日銀と政治 暗闘の20年史・その2

前回の続き。

日銀と政治 暗闘の20年史

日銀と政治 暗闘の20年史

 

 日銀法再改正のうごめき

財政緊縮と構造改革――。(略)

圧倒的な国民の支持を得た小泉純一郎首相を前に、自民党は沈黙した。

(略)

 [だが対日銀では違った。山本幸三渡辺喜美舛添要一らが「日銀法改正研究会」初会合]

「今日のデフレ状況が深刻化したのは昨年の日銀の無謀なゼロ金利解除に端を発するもので、日銀の無作為は許しがたい」と批判。「もはや日銀法を改正して日銀が動かざるを得ないようにするしかない」と厳しかった。

(略)

一九九八年以降、日本の経済は「インフレ」から「デフレ」に変わった。政府・日銀が一体となって政策協調をしなければならないはずなのに、それができていない。その原因は新日銀法にある――という理屈だった。

(略)

[記者会見で速水にインタゲは『馬鹿げた金融政策』と言われた山本らは公開討論を申し込むも拒否される。政府内でも竹中が賛同していたが、小泉が「インフレ・ターゲットは難しい。制御できないから」と語り議論は打ち止めに] 

小泉の術中にはまった青木

[竹中が不良債権処理の「竹中プラン」を小泉に説明すると]

自民党の役員会にいきなり提示するよう指示した。
 これは、通常のプロセスではなかった。(略)
 ところが、小泉は「一足飛びに役員会に出せ」と譲らない。竹中はその意図を測りかねていた。
 だが、実際に小泉の言う通りにすると、その理由は見えてきた。竹中の説明に対し、参院のドンである青木幹雄幹事長はいらだち交じりに、こう言った。
 「これでは選挙は闘えない。選挙前に株を下げないでもらいたい」

(略)
 だが、青木の発言に好感を持つ国民は少なかった。やりとりが報道されると、むしろ「不良債権処理を進めようと奮闘している」竹中の姿勢が際立ち、青本との対比で、竹中への世論の支持が広がった。
 もし、自民党の通常のプロセスを経ていたら、青木もこんな露骨な反応をしなかっただろう。つまり、小泉は最初から、青木の「抵抗」を想定し、それを利用しようと計算していた。青木はその術中にはまり、竹中プランに反対して自ら「抵抗勢力」になった。そして、小泉=竹中は世論の支持を得て、政治的な政策推進力を獲得したのである。

 福井総裁へ

 [2003年]新日銀法になって二回目の正副総裁人事(略)

 小泉純一郎が当初、念頭に置いていたのは民間人であった。(略)「清新さ」を求めたのである。そこでにわかに浮上したのが(略)中原伸之である。中原は東亜燃料工業の元社長で、米ハーバード大の大学院で経済学を修めた人物である。自民党中川秀直国対委員長らの後押しもあった。
 だが、日銀は、審議委員時代にことごとく執行部と対立を続けてきた中原を受け入れることはできなかった。ある財界人によると、前日銀総裁三重野康は「中原だけは絶対にダメだ」と説いて回っていた。(略)

[竹中も中原を考えたが、日銀の反対で無理だとわかっていたので]
 目に止まったのは財務官だった黒田東彦である。(略)

 だが、財務省が黒田を推すことは考えられなかった。(略)主流の主計局畑ではなく、事務次官も経験していない黒田は、財務省「公認」の候補者になり得なかった。

[そこで部下である岩田一政を軸にすることに。塩川のつなぎで小泉に会った宮澤は福井を提案。財界人を招いた食事会で]

奥田硯牛尾治朗は、福井を推した。「金融政策のプロの福井は安定感がある」という理由だった。
 財務相塩川正十郎は「(前財務次官の)武藤敏郎を入れてもらいたい」と語った。(略)
 竹中はこの時、「やはり財務省事務次官経験者以外を推すことはないんだ」と思い知った。大ベテランの塩川の提案に水を差すようなことは言えるはずもなかった。
 竹中は事前の予定通り、岩田一政(内開府政策統括官)を推した。

 小泉はそれぞれの意見を聞き置くだけで、その場で結論を言わなかった。だが、小泉はほどなく、人事を決めてしまう。奥田や牛尾が推した福井俊彦を総裁に、塩川が推した武藤敏郎と、竹中が推した岩田一政をそのまま副総裁にするという案だった。三人の意見をそのままホチキスで留めたのである。(略)
 この人事案は、日銀に不満を持っていた中川秀直らに衝撃を与えた。日銀職員出身の総裁が二代連続で続くことになったからだ。
 このとき国対委員長だった中川は、その立場を利用して、福井に注文をつけることにした。(略)

 「政府はデフレ脱却に全力を挙げている。前任の速水さんは政府との意思疎通がうまくいかなかったが、そういうことがないようにしてもらいたい」
 福井は「それで結構です」と応じたという。

(略)

