ゲイリー・バートン自伝 その3 僕はゲイ

 前回の続き。

ゲイリー・バートン自伝

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《コラム》レッド・ノーヴォ

“ヴァイブの父”と言えばライオネル・ハンプトンの名前が即座に浮かぶが(略)
ヴィブラフォンが発明される以前の二〇年代にシロフォン奏者が確立させた、ジャズマレット奏法の歴史[がある](略)
[初期の有名なシロフォン奏者はガーシュウィンらの]ピアノ作品を模倣した、ラグタイム・スタイルの曲を演奏しており、即興演奏をすることはなかった(略)
レッド・ノーヴォはマレット楽器で即興演奏をしたジャズ界初の有名ミュージシャンであり、シロフォンマリンバを用いた独創性溢れるレコーディングで名声を得たのである。
 レッドはまずピアノを学び、十代なかばでシロフォンに乗り換えた。
(略)
 レッドはジャズの旧時代に属しているものの、四〇年代に登場したビバップにも関心を抱いていた。(略)
かの歴史的セッション<コンゴ・ブルース>[でヴィブラフォンを]演奏しており、以降はこの楽器を使い続ける。また初期のレコーディングで卓越した技術を見せていたにもかかわらず、シロフォンから乗り換えると同時に四本マレット奏法からも手を引いていた。時は流れて一九九五年、僕のソロ演奏を見たレッドは、四本マレット奏法を捨てたのは失敗だと言った。彼がそうしたのは、四〇年代のヴァイブ奏者はみな二本のマレットで演奏しており、自分も時流に乗り遅れまいとしたからだそうだ。
(略)
五〇年代を迎えるころにはビッグバンドを率いるのに疲れ、同時に西海岸へ移るという考えが頭のなかを占めるようになっていた。そんなある日の夜、レッドは新人ギタリストのタル・ファーロウと[共演し、感銘を受け](略)こう告げる。「なあ、いまのところ仕事はないんだが、僕はロサンゼルスに移って新しいバンドを始めようと思っている。だから、君にも来てもらいたんだ」タルはその申し出を承知し、やがて仕事が来るという口約束以上のものが何もないまま、レッドを追って西海岸へと向かったのである。
 レッドは出費を切りつめようと、ヴァイブ、ギター、ベースのトリオ編成というアイデアを考え出した。ロサンゼルスではベース奏者としてチャールズ・ミンガスを推薦される――そしてそこにこそ、レッドがミンガスをいかに復活させたかの物語が秘められている。このベース奏者は音楽業界への失望を募らせており、当時は郵便局で働く有様だった。(略)ミンガスの自宅に電話がないので、彼は街中の郵便局を訪ね歩き、ミンガスが働く局を見つけて直接会わねばならなかったという。(略)
ミンガスがその後残した伝説に目を向けてみると、レッドやタルと同じバンドにいたことが信じ難いように思える。しかし三人がともに活動した一年半、レッド・ノーヴォ・トリオといえば当時もっともホットなバンドだった。速いテンポと並外れてタイトなアンサンブルで知られているが、レッドによると楽譜はまったく使わなかったという。つまりリハーサルのあいだにすべてのアレンジを作り上げていたわけだ。(略)
その後三人はトリオでの成功をばねとして、自身のバンド活動に進んでゆく
(略)
 レッドが残した伝説に羨望を感じないミュージシャンはいない、僕はそう考えている。彼はマレット楽器のパイオニアであるのみならず、スウィング時代のイノベーターにしてビバップヘの橋渡し役

ミンガス

サウンドチェックのとき、フィナーレで演奏する曲を選ぶよう僕らはジョージ・ウェインに頼まれた。しばらく沈黙が続く。誰もそんな責任など負いたくないからだ(略)
ジョージはこう言った。「なんでもいいから演奏してくれ。ブルースならなんでもいい」それにミンガスが反応し、低く唸るような声を出す。「誰もがブルースを演奏できるわけじゃないぞ、ジョージ」
 僕は凍りついた。この言葉が白人の若造に過ぎない自分へ向けられたものと思い込んだのだ。しかし振り向いてみると(略)彼が睨みつけていたのは、ブルースヘのアプローチがミンガスよりはるかに上品なジョン・ルイスだったのである。なんとかギグは成立しそうだ。
 僕がステージ裏で開演を待っていると、ミンガスがこちらに手招きした。今度はなんだろう?話を聞くと、僕がリリースしたばかりのレコードを耳にし、そのなかに収録されていた自分の曲〈グッドバイ・ポーク・パイ・ハット〉を気に入ったというではないか。ああ、ほっとした!少なくともその夜、僕はミンガスに関する限りなんの過ちも犯さずに済んだ。
 コンサートのソロ部分は予定どおりに進み、最後は力-ネギーホールのステージ上に出演者全員が集合した。だがその瞬間、今度はミンガスとブレイキーとのあいだに緊張が走る。(略)
ブレイキーはビートの頂点で演奏するなどタイミングを先へ先へと進める傾向があり、テンポを駆り立てていると言ってもいいくらいだ。一方、ベーシストのミンガスはリラックスしたリズムで演奏するのを好み、ビートから遅れがちである。かくして戦いが始まった。ブレイキーがテンポをどんどん進める一方、ミンガスはそれに乗らず遅れて進み、ブレイキーのほうをなじるように睨みながらベースの弦をこれでもかと爪弾いていた。
(略)
 ミンガスと遭遇するときはいつも騒動がつきものだった(もