go Round This World!

 

佐藤、歌番組に怒る

 『Go Go Round This World!』1994年2月2日発売

月刊カドカワ 1994年3月号 文 佐藤伸治

  お正月に『MJ』という夜やっている歌番組を観た。普段、歌番組はほとんど観ないけどその日はなぜか真剣になって最後まで観た。出てくる人の顔から歌詞から曲から何からもう全部。そしたら無性に腹が立ってきた。なんなんだね、コレは。もう何がなんだかさっぱりわからなかった。もう頭の先から靴の裏まで、歌詞のひとつからギターの趣味まで何ひとつわかりあえることはなかった。同じ人間でもこうまで違うものかと思った。それもこの日の出演者は去年すごく売れた人ばかりらしい。なんてことだ。これが売れてるって?前々から怪しいとは思っていたけど、もう相当怪しい。ここまでくるともう完全に犯罪だ。もう全員犯罪者。歌ってる人も聴いてる人もカラオケやる人もみんな極悪、悪党の集まり。こんなすごい犯罪国家は日本だけだ。さみしい。

 MUSIC GUIDE 1994年3月号 佐藤伸治インタビュー

(略)

 あと、ボク日本の音楽史にちゃんと興味ありますから。10年後にちゃんと聴けるものとかそういうのに。

(略)

だからあんまり“今、今”ってことだけで曲つくりたくないんですよね。無責任に。そう思うのだ!

大学時代

ガレージ・パラダイス 1994年創刊号

[インタビュアーは小嶋の同級生。尖ったブーツでストーンズやってた小嶋がこじゃれた感じになってびっくりしたので、その経緯を訊きたいというところからインタビューが始まり]

──それは小嶋君はLMS、佐藤君はソングライツ(両方共軽音サークル名)に入った後?
小嶋「そう。両方共の部室が近くて、それに学部もクラスも一緒だったから、ちょっと音出そうとかいって毎日やってたよな。その時伸治って歌うよりドラムよくやってたんだよ、ベースとか。当時学内でレゲエ叩けるの伸治しかいなくて重宝してたんだ(笑)

(略)

俺も狙ってはいたんだけど、いかんせん再現できなくてやめたね(笑)。当時は本物のレゲエより、クラッシュとかストーンズがカヴァーしたホワイトレゲエをよく聴いてた。レゲエいいなあとか言って、ボブ・マーリィだとなんかたるいなとか秘かに思ってて。で俺のバンドは卒業と同時に終って、伸治のも解散したんだよね?」

佐藤「うん。俺はそのバンドでプロになろうと思ってたけど、2年くらいで終ったな」
小嶋「こいつのバンドが解散したって聞いてさ、俺、入れろって言ったんだよ。そしたら断りやがってさ」
佐藤「あ、そうだっけ?」
小端「(笑)だめだ。お前のギターはうるさいとか高飛車に言われて、けっこうしょぼんとしててさ。一緒にできないのかにゃーって」(略)
佐藤「いやいや、俺忘れてたよ、まじで。それから大学3年の時、きんちゃんがライツに入って来て。今と全然違って、うるさくてしょうがないドラム叩いてて(略)

で、プロになるのをあきらめてた時で、きんちゃんがパンクみたいなドラム叩いてたから、これはちょっとギャグでモッズみたいなのやろうかなって(笑)」
小嶋「ギャグだったのか、あれ(笑)」

佐藤「最初はね。(略)」
小嶋「いや、俺ときんちゃんは本気だったよ(笑)。こいつはおちゃらけだったけど」
佐藤「そうなんだよ。この2人がいなかったら、このバンドはプロにはなれなかったね」(略)
──そのモッズバンドの名前は?
小嶋・佐藤「FISHMANS」(略)

小嶋、HAKASE脱退

ガレージ・パラダイス 1994年12/12号

(略)

[小嶋脱退について]

──なんで抜けちゃったの?

佐藤 うーん……。あんまり言いたくないかな(笑)。

──小嶋くんが抜けることでいろいろ思うところがあったのは、本人とか他のメンバーとかよりも、実は佐藤君なんじゃないかなって……。

佐藤 わかんない。小嶋はそりゃああるだろうけど……。俺と小嶋なんじゃないの、ショックなのは。

──じゃあなんで!(笑)。前インタビューした時、すごく信頼しあってるのが感じられて、ずっと一緒にやっていくんだろうなあと。

佐藤 ねぇ。そんな気もしてたんだけどね。なかなかうまくいかないですよ。(略)

サウンド&レコーディングマガジン 1994年12月号

──ZAKさんはいつごろからフィッシュマンズと関わるようになったのですか?

