英文法を哲学する 佐藤良明

will は現在形である。

(略)

 むかし、キリスト教国の人々は多分に神意と運命に支配されていました。永遠から来た魂が、永遠に還ると考えられて、天国が実在し、地上ははかない、出来損ないの世界と考えられていた。そして時間は、進歩よりむしろ退廃と結びついた。壊れたり、崩れたり、腐ったりするのが時間の向きであるかのように。

 

 

 過去の人たちは、自分たちの主体的な動きを will をもって語ることに、近代人ほど積極的でなかったようです。時の中を、定められた結果に向けて動くものは、 shall を用いて述べるのが普通でした。 will が 「意図する」だとすると、 shall は語源的に 「負う(owe)」という意味です。いまこうであるのは仮の(借りてきた) 姿で、本来行き着くべきところがあるという感覚。そこへ向かうことを I shall be there. と表現したわけです。現代でも

 

We will overcome. 我らは勝利するぞ (意志)

We shall overcome. 我らの勝利は動かない  (運命)

 

という用法の違いに、過去の区別が残っています。およそ昭和のオリンピックの頃までは、日本の学校でも、 shall は 「単純未来」、 will は「意志未来」と教えていました。しかし前回のドリス・デイのヒット曲からも想像されるとおり、当時すでに、イギリスの保守的な人たちを除いて、今後のことは何でも will be ですますようになっていたのでしょう。

I will be twenty tomorrow.

という表現は、本来は、天の定めを自分の意志で動かすようなおこがましさがあったはずなのに、それが消えた。そして will を、まるで「未来時制の印」のように感じる人が増えていった。(略)

 そうして shall の用例が廃れました。 未来を「運命」に委ねる思考モードは衰弱したのです。

 それでも二人一緒に何かをしようというときに、 Shall we dance? と言うと、 出来事の自然な流れを問うかのような、きれいな勧誘になりますね。もちろん、Are we gonna dance? でも、 Can we dance now? でも、 May I? だけでもいい。ただ Do we dance? はまずいのです。日本語の「踊りますか?」は意志を尋ねることができても、英語の do にその機能はありません。Do が伝えるのは客観的な事実。踊るのか、踊らないのか。その赤裸々な、白黒をつけるやり取りを逃れるために、英語では仮想法の助動詞を使う、逡巡の表現が発達したのです。たとえばこのように。

If I could dance with you… もし一緒に踊っていただけたら……

Would you mind ...? よろしければ(踊っていただけませんか?)(略)

日本語に「人称代名詞」はない。

[引用者余談:現在色々と過去の所業を追及されているアイドル事務所元社長の有名な口癖「ユー~しちゃいなよ」に潜む闇とは……。ま、単純にJさん自身が向こうにいた時に「ユー」扱いされてて……ってだけなんだろうけど]

 日本語に代名詞はないと言うと「え?」と思われるかもしれません。「私」「あなた」「彼」、どれも辞書を引けば「代名詞」となっています。しかし、それらの日本語は、固有名詞の代わりに使いはしても、やはり「呼称」であって、英語でいう  pronoun とは性格を異にします。

 英語に代名詞があるのは、SVXという構造のSやXを埋めないと多くの場合「話にならない」からです。分かりきった主語や目的語でも、それを入れないと構文が崩れてしまって、意味が通じにくいのです。

 

 英語の人称代名詞はみな1音節。その短さと機能性を、やたら長くて、関係のしがらみに巻かれた感じの日本語の人称と比べてください。

 

I ワタクシは、オレは、 ワガハイは、セッシャは、ウチは……

you オマエは、ソチラサンは、アナタサマは、(呼びかけとして) カノジョ、 (男児に) ボク、(老女に) オカアサン(略)

 

 一目瞭然。 英語には人称 (一人称、二人称、三人称の別) と数 (単複の別)と男性女性無性の別 (三人称の場合)を示すだけの、1音節の代名詞が、それぞれのカテゴリーごとに1つだけある。そのような「代名詞」を日本語は持っていません。

 英語は、"I" も "you" も、"it" と同様の無色透明の記号です。日本語にそういう、記号的な人称代名詞はありません。「ユーは何しに日本へ?」と聞く人は、半分英語を使っているつもりかもしれませんが、その「ユー」は、小さい子を「ボク」と呼んだりするのと同様、きわめて日本的な、外国人をユーモラスに呼び分けるのに工夫された、呼称です。

 

 逆に英語の you は呼び名として使えません。名前のある人に向かって「You!」と呼びかけるのは失礼なこと。本来名前を呼ぶべき所を、大声で You! と呼ぶのは「おまえとは親しくするつもりはない」ことを暗に伝える反友好的なメッセージになります。

 

 日本語に記号的な人称代名詞はないと言いましたが、大野晋『日本語の文法を考える』 (1978) にもあるように、契約書をかわすときの「甲は乙に……」という言葉遣いはそれに近いかもしれません。あれは、何のぬくもりもない、ただの記号です。(略)

「英語の5文型」を疑う

(略)昭和のオリンピックからも60年(略)あんなにも英語教育の改革が叫ばれ続けてきましたが(略)指導要領の内実はビクともしませんでした。(略)

日本の5文型教育の祖ともされる細江逸記の『英文法汎論』(略)は初版の発行が1917年(略)その後も増補改訂を重ね、死後は弟子筋が遺稿を加え、1971年刊行の『改訂新版 英文法汎論』は今もネット書店から手に入る

(略)

細江逸記の分類表には、英書の原典 (An Advanced English Syntax 1904) があることが知られています。 著者アニアンズ (C.T.Onions) は、『オックスフォード英語大辞典』の執筆にも携わったフィロロジスト (英語の語義とその変遷の専門家) ですが、この本は専門書ではありません。中等教育向けの文法教材シリーズの一冊です。

 宮脇正孝の調査によれば、このシリーズは、1880年代半ばのバーミンガムで、E.A. ソネンシャインという古典語学の教授が、文法教育における用語を統一することを訴えて作った 「文法協会」による刊行物なのだそうです。ソネンシャイン自身、アニアンズに先立つこと15年、1889年に『学校用英文法』というA. J. クーパーとの共著を出しています。(略)アニアンズの本と、例文までほとんど等しい。それもそのはずで、アニアンズはソネンシャインの教え子。師の依頼によって、構文に関する「上級編」を書いてシリーズに加えた。

(略)

 さて、ソネンシャインが中心となって設立された「文法協会」は、中等教育の改革をめざす一地方の同志の集まりでした。外国語の教育で、同等の概念を表す文法用語が言語ごとに別な呼び名になっているのでは都合が悪いと、用語の統一を呼びかけ、統一された基準の教材を出版していく。まずは英語からということで、ソネンシャイン自身が共同執筆者と書いた本が前述の『学校用英文法』であったわけです。

 

 ただ協会 (文法用語選定委員会) の方針に沿って書かれた5つの型に「文型」という表現は見えません。クーパーとソネンシャインの冊子もアニアンズの冊子も、共に、 the first form of predicate (述部の第1形式) などの言葉遣いに終始しています。

 「述語の5つの形式」という教育項目はイギリスでは早々に消失してしまったようで、宮脇によれば、1911年に同委員会が出した文法用語に関する報告書にその記載はなく、 ソネンシャインの後の著書 A New English Grammar (1916) にも、私たちの親しんでいる文型の5分法は登場しません。

 100年後の日本でも繁栄している 「5文型」。(略)

日本の教育現場で「5文型」が重宝されるのは、英単語の列を前に途方に暮れる生徒たちに、「てにをは」をあてがい、それを足掛かりに理解するすべを与えてくれるからではないか、と私は考えています。(略)

継続と完了のアスペクトを感じ取る。

 前回の要点を繰り返します。時制 (テンス) とは、ザックリ言って、話の内容が今の現実に関わることか、それとも過去の物語かを区分けする枠組みのこと。時相 (アスペクト) は、それぞれの動詞が、それぞれの位置で、どのように時間と関わっているかを示すもの。「ING分詞」は、その動作が継続中であることを、「ED分詞」は、その動作が完了したことを表示します。eat の動作は、今クチャクチャと進行しているのか (eating)、それともペロリと食べちゃった (eaten) のかを-ingと-enで表示し分けるということです。(略)

英語のテンスは「現在」と「過去」の2つだけ

 動詞の活用を覚えるときに、現在-過去-過去分詞を一緒に覚えますが、概念区分を守るなら、正しいペアで覚えましょう。

テンス(現在/過去)go-went

アスペクト(継続/完了)going-gone

(略)

