サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その2

前回の続き。

シェル・タルミー

[ジョージィ・フェイムとは]互いに馬が合う感じだった。(略)バンドを連れておいでよ、2、3曲録ろう、レコード契約を持って来られるかもしれないし、どうだろう? (略)だが当日、ジョージィはシェル・タルミーを連れて現われた。どうやらシェルがジョージィに近づき、プロデュースを手がけたい旨を伝えていたらしく、そこでジョージィは一石二鳥を狙ったというわけだった。無論、わたしとしては、控えめに言っても、あまりいい気はしなかった。シェルとは初対面で、彼がどこの誰なのかも知らなかった。そこでわたしは、これは僕のセッションであり、僕がプロデュースすると、きっぱりと言い放った。シェルはそれを黙って聞いてから、せっかくこうしてふたりいるのだから、仲良くやろう、まずはどうなるか様子を見てみようじゃないかないかと、穏やかな口調で提案してきた。 それで不承不承同意したのだが、これが結果的に、わたしにとって過去最高峰の決断になった。シェルがなすべきことをちゃんと心得ているのは、セッションを始めてすぐにわかったし、向こうもわたしに対して同じように思ったらしかった。こうしてわたしたちは親友になり、共に仕事をするようになり、これが後の有益な協力関係につながり、それからの数年間、彼が制作した大半のレコードでわたしはエンジニアを務めることになった。そうして生まれたのがザ・フーの“マイ・ジェネレーション"であり、ザ・キンクスの“オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト"や"ユー・リアリー・ガット・ミー”だった。

アンドルー・オールダム

 わたしは変わらずスチュと一緒に住んでいて、ストーンズがわたしとIBCを見限ってアンドルー・オールダムと出て行ったのはもう、過去のこととして割り切っていた。

(略)

[熱を上げていた女性から頼まれアンドルーの仕事を引き受けることに]

わたしは彼に伝えた、このセッションをやることを心から嬉しいとは思っていないが、無理矢理やらされることになった、だからここはひとまず仲良くやり、とっとと仕事を済ませて帰ることにしようじゃないか。(略)

これは認めるしかないのだが、わたしはアンドルーの制作手腕にたいそう感銘を受けたのだ。セッション終了後、アンドルーに聞かれたので、嫌々ながらそう伝えた。

 アンドルーはすかさず電話に向かい、秘書に連絡を入れ、最近自分が手がけたレコードを何枚かタクシーで届けるよう命じた。かわいそうな秘書よ、時刻は午前1時だった。ともかく、レコードが到着した。彼はわたしにそれらを聞かせると、いかにも嫌味な口調で合格かどうかと聞いてきた。認めるのは癪だったが、あまりにも良くて驚いたと正直な気持ちを白状した。するとアンドルーは、今後、自分のためにエンジニアをしてくれないかと言ってきて、わたしは了承した。

 これがわたしとアンドルーとの数年にわたる仕事につながった。アンドルーは自身のレーベル、イミディエイト・レコードを設立し、1965年から1970年というその存在期間中、同社から世に放たれた作品の多くをわたしが録った。そして、そこから生まれた最も重要なものといえばもちろん、これを起点として始まり、何年も後〝ブラック・アンド・ブルー〟セッション中にわたしが止めるまで続いたストーンズとのレコーディング作業に他ならない。

ストーンズ、ジミー・ミラー

典型的なストーンズとのセッション開始予定時刻は夜8時だった。7時55分頃、わたしがスタジオに着くと、必ずと言っていいほど、チャーリーがコントロール・ルームで静かに待っている。数分後、そこに加わるのがビルで、彼も同じく時計の針並みに規則正しく、ふたりとも予定時刻ぴったりに始められる準備を整えている。続いてミックとブライアンが8時頃に現われ、あとはキースを待つのみとなる。遅刻時間は長短さまざまで、30分のこともあれば、朝の6時まで来ないこともある。だが誰も何も言わない、そんなことをしても無駄だと承知しており、現状を甘んじて受け入れている。キースが現われるまでにやれることをやっておくのが常で、録ったものを聴き直したり、追加作業が必要なトラックにミックかブライアンがオーヴァーダブを行なったりした。

 初期、スタジオに転がっているほぼどんな楽器からでも調べを引き出せるブライアンの能力は、バンドのサウンドの多様性に大きく貢献したものだった。たとえば〝ルビー・チューズデイ〟でリコーダーを吹いたのも、セッション・パーカッション奏者が置いていったマリンバに目を留め、〝アンダー・マイ・サム〟を力強く引っ張るパートを思いついたのもブライアンだった。 ブライアンはまさしくリフの王様だったし、その代表例が〝ザ・ラスト・タイム〟なのだ

(略)

キースの類い稀なるリズムをブライアンが多種多様なサウンドで補完していた。

 ミックとキースはスタジオでたびたび曲作りをしていた。どちらか一方が骨と皮だけのアイディアを持って現われる。キースの場合は概して、2、3小節分のコード進行を抱えて来て、椅子に腰かけ、それを何時間も繰り返し延々と弾き、そんな彼にビルとチャーリーが付き合い、 桁外れの辛抱強さを見せ、掛け替えのないサポートを供する。そのうちにブライアンとステュかニッキー・ホプキンスが加わり、いくつか違うアイディアと楽器編成を試す。 曲が形を成してくると、それまでわたしと一緒にサウンドに耳を傾けていたミックがコントロール・ルームを出て、演奏に合わせて歌い、言葉を適当に羅列しただけの意味のない歌詞を唱えながらメロディを編み上げていく。最終的にわたしがそれを録り、その成果をプレイバックで聞かせ、それをもとに参加者各人がミックとキース、そしてアンドルー・オールダムの、後年はジミー・ミラーの厳格な指揮の下、それぞれのパートを磨き上げていく。

(略)

彼らが創り上げようとするものから放出されるアドレナリンと興奮は、キースが良しとするテイクにたどり着く頃にはもう、とっくの昔に消え失せていた。(略)

初期テイクのほうがマスターとして選ばれたものよりもはるかに出来が良いことも多々あった。

(略)

「サタニック・マジェスティーズ」の傷の痛みがようやく引いた頃、やっぱりプロデューサーを使うことにした、とミックに言われた。アメリカ人がいいという。どこの馬の骨とも知れないアメリカ人がやって来て、エゴ丸出しの偉そうな顔でああだこうだとうるさく指図してくる様子を考えただけで、わたしは寒気がした。そこでふと思い出したのだが、その2週間ほど前、わたしはたまたまジミー・ミラーと会っていた。彼はオリンピックの隣のスタジオでトラフィックを録っていて、感じのいい人に思えたし、いい仕事をしていた。それでミックに、わざわざ誰かを輸入するまでもない、じつに立派な男がもうここロンドンにいるじゃないか、と伝えた。ミックとキースの審査を受け、ジミーは晴れて合格となった。ただ、わたしが推薦者だったとはつゆも知らぬジミーが最初にした仕事は、エディ・クレイマーをエンジニアの座に据えることだった。幸いにも、ストーンズの面々がわたしを戻すよう強く推してくれて、2、3日間だけのことで済んだのだが。

 

未来の子供達(紙ジャケット仕様)

スティーヴ・ミラー・バンド

[68年ロンドンにやってきたスティーヴ・ミラー・バンド]

割り当てられた6週間の録音期間の内、1カ月が過ぎたが、テープに残すに足るものは何ひとつなかった。スティーヴは曲やアレンジ、録音技術に関するさまざまなアイディアを延々と試すばかりで、いずれも失敗に終わっていた。彼が普通のミュージシャンでないこと、そしてまったく新たな何かを探し求めていることはよくわかったが、今すぐにでも何かが変わらなければ、バンドの信頼と敬意も、エンジニアの奉仕も失いかねない状態だった。そこでわたしは彼を座らせ、ごく穏やかな物言いで説いて聞かせた。今のままでは残りの2週間を続ける意味が僕には見えない、もしもこのままでいくというなら、僕は降ろさせてもらう。何がいけないのかと問われたので、わたしはプロデューサーが要ると伝えた。責任を持って場を仕切る者もいなければ、何らかの決断を下す気でいる者がいるとも思えない、このプロジェクトは首のない鶏と変わらない、と。

 わたしが仕方なく口にしたその言葉を彼は気持ちよく受け入れ、さらにこう申し出てきた。どうだろう、そのプロデューサー役は君がやってくれないかな、それならこのまま残ってくれるかい?

 ついに来た。ようやくプロデュースを頼まれたのだ。 わたしは檻から放たれた気分だった。エンジニアがプロデューサーになるというのは、当時、前代未聞の話だった。両者は完全に別個の職業と見られていたからだ。それは明確に定義された階級制度であり、わたしはずいぶん前から壊されて然るべきだと感じていた。

 わたしは当時26才、それまでの8年間を何人かの優れた、そしてひとりないしふたりのさほど優れていないプロデューサーとの仕事に費やしてきた。

(略)

自分が制作に貢献しているのはわかっていたし、クレジットも報酬もなかったが、それを微塵も苦々しくは思わなかった。たぶん、遅かれ早かれ機会は巡って来ると感じていたのだろう。

(略)

 ステレオ・クロス・フェードを使ったのは、このアルバムが最初で、今のところ最後だ。次のトラックが右からフェードインして来て、それに押されて前のトラックが左から出て行く。この後も何度か試してはみたのだけれど、この盤ほどの効果は出せていない。

1968年、プライアン・ジョーンズとグナワ

 1968年は、多種多様なアーティスト勢との仕事に明け暮れる、嵐のごとき日々と共に幕を開けた。 週6日働き、1日に2組、違うアーティストを手がけることもざらだった。手始めがピーター、ポール&マリー、続いてスモール・フェイセス。マイク・サムズのジングル、フランスのスター、ジョニー・アリデイと数日、再びスモール・フェイセスと幾晩か徹夜、続いてジョー・コッカープロコル・ハルムジョージィ・フェイムスティーヴ・ミラー・バンド、そしてマーキー・クラブでザ・ムーヴのライヴ盤、といった具合だ。

 3月、「未来の子供達」の完成から少し経った頃、ブライアン・ジョーンズから、一緒にモロッコに行かないかと誘われた。毎年その時期に、アトラス山脈の集団グナワのパフォーマンスがマラケシュの市場広場で見られるから、それを録ってもらえないか、ということだった。

 ブライアンはポール・ゲティ・Jr[石油王と呼ばれた世界有数の大富豪の長男]を知っていて、ゲティは市の中心地に豪邸を持っているから、そこに泊めてもらえるという。ブライアンとの友情については正直、懐疑的なものがあったのだが、まあいい、ここは思い切ってみるか、と心を決めた。

(略)

 グナワは15人ほどの男性ミュージシャンから成る集団で、下はティーンエイジャーから上はリーダーを務める高齢の者までおり、そのリーダーを中心に皆でコール&レスポンスを繰り返すチャントを歌いながら、複雑極まりないパーカッシヴなリズムを紡いでいく。 年配のふたりが首から下げた大きな太鼓の担当で、湾曲した長い棒状のスティックでそれを叩き、残りの者たちは大きな金属製のカスタネットを奏でる。 全員揃いの白いカフタンに身を包み、歌のハーモニーとパーカッションだけで音楽と、わたしが思うに、メッセージを発していた。ブライアンが考えていたのは、彼らのリズムとチャントを録り、それを持ってニューヨークに行き、米黒人ブルースおよびソウル・ミュージシャンのプレイをその上に重ね、アフリカ音楽の伝統と新種をひとつにする、というものだった。

(略)

これはこの先、いつまでも忘れないと思う。モロッコでの最初の朝、頭上20フィートほどの天井のすぐ下、美しいステンドグラスの窓から差し込んで来る陽射しで、わたしは目を覚ました。アルコーブ[壁の一部をへこませて作った空間]に設えられたベッドに、毛皮の掛布と色とりどりの絹のクッション。贅沢の極みだった。起きてシャワーを浴び、外に出ると、召使いが待っていて、壁に囲まれて中央に沈床園を設えた、目を見張るほど美しい中庭へと誘われた。そこにはテーブルが用意してあり、そこで 朝食をいただいた 。目の前の木からもいだばかりの新鮮なオレンジのジュースも美味だった。おかしなもので、人は細かいことばかり覚えている、記憶というのは往々にして味と匂いに関連づけられるものなのだ。

