日銀と政治 暗闘の20年史 鯨岡仁

日銀と政治 暗闘の20年史

日銀と政治 暗闘の20年史

 

 大蔵省不祥事から日銀法改正

[96年]与党PTがつくられたきっかけは、大蔵省不祥事であった。

[大蔵省解体への]大蔵省の抵抗はすさまじかった。(略)[それに族議員も加わり]PTの検討は行き詰まった。

「目先を変えて日銀法改正を先にやりましょうか」[と山崎拓が提案](略)

 一国の中央銀行の設置根拠となる法律。その改正のきっかけは、大蔵省不祥事という「偶然」から始まった。

(略)

日本政府は太平洋戦争の四年間で[GDPの2倍の1600億円を日本銀行から借金。そのツケは戦後の物価高騰となった](略)

つまり、政府は国民の生活を犠牲にして、借金を返済したのである。

むちゃな政府の借金を可能にしたのが、太平洋戦争中につくられた旧日本銀行法であった。

(略)

[2回の改正のチャンスを逃し]

六〇年近く放置された法律は、片仮名、文語体のまま。当時、戦前戦後を通じて抜本改正されずにいる法律には「カタカナ法」という愛称がついていた。一九九五年にはカタカナ法だった保険業法が改正され、民法も口語化を検討されていた。主要な法律でカタカナなのは、日銀法だけになりそうだった。

(略)

橋本龍太郎首相は[九六年]七月、私的諮問機関「中央銀行研究会」を設置した。 (略)

[大蔵省主導の「護送船団方式」変革を目指す橋本]

 日銀法改正は、そうした金融制度改革の象徴と位置づけられることになった。(略)

最大の論点が「独立性」であった。(略)

「物価の安定」を貫こうとするとき、最大の敵は為政者や政治家となりがちだ。為政者はインフレの誘惑にまどわされやすいためだ。

(略)

 中央銀行は「行政機関」なのか、金融政策は「行政権の作用」なのか、そして内閣にどの程度、コントロールされなければならないのか(略)

研究会では、元通商産業省事務次官の福川伸次と憲法学者佐藤幸治京大教授との間で、激しい論争になった。
 佐藤は憲法学者として、憲法第六五条の従来解釈に疑問を呈した。「行政権」を、全ての国家作用のうち、立法作用と司法作用を除いた残り全ての作用である、と考える学説を「控除説」と言う。これに基づき、中央銀行を「行政権」をつかさどる組織であると位置づけ、行政権の範囲をかなり広く捉える、これまでの政府解釈を批判した。

 佐藤は、日銀がどの程度内閣のコントロールから自由でありうるか、ということは、立法政策の問題であって、憲法上の制約を持ち出すべきではないという立場だった。
 一方、福川は「中央銀行をまるで、行政権、司法権立法権という三権に並ぶような、第四権力のように位置づけるのは、憲法とは適合しない」という論を展開した。人事や予算面で、政府によるコントロールを、ある程度残さなければならない、という主張だ。

(略)

[一致した結論は出せず、報告書では曖昧な表現に]

「人事権等を通じた政府のコントロールが留保されていれば、日銀に内閣から独立した行政的色彩を有する権能を付与したとしても、憲法六五条との関係では違憲とは言えない」

(略)

[法案に仕上げる段階で]大蔵省の激しい抵抗にあう。(略)

 日銀法改正小委員会のなかに、旧日銀法にある内閣の総裁解任権や蔵相の業務命令権をなくすことに反対の人はいなかった。
 だが、憲法上の日銀や金融政策の位置づけをめぐり、ふたたび議論が蒸し返されたのだ。(略)
 中西真彦は「政府に予算や人事を握られては、独立して金融政策を決定できない」として、予算と組織の独立が不可欠だと主張。大蔵省が持つ日銀予算の認可権をなくし、日銀が自ら予算を決めて「届け出」る仕組みにするよう提案した。
 だが、オブザーバーとして参加した大蔵省出身で内閣法制局第三部長の阪田雅裕(のちに内閣法制局長官)はこう反論した。
 「行政責任は内閣が連帯して国会に対して負っている。行政が内閣の手を完全に離れることはできない」

 阪田は「行政権は、内閣に属する」と定めた憲法第六五条を持ち出し、日銀は通貨の独占発行権など「行政」をつかさどる公的存在であるとして、内閣が予算や人事などをコントロールするのは当然、と主張した。

(略)

大蔵省や法制局は「日銀が内閣から完全に独立するという表現は憲法六五条の趣旨になじまない」と、法律に「独立性」という言葉を書き込むことは「憲法違反」になる恐れがあると主張した。
 複数の委員は「独立」と明記すべきと主張したが、阪田の「憲法違反」という主張を前に、あきらめざるを得なくなった。

