ピーター・ガブリエル(正伝)

少年時代

 ディープ・プール農場は幼いピーターに探険の場所と空想の自由を与えた。彼は妹のアンと農場の建物の中に入っていっては、通路のそばにある乾し草の山の中に隠れ家を作ったりした。

(略)

ピーターは初期のジェネシスでツアーをしていた頃、火を燃やすのが好きで知られていた。グループは、長距離運転手相手の簡易食堂に立ち寄らず、パンやチーズを買っては、ギターやハーモニウムをもって野原でピクニックをしたものだ。

「たった三十分かそこらでも、ピーターは湿った木だとか燃やせるものを拾いにいってたよ」と語るのは友人で当時ロード・マネージャーだったリチャード・マクフェイル。「全員、煙のにおいをさせて、会場に着いたもんさ」

 ピーターの子供の頃の冒険心やチャレンジ精神は今も抜けていない。最近では、友人や家族と休暇に出かけたとき、簡易温泉を作ったりした。

「(略)彼はお昼いっぱいかかって大きな穴を掘り、その中に水をいっぱいにした(略)それから火をおこして、大きな石を集めてきて、それをたき火で熱くして、水の中に入れるんだ。もちろんこれが簡易温泉というわけなんだ

(略)

 ピーター・ブライアン・ガブリエルが生を受け、全力を尽くしてこの世に生まれたのは一九五〇年二月十三日(略)

 父親のラルフ・ガブリエルはロンドンで働く電気技師(略)

百五十エーカーのコックスヒル農場は、一九一五年以来ガブリエル家の持ちものだった。(略)大きなカントリー・ハウス、コックスヒルで、ラルフ・ガブリエルは育った。羽目板の壁、ビリヤードの部屋、由緒正しい庭園、クローケー用の芝生。こういったものがピーターの後年の作詞作曲のヒントになった。(略)

同家は一六七五年コーンウォールで生まれたかんな作りの職人、クリストファー・ガブリエルまでさかのぼることができる。彼は成功し、「ガブリエル・ウェイド&イングリッシュ」という名で知られる材木商の創始者だった。この一族の富は、十九世紀に広がりつつあった鉄道網の枕木に使われる木材をスカンジナヴィアやロシアから輸入したところから築き上げた。(略)一八六六年、ご先祖様のトーマス・ガブリエル卿はロンドン市長となったのである。

 父親のラルフ・ガブリエルは発明家であり(略)農業関係やケーブル・テレビ関係のパテントを七つか八つもっている。(略)

六〇年代には有線放送「レディフュージョン・テレビ」のチーフ・エンジニアになった彼は、世界初の光ファイバー・システムを敷設したりなどした。学問はロンドン大学で学び、戦時中はイギリス空軍の訓練用の無人方位探知システムの開発に尽力した。彼のつとめていた会社は大きくなり、後にはフライト・シミュレーターを作り、後にこの装置はピーターを夢中にした。

(略)

 ピーターの母アイリーンは五人姉妹で、そのうち二人は王立音楽院で学んでいた。一家は夜になると音楽でおたがいに楽しみ、この伝統はチョッパム音楽クラブの会長だったアイリーン・ガブリエルが続けた。

(略)

 ピーターは音楽に興味を示さなかったばかりでなく、母親がやらせた他のレッスン、フランス語や社交ダンスに関してもぜんぜん興味を示さず、九歳のときに全部やめてしまった。

(略)

 十歳までにピーターがかなりあけっぴろげな性体験をしたのは、主に[農場の]管理人やトラクター運転手の娘たちがいたからだと彼自身も告白している。「そのおかげで、かなり開放的な性体験をしたね。といっても、アブないところまでは行かなかったけれど。サディズムというのを初めて経験したのもその時だと思う。というのも、イラクサを変な風に使うのが好きな女の子がいたからね。後は想像にまかせるよ」

(略)

[ピーター談]

「おやじはいつも工房にいて、何もないところから物を作っていたという意味で、影響を受けた。とてもクリエイティブな精神の持ち主だった。それからおふくろのピアノも知らず知らずのうちにぼくの潜在意識の中に入っていったんだろう」

(略)

ガブリエル家はごく当り前の、中の上の家庭だった。家族の間でも礼儀作法をきちんと守り、大声を出すこともめったになかった。「ぼくにとってはある意味で息がつまりそうだった。

チャーターハウス

[63年]ピーターはしぶしぶ一家の伝統を受けつぐことになった。父親もそのまた父親も、二十五キロ離れたゴドルミングにある有名なチャーターハウス校に通っていたのだ。

(略)

 六〇年代に入るとチャーターハウスもがらっと様変わりしたが、残念ながらピーター・ガブリエルは旧制度の、最後で最悪の名残りを経験することになった。

(略)

下級生の寮はキューブスと呼ばれるニメートル四方に間仕切りされた個室(略)

「いやだったよ。最悪だった。(略)みんなピリピリ神経をとがらせて(略)

最初のときはずっとみじめな気分だった。信じらんないような年功序列があってね(略)いろんな雑用係をやらされるんだ。靴を磨いたりとか

(略)