(略)

 マラケシュに着くが早いか、ブライアンはどこかで麻薬を手に入れ、そこにいる間中、正気をなくしてフラフラしていた。そこでわたしは自由を満喫することにし、ひとりでテープレコーダーを携えて広場に行っては、グナワをはじめ、いろいろな、いずれも驚愕のミュージシャン集団の演奏を収める仕事に励んだ。彼らは皆、この上なく突飛な手製の楽器を奏でていた。地べたにあぐらをかいて座り、歌いながら3弦楽器を弾く男。それは木製のシガーボックス製で、短い棒が刺さっており、棒の先に小さな金属製の羽根が付いていて、彼が弦を弾くたびにそれが震動し、独自のパーカッション的サウンドを響かせていた。ブレーキドラムを錆びついたスパナで叩いている男もいた。(略)わたしが見たことのある楽器を弾いている者は、ひとりとしていなかった。それは世にも不可思議で面白い不協和な光景と音であった。

(略)

 ポールはグナワを夕食に招待し、豪邸の大広間でわたしたちだけのために演奏してもらうことにした。(略)何から何まで、まるで映画のようだった。グナワは外のほうが落ち着くと言って中庭で食事をし、それが済むとわたしたちが待つ中に入って、刺激に満ちたパフォーマンスを見せてくれ、わたしはそれを市場や広場に常にあった余計なノイズに邪魔されることなく録った。生涯忘れない一夜になった。

 

セイラー(紙ジャケット仕様)

セイラー(紙ジャケット仕様)

Amazon

スティーヴ・ミラー・バンド「セイラー」

[68年]4月末、わたしは初めてカリフォルニアに飛んだ。(略)

 6月、LAに戻る前の晩、スティーヴ・ミラーから電話があり、バンド名をセイラーに変える、次のアルバムはその新しい名前を反映したコンセプトものにしたい、と言われた。「サージェント・ペパーズ」に感化されての決断だったのかどうかは知らないけれど、今にして思えば、そうだったのかもしれない。ともかく、わたしは多少当惑した。

(略)

ティーヴは丸めた大きな紙を携えていた。それをベッドの上に仰々しく広げると、彼は鉛筆を手に取り、紙の端から端まで波線を描き、これが今度のアルバムを図で表わしたものだと言った。こいつは面倒なことになった、と思った。スティーヴのことは気に入っていたし、仕事上の関係は極めて良好だった。そこで、彼はわけのわからないことを言っているのではない、理解できないのは僕のせいだと考えることにして、とりあえず話題を変え、LAへの機上でひらめいた案を伝えた。1曲目にSEを駆使したインストを置き、想像力を大いに働かせれば、地元の港に帰って来る船乗りの姿に聞こえるようにする。続く曲群は、数年間の航海後にその船乗りが発見する、社会および自身の恋愛に関する変化を表わすものにする、というのはどうだろう?

 スティーヴとバンドはその案を気に入ってくれて、翌日からレコーディングを始めた。霧の深い真夜中、サンフランシスコの埠頭に行って、アルバムの幕を開ける不気味な霧笛の音を録り、続いてそのファースト・トラックの導入にふさわしい音風景作りに着手した。バンドのメンバー全員に1音だけ歌わせ、その録音をオルガンと合わせ、速度を上げたり下げたりしてピッチを変え、それをひとつずつ順番に入れ、最初のコードに仕立てた。こうして生まれたのがインスト・ナンバー〝先祖の歌〟で、書いたのはスティーヴだが、ボズ・スキャッグスが弾いている。

(略)

バラード〝いとしのマリー〟では、スティーヴの声が際立っている。 スティーヴは自分の声を重ねてハーモニーを作るのを好んだ。たぶん、レス・ポールの影響があったのだろうとわたしは踏んでいる、形成期のスティーヴにとって、レスは心の師のような存在だったからだ。わたしが仕事をしたシンガーでこれをやったのは、スティーヴが最初だった。スティーヴは卓越した技で自身の声同士を見事に融合させている。

(略)