ZAK デビューしてすぐのころのライブからです。

(略)

──佐藤さんの声は結構特殊だとおもうのですが、ボーカルはどうやって録りましたか?

ZAK 真空管系のマイク・アンプとU47の組み合わせで録ってます。ライブでもボーカルだけは真空管のマイク・アンプを使ってます。

(略)

「ナイトクルージング」ポリドール移籍第一弾シングル

B-PASS 1996年1月号

(略)

スタジオはさ、レコード会社の人に、ちょっと軽く欲しいなって言ったら、じゃ、作ろうっていうことになっちゃった。それならって、自分達で不動産屋回ってさ。マンションの一室でもと思ったのが、結局2階建てのビルを借りれることになったんだけど。で、決まった時点で、俺はハワイに行ったの。でも、その行く当日、荷物持って出ようとしたらHAKASEから電話があったのかな。やめたいんだけどって(笑)

──ショックだった?

そうでもなかったな。(略)帰ってから話そうって、そのまま出掛けた(笑)。で、帰ってからじっくり話したな。すごく大雑把に言えば、HAKASEはソロ指向っていうかんじで。それならしかたないなって俺も納得したし。スタジオも決まってたから、俺の気分はやるぜ!っていう方向だったしね。ただ、HAKASEは何でもできるキーボードだったから、いなくなった時点で、今までとは別のバンドっていう感じが、俺の中にはあるんだよね。(略)

次回に続く。

プリファブ・スプラウトの音楽 渡辺亨

プリファブ・スプラウトの音楽 永遠のポップ・ミュージックを求めて

プリファブ・スプラウトの音楽 永遠のポップ・ミュージックを求めて

  • 作者:渡辺亨
  • 出版社/メーカー: DU BOOKS
  • 発売日: 2017/03/17
  • メディア: 単行本
 
スウーン

スウーン

 

 90年にロンドンで初めてパディ・マクアルーンにインタビューしたとき、彼は『スウーン』についてこんなことを語ってくれた。

「これが最初で最後のチャンスだと思ったので、あえて風変わりな曲をたくさんレコーディングした。今から振り返ってみると、アレンジはもっと簡潔にするべきだったと思う」

 また、99年にインタビューした際には、「あのとき、僕たちはまったく違う曲を選ぶことも可能だった。『スティーヴ・マックイーン』に収められている曲のような、もっとシンプルな曲を。そうした曲がすでにアルバム1枚分あったので、そっちの方を出せば良かった、と後から思ったこともある」

 これらの発言からわかるように、パディ・マクアルーンには、84年の時点ですでにたくさんの曲のストックがあった。たとえば、〈I Never Play Basketball〉や次のアルバム『スティーヴ・マックイーン』に収録されている〈Bonny〉、〈Goodbye Lucille #1〉などは、プリファブ・スプラウトを結成した当時から作ってあった曲だという。

 パンクから遠く離れて

[57年生まれのパディ。プリンス、MJ、マドンナ、ポール・ウェラーが58年]

ダラムで暮らしていたパディ・マクアルーンにとってパンク・ムーヴメントは、いうなれば、対岸の火事のようなものだった。現にパディは、パンクにもニュー・ウェイヴにも、音楽的にはほとんど興味を引かれなかったと語っている。

(略)

 パディが77年頃にパンクの代わりに聴いていたのは、スティーリー・ダンデヴィッド・ボウイなどだった。(略)

スティーリー・ダンのレコードを聴きながら、ギターでそれっぽい音をひとつずつ探り、まったく自己流でコードを編み出していたという。『スウーン』の曲が風変わり、つまりどこか不自然な理由のひとつは、この点に起因している。

 パディ・マクアルーンがテープレコーダーを使って、プリファプ・スプラウトという架空のバンドのための曲を作り始めたのは、70年代初期のこと。

「僕とマーティンは、常にトップ10番組をエアチェックし、録音したテープを繰り返し聴いていた。(略)

僕たちがレコードを作ろうと考え始めたのは71~2年頃で、その頃はデヴィッド・ボウイスティーリー・ダンが登場してきた時期にあたるけど、僕たちは彼らの音楽からビーチ・ボーイズボブ・ディランなどのポップ・クラシックスまで、何でも受け入れ、吸収していた」