今も当時も腹が立ったのは、パブリック・スクールに特有の階級制度だった。チャーターハウスの生徒は、町の子供たちとつきあってはいけないと厳命されていた。だから幼稚舎のケーブル・ハウスに通っていた頃、町の子によく殴られたりしたが、ピーターは別に根にもったりしなかった。

「ぼくは毎日自転車で通学していた。(略)ぼくたちは小生意気な中流家庭の子だったから、そのあたりの荒っぽい労働階級の子たちに目をつけられて、よく不意討ちを食ったりした。空気銃で撃たれたり、石を投げられたりね」

 一度などはもうひとりの友達といるところを見つかり、チェーンで襲われたりもした。二台の自転車は壊されて、ブレザーや帽子と一緒に泥んこの中に投げこまれた。これに懲りてピーターとその友人たちは十五人ぐらいの仲間を作り、みんなで一緒に下校し、数で敵を上回った。

(略)

「チャーターハウスに行くまではよかったんだけど、行ってからってもの太って、ニキビだらけになっちゃって。これじゃあ女の子にもモテないなって思ったから(略)ロック・ミュージシャンになろうと思ったんだ。だって、女には不自由しないように見えたからね。でも、そればっかじゃないね、やっぱ、お金もほしかったな!(略)

十一か十二のときに曲を書くことから始めたんだ。最初に書いた曲は『カタツムリのサミー』っていうんだ。他のやつはみんな女の子のことを書いてるのに、ぼくはカタツムリだもんね、てことはそれに興味があったんだろうね

(略)

ドラムが好きだった。こいつはすごいな、リズムを打ちだすのはこれだもんなと思ったからだ。(略)

本物のドラムだから買う気になった。テレビの『シックス・ファイブ・スペシャル』に出てくるようなやつだったからね。で、思った、すげえぞ。音なんか問題じゃない。叩きゃ音が出る。うんとひっぱたいてやるってね」

オーティス・レディング

十六歳のピーター・ガブリエルは、一九六六年九月十八日の日曜日の夜(略)オーティス・レディングをひと目見ようとチャーターハウスから遠く離れたところで女の子とデートしていた。

(略)

「今でもあれ以上のコンサートはないね。感情のこめ方、もり上げ方(略)力強くって、ソウルフルで、情熱的なバラードも驚異的だった(略)

今でも他に見られないようなエネルギーがあった。スプリングスティーンも時々近いけど、ちょっとばかり、考えて作られたところがある。オーティスの場合は、腹の底から直接出てくる感じだ。彼はぼくにとってヒーローの歌手だし、ぼくが音楽をやろうという気になったのも大部分その音楽のおかげというところがある。(略)」(略)

ピーターが初めてオーティス・レディングの音楽を聞いたのは(略)トニー・バンクスと一緒にいるときだった。(略)

 トニーとピーターはふたりとも恥ずかしがり屋で、ふたりの友情と音楽が慰めになっていた。トニーのチャーターハウスでの経験も、ピーターと似たり寄ったりだった。

「ひどくつらい時期でした。ぼくははにかみ屋で、青春ははにかみ屋のためにはないと思いますよ。ああいう学校に通ったために、それはさらに悪化しました。(略)」

 トニー・バンクスは初等学校でクラシックのピアノを勉強したが、神経質なためかえって正確に弾くことができなかった。ある友達が彼にビートルズを教え、ビートルズの曲百二十曲を耳から聞いて全部覚えてしまった時期もあった。(略)

「彼の歌に伴奏をつけるのが好きでした。(略)感情をこめるのがうまいように思いましたし、オーティス・レディングニーナ・シモンなんかの雰囲気を出すのがうまくて、そういうタイプの音楽がぼくは好きだったんです」(略)

最初のジェネシス、ガブリエルズ・エンジェル

 アンソニー・フィリップスマイク・ラザフォードは、トニーやピーターよりももっと真剣に音楽の道に進むことを考えていた。(略)

 一九六七年春のイースターの休日に、アンソニーとマイクはスタジオを借りた。スタジオといっても、学校の友達ブライアン・ロバーツのチズウィックにある家のガレージを改造したものだった。アンソニーはトニーに電話してキーボードを弾いてくれないかと頼み、トニーはトニーでピーターを連れていってもいいかと訊いた。寄せ集めのこのグループは、アンソニーとマイクの曲を五曲、トニーとピーターが共作した「シー・イズ・ビューティフル」を一曲録音した。(略)

 アンソニー・フィリップスは自分の曲は自分で歌いたがったが、ピーターの方がいい声をしているとトニーに説得された。こうして、最初のジェネシスのラインナップが決まったのだ。マクフェイルは抜けたが、ピーター・ガブリエルトニー・バンクスアンソニー・フィリップスマイク・ラザフォード、そしてドラマーのクリス・スチュワートが参加した。

 その年の初夏、かつてのチャーターハウスのOB、ジョナサン・キングがOB会にやってきた。(略)

学校は自分たちの学校から出たこの国際的な有名人を誇りに思い、キングも喜んでその栄誉に浴した。(略)

[テープを渡されたキングは]