 法案の要綱に当たる答申では「独立性」という言葉は用いられたものの、法律案では「自主性」に置き換えられた。(略)

 大蔵省の予算認可権も残った。ただし、蔵相が日銀予算案を認可しない場合には、その理由を公表しなければならない仕組みにした。これで大蔵省による理不尽な介入を避けられると考えたのである。

(略)

 あと二つ、当時はあまりクローズアップされなかったが、のちに大きな意味を持つことになる改正があった。
  一つは、政策委員会の人事である。
 政策委員は、総裁一名、副総裁二名、審議委員六名の計九人という構成になった。この人事は、内閣が任命し、国会が同意して決めることにした。この「国会同意」には、衆院の優越の規定がなく、衆参両院が同意をしないと、人事が認められない仕組みとなった。
 これがのちに、二〇〇八年の「総裁空白」という事態を招くことになった。
 もう一つは、旧法に残されていた「損失補填条項」である。(略)
 削除を申し出たのは日銀側だった。(略)のちに総裁になる福井俊彦の判断だった。福井は相談にやってきた三谷にこう言ったという。
 「政府の損失補填があると、政府が金融政策に介入する口実を与えることになるし、一方で、日銀には政府に補填してもらえる、という甘えが残る。どちらから見ても良くない」
 このときの福井は二〇年後に、日銀が名目国内総生産(GDP)に匹敵するような国債保有し、巨額の損失リスクにさらされることになるとは、想像もしていなかった。

 ゼロ金利導入

[首相になった小渕がカブ上がれパフォーマンス。官房長官野中は記者会見で]

「市場の国債を買い取るとかいろんな方途を講じて、現在の深刻な状態を打開する責任が、中央銀行にある」と述べた。(略)

 速水はこの要求を受け入れることはできなかった。(略)

日銀が政府の借金を手助けすることにほかならない。中央銀行が通貨の増刷で政府の借金をまかなう「財政ファイナンス」と受け取られかねないためだ。

 財政ファイナンスは「禁じ手」とされる。その理由は、このやり方で、政府がいくらでも借金できるようになり、止められなくなるからだ。

(略)

いったん「財政が破綻した」と市場に受け取られると、国債金利は急上昇(=国債の価値は暴落)してしまう。もし、それでも政府が国債を発行して借金を続け、日銀がそれを「資産」として購入し、どんどん通貨を発行すると、こんどは通貨の価値が暴落し、とてつもない物価上昇が起きる。

(略)

実際、太平洋戦争で財政ファイナンスを続けた日本は、戦後、ハイパーインフレに見舞われた。

(略)

速水優総裁は一六日の定例会見で、短期金利について「ゼロになっても良い」「ゼロでやっていけるならばゼロでもいいと思うが、できるだけ低めに推移するよう促して欲しい」と発言。

(略)

 速水には三つの意図があった。
 一つは、不安定な銀行システムを安定させる「安定化機能」である。(略)

 もう一つは、企業の貸し出しなどにおける実質金利を引き下げることだ。

(略)
 最後に、長期金利の安定である。

(略)

速水は「金利ゼロ」を言うことで、「国債の買い入れ」という政府の要求をかわすことを画策していた。速水は会見で、こう言っている。
 「国債が内外の人達に消化され、売れていくことが一番望ましいということであるから、これは市場にお任せするということだと思う」
 政治の圧力に屈して、国債の買い入れを増やす考えはない、と強調した。

(略)
 さらに、速水はもう一つの手を打つ。(略)「デフレ懸念の払拭ということが展望できるような情勢になるまで」ゼロ金利を続けると表明したのだ。
 これはのちに「時間軸」政策と呼ばれるようになる。

速水、30歳下のサマーズにめっさ怒られる

 [G7会議のあった]一九九九年九月二五日夜(略)宮澤喜一蔵相の秘書官、渡邉博史のもとに、一本の電話がかかってきた。米財務長官のローレンス・サマーズからだった。
 「宮澤蔵相はいるか?」(略)渡辺が「もう寝ている」と答えると、サマーズは「じゃあ、おまえに言おう」と話し始めた。
 「速水が会見で言ったことは、G7の合意事項とはまったく違う。G7の合意がまもられているとは思わないから、もう一回、G7をやり直したい」
(略)
速水はG7後の会見で、円高是正に寄り添う態度を示さなかった。(略)

 サマーズの立場に立てば、米国は、同盟国・日本のデフレ防止という観点から、日本企業の米国向け輸出に有利になる円高是正に協力することを約束した。にもかかわらず、日銀総裁がそれを打ち消すような発言をしていることに腹を立てたのである。