 景気回復をしているのに、なぜ福井は量的緩和の強化を進めたのか。理由の一つが、六月から八月にかけての長期金利の急騰である。(略)
 金融機関が長期金利の上昇で一斉に国債を売り、それがさらなる金利急騰を招く――。(略)金融市場では「VaRショック」と呼ばれている。
 このため、福井は、量的緩和の出口を論じるのは時期尚早という認識だった。
 ただ、理由はこれだけではなかった。当時の日銀幹部によれば、福井は速水日銀のゼロ金利解除の失敗をよく研究していたという。

「福井さんは政治家に言われる前に動くという姿勢だった。そうやって信頼を勝ち取っていくことの重要 性をわかっていた」

復興増税を巡る争い

 もともと菅直人は財政への危機感は薄かった。ところが[G7に出席し]

「菅さんの考え方が、行きの飛行機と帰りの飛行機では、一変していた。ドイツや英国、フランスが、キリシャをつぶすつぶさないと議論しているのを見聞きしているうちに、日本の財政への危機感が芽生えたのだろう」

[と同行した大塚耕平]

(略)

菅は参院選後、消費税の増収分で社会保障を充実させる「社会保障と税の一体改革」を打ち出す。(略)

 だが、民主党内には菅への批判が渦巻くようになる。

(略)

[民主党内反菅の松原仁、自民の山本幸三、みんなの渡辺喜美、リフレ学者らが「デフレ脱却国民会議」。さらに松原は政権転落で雌伏中の安倍に接触したが]

安倍は腹を決めかねていた。

(略)

「二〇兆円規模の日銀国債引き受けで救助・復興支援に乗り出すべきだ」

[というアピール文を配布する山本幸三](略)

山本は復興財源を増税でまかなうことは、断じてあってはならないと考えていた。

[だが自民党内の反応は冷たく、仲間は田村憲久のみ。だが震災から一ヶ月後、民主党出身の参院議長西岡武夫から「話を聞きたい」と連絡]

「あなたに賛成だ。一緒にやろうじゃないですか」(略)

与野党の主流派は復興増税へと走り始めていた。(略)

[超党派の反主流派会合、自民のトップを誰にするか]

山本は言った。

安倍晋三だよ。いま、説き伏せている最中だよ。彼も分かってきた」(略)

「彼には憲法や安保のイメージしかない。そのままだったら、二度と復活できない。もし、もう一度、首相になりたいなら『経済の安倍』になるしかない」(略)

「雌伏のとき」を過ごす安倍の野心をくすぐろうという作戦だった。

(略)

[野田が首相に選ばれた日]

増税によらない復興財源を求める会」(略)

安倍は運命の人に出会った。それが、リフレ派の親分(略)

講師役の岩田規久男はこう締めくくった。

「これは明らかな失政です。政府・日銀が緩やかなインフレを起こす政策を打ち出せば、凍り付いたお金は再び動き出し、デフレから脱却できます」(略)

[岩田が席に戻ると安倍は]

「もっと早くあなたのデータや理論に出会っていればよかった」(略)

それは、安倍の「強い日本」を取り戻すという国家像とシンクロするものだった

 「安倍相場」の出現

 選挙戦が始まると、安倍の金融政策をめぐる発言は、世間の注目を集めるようになる。政権交代をすれば、安倍が首相となるためである。

(略)

「二~三%のインフレ目標を設定し、それに向かって無制限緩和をしていく」(略)

[この発言は30年来の友人財務省出身の本田悦朗教授の助言によるものだった]

「強力な言葉を使わないといけない。理屈を説明しても国民は分からない」

本田のアドバイスはこれだけだった。

だが、安倍の大げさとも言える表現は、市場に大きなインパクトを与えた。(略)

[日経平均が八千円台から九千円台に]

安倍はこのとき、上機嫌で本田に電話をしている。

「本田君、効いたよ!『無制限』ってすごいねぇ」

(略)

安倍の言葉が市場参加者の期待を生み出す「安倍相場」の出現であった。

(略)

東南海地震に備えるための公共投資は必要だ。建設国債は、できれば日本銀行に全部買ってもらう。これによって新しいマネーが強制的に市場に出て行く」[という安倍の発言が大きな波紋を呼ぶが、白川は即座に全否定]

(略)

「安倍です。この考え方は間違っていますか?」[と米国の浜田宏一に国際電話](略)

選挙戦で訴えている政策の中身をぶつけると、浜田は「まったく先生のおっしゃる通りです」と答えた。

(略)

[浜田は]野田首相や白川の主張を真っ向から批判したのだ。
 浜田が白川と初めて出会ったのは一九七〇年のことだ。浜田が東大経済学部の教員、白川が学生という関係であった。(略)

[その聡明さには感銘を受けた浜田だったが]

白川が日銀に就職した後、二人の関係は冷え込んでいった。浜田は「彼は出世への道を進むと同時に、世界でも異端というべき『日銀流理論』にすっかり染まってしまっていった」と酷評するようになった。