「(略)いい曲が何曲かあると思いましたね。それに、ボーカルがすごくいい声をしてるとも思いました。ぼくは歌手としてだけでなく音楽業界に食いこみたかったので、プロデューサーとしての仕事をもっとやりたいと思っていました。ですから彼らに電話して、なかなかおもしろいと思う。何かやってみないかって言ったんです。(略)」(略)

[母の証言]

ピーターがジョナサン・キングからの電話をとって、やったぞ!なんて大声をあげながら走り回っていました。自分たちのテープが気にいったと言われて、あの子は嬉しくてそこら中飛び回っていましたよ」

(略)

[ピーター談]

「ぼくたちは学閥を利用しようとしていた。だって、キングの方だって当時はそれを利用して、若いやつを引き抜こうとしてたからね。彼はぼくらにいろいろ試してみるだけのお金をくれて、デモ・テープを作ろうと言ってくれた」

 四曲が入った新曲のテープに夢中になったキングは、プラス五年のオプション契約が付いた五年契約を彼らと取り交わした。ところが、これは親の介入で、一年のオプション付きの一年契約に変更されてしまった。

 トニーはこう言っている。「ぼくたちの曲を誰かがいいと思ってくれただけで、もう有頂天でした。その時期だったら、生涯契約でもしかねなかったでしょうね」

 これでもう将来は約束されたとグループは思いこみ、四曲に対して四十ポンドの買取り出版契約にもサインしてしまった。

(略)

彼らの新曲に難色を示しているという出版元からの手紙をジョナサン・キングに示されたので、トニーとピーターは必死に彼を喜ばそうと努力した。トニーはこう言っている。「(略)キングに捨てられると思ったんですよ。彼を逃がしたらもう契約の道はないと感じていましたからね。そこでぼくらは腰をすえて、彼に喜んでもらえるような曲を書こうと考えたんです。彼はビー・ジーズがすごく好きだったんで、ロビン・ギブのようなボーカルで『サイレント・サン』っていうビー・ジーズっぽいナンバーを書いたんです。彼はそれがすごく気にいって、また元のさやに収まったってわけです」(略)

 キングはキングでこう言っている。「(略)そうじゃないんですよ。初期のテーマは、彼らのやろうとしていることを何とかシンプルにしようって、それだけだったんです。いい歌詞のいい曲を彼らは書いていたし、歌もうまかった。けれど(略)しょせん、十六か十七の子供だったし、だって、基本コード以外はほとんど弾けなかったんだもの。だから凝ったソロだとか変わったことをやろうとすると、そりゃあ気取ったひどいサウンドでした」

 彼らはグループ名についてキングと話しあった。ピーターはこう言っている。「バンドの他のメンバーは忘れてるけど、ぼくは覚えている。彼はガブリエルズ・エンジェルってのはどうだって言ったんだ、ぼくはいいと思った。でも、何となく他のやつにはピンとこなかったようだ。(略)この名前じゃあバカみたいに子供っぽい感じだった」

 キングに言わせれば、「新しいサウンドをぼくたちは求めてたし、ジェネシスだったら新しいサウンドの始まりや新感覚の始まりを予感させた」

 グループは一九六七年十二月、キングのプロデュースで(略)最初のシングル「サイレント・サン」をレコーディングした。

[リリースされたシングルは惨敗]

(略)

 トニー・バンクスアンソニー・フィリップスはキングのプロデュース、なかでもストリングスのアレンジに不満だった。

(略)

 アルバムが発売になる頃には、彼らは次第にキングと疎遠になり、最終的にはうやむやに終わってしまった。

 後になると、グループは初期のレコーディングがヒットしなくてよかったと思うようになっていた。音楽的に恥ずかしいものだし、もしも初期の段階でへたに成功していたら将来、発展の妨げになっていただろう。

三角関係

 ピーターは別に真剣に役者になろうと考えたわけでもなかったのに、「もしも……」の映画で役にありつこうと試してみた。彼はオーディションの第一次予選に受かり、本読みにも行って、主役の一人の候補にまでなった。ところが、彼はプロデューサーたちに映画だけにのめりこむことはできないかもしれないと言ってしまったのだ。「連中は、やるもやらないも、君の勝手だよって言った。で、ぼくはこう言ったんだ。じゃあ、やめますってね。でも、今でもワクワクするよ。ちょっとかじっただけでもね」

 一九六九年の夏の間、トニーはサセックス大学に復帰するためにバンドを脱退すると宣言したが、ピーターは踏みとどまるよう説得した。ところが、一週間後にはその役目は逆転して、ピーターが脱退を決意したのだから世の中分からない。トニーがみんなに対してグループにもっと積極的に取り組むこと、そしてどこかに出演することを提案、ピーターは納得した。ドラマーのジョン・シルバーは大学に行くためにあっさり脱退。後釜としてジョン・メイヒューが加入した。

(略)

 この二年間に彼らは三百以上の曲を作っていた。(略)

[アンソニー・フィリップス談]

「ピーターは、はなからすごく変な歌詞を書いていた。『マゾヒスティック・マン』というのがあって、その歌詞はこんな調子なんだ。彼女の体の苦い汁で野バラを切り刻め、なんてね。彼の書いてることはとても理解できなかったよ」

 しかし、ピーターの歌詞は必ずしも全部が全部分かりにくいわけではなかった。その時期に彼は「ザ・ナイフ」という歌詞も書いており、これはグループが初ステージを踏んだときにファンの間で一番人気のある曲となったのである。イメージは一転して暴力的であるが、それ以後の彼独特のパターンとなった、神話や少年時代の本や詩にヒントを得た空想の世界にはぴたっとはまっていた。

(略)

 ピーターは仲間内ではただひとりステディなガールフレンドをもっていた。ところが、ピーターの話ではアンソニーもまたピーターの彼女のジルに想いを寄せていたのだ。彼らのセカンド・アルバム「侵入」に登場するアンソニーの曲「天使の眼」は、彼女のことを歌ったと言われている。ピーターは言う。「やつが彼女に会おうとするたびに、必ずぼくが邪魔に入った(略)

ぼくたちはどちらも鬱屈したイギリス人だから、おたがいに怒鳴りあうなんてことはしなかったし、ぼくに腹を立てたとしてもそれを表に出すことは彼にはできなかった。そういう一種の暗部がいつの間にかできあがって(略)あんな形で出てしまったんだ。少なくとも、ぼくの中ではジルをめぐる三角関係があの歌に出てくる状況の一因だと思ってる。ジルもそうほのめかしていた。(略)

トニー・ストラットン・スミス

 その一連のギグで、一九七〇年二月に「シンパシー」によってUKチャートのトップ30入りしたレア・バードというグループとジェネシスは顔を合わせた。「シンパシー」は全世界で百五十万枚以上の売上げを示す大ヒットとなった。このシングルは新レーベル"カリスマ"での初めてのレコードだったのだ。このレーベルを設立したのはかつてスポーツ・ジャーナリストだったトニー・ストラットン・スミスなる人物だった。

 レア・バードは自分たちのプロデューサーであるジョン・アンソニージェネシスを推薦し(略)「天使の眠り」という曲がアンソニーは気にいった。

(略)

 アンソニーはロニー・スコッツでジェネシスを見た後、ストラットン・スミスに彼らのことを熱っぽく語った。

(略)

 当時三十六歳のストラットン・スミスは、出版者兼ポップ・グループのマネージャーとして一九六五年以降音楽業界でがんばってきたが鳴かず飛ばずで、六七年に初めてザ・ナイスというバンドのマネージで成功の甘き香りを味わった。彼は、二十代のなかばにデイリー・スケッチ紙の北部地方担当のスポーツ部編集者として働いた後、退社し、デイリー・エキスプレス紙にも寄稿するなど、クリケットフットボール専門の名の通ったジャーナリストになっていた。(略)

一九六四年にはペレの本を書くために一年間ブラジルにも住んでいる。ところが彼の地で彼は、ボサノバのリズムに魅せられ、音楽に目覚め、イギリスに帰ったらすぐに音楽の出版をやるんだと決心した。

 ストラットン・スミスは、一九六九年にカリスマ・レコード設立を決意した。ザ・ナイスのレコード会社"イメディエイト"がつぶれ、ナイスを他のレコード会社に売りこんだがなかなかうまくいかなかったし、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターというニュー・グループ、とりわけそこの歌手兼ソングライターでもあるピーター・ハミルに触発されたからだ。ヴァン・ダー・グラーフをマーキュリー・レコードでプロデュースしていたのがジョン・アンソニーで、ストラットン・スミスはカリスマが最初に契約したレア・バードのプロデュースを彼に依頼した。

(略)

 二週間とたたないうちに、グループはカリスマと契約し、週十五ポンドの給料を提示された。彼らがどんなに子供だったかは、ドラマーのジョン・メイヒューが週十ポンドでも充分だと言ったことでも分かる。

(略)

[カリスマでは初めてのアルバム『侵入』レコーディング]

 アルバムを作っている間の緊張感は、グループ全員の人間関係に影響し、誰も自分の気持ちを素直に出すことができなくなってしまった。アルバムの制作に不満だったアンソニーが一番ぴりぴりしていて、バンドを脱退する決心をした。しかし、みんなと顔を合わすことができず、一番古い友達のマイクを通じて、その旨を伝えてもらった。

 音楽的方向性にしても、当時まだユニークだった十二弦ギターを導入したことにしても、アンソニーがこのグループの初期のメンバーの中でおそらく一番功績のあったメンバーだとトニー・バンクスは評価し、アンソニーが抜けたらこのグループはやって行けないのではないかと感じていた。

(略)

 このアルバムでのジョン・メイヒューのドラムに全員が不満を抱いていた。(略)

[メロディ・メーカー紙の募集広告が]十九歳のフィル・コリンズの目にとまった。

(略)

 フィルをはじめ数人のドラムの候補者が「侵入」からの抜粋をプレイさせられた。「何となく、クロスビー、スティルス&ナッシュの感じだなと思った。音楽のあたたかみとかハーモニーの感じがね」

(略)

お決まりの投票で、マイクは反対票、トニーとピーターは賛成票をフィルに入れた。その晩、ピーターが電話をして、彼に決めたのだった。

(略)

 アンソニーが去ったとたん、トニー・バンクスの役目がさらに重要になった。ギターの穴埋めをファズを使ったエレクトリック・ピアノでしようとしたり

(略)