 録り終えたアルバム(「セイラー」)には、当初のコンセプトは跡形も残っていなかった。物語性はなくセッションの半ば頃には忘れ去られていた――バンドは名前を変えなかった。その件が話題になることさえなかった。別に大したことじゃない。結果的に大成功だったからだ。あのアルバムはスティーヴの傑作の一枚と称えられている。

1968年10月、レッド・ツェッペリン

[疎遠になっていたジミー・ペイジから電話。新しいバンドを作るので]願わくはこのわたしとやりたい、ということだった。

 わたしは一も二もなく飛びついた。ジミーとは地元が一緒で、60年代前半からよく知る仲だったし、ジョンは長らくロンドン随一のセッション・ベーシストだったからだ。ジョンとはエンジニア時代に毎日のように顔を合わせていて、彼がこれ以上望めないほどの人格者であることも知っていた。

 そのふたりが組んだのだから、いいものになるに決まっているという確信はあったものの、数週間後、オリンピックに赴いたときにはまだ、自分がこれから何に足を踏み入れることになるのか、よくわかっていなかった。正直、足下から吹っ飛ばされるほどの衝撃だった。それからの9日間でわたしたちが作ったアルバム(「レッド・ツェッペリン」)は、ロック史における大きな一歩に他ならない。ロックをまったく別のレベルへと連れて行った歴史的一枚だ。

 彼らが創出したサウンド、彼らが考案したアレンジ、彼らの楽才の水準、そのどれもが等しく驚愕だった。彼らが用意していたものがわたしの目の前で次第に姿を現わしていくなか、セッションは回を重ねるごとにわくわく感を増していった。わたしはただ録音ボタンを押し、あとは椅子の背に身体を預け、僕は今、重要な現場にいるのだという興奮を抑えていればよかった。

(略)

 アルバムが完成したのはちょうど、『ロックンロール・サーカス』(略)をまとめているときだった。そこで、ある日の制作会議にそのアセテート盤を持って行き、ミックに聴かせて言った。このバンドはこの先とてつもない大物になる、だから今のうちに前座に呼んだらどうだろう、いい話題作りになると思うんだけど。 わたしの言葉はあっさりと聞き流された、ミックにはまるでぴんと来なかったからだ。数カ月後、あるビートルズ・セッションからの帰り道、ジョージ・ハリスンをオリンピックに引っ張り込んでマスター・テープを聴かせたのだけれど、結果は同じで、彼にもさっぱりだった。少々戸惑ったのを覚えている、わたしがこんなにもすごいと思うものがなぜ彼らにはわからないのか、まったく理解できなかったからだ。

(略)

 わたしがステレオでドラムを録音する手法を見つけたのは、このアルバムのセッション中のことで、それはまったくの偶然だった。ドラムの録音にわたしは通常、マイクを3本、ないしは4本使う。トップに1本、フロアタムに1本、バスドラムに1本で、あと1本はスネア用だが、これはごく稀にしか用いない。当時はトラック数が常に限られていたため、たいていはドラムを1トラックに収めたもので、セッションによっては、ベースと一緒に入れることもあった。

 すでにベーシック・トラックの録りは済んでいて、アコースティック・ギターを重ねることになった。そこでわたしはドラム用のノイマンU67を1本、ギターに使ってオーヴァーダブを終え、そのマイクを元に戻し、次のベーシック・トラック録りに移った。録音を終え、フェーダーを上げてドラムを聴いたところ、ついうっかり、そのマイクをオーヴァーダブに使ったトラックに合わせたままにしていたことに気づいた。ステレオの左の奥に振ったままにしていたのだ。もう1本のドラム・マイクは中央に合わせていたから、そのせいでサウンドが左に寄っていた。そこでふと、左右に振ったらどうなるだろうと思い、フロアタム・マイクが少しだけスネアのほうに向くよう位置を調整し、2本のマイクがスネアから等距離になるようにした。結果は強力極まりないもので、ステレオの新たな概念をくれるものだった。ステレオ像全体にドラムが広がっているのは不自然なので、各トラックを半分ずつ左右に移動させ、結果、この時以来使い続けている手法が出来上がった、というわけだ。

次回に続く。