(略)
 安倍は浜田と白川の関係をよく知っていた。それゆえ、安倍は白川に対抗するには、浜田の言葉が有効だと考えたのである。(略)
 「浜田宏一教授から『非常識なのは野田さんの方だ』とのファクスが来た。金融の泰斗にお墨付きをいただいた」

(略)
 国際的な権威の浜田から太鼓判をもらったと胸を張った。
(略)

 安倍相場の勢いは止まらなかった。(略)円相場は一ドル=四円ほど下がった。(略)

安倍は自身の発言を追いかけてくる現実に背中を押され、ますます自信を深めるようになる。

 アベノミクス

[命名者の田村憲久らが使い広まる]

 「二%という目標に向けて、これはもう大胆な金融緩和をやってください、日銀はひとつ責任をもってやってください」
 安倍はたたみかけるように言った。言葉にはトゲがあり、命令口調だった。(略)
 安倍は衆院選の結果という「国民の民意」を前面に出して、従うよう迫った。
 心配をしたのは麻生だった。(略)あまり白川を追い詰めすぎれば、任期を残して辞めてしまい、発足したばかりの新政権が揺らぎかねない。そう考えていた。
 麻生はもともと、伝統的なケインジアンの考え方に近い。(略)

 麻生は、白川の主張に理解を示しつつ、安倍が選挙中に主張してきたこととの折り合いをつけようと考えていた。

(略)

[浜田の宿泊先に集結した本田悦朗、中原伸之、岩田規久男]

首相・安倍晋三にいかに初志貫徹をさせるか――。これがこの日のテーマであった。

四人が心配していたのは[麻生の動向](略)

[福岡出身の]白川と麻生が近いことも危惧していた。(略)

この日の議論は「首相に代わって、いかに麻生を説得するか」という一点に絞られた。

(略)

 安倍が、首相になってから、自らの意思に反して物価目標政策の実現に協力してきた白川だが、それと引き換えに得るものがあった。

 それは、日銀法再改正の阻止である。(略)

 麻生は白川の気持ちを痛いほど分かっていた。共同声明が決まった一月二一日、首相官邸で記者団にこう語った。

「日銀法改正は今のところ考えていない」

白川は自らの進退と引き換えに、新日銀法を守った。

次回に続く。

日銀と政治 暗闘の20年史 鯨岡仁

日銀と政治 暗闘の20年史

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 大蔵省不祥事から日銀法改正

[96年]与党PTがつくられたきっかけは、大蔵省不祥事であった。

[大蔵省解体への]大蔵省の抵抗はすさまじかった。(略)[それに族議員も加わり]PTの検討は行き詰まった。

「目先を変えて日銀法改正を先にやりましょうか」[と山崎拓が提案](略)

 一国の中央銀行の設置根拠となる法律。その改正のきっかけは、大蔵省不祥事という「偶然」から始まった。

(略)

日本政府は太平洋戦争の四年間で[GDPの2倍の1600億円を日本銀行から借金。そのツケは戦後の物価高騰となった](略)

つまり、政府は国民の生活を犠牲にして、借金を返済したのである。

むちゃな政府の借金を可能にしたのが、太平洋戦争中につくられた旧日本銀行法であった。

(略)

[2回の改正のチャンスを逃し]

六〇年近く放置された法律は、片仮名、文語体のまま。当時、戦前戦後を通じて抜本改正されずにいる法律には「カタカナ法」という愛称がついていた。一九九五年にはカタカナ法だった保険業法が改正され、民法も口語化を検討されていた。主要な法律でカタカナなのは、日銀法だけになりそうだった。

(略)

橋本龍太郎首相は[九六年]七月、私的諮問機関「中央銀行研究会」を設置した。 (略)

[大蔵省主導の「護送船団方式」変革を目指す橋本]

 日銀法改正は、そうした金融制度改革の象徴と位置づけられることになった。(略)

最大の論点が「独立性」であった。(略)

「物価の安定」を貫こうとするとき、最大の敵は為政者や政治家となりがちだ。為政者はインフレの誘惑にまどわされやすいためだ。

(略)

 中央銀行は「行政機関」なのか、金融政策は「行政権の作用」なのか、そして内閣にどの程度、コントロールされなければならないのか(略)

研究会では、元通商産業省事務次官の福川伸次と憲法学者佐藤幸治京大教授との間で、激しい論争になった。
 佐藤は憲法学者として、憲法第六五条の従来解釈に疑問を呈した。「行政権」を、全ての国家作用のうち、立法作用と司法作用を除いた残り全ての作用である、と考える学説を「控除説」と言う。これに基づき、中央銀行を「行政権」をつかさどる組織であると位置づけ、行政権の範囲をかなり広く捉える、これまでの政府解釈を批判した。

 佐藤は、日銀がどの程度内閣のコントロールから自由でありうるか、ということは、立法政策の問題であって、憲法上の制約を持ち出すべきではないという立場だった。
 一方、福川は「中央銀行をまるで、行政権、司法権立法権という三権に並ぶような、第四権力のように位置づけるのは、憲法とは適合しない」という論を展開した。人事や予算面で、政府によるコントロールを、ある程度残さなければならない、という主張だ。

(略)

[一致した結論は出せず、報告書では曖昧な表現に]

「人事権等を通じた政府のコントロールが留保されていれば、日銀に内閣から独立した行政的色彩を有する権能を付与したとしても、憲法六五条との関係では違憲とは言えない」

(略)

[法案に仕上げる段階で]大蔵省の激しい抵抗にあう。(略)

 日銀法改正小委員会のなかに、旧日銀法にある内閣の総裁解任権や蔵相の業務命令権をなくすことに反対の人はいなかった。
 だが、憲法上の日銀や金融政策の位置づけをめぐり、ふたたび議論が蒸し返されたのだ。(略)
 中西真彦は「政府に予算や人事を握られては、独立して金融政策を決定できない」として、予算と組織の独立が不可欠だと主張。大蔵省が持つ日銀予算の認可権をなくし、日銀が自ら予算を決めて「届け出」る仕組みにするよう提案した。
 だが、オブザーバーとして参加した大蔵省出身で内閣法制局第三部長の阪田雅裕(のちに内閣法制局長官)はこう反論した。
 「行政責任は内閣が連帯して国会に対して負っている。行政が内閣の手を完全に離れることはできない」

 阪田は「行政権は、内閣に属する」と定めた憲法第六五条を持ち出し、日銀は通貨の独占発行権など「行政」をつかさどる公的存在であるとして、内閣が予算や人事などをコントロールするのは当然、と主張した。

(略)

大蔵省や法制局は「日銀が内閣から完全に独立するという表現は憲法六五条の趣旨になじまない」と、法律に「独立性」という言葉を書き込むことは「憲法違反」になる恐れがあると主張した。
 複数の委員は「独立」と明記すべきと主張したが、阪田の「憲法違反」という主張を前に、あきらめざるを得なくなった。

 法案の要綱に当たる答申では「独立性」という言葉は用いられたものの、法律案では「自主性」に置き換えられた。(略)

 大蔵省の予算認可権も残った。ただし、蔵相が日銀予算案を認可しない場合には、その理由を公表しなければならない仕組みにした。これで大蔵省による理不尽な介入を避けられると考えたのである。

(略)

 あと二つ、当時はあまりクローズアップされなかったが、のちに大きな意味を持つことになる改正があった。
  一つは、政策委員会の人事である。
 政策委員は、総裁一名、副総裁二名、審議委員六名の計九人という構成になった。この人事は、内閣が任命し、国会が同意して決めることにした。この「国会同意」には、衆院の優越の規定がなく、衆参両院が同意をしないと、人事が認められない仕組みとなった。
 これがのちに、二〇〇八年の「総裁空白」という事態を招くことになった。
 もう一つは、旧法に残されていた「損失補填条項」である。(略)
 削除を申し出たのは日銀側だった。(略)のちに総裁になる福井俊彦の判断だった。福井は相談にやってきた三谷にこう言ったという。
 「政府の損失補填があると、政府が金融政策に介入する口実を与えることになるし、一方で、日銀には政府に補填してもらえる、という甘えが残る。どちらから見ても良くない」
 このときの福井は二〇年後に、日銀が名目国内総生産(GDP)に匹敵するような国債保有し、巨額の損失リスクにさらされることになるとは、想像もしていなかった。

 ゼロ金利導入

[首相になった小渕がカブ上がれパフォーマンス。官房長官野中は記者会見で]

「市場の国債を買い取るとかいろんな方途を講じて、現在の深刻な状態を打開する責任が、中央銀行にある」と述べた。(略)

 速水はこの要求を受け入れることはできなかった。(略)

日銀が政府の借金を手助けすることにほかならない。中央銀行が通貨の増刷で政府の借金をまかなう「財政ファイナンス」と受け取られかねないためだ。

 財政ファイナンスは「禁じ手」とされる。その理由は、このやり方で、政府がいくらでも借金できるようになり、止められなくなるからだ。

(略)

いったん「財政が破綻した」と市場に受け取られると、国債金利は急上昇(=国債の価値は暴落)してしまう。もし、それでも政府が国債を発行して借金を続け、日銀がそれを「資産」として購入し、どんどん通貨を発行すると、こんどは通貨の価値が暴落し、とてつもない物価上昇が起きる。

(略)

実際、太平洋戦争で財政ファイナンスを続けた日本は、戦後、ハイパーインフレに見舞われた。

(略)

速水優総裁は一六日の定例会見で、短期金利について「ゼロになっても良い」「ゼロでやっていけるならばゼロでもいいと思うが、できるだけ低めに推移するよう促して欲しい」と発言。

(略)

 速水には三つの意図があった。
 一つは、不安定な銀行システムを安定させる「安定化機能」である。(略)

 もう一つは、企業の貸し出しなどにおける実質金利を引き下げることだ。

(略)
 最後に、長期金利の安定である。

(略)

速水は「金利ゼロ」を言うことで、「国債の買い入れ」という政府の要求をかわすことを画策していた。速水は会見で、こう言っている。
 「国債が内外の人達に消化され、売れていくことが一番望ましいということであるから、これは市場にお任せするということだと思う」
 政治の圧力に屈して、国債の買い入れを増やす考えはない、と強調した。

(略)
 さらに、速水はもう一つの手を打つ。(略)「デフレ懸念の払拭ということが展望できるような情勢になるまで」ゼロ金利を続けると表明したのだ。
 これはのちに「時間軸」政策と呼ばれるようになる。

速水、30歳下のサマーズにめっさ怒られる

 [G7会議のあった]一九九九年九月二五日夜(略)宮澤喜一蔵相の秘書官、渡邉博史のもとに、一本の電話がかかってきた。米財務長官のローレンス・サマーズからだった。
 「宮澤蔵相はいるか?」(略)渡辺が「もう寝ている」と答えると、サマーズは「じゃあ、おまえに言おう」と話し始めた。
 「速水が会見で言ったことは、G7の合意事項とはまったく違う。G7の合意がまもられているとは思わないから、もう一回、G7をやり直したい」
(略)
速水はG7後の会見で、円高是正に寄り添う態度を示さなかった。(略)

 サマーズの立場に立てば、米国は、同盟国・日本のデフレ防止という観点から、日本企業の米国向け輸出に有利になる円高是正に協力することを約束した。にもかかわらず、日銀総裁がそれを打ち消すような発言をしていることに腹を立てたのである。

(略)

[日銀理事松島正之]は速水に「円を強くすることが中央銀行の目的ではなく、日本経済が強くなって、その結果として円が強くなることが望ましい。やみくもに円が強いことが良いとは限らない」と繰り返し説明した。だが、速水は「君の言うことは分かる。でも、長期的には、自国通貨が安くていいとは思わない」と毎度のように反論したという。
 速水はこうした持論から、会見でもついつい本音が出ていた。

(略)

 もう一つは、新日銀法制定時の議論である。通貨政策は「政府(大蔵省)の仕事」と整理されていた。
 その理由は、バブル発生時の金融政策の反省にある。(略)

[「プラザ合意」後の円高不況のための低金利政策がバブルを生み出した]

 このときの教訓は、為替政策と金融政策をリンクさせるべきではない、というものだ。為替政策を意識して金融操作をすると、バブルなどの金融面の不均衡(ゆがみ)が生じる。だから、金融政策はもっぱら国内物価の安定を目指して行われるべき――。新日銀法を制定するときに、こう整理されたのである。速水はこの立法趣旨を忠実に守ろうとしていた。
 だが、サマーズの怒りは収まらなかった。(略)

わずかニカ月前に財務長官に着任したサマーズは、肩に力が入っていた。
 サマーズからの電話を受けた二五日深夜、速水と宮澤、松島、黒田は、翌日の対応を協議した。サマーズは「朝のうちに、会見をやり直すべきだ」などと具体的な手順まで言ってきた。(略)日銀総裁G7の会見をやり直すというのは、屈辱以外の何物でもない。妙案が浮かばなかった。
 翌二六日午後、速水は米連邦準備制度理事会議長のアラン・グリーンスパンと会談した。サマーズはそこにまで乗り込んできて、速水に「あなたの会見のおかげで、市場はG7の声明の(円高是正の)意図を捉えていない」と責め立てた。グリーンスパンもサマーズに同調したという。
 速水はこの後、緊急記者会見を開く。

(略)

 このとき速水は七四歳で、サマーズは四四歳。(略)速水のプライドは粉々になっていた。

うずまく反発

  「独立」した日本銀行によるゼロ金利解除。政府の反対を振り切った決断は、政府・与党内に強い反発を巻き起こした。

 このころ、自民党内には、金融政策に強いこだわりを持つ政治家が増えていた。(略)渡辺喜美や、アベノミクスの生みの親と呼ばれるようになる山本幸三

(略)

[現職日銀課長との論争で「リフレ派」リーダーとなった岩田規久男。論争は平行線のまま終わり]

岩田は次第に孤立感を深めていく。経済学者の世界で、日銀と正面から闘った岩田を、異端視する見方が広がったからだ。

 岩田は二〇〇二年三月「昭和恐慌研究会」を立ち上げた。(略)昭和恐慌と、そこから脱出するための当時の取り組みについて研究することにしたのだ。(略)のちに第二次安倍政権の誕生に協力する面々が[集った]

(略)