[ メロディ・メーカー紙に募集広告を出していたスティーヴ・ハケットにピーターが電話]

ティーヴが作曲に興味があったこと。十二弦ギターを最近買ったばかりだということ。そして変わったコードを弾こうとすること。この三点で、彼に決定した。

(略)

ティーヴはジェネシスに加わってはじめてグループが大変なことがわかった。まず当時二十歳だったマイク・ラザフォードがグループ内の緊張から胃潰瘍で入院していると知ったのだ。

(略)

一九七一年の一月と二月、ジェネシス、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーター、リンディスファーンなど、それぞれのバンドのニュー・アルバムをプロモートするための初の大ツアーであるカリスマ・パッケージ・ツアーが敢行された。(略)

「全体的にはかなりファミリー的な感じだったけれど、いわば兄弟同士のライバル意識みたいなものもあった」と(略)ピーター・ハミルは言っている。彼らは地の利のあるなしいかんで、トリを競りあった。

(略)

 その年を通じて衝突しながらかなりがんばったにもかかわらず、大衆に切りこむことはできそうになかった。トニー・バンクスはその時期が一番苦しかったとも言っている。トニーは語る。「仕込みの時期だったんです。音楽以外の話をしてるときはピーターとぼくは、いまだかつてないくらい親しくなっていましたけど、こと音楽となるとしょっちゅう口論していました」ピーターとトニーが言い争いになると、マイクはいつもトニーの肩をもち、一方新入りのフィルとスティーヴはどちらの側にもつかなかった。

心霊現象と「サパーズ・レディー」

 カリスマの社員プロデューサーとなったジョン・アンソニーは、バンドの他の誰よりもピーターとジルと仲が良かった。年中、LSDをやっていて、祖母が巫女だったせいか、そういうことに関する本を読みふけっていたのだ。(略)

[アンソニー談、ある晩]「ジルとぼくは力とか強さとか意志とは何かっていう話をしてたんだ。と、急に部屋全体の雰囲気が変わってきたことにぼくは気づいた。ジルはすでにもう一種のトランス状態に入っていた。すると風で窓が内側に開いて、えらく寒く、心霊現象みたいなのが始まりだしたんだ(略)

冷たい星形の煙だらけになってね、霊気だね、あれは。それが渦になって動きだしたのにはさすがのぼくもビビったよ(略)

ピーターはどうしていいのか分からなかった。ロウソクを二本引っつかんで、十字を切って、彼女の頭上にかざした。するとジルはバタバタやって服をかきむしって発作を起こした。その時だった、何かわけの分からないことを彼女は言いだしたんだ」

(略)

 ピーターもものすごく恐かったと認めている。(略)「風もないのにカーテンがファーッと広がって、部屋の中が凍りつくぐらい寒くなったんです。外で人影がいくつも見えたような気がしました、本当です。白いマントを着た人影で、彼らの立っていた芝生は外の芝生じゃなかったんです……(略)」

 この事件がきっかけになって「サパーズ・レディー」ができた。(略)

「あの時点で悪という感覚を経験しました。ぼくの中にそれがどれくらいあるかは分からないし、実際悪というものがどの程度はびこっているのかは分からないけれど、忘れられない経験ですし、善と悪の対決を描くきっかけになりましたね」

 「怪奇骨董音楽箱」はイギリスではあまり売れなかった。(略)

ピーターは生まれつきのおとなしい性格に逆らって、自分とバンドに目を向けさせようと(略)頭のてっぺんだけを剃り、逆モヒカンにした(略)きつい黒のアイラインを入れ、エジプト・スタイルで襟元や袖に宝石をいっぱいつけて、新しいイメージを強調した。(略)

 デヴィッド・ストップスは落ちかかっているバンドへの関心を何とか挽回しようと、ジェネシス党大会なるものをそうとした。(略)

「彼らは何をやってもだめかなと思っていた。正直言って、当時は解散寸前と思ったからね。(略)」

 メロディ・メーカー紙に載った広告が傑作だった。「本郡出身のジェネシス党よ全員集合せよ、あなたが輝く時がきた」

シュールな小咄

スタジオ内の雰囲気は、見るからに喧嘩腰とは言わないまでも、ぴりぴりしていた。まだその頃は口論といっても主にトニー・バンクスとピーターの間だけだった。ピーターは「サパーズ・レディー」のボーカルを録音している間は他のメンバーを誰もスタジオ内に入れないようにした。彼には自信があったし、トニーが反対すると分かっている部分に挑戦したかったのだ。(略)

「彼が大事にしているソロのところにぼくの声がかぶさったので、トニーはめちゃくちゃ怒っていた。でも、他のメンバーはぼくのやったことにすごく盛りあがっていた。それに多数決が常に決定の方法だったからね。(略)」

一九七二年の九月の末から十月の末にかけて、「フォックストロット」のリリースに合わせてバンドはまたツアーに出る予定になっていた。(略)[ピーターはマスコミから]注目されないのではないかとそればかり心配していた。(略)

[プレス担当のグレン・コルソンとポール・コンロイ談]