パディとマーティンは、キャプテン・ビーフハートの、まったく風変わりなアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』も聴いていた。その一方で、ラジオから流れてくるジミー・ウェッブやバート・バカラック&ハル・デイヴィッドが作曲したヒット曲を好んでいた

(略)

[パディの]最初の音楽的ヒーローはT・レックスのマークボラン。(略)

惹かれたいちばんの理由は、その音楽が醸し出すミステリアスな雰囲気、謎めいたところだという。

トーマス・ドルビー

 トーマス・ドルビーは、ジョニ・ミッチェルの『夏草の誘い』に収録されている〈ジャングル・ライン〉もカヴァーしている。

(略)

ちなみパディ・マクアルーンがいちばん好きなジョニ・ミッチェルのアルバムは、『夏草の誘い』。プリンスも、このアルバムを称えていた。そしてトーマス・ドルビーは、ジョニの『逃避行』をもっとも偉大なロック・アルバムとして高く評価している。

 トーマス・ドルビーとプリファブ・スプラウトの接点は、トーマスがゲスト出演したBBC1のラジオ番組「Round Table」をきっかけに生まれた。このラジオ番組には、ゲストが番組中に当時イギリスでリリースされた何枚かのシングルを聴かされ(略)批評を求められるコーナーがあった。(略)

マリ・ウィルソンが、スティーヴ・ライトと一緒にDJを務めていたという。この日は、トイ・ドールズの〈Nellie the Elephant〉やアルヴィン・スターダストの〈So Near to Christmas〉などが紹介されたが、トーマスにとってこれらのシングルはまったく退屈な代物だったので、肯定的なコメントを述べることはできなかった。ところが、ある1曲だけは、トーマスの心を捉えた。それは、キッチンウェアからリリースされたプリファブ・スプラウトの〈Don't Sing〉。スティーヴ・ライトは「こんな曲はヒットしない」と切り捨て、マリ・ウィルソンは「私の好みじゃない」と述べたそうだが、トーマスだけがこの風変わりなポップ・ソングを気に入り、称賛した。このラジオ番組を、たまたまキッチンウェアの複数の関係者が聞いていて(パディ・マクアルーン本人も含むという説もある)、後日マネージャーの キース・アームストロングがトーマスにコンタクトを取ってきたそうだ。

[ダラムのマクアルーン兄弟の実家を訪ねたトーマスにパディは76年にまで遡るオリジナル40曲を弾き語りしてみせた。それをウォークマンに録音しつつ、トーマスは気付いたことをノートにメモし、ロンドンに持ち帰り]

40曲のなかから『スティーヴ・マックイーン』のためにレコーディングする曲を選んだ。その結果、彼が選んだ曲のほとんどは、『スウーン』よりだいぶ前の70年代後半に作ってあった曲だった。

(略)

後年、彼は、「『スティーヴ・マックイーン』を初めて聴いたときは、まるで他人のレコードを聴いているような気分がした」と僕に語ってくれたが、それほどまでにトーマスが果たした役割は大きかった。 

スティーヴ・マックイーン〜レガシー・エディション

スティーヴ・マックイーン〜レガシー・エディション

 

“プラスチック・カントリー&ウエスタン” 

[77年頃のパディはT・レックスと]デヴィッド・ボウイの熱心なリスナーでもあった。それだけに当時パディは、『ヤング・アメリカン』でソウル・ミュージックにアプローチしたデヴィッド・ボウイが、次にカントリー・ミュージックにアプローチするのではないかと想定して〈Faron Young〉を作ったという。すなわち〈Faron Young〉は、意図的な“プラスチック・カントリー&ウエスタン”というわけだ。

〈Hey Manhattan!〉

〈Hey Manhattan!〉の大胆かつ華麗な曲想やオーケストレーションには、パディが大好きなアルバムの1枚として挙げている『ウエスト・サイド物語』のオリジナル・サウンドトラックの影響も見受けられる。

(略)

〈Hey Manhattan!〉は、端的にいうと、『黒いシャフト』と『ウエスト・サイド物語』のサントラをかけ合わせたような作風の曲だが、「NME」のインタビューによると、パディはこの曲をアイザック・ヘイズに歌って欲しくてレコード会社に提案し[却下された]