ただ、当時の世論は、日銀に同情的であった。政府から「独立」したはずの日銀が、政治家らの理不尽な要求に屈しようとしている、というのが大方の見方だった。

嶋中は当時の状況をこう言う。

「日銀でも経済学会でも、我々は『異端』だった」

量的緩和」導入

 [2000年秋ITバブル崩壊]

日銀はわずか半年前に、政府の反発を押し切って、ゼロ金利政策を解除したばかりであった。[単にゼロ金利に戻れば速水の責任問題になる]

(略)

「私は今回、日銀当座預金残高という量のコントロールを通じて、自然に市場金利の低下を実現する新しい方法をとってみたい」

 量的緩和政策の提案だった。速水は「この方法であれば、資金の供給量を増やすことによって、情勢に応じた追加的な緩和策を講じることが可能になる」とも語った。
 副総裁の山口泰は速水の議長提案を受けても、なお政策の効果には疑問を持っていた。「量」を示すことで人々の物価上昇期待を生み出すという考え方を「イリュージョン」と言い、「これまでの金利を中心として政策を組み立ててきた思想からはジャンプがある。そう簡単に量に移行すると言ってしまって本当にいいのだろうか」と心情を吐露した。

(略)

 ゼロ金利からさらに名目金利を引き下げることはできないため、お金の量を増やして実質金利を下げ、経済を刺激する。銀行が貸し出しを増やし、将来不安を払拭する――。(略)

 副総裁の藤原作弥は当時の一連の決定を「清水の舞台から飛び降りるような決断だった」と振り返る。

金融政策は過去に例がない「未体験ゾーン」へと突入した。

次回に続く。

丸山眞男話文集 4

丸山眞男話文集 4

丸山眞男話文集 4

 

 戦争観の変化と東アジアの近代化(1988.8)

 今度の奥野長官なんて、シベリア出兵のことは何も言わない。盧溝橋のことしか言わないでしょ。

 国の接した地域について非常に敏感になるのは心理的には当然なんですよ。ソ連としては。

(略)

[第一次世界大戦後には]ポーランドとかルーマニアとか、全部西欧側の基地になっちゃった。みんなすごい反共政権です。西欧諸国はコミュニズムファシズムかどっちかと言われたら、ファシズムのほうを選ぶ。(略)ファシズムというのは資本主義の保険なんだ。

(略)

ハワイをとり、フィリピンをとったところまでは明らかにアメリカは帝国主義です。それから先のアメリカは帝国主義じゃない。中国が昔から関係のよかったのはアメリカとソ連なんです。というのは、ソ連は一切の特殊権益、つまり、ツァール時代に持っていた特別の権益を革命で全部放棄したのです。それがあったから孫文は「連ソ容共」(略)中ソ関係は非常によかった。(略)

アメリカは一九世紀の終わりにやっと帝国主義に乗り出した。だからアメリカがフィリピンをとったときに、幸徳秋水が『廿世紀之怪物帝国主義』という有名な本を出して「アメリカでさえも」と言っているんですよ。それぐらい自由民権以来、日本の進歩派というのは全部親米、つまり自由・平等のシンボルだった、アメリカは。

(略)

国連というのはそもそも米ソの提携の上にのっている。冷戦というものを夢にも思ってなかった。悪いのはファシズムだ、と。だからファシスト諸国は国連に入れない。

(略)
国際連盟規約の第一六条ではじめて国際的制裁という観念が登場してくる。あれは警察なんです。警察が国内秩序で犯人を捕まえるのと同じです。(略)

戦争は今までは関係当事国だけの話。ところが国際連盟規約に違反して侵略戦争をやった国は、全国際連盟国家に対して戦争をしたものと見なす、と。どうしてそういう規定ができたかというと、つまり強盗をやった犯人は全市民の敵だという、そういう国内秩序を国際秩序 に適用した。

(略)

二〇世紀になっていかに主権国家をめぐる観念の革命的な変化が行われたのか。奥野長官のまずいのはその変化が全然わからない。つまり一九世紀までの戦争観。そうするとアヘン戦争は何だ。清仏戦争は何だ。みんな中国を侵略しているじゃないか。どうして日本だけが責められるのか、と。

(略)

もっとリアルに言えば日本は損をしている。ただ日本は不戦条約を結び、国際連合にも加入しているから、後から来た帝国主義にもかかわらずその変化を承認しているわけですよ、戦争観の変化を。承認して侵略戦争をやっているからこれはいけない。それがわからないで、奥野長官はじめ大部分の……。

――そういう意識がなかったんですか。

 そういう教育をしていないですよ。僕らは戦前受けてないです。国際社会という観念がどういうふうにしてでてきたか。主権国家はどういうふうに変わってきたか。戦争観がそれによってどのように変わったか。

(略)

極端に言えば、近代法の観念がない、大日本帝国の国民には。

(略)

法というのは平等社会の紛争解決の道具なんです。英米法では、はじめからそうです。法は自由の保障のためにある、というのは英米では常識です。

(略)