(略)

[日銀理事松島正之]は速水に「円を強くすることが中央銀行の目的ではなく、日本経済が強くなって、その結果として円が強くなることが望ましい。やみくもに円が強いことが良いとは限らない」と繰り返し説明した。だが、速水は「君の言うことは分かる。でも、長期的には、自国通貨が安くていいとは思わない」と毎度のように反論したという。
 速水はこうした持論から、会見でもついつい本音が出ていた。

(略)

 もう一つは、新日銀法制定時の議論である。通貨政策は「政府(大蔵省)の仕事」と整理されていた。
 その理由は、バブル発生時の金融政策の反省にある。(略)

[「プラザ合意」後の円高不況のための低金利政策がバブルを生み出した]

 このときの教訓は、為替政策と金融政策をリンクさせるべきではない、というものだ。為替政策を意識して金融操作をすると、バブルなどの金融面の不均衡(ゆがみ)が生じる。だから、金融政策はもっぱら国内物価の安定を目指して行われるべき――。新日銀法を制定するときに、こう整理されたのである。速水はこの立法趣旨を忠実に守ろうとしていた。
 だが、サマーズの怒りは収まらなかった。(略)

わずかニカ月前に財務長官に着任したサマーズは、肩に力が入っていた。
 サマーズからの電話を受けた二五日深夜、速水と宮澤、松島、黒田は、翌日の対応を協議した。サマーズは「朝のうちに、会見をやり直すべきだ」などと具体的な手順まで言ってきた。(略)日銀総裁G7の会見をやり直すというのは、屈辱以外の何物でもない。妙案が浮かばなかった。
 翌二六日午後、速水は米連邦準備制度理事会議長のアラン・グリーンスパンと会談した。サマーズはそこにまで乗り込んできて、速水に「あなたの会見のおかげで、市場はG7の声明の(円高是正の)意図を捉えていない」と責め立てた。グリーンスパンもサマーズに同調したという。
 速水はこの後、緊急記者会見を開く。

(略)

 このとき速水は七四歳で、サマーズは四四歳。(略)速水のプライドは粉々になっていた。

うずまく反発

  「独立」した日本銀行によるゼロ金利解除。政府の反対を振り切った決断は、政府・与党内に強い反発を巻き起こした。

 このころ、自民党内には、金融政策に強いこだわりを持つ政治家が増えていた。(略)渡辺喜美や、アベノミクスの生みの親と呼ばれるようになる山本幸三

(略)

[現職日銀課長との論争で「リフレ派」リーダーとなった岩田規久男。論争は平行線のまま終わり]

岩田は次第に孤立感を深めていく。経済学者の世界で、日銀と正面から闘った岩田を、異端視する見方が広がったからだ。

 岩田は二〇〇二年三月「昭和恐慌研究会」を立ち上げた。(略)昭和恐慌と、そこから脱出するための当時の取り組みについて研究することにしたのだ。(略)のちに第二次安倍政権の誕生に協力する面々が[集った]

(略)

ただ、当時の世論は、日銀に同情的であった。政府から「独立」したはずの日銀が、政治家らの理不尽な要求に屈しようとしている、というのが大方の見方だった。

嶋中は当時の状況をこう言う。

「日銀でも経済学会でも、我々は『異端』だった」

量的緩和」導入

 [2000年秋ITバブル崩壊]

日銀はわずか半年前に、政府の反発を押し切って、ゼロ金利政策を解除したばかりであった。[単にゼロ金利に戻れば速水の責任問題になる]

(略)

「私は今回、日銀当座預金残高という量のコントロールを通じて、自然に市場金利の低下を実現する新しい方法をとってみたい」

 量的緩和政策の提案だった。速水は「この方法であれば、資金の供給量を増やすことによって、情勢に応じた追加的な緩和策を講じることが可能になる」とも語った。
 副総裁の山口泰は速水の議長提案を受けても、なお政策の効果には疑問を持っていた。「量」を示すことで人々の物価上昇期待を生み出すという考え方を「イリュージョン」と言い、「これまでの金利を中心として政策を組み立ててきた思想からはジャンプがある。そう簡単に量に移行すると言ってしまって本当にいいのだろうか」と心情を吐露した。

(略)

 ゼロ金利からさらに名目金利を引き下げることはできないため、お金の量を増やして実質金利を下げ、経済を刺激する。銀行が貸し出しを増やし、将来不安を払拭する――。(略)

 副総裁の藤原作弥は当時の一連の決定を「清水の舞台から飛び降りるような決断だった」と振り返る。

金融政策は過去に例がない「未体験ゾーン」へと突入した。

次回に続く。