〈Nightingales〉

〈Nightingales〉は、バーブラ・ストライアンドに歌ってもらうということを想定して作られた曲だ(略)

この当時のパディは、彼女の『追憶のブロードウェィ』にかなりのめり込み、ブロードウェイ・ミュージカルの音楽の素晴らしさを再発見していた。

(略)

キース・アームストロングは、スティーヴィー・ワンダーのマネージャーと知り合いだった。そこでマネージャーを通じて依頼したところ、たまたまスティーヴィー・ワンダーがこの年の9月にロンドンに潜在する予定だったことから、スティーヴィーの参加が実現したとのこと。スティーヴィーは、ウエスト・ロンドンにあるスタジオの現場で〈Nightingales〉を初めて聴き、わずかな時間で曲を覚え、ハーモニカを計4テイク録音してくれたそうだ。パディにとってスティーヴィー・ワンダーは、子供の頃からの音楽的ヒーローのひとりで、好きなアルバムの1枚として、『シークレット・ライフ』を挙げている。

 パディ・マクアルーンは、この〈Nightingales〉のように曲を作るときに歌ってもらいたい歌手を思い浮かべたり、カヴァーして欲しい歌手を考えることがあるという。「Time Out」誌のインタビュー記事では、A面3曲目の〈Remember That〉はレイ・チャールズ、B面4曲目の〈Nancy (Let Your Hair Down for Me)〉はグレン・キャンベルに歌ってもらえたらいいなと語っている。

 グレン・キャンベルは、〈恋はフェニックス〉や〈ウィチタ・ラインマン(略)といったジミー・ウェッブの一連の名曲の歌い手だから、ソングライターのパディ・マクアルーンにとっては憧れの存在だろう。 

Wichita Lineman

Wichita Lineman

  • provided courtesy of iTunes

 

クリムゾン/レッド

クリムゾン/レッド

 

〈Wichita Lineman〉 

〈Wichita Lineman〉は、グレン・キャンベルによって1968年に全米チャートで最高3位を記録した曲。カンザス州のウィチタで、見知らぬ誰かの会話を耳にしながら、野外の電話線の維持補修作業に従事している男性のやりきれない心情が描かれた名曲

(略)

しかも〈The Songs of Danny Galway〉の曲調は、ジミー・ウェッブの〈Wichita Lineman〉や〈Galveston〉に通じている。つまり、この曲はジミー・ウェッブへのオマージュ、別ないい方をするなら、パディからジミー・ウェッブへのファンレターのような曲である。

 パディは、ソングライターとしてのジミー・ウェッブのことを心の底から敬愛していて、しかも〈Wichita Lineman〉をフェイヴァリット・ソングのひとつとして挙げている。(略)

「子供の頃にグレン・キャンベルの〈Wichita Lineman〉をたまたま耳にしたんだ。僕が音楽を意識して聴くようになる前のことだったんだけど、何かが僕の心を打った。だから僕のなかでは、ジミー・ウェッブは特別な位置を占めているんだ」(略)

ジミー・ウェッブの父親はバプテスト教会の牧師なので、パディ・マクアルーンと共通する宗教的バックグラウンドを持っている。それだけに、パディは 〈The Songs of Danny Galway〉のなかで、ウェッブのコード進行を“バプテスト派の賛美歌 (Like Baptist hymns)”、サウンドと歌詞の関係を“キリスト教聖餐式 (sweet communion)”といかにも彼らしい表現で称えている。

〈The Songs of Danny Galway〉 では、ウィチタから来たダニー・ゴールウェイとはダブリンのバーで会ったということになっているが、実際にはパディはとあるホテルのバーでジミー・ウェッブに偶然会ったことがあるという。

 パディは、1991年9月4日にダブリンのテレビ局が製作した「An Eye onthe Music」で、憧れのジミー・ウェッブと初めて共演した。このとき、パディはアコースティック・ギターを弾きながら、ジミー・ウェッブのピアノ、そしてオーケストラの演奏に合わせてジミーの代表曲のひとつ〈Highway Man〉を彼と一緒に歌った。これは、パディのリクエストだったという。

ボブ・ディラン

 パディ・マクアルーンがいちばん最初に買ったレコードは、ボブ・ディランの「Lay Lady Lay」(略)

パディがこのシングル盤を購入したのは1970年、彼が13歳のときのこと。パディは、家にあったガット・ギターでこの曲を弾いてコードを学んだそうだ。10曲目の〈Mysterious〉は、まさしくミステリアスで神話的な存在であるボブ・ディランのことを歌った曲。 

民主主義を救え! その2

前回の続き。

民主主義を救え!