儒教というのは武はいけない(略)王は徳でもって治める。だから文官優位ですよね。(略)アヘン戦争で香港を割譲した。中国にとってはこれはたいした国辱じゃないんですね。夷狄なんです。野蛮人なんだから武力が強いのは当たり前、野蛮人に端のほうをやっちゃえ、と。(略)

 日本は正反対で、サムライが天下をとっているでしょ。そうするとアヘン戦争ぐらいの衝撃はない。極端に言えば、アヘン戦争で清国が負けなければ、明治維新はあったかどうか。

(略)

まず第一に福沢諭吉は朝鮮[問題]で転向する。絶対に朝鮮の近代化を支持する。朝鮮の留学生はほとんど三田に来たんです。そしてみんな福沢を学んで「ようし、われわれの国もこれで旧体制を打破して新しい国をつくろう」と。金玉均という人物を福沢はものすごく可愛がって援助する。上海で殺されちゃう。彼とその一派の開明派は無惨に殺されちゃう。そして反動派が勝つ。(略)

そこで福沢の言葉を用いれば「開化を強制しなければいけない」。つまり日本の力で文明開化を強制する。何のために強制するかというと、西洋列強に対抗するために。だから動機はあくまで西洋帝国主義に対する対抗だけれど、内側からそういう力が興ってくるのは間に合わない。(略)

満州と朝鮮はどんどんロシアの勢力下におかれる。(略)

[また中国は属国の朝鮮の]改革を抑えようとする。そうすると朝鮮問題をめぐって清国と日本との軋轢が始まる。もし中国ないし朝鮮の側で進歩派の力がもっと強かったら、福沢の考え方はまるで違った。不幸なことに反動派の力が圧倒的に強かった。そうすると非常に不幸な二者択一をする。
 日本が自由を含む文明開化を強制してヨーロッパの帝国主義を防ぐか、それとも帝国主義の蹂躙に任せるか。(略)

朝鮮がロシアの勢力範囲に入ったら、日本の独立は非常に危うくなる。そこでどうしたって今度は日露戦争になる。(略)[そこでの選択肢として]

伊藤博文が日露協商派、山県有朋日英同盟派で二人が争うわけです。

 「権力の偏重」をめぐって(1988.8)

(略)

 ナチに抵抗した、僕の好きなラートブルフという法哲学者は相対主義者なんです。(略)[新カント派だったが戦後カトリックに]

自然法みたいな、歴史を超越した、ある依拠する規範がないといけないんじゃないか、と。つまりドイツ人がみんなナチにイカレちゃったというのは、やっぱり法実証主義の弱さです。

(略)

 だから戦後、自然法というのは復活するんです、西ドイツで。 (略)

官憲国家に対する抵抗権はどこから生ずるか。自然法を認めないと、実定法だけだと、国家の実定法に対してどうして個人が抵抗できるのか。自分の理性の中にある自然法というものを確信しないと抵抗できないんじゃないか、というのが、ナチの反省から出てきたのですね。

(略)

近代国家では自然法がなくなるわけ。貴族の抵抗権は否定されるわけ。

(略)
一つの統一された秩序というのは中世にはないわけです。要するに諸身分の合体にすぎない。だから一つの身分が他の身分に対して抵抗権を持つのは当たり前です。近代国家はそれじゃだめなんだ、一つの秩序だからね。
一つの主権があってすべての国民が平等であるというのが近代国家なんです。したがって貴族の抵抗権は否定される、どうしても。

(略)

だから有名なカール・シュミットの『ホッブス研究』には、ダジャレを使っているんですね。「近代国家ではシュタンデス・レヒトもなければヴィダーシュタンデス・レヒトもない」と。シュタンデス・レヒトは身分権、ヴィダーシュタンデス・レヒトは抵抗権ですね。(略)

身分権のないところには抵抗権もないんですよ。日本みたいに、国家からの自立的な身分というものの伝統が弱いところでは、やっぱり抵抗権は弱いですよ。だから早く近代国家はできる。できるけれども……。

(略)
藩がすでに国家だったでしょ。だから要するに、それを[廃藩置県で]ネーションワイドに拡大すればいいわけなんですね。そこがちょっと朝鮮、中国と違うところです。(略)

ということはしかし、身分権が弱かった、逆に言うと。(略)

中国で言うと、たとえば宗族とかは一種の身分権なんです。宗族とか村落共同体というのが日本よりはるかに強い。つまり国家から独立した一つの社会なんだな。それで、それが抵抗権の基礎になるわけです。それをモデルにして色川〔大吉〕君なんかが百姓一揆などを美化するのだけれども、僕に言わせれば、日本の村落共同体というのは名主によって抑えられているんですよ、だいたい。だから百姓一揆はあったけれども、身分的抵抗権というのは非常に弱い。

(略)

中国の伝統的な帝国というのは徴税国家なんだな(略)上のほうに国家の壮大なる官僚機構というのがあって、下にそれと、極端に言えば――無関係に、村落共同体というのがあって(略)