 アスペクト (時相) からテンス (時制) を切り分けておけば、下表のように時制を12も作る必要はなくなります。

(略)[表省略]

 一見、きれいに整理されているかに見えます。ただ、will を時制に入れるのは、英文法の過去の伝統とはいえ、世界の趨勢にならって、そろそろやめた方がいいと思います。

 will は法助動詞であって、法助動詞は第1章で見たとおり、現在形が真実や事実を主張してしまうのを抑える働きをします。 It will rain. は It should rain. や It may rain. の仲間で、そのどれもが、 It rains. (雨が降る)という主張を和らげ、まだ起こっていない出来事をさまざまな形で推量しながら述べる言い方です。

 「未来」は、過去と現在の向こうに 「テンス」としてあるのではなく、完了と進行の向こうに、「アスペクト」としてある。〈英語〉は「未来」をそう見ている。

 [脚注] 未来は 「未だ存在しない」 以上、〈時〉の中にはありません。動詞は未来を進めません。TO不定詞(名詞の一種) として、いわば蕾のように閉じて、現在や過去のテンスに身を置くかないものです。それも一つのアスペクトのありようだ、というのが本書の立場です。

(略)

 未来は、東京地方のアクセントでは「み」が高くなりますが、そうではなく「みらい」とフラットに読みます。「らい」という時空ではなく「未だ来ていないこと」 「これからのこと」を意味します。紛らわしければ「未然」と言い直しましょう。

 I was told to leave.

という文において、「言われた」のは過去だからwasは過去時制。とはいえ「去る」のは「それから」なので、未然のアスペクトを付けて to leave と表現する。 to の持つ方向感を「その先」を示す矢印として感じ取ってみてください。

完了と継続以外にも、時相はあるだろう。

(略)

 to do という形には未然のアスペクトを与えるべきかを議論する前に、不定詞 (infinitive) とは何かという問題を、少し踏み込んで考えることが必要です。

 日本では、分かりやすさのために、「TO + 動詞の原形 =不定詞」とも教えられてきました。実は「動詞の原形」は、それ自体で不定詞(「原形不定詞」)なのです。次の例文で、下線を付けたのが不定詞ですが、どれも構文内のはたらきは名詞です。

 

i) Sleep is both a verb and a noun.

Sleep は名詞でもあり、動詞でもある。

ii) All he needs to do now is sleep.

彼に今必要なのは、眠ることだ。

 

 斜字体の動詞は述語で、 SVC 構文のVに位置していますが、 不定詞と呼ばれるものは、 to が付くものも付かないものも、S、O、Cといった名詞の持ち場に収まるものです。

 原形不定詞、 または bare infinitive (ハダカ不定詞) は、その動詞の「名前」のようなものと考えてもいいでしょう。辞書の項目になるのがこれです。go の意味を調べたいときは、go までページをめくって、go のところを読むわけで、このとき、あなたは“go” を名詞として扱っています。

 to の付いた「TO不定詞」(to-infinitive) はさらに活動範囲が広く、名詞になったり、形容詞になったり、副詞になったり、自由自在に動き回ります。この「定まらない性質」を指して「不定詞」というのだと私は解釈しています。動詞の意味を持ちながら、

(1)「主語」の限定がない (人称変化しない)

(2)「時制」に縛られない (テンスを持たない)

 そのようなことは、述語動詞Vにはありえません。 Vは必ず主語と結ばれ、現実の時間に埋め込まれる。だからこそ、いまだ起きていない出来事は、"will come" と言うにせよ、"is to come" と言うにせよ、不定詞で語るしかないのではないか。不定詞はその本来の性質からして 「未然」のアスペクトが読み取れるべき存在なのではないか、と考えるのです。

 

 ここでTO不定詞を使った代表的なフレーズである "have to ~ " について考えてみましょう。have に完了のアスペクトが付いた done を続けると、動詞の現在完了形ができるのでした。 to do を付けると、どうなるか。私たちは have to をひとかたまりにして、 must と同義の助動詞のように扱いますが、元をたどれば、この表現は

 

 have + TO不定

これからすべきことが自分にある

未然の (TO不定詞の) 「する」 がある

 

ということ。 「これから」の感覚が 「TO→動詞原形」 という不定詞の形に内在していると見ることには異論もあるでしょう。 しかし、

 You have to do this.

という表現の意味が「未然の to do this が君のもとにある」であることに疑いはありません。(略)