民主主義を救え!

 

 「独立行政機関」

[イギリス総務省の無駄遣いについて庶民院で追求されたる同省事務次官ハンフリー卿]

ハンフリー卿:「政府の政策にコメントする立場にはありません。大臣に尋ねるべきことです」

議 員:「よろしいですか、ハンフリー卿。大臣に何を尋ねても、行政に関する質問はあなたにするようにと答えます。そして、私たちがあなたに何を尋ねても、政策に関する質問は大臣にするようにと答えます。ならばいったい真相は何なのか、どうしたら知ることができるというのでしょう」

ハンフリー卿:「まったくもっておっしゃる通りです。完全なジレンマです。大臣と行政、官僚の責任に関わる政策に関する政府の政策である限り、行政の政策に関する質問は、行政の政策と政策の行政との間の混乱を招きますし、とくに政策行政についての政策責任が、政策行政との対立や重複が起きる時に問題が生じることになるかと思います」

議 員:「そのような発言は無意味な虚言としか受け取ることしかできません」

ハンフリー卿:「私は政府の政策についてお答えする立場にありません。大臣に尋ねるべきことです」

(略)

これは一九八〇年代に高視聴率を記録したテレビドラマ「イエス・ミニスター」の一シーン(略)

確かにハンフリー卿の抗弁と官僚答弁は荒唐無稽に過ぎるかもしれないが、核心的な真実を含んでいる。ドラマを評して、マーガレット・サッチャー首相は「権力の裏側で何が起きているのかをよく描写しており」、「心から楽しめる時間をもらった」とかつて述べているし(略)

デーヴィッド・キャメロンは「学生時代に『イエス・ミニスターはいかに真実ではないか』というレポートを書いたが、首相となったいま、本当のことを描いていることがわかった」と吐露している。

(略)

学界でも、政治家が官僚制を統御するのは非常に難しく、官僚機構が下している決定の重要性は、過去一貫して増加していることが指摘されている。

(略)

マックス・ウェーバーは裁判官や官僚は単なる「上から順に積みあがる法的書類や予算書を最後の一枚まで判断を下すような機械」ではなかったことに気づく。法の執行はむしろ、常に秘密裡かつ創造的になされるものだった。いくら入念に書かれた法案でも、細部については予期されず、重要な行政プロセスについても定められていない。その結果、現代官僚制において役人は重要な政治的役割を果たすことになる。政治の世界が私たちに教えるように、官僚が単なる使い走りであることは一度たりともなかったのだ。

 とくに最近の役人の数の増加とその役割の拡大には目を見張るものがある。(略)

イギリスの国家公務員の数は一九三〇年に一〇万人だったのが二〇一五年には四〇万人にまで膨れ上がっている(この間、人口は約三割しか増えていない)。

(略)

さらに質的な変化も二つ指摘しておかなければならない。一つは、議会で通る法案の起草に当たって、政府機関の影響力が強くなったことだ。次に、これらは議員たちとほぼ類似の働きをするようになり、金融や環境といった重要な政策領域で法案の策定と実行主体となった。この二つの発展が意味するのは、一般市民が主人であるはずの多くのルールが、選挙を経ない官僚たちによって書かれ、実行され、場合によっては主導されているということだ。

 伝統的な官僚機構は、立法府の定めた法令を執行する役割を負っており、大統領や首相が任命した──議会に議席を持つ議員の権能として──政治家によって主導される。しかし、こうした仕事は、ますます増える政策領域において、立法府や政府の長の目の届かない政策を自らの手で策定する、いわゆる「独立行政機関」によって補完されている。これらが立法府によって設立されると、こうした協議体や委員会は「法的に困難で、技術的に複雑で、政治的にセンシティブな決定」を任されるようになる。規制の権限を有して「規制を決定し、自らの法的地位と規制を強化する行政的活動を行い、行政決定を通じて判断を下す」ことになるのである。

(略)

 誤解しないでもらいたい。独立機関は、その名に恥じない働きをしている。総体としてみれば(略)[それらは]アメリカをより良い国にしたことは間違いない。(略)