だから村落共同体の農民暴動に対してはまったく無力ですよ。ぱーっと農民暴動が拡がっちゃって、そして王朝が倒れちゃう(略)だけど農民暴動だから、切れているから上の機構を変える力がないわけです。するとまた新しい王朝ができちゃう。だけど古い王朝が倒れるときは必ず農民暴動で倒れる。その農民暴動は日本みたいに村に限られるなんていうことはないんですよ。わーっと拡がっちゃうんだ、中国の農民暴動というのは。

(略)

 日本は国が小さいせいもあって、[官僚性が]末端まで届いちゃうわけ。(略)行政村的なんです。だから、名主、庄屋というのはちょっと板挟みになるんです、百姓一揆が起こると。末端の村役人の機構であると同時に、しかし、村民の代表という意味も持っているわけ。(略)

山県〔有朋〕の地方自治制というヤツで徹底的に行政村が末端まで浸透する。

(略)

――福沢はそのあらゆるところの「権力の偏重」を全部否定する態度を持っているんですか、それとも……。

 持っているんです。そうじゃないと、非政治的な社会の領域で権力の偏重があると争わない。だって強者と弱者になっちゃう。同じくらいだから争うんです。権力の偏重というのは天秤がこう傾いている伏態なんです。どうしても弱いほうが強いほうと争っても負けちゃうんです。

(略)

[権力の偏重があると]社会の領域でも争いがなくなっちゃう。すると停滞する。「多事争論」になるためには権力の偏重が社会にあってもいけない。(略)

権力は多元的でなきゃいけない、同時にその権力は偏重してちゃいけない――二つあるわけです。

(略)

議論を許さなくなっちゃうんです、あまり違っちゃうと。「無礼なこと言うな」ってことになってしまう。そうすると多事争論ができなくなる。社会に多事争論がなくなると停滞してしまいます。

(略)

今のポスト・モダンなんかの危ないのは、みんなデカルト批判なんですよね。つまり、主観と客観とを分離したのはケシカランというのが今の日本の流行。今、西欧と日本で流行っている構造主義がそうなんで、二元論がまちがっている、と。(略)

レヴィ=ストロースが僕に手紙を寄こしました。「お前の言っている公私の分離というのが、そもそも近代の病である」と。彼は原始社会を研究してそこに救いを求めた。そう言うレヴィ=ストロースは分かる。つまり、ヨーロッパの自己批判なんです。そのヨーロッパの自己批判を輸入してきて、全然文化的伝統の違う日本に持ってきてかつぐのがおかしい。

「手段の近代化」

ベンジャミン・シュウォルツ(略)が、近代化というのは目的では定義できない。たとえば個人の独立とか個人の自立とか民主主義の達成とかいうような目的では定義できない、手段だけで定義する。どんな非合理的な目的も近代的手段をもって達成できると言って、ナチを例に挙げているわけです。(略)ユダヤ人の絶滅という驚くべき非合理的な目的を達成するために手段を徹底的に合理化したというのです。

ヴェーバーが言う目的合理性(略)と同じなんです。(略)目的が何であるとを問わず、ある目的のために最も適合的な手段は何かというのが目的合理性の問題なんです。したがってナチは最も目的合理的に行動した。非合理的な目的を追求するために手段を合理化した。そのかぎりでやはりナチドイツは近代化した。これは「手段の近代化」です。
 戦時中の日本でもそういうことが言えるわけです。日本の「総力戦」というものもいろいろな意味で、否応なく日本を近代化した面があるんですね。これは軍備の機械化だけではなくて、たとえば戦争中、寄生地主制というものが根本的に打破された。なぜかというと、戦争で労働力が非常に不足しましたから。そうすると寄生地主制ではどうにもならない。占領軍の命令によらないで、農地改革というのがすでに日本で進行していた、変革の珍しい例の一つです。だから農林省の関係者はあの治安維持法の適用を受けですいぶん検挙されましたよ。社会党の和田博雄氏やなんか、みんな農林省の官僚だったわけです。「企画院事件」[統制経済をめざす企画院の経済新体制確立要綱をきらった財界・観念右翼などが「赤化」事件として攻撃した]と言いましてね、治安維持法でみな社会主義だと言われて引っ張られた。

(略)
日本では「近代」という言葉が価値を含んでいた。大杉栄の『近代思想』というのを例に挙げてもいい。価値を含んでいたからこそ、戦争中の日本の生き方を肯定する人たちが「近代の超克」と言う。われわれは今、近代を超えなければいけない立場に立っている、近代を超えることは日本の「世界史的立場」である、ということを言った。これは大東亜共栄圏の主張になっちゃうんです。(略)近代というのはヨーロッパが作り出した悪しきものであった、これを超えるのが日本の使命なんだと言って、大東亜戦争を合理化しようとした。
 だからプラスの意味でもマイナスの意味でも「近代」という言葉は日本語の用語としては価値を含んでいると思うんですね。