「ピーターはすごくイライラしていた。(略)で、グレンが彼にこう言ったんだ。まあ、そんなに音楽紙で取りあげられたいなら、少し思いきったことをするしかないな、って。そこで我々はもっと演劇的な要素をとり入れるアイディアを思いついたんだ」

 カバーを描いた画家のポール・ホワイトヘッドは、流氷の上に、赤いドレスを着てキツネの面をつけた女を描いたが、その他にも赤いジャケットを着て馬に乗った化け物のような顔をした人間などいろんなシュールなイメージをもっていた。ピーターはキツネの頭を見つけ、ジルからはオジー・クラークの高価な赤いドレスを借りてきた(略)

演劇的要素は彼らが待ち望んでいた目的を果たした。初めて彼らはメロディ・メーカー紙の表紙を飾り、ギャラは一夜にしてワン・ステージ三百ポンドから六百ポンドにはね上がった。

(略)

 「フォックストロット」は一九七二年十月にリリースされるや、マスコミから好意的に迎えられた。(略)

 ステージが今ではユニークな性格をもつようになっていた。中でも重要な役目をはたしたのは、ピーターが曲の合い間にするシュールなお話だった。(略)

実情を言えば、初期の頃いつも悩みの種だった器材の故障を直す時間かせぎだったのだ。

(略)

 この小咄を簡略化した一部が(略)「ジェネシス・ライブ」の表紙に載っている。トンネルの中で立往生した、地下鉄の車内での設定を説明した後で、ピーターはこう続けた。「グリーンのスーツを着た若いご婦人が車内の中ほどで立ちあがり、ゆっくりとジャケットのボタンを外しはじめたんだ。そのうちに脱ぎすて、床の上に放り投げた。彼女はズボンもブラウスも小さなパンティもブラジャーも脱いでしまった。そして靴も脱ぎすてると、まっ裸になった。やがて彼女は片手を股の間に伸ばし、ごそごそやりはじめて、ついに変な金属をつかんだ。それはジッパーだったんだ(略)

彼女は気をつけながらそのジッパーを外していった。ジッパーは体中を通り、胸をも顔も真っ二つにして、そして背骨の方までつながっていた。残りの割れ目までくるとゆっくりと慎重にその最後の割れ目もはずした。すると彼女の体はきれいに二つに割れてしまって、床の上にペチャッと落ちた。ところが、彼女の立っていたところに金色に輝くさおがあって、かすかに宙に浮いてたんだ(略)

グリーンの髪をプードル・カットにした大柄のおばさんが見るに見かねて、やめなさい!けがらわしい!と叫んだ。金色のさおは姿を消したはいいが、グリーンのスーツはハンガーにかかり、クリーニングの券がそれについていた。券にはこう書かれていたんだ。『飛ばなくちゃあ――夜食はもうできた[サパーズ・レディー]』って」

(略)

当時ロンドンのロック界のひのき舞台だったレインボー・シアターで、巨大な白ガーゼの背景の前でプレイした。「ミュージカル・ボックス」という曲ではキツネの頭がまだ使われていたが、後にゴムでできた老人の仮面に変わった。不気味なコスチュームがどんどん使われ、「ウォッチャー・オブ・ザ・スカイ」ではコウモリの羽根とカラフルなマントが使われたりした。

 「ザ・ギャランティード・エターナル・サンクチュアリー・マン」でピーターはイバラの冠をかぶり、紫外線で螢光する塗料を目のまわりに塗り、「ウィロー・ファーム」が始まる前のきんきんした“A Flower?"の部分でデイジーの花のかぶり物を頭にかぶった。「サパーズ・レディー」の「アポカリプス9/8」のところでは反キリストを示す赤い幾何学的な形をした箱を頭にかぶり、黒いマントを着け、フィナーレではかぶり物とマントを投げすてて、下から天使のようにまぶしい白のツナギを見せたりした。また場合によっては、「サパーズ・レディー」の最後の一節「彼らを新しいエルサレムに連れて行け」と歌いながら紫外線を発光するチューブをかざしたりもした。

 この数か月間で、ジェネシスは前座からトリに昇格していた。(略)

彼らはイギリスでトップクラスのロックの呼び物となっていた。演出の成功に気をよくした彼らは、もっと大がかりな、もっとお金のかかる豪華絢爛たるショーを企画した。そして、二年間、コンスタントにツアーを続け、一九七三年の夏に休養をとり、次のアルバム「月影の騎士」の曲作りとレコーディングにとりかかった。このアルバムは十月に発売され、UKチャートで第三位になった。

 バンドのメンバーは曲作りの間中いらいらし(略)ライターとしてばらばらになりつつあった。

月影の騎士(紙ジャケット仕様)

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ピーター脱退、『眩惑のブロードウェイ』

 カリスマ・レコードとの契約は一九七三年に更改の時期を迎えていた。独立レーベルで一番成功していたクリサリス・レコードも食指をのばしていた。(略)

クリサリスは自分たちの音楽を本当にいいと思っているとは思えなかったので、彼らはもっといい条件の印税契約でカリスマに残ることにした。カリスマの社長、ストラットン・スミスはマネージャーを降りたいと彼らに話していた。経営重視の社長業と(略)兼務できるものではなかったからだ。