他の機関によっては容易に達せられない問題解決を可能にする一方で、その重要な決定が政治的争議の場から隔離された場所で行われていることは事実なのだ。

 「ライバルの政治が、敵の政治に置き換えられていく」

民主主義が安定しているのだとすれば、原則として主要な政治アクターによって民主主義というゲームのルールが基本的に是認されていなくてはならない。

 ルールのいくつかは公式的なものだ。たとえば、一国の大統領や首相は、政権メンバーに間違った行いがあれば、検事を罷免するのではなく、司法の調査を受け入れなければならない。報道機関からの批判があれば、新聞社を閉鎖したりジャーナリストを告訴したりするのではなく、それを受けて立たなければならない。選挙で負ければ、権力の座にしがみつくのではなく、つつがなく退任しなければならない。

 しかし、多くのルールは非公式的なものであるため、それが破られてもグレーゾーンに留まることになる。たとえば、選挙で勝とうとして、その数カ月前に選挙法を改正したりしてはならない。政治運動は、過去の権威主義政治を称えたり、敵対者を監禁したり、民族的、宗教的マイノリティの権利を侵したりしてはならない。選挙で敗北しても、政権末期になって野党の行動を制約したりしてはならない。(略)

自らの党利党略には自制的でなければならず、主たる選挙で勝ったり、緊急の法律を可決させたりするよりも、システム維持を優先させるよう、自覚的でなければならない。何よりも、民主政治は全面戦争の様相を呈してはならないのだ。

 政治理論家でカナダ自由党党首だったマイケル・イグナティエフは「民主主義が機能するためには敵とライバルとの違いをわきまえないといけない。ライバルを前にすれば勝つことが目標となるが、敵を前にした場合には殲滅が目標となるからだ」と、少し前に書いている。

 アメリカ、そしてその他の国でも、こうした民主政治はもはや成り立たなくなっている。イグナティエフが言うように、私たちは「ライバルの政治が、敵の政治に置き換えられていく」のをますます目撃するようになった。そしてその責は、ここ数十年で目にするようになった政治を荒らしているポピュリスト政治家にこそ、問われなければならない。

(略)

 最も初期に現れたポピュリストは(略)イェルク・ハイダーだった。一九八六年に自由党党首に選出されてから、彼は党を極右政党へと変転させていった。ハイダーの強固な移民を争点とする姿勢は、それまで主流派政党が政治的課題として扱うことを避けてきたものであり、有権者の歓心を買ったという意味では、擁護されて然るべきものかもしれない。しかし、リベラル・デモクラシーの基本的な規範を捨象しようとしていたことは、彼がオーストリアのナチ時代を狡猾にも再評価しようとしたことからも明らかだ。

 ハイダーは、ナチ親衛隊出身者を含む聴衆を前に、「我々の兵隊は犯罪者ではなく、むしろ被害者だった」と述べ、第三帝国への惜しみのない賛辞を表明し、ヒトラーの親衛隊の中には「多くの抑圧にもかかわらず、信念を持ち続け、善意に溢れた尊厳ある人々」がいると持ち 上げた。

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ベッペ・グリッロは、最初──真っ当なことに──シルヴィオ・ベルルスコーニ首相の汚職に対する激烈な批判でもって政界に殴り込みをかけた。彼が五つ星運動を立ち上げた際に約束したのは、自己利益に進進し長老支配が慣行となった「政治階級」から権力を奪い返し、より近代的で寛容なイタリアを取り戻すことだった。

 ところが、人気を博すにつれ、この運動は反システム的な様相を呈することになる。政治家個人の汚職に対する批判よりも、議会を含む政治システムのラディカルな否定へと変容していった。政治家支配に対する怒りは、陰謀論や敵対者に対する根も葉もない嘘の喧伝となって表れることになった。

 民主主義の基本的価値に対してポピュリストや政界の新参者が攻撃を仕掛けるのは、幾分、戦術的な側面もあるだろう。この種の攻撃は、既成政治家から総スカンを喰らうが、それはまた、ポピュリストが現状変更を本当に望んでいることの証明ともなるからだ。彼らの挑発的な言動も論評者の不評をかこつが、注目を浴びることはアピールにもつながる。しかし、真の問題はこうした無謀さではない。政治システムの構成員の一人がルールを破れば、他の者もそれに続く可能性が出てくる。そして、それが現実のものとなりつつあることなのだ。

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二〇〇八年の大統領選で、共和党候補者ジョン・マケインは(略)ある有権者が、オバマが大統領になるのは恐ろしいことだと述べた際、彼はライバルを擁護してみせた。「彼は立派な人間だということをわからないといけない。だから彼が合衆国大統領になることは恐れなくてもいい」と述べた。この集会で、ある老女がオバマ大統領は「アラブだから」信用できないと発言した時も同様だった。「奥様、それは違います。彼は立派な家族人かつ市民の一人で、たまたま大事な点で私と立場を異にしているから、この選挙があるのです」と反論した。

 党派を超えて対立候補の正当性を認めたマケインのような道徳的明瞭さは、彼が舞台から去ってからというもの、共和党から失われていった。オバマ大統領が初めての所信表明演説をした際、ある共和党議員が「嘘つき!」と叫んだことで、長く保たれていた儀礼的雰囲気はもはや失われてしまった。

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オバマ政権との正面からの対決は、共和党が例外状況を想定して作られた議会規則の乱用や、自らの責務を放棄する誘因となった。こうした事態が顕著だったのは、上院だ。同院の規則や過程は、必要とあらば、上院議員は自らの党派性を乗り越えて議会機能を優先させることを目的に作られている。しかし今日、上院議員憲法上すれすれのことを日常的に行うようになった。

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 たとえばフィリバスター[議事妨害]は、歴史的には稀にしか用いられないものだった。リンドン・B・ジョンソンが大統領だった時、上院の野党がこれを用いたのは一六回だったのに対し、オバマ大統領になってからは、実に五〇六回も行われている。

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さらに、全国的な注目を浴びることのない基本的な民主的価値の侵食がアメリカの各州で徐々に進んでいる。過去数十年で、次選挙で共和党が有利になるよう、党派的な委員会の手による選挙区割りが進んだ。過去数十年で、共和党の州議員は不必要な身元確認を求めたり、民主党の選挙区での投票所を閉鎖したりすることで、マイノリティを投票所から遠ざけてきた。ノースカロライナ州などでは、公正な選挙を実施することよりも、選挙に勝つことが長らく目的となってしまっている。

なぜミシガンの田舎でポピュリスト支持が高まるのか 

 こうした指摘は、多くの市民の日常生活が根本的な変容を被るのは、移民と定期的に遭遇する場合であって、出会う移民の数が増える場合ではないことを示唆している。多くの移民を抱える地域に住む人々は、彼らのコミュニティはもはや「純粋」でないことに慣れており、自分たちの言語や文化、民族性を共有しない人々との付き合い方を知っているのである。彼らの中には外国出身者を好まず、福祉国家による再分配に反対する者もいるだろうが、移民の増加が彼らの世界を変えてしまうわけではない。

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 ニューヨークのクイーンズ地区やロサンゼルス郊外ではなく、なぜミシガンの田舎のような場所でポピュリスト支持が高まるのかについては、ここ数年、多くの調査が明らかにしている。

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一九八〇年の段階で、これらコミュニティは、白人が九〇%以上を占める同質的な場所だった。その後三〇年間で移民の数が拡大したため、こうした場所も多様性が増すようになった。二〇一〇年には、白人が九〇%を占めるコミュニティは三分の一にまで減っている。

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ある報道は、こうした人口構成の変化を被ったウィスコンシン州にあるアルカディア市の小学校教頭の「津波に襲われているようだ」との証言を紹介している。別の住民は「この街のすごい変化に対してどうにかしないといけない」と述べた。

 この「何か」はドナルド・トランプ支持となって表れた。

 多くの選挙分析はトランプの勝利を、伝統的に民主党支持だった白人労働者層が寝返ったためだとした。なかでも、こうした有権者は、かつては高度の同質性を有していたものの、その後多様性を抱え込むに至った北西部に位置していたことが重要だ。(略)

「北西部の各州──アイオワインディアナウィスコンシンイリノイミネソタ──は二〇〇〇年から二〇一五年にかけて、他のアメリカの地域でみられなかったほどの非白人住民が流入した地域である。白人層が主たる住民だった数百もの都市には、中米諸国やカリフォルニア、テキサスから北上してきた非白人が住み着くようになった」。この人口構成上の変異は、投票行動の明確な変化となって表れた。たとえば、共和党予備選でトランプは全米七一%の票を得ている。しかし、二〇〇〇~二〇一五年に「多様性指数」が倍となった郡部で、その割合は七三%にのぼり、同指数が一五〇%増となったところでは八〇%も得票するに至ったのだ。