(略)

体中を革帯でくくりつけた彼は、「サパーズ・レディー」のフィナーレで、空を飛んだ。ところが、仕掛けがうまく行かず、ワイアーが首に巻きついてしまった(略)ワイアーが引きあげられる直前に、自分でほどいたが、もうちょっとのところで首を吊ってしまうところだった。

(略)

ニュー・ミュージカル・エキスプレス紙の読者投票でザ・フーピンク・フロイドを追いぬき、一九七四年のトップ・ライブ・バンドに選ばれた。

(略)

ピーターは創作面で行きづまりはじめていた。問題なのは民主的なグループの投票で方針を決め、音楽を合議制で作っていくことで、ピーターはそうしたやり方にあきあきしていた。(略)

近々子供が生まれるということもピーターにプレッシャーをかけた。

(略)

 ピーターはニュー・アルバムの詞を全部自由に書かせてくれと言い張った(略)「ぼくは、あるコンセプトで行こうってバンドのみんなを説得した。(略)それが『眩惑のブロードウェイ』だよ。ところが、また例の合議制が始まった。さあ、みんなアイディアを出しあって、一番いい案で行こう、なんてね。ぼくはいつも追いつめられるとそうなるんだけど、きっと気むずかしくて、頑固まるだしになってたと思う。ぼくたちは全員、うまく味方に引きこむのがうまかった。でも、トニー・バンクスとぼくがその最たるものだった。フィルは言い争いの場には入ってこないで、逃げを決めこむ傾向があった」

 フィルはこう反論している。「おかしなもんだよね、人によってものの見方がぜんぜん違う。俺はいつもピーターの側についていた。マイクはトニーの味方をするのは分かっていたから、彼は俺の応援を期待していたんだ。ピーターはすごく頑固で、意地悪で、しつこかった。一度言い出したらテコでも動かないんだ。こっちが黒と言えば言うほど、白と言いだすんだよ

(略)

[曲間のピーターのシュールなトークに感銘を受けたウィリアム・フリードキンは]

ハリウッドに来てみないかとピーターを誘った(略)

[ピーター談]

「(略)当時、『エクソシスト』はとてつもない映画だったし、ハリウッドでのフリードキンはどんなことでもできるような勢いだった。彼は今までハリウッドにはなかった自分のチームを作ろうという考え方をもっていた(略)ぼくは脚本のアイディア・マンになるはずだったんだ」

 バンドのメンバーはピーターの脱退を知ると、新しいボーカリストのオーディションを考え、候補者のリストを作りはじめた。一方ピーターの方はフリードキンに本当に映画の企画をやらしてくれる保証をもらおうと、懸命になっていた。ところがフリードキンは自分がバンド解散の責任をかぶるかもしれないと知り、手を引いてしまったのだ。ジルは妊娠八か月の身重だし、ピーターは仕事もなく不安定な状態(略)

 ピーターが脱してたった二、三日後、マネージャーのトニー・スミスは、もしバンドのメンバーさえよければ、またピーターを呼び戻してもいいとみんなに伝えた。バンドのメンバーはやはり欲しがり、ピーターはかくして復帰した。

(略)

マイク・ラザフォードアンソニー・フィリップスに手伝ってもらってソロ・アルバムをレコーディングした。フィル・コリンズとスティーヴ・ハケットは前からバンドをやめるかもしれないと脅していた(略)

彼と他のメンバーとの間にはシラッとした空気が流れていた。(略)

「バンドは一つの部屋で練習して、ピーターは別の部屋で詞とメロディを考えていた。(略)」と語っているのはスティーヴ・ハケットだ。「ぴりぴりとすごく張りつめたものを感じたよ。ぼく自身もあんなにおかしくなりそうなことはなかった」スティーヴもまた最初の結婚の破局を迎えていたのだ。

(略)

[ジルの難産で]ピーターはロンドンとウェールズの長距離を行き来せねばならず、歌詞の遅れを気にしていた他のメンバーの不興を買った。

(略)

「『眩惑のブロードウェイ』はバニヤンの『天路歴程』みたいにしたかったんだ」とピーターは言っていた。「その冒険を通して、自分がより分かるようになる、一種の変身がテーマなんだ。ぼくはそれを都市的に見ようとした。(略)」

中心的なキャラクター、レエルからは、できるかぎりおとぎの国的要素が取り除かれた。(略)ブロンクスのゲットー出身で、都会でしたたかに生きるプエルトリカンだ。(略)イギリス的な毒を大西洋を越えることで中和しようとしていた。

(略)

 アルバムのほとんどはウェールズで録音されたが、ピーターのボーカルはノッティング・ヒルのアイランド・スタジオで収められていて、他の人間はスタジオに入れなかった。アルバムの完成直前に、スティーヴ・ハケットがワイン・グラスを手で握りつぶしたときに親指の腱と神経を切ってしまった。この事件は今回の企画の間中張りつめていた緊張感を何より物語っている。

(略)

 「眩惑のブロードウェイ」ツアーは一九七四年十二月アメリカでスタートした。

(略)

「ザ・コロニー・オブ・スリッパーメン」でのピーターは、膨れあがった巨大なコスチュームを着て、風船でできた生殖器を異常に膨ましてあったりした。このステージの最初の方で、ピーターの人形が光を浴びるところがある。(略)ローディたちはこれに遊びを加え(略)その人形の"社会の窓"からバナナを出し、ツアーの最後のショーではまっぱだかのローディがその人形の身代わりになったりしたのだった。

 ジルにとってピーターが男臭さをこんなに強烈に出したのは初めてだった。「彼は怒っていましたし、とても力強い舞台でした。自分というものをすっかりさらけ出して、ぎりぎりのところまで自分を世間にさらしていましたけど、わたしとの関係では絶対にそんなことありませんでした。彼によく言ったものです。どうしてわたしにもあんな風にしてくれないの?って。わたしが観客席に座って見ていたとき、自分の結婚している相手にこんなに興奮させられたことはないって思ったのを覚えています。(略)」

「眩惑のブロードウェイ」ツアーがスタートした直後、ピーターはついにグループを脱退する最終的な決心をした。

(略)

 「眩惑のブロードウェイ」は、バンド内の不和と溝を反映し、ピーターはスターに見えたし、他のメンバーは精彩を欠いていた。これ以上アルバムを作っても創作面で口を出すことはできないとピーターには分かっていたのだ。その上、父親になることで加わるプレッシャー、責任にどう対処していいか分からなかったピーターは今すぐにでもやめたかったのである。

(略)

「(略)八年間がんばってここまできて、今やっと成功するかもしれないというのに、何もかも足元からすくうなんてひどいや、というのが彼らの立場だった(略)

自分でも何がやりたいのか分からなかったけど、ロックとかロック・ビジネス、それにまつわるものにうんざりしていた。ただ、ぬけたかったんだ」

 バンドにいろという他のメンバーからの圧力はものすごかった。トニー・ストラットン・スミス御大まで出てきて、ピーターは余計に金を積まれたりしたが、これは結局断わった。ところがその噂を耳にはさむと、他のメンバーも分け前をほしがったりした。(略)ヨーロッパ・ツアーを終えれば、バンドがかかえているとてつもない借金が返せるかもしれないとまで、最後にはピーターは説得されたのである。彼は条件つきで首をたてに振ったが、借金を返せるはずの五月に彼が脱退したとき、残金はまだ十六万ポンド近くあった。

 トニー・バンクスはこう言っている。「考え直してくれと、ぼくはことあるごとにずって言い続けていました。(略)やめてほしくなかったんです。ぼくたちはまだいい意味の創作チームだと思っていましたから。(略)

今まで一緒にひとつの物を作りあげてきて、将来のチャンスをひとりでもっていってしまうなんてずるいという部分もありました。もうバンドはこれでおしまいだと思いました。(略)自分もやめて、ソロ・レコードを作ろうかとどこかで思っていました」

 スティーヴ・ハケットもソロとしての活動を開始し、ジェネシスを脱退する前に「侍祭の旅」というソロ・アルバムを完成していた。フィル・コリンズジェネシスをやめてジャズ・ロックのバンド、ブランドXに加入することを考えていた。(略)

[結局、トニー・ストラットン・スミスの説得により、残りのメンバーで新しいアルバムを作り]

ピーターがぬけたことをマスコミに発表するのをなるべくおさえておこうとした。

(略)

ピーターが脱退するというニュースは、彼が決心してから七か月後の一九七五年七月、ニュー・ミュージカル・エキスプレス紙に結局すっぱ抜かれた。カリスマ・レコードはまずその噂を否定した。

(略)

六週間後に、ジェネシスはついに彼がぬけたことを認めた。その翌週、ピーターは完全掲載しないのなら掲載は一切しないでくれという条件つきで報道陣に声明文を発表した。すべての音楽紙はそれに応じ、一字一句を活字にした。

 

 ぼくは夢を見た。目の夢だ。また別の夢も見て、それには体も心もあった。ロック・スターの体と心が。居心地が悪いと感じたとき、ぼくはやめることにした。

(略)

「ぬけた、天使がぬけた」ことに関する調査

 

 ぼくたちが一緒に曲作りをできるようにと一種の生協[クープ]のように作った場はモンスター化してしまい、望んでいた成功に囲まれたぼくたちを檻[クープ]の中に閉じこめてしまった。(略)今でもまだ他のメンバーを尊敬しているけれど、役割というものがすっかり固まってしまったのだ。

(略)

 世界はもうじき大変な転換期を迎えると信じている。今まで人の心の中に隠れていたようなものが表に出てくるのにぼくはワクワクする。

(略)

次のような憶測が飛んでいるが、どれも事実とは関係がない。

 

(一)ピーターは役者になる

(二)ソロ・アーティストとしてもっと儲けたい

(三)ボウイを目指す

(四)ブライアン・フェリーを目指す

(五)「羽根だらけのボアを着たいがために自分の首をしめる」(略)

(六)病院入りする

(七)杖をついて老けこむ

 

 ぼくはインタビューではうまく自分を表現できないし、ぼくがこうしてやめる理由を正確に訴えられるのも、バンドにうんと愛情とエネルギーを注いでくれた人たちのおかげだったと痛感する次第だ。

次回に続く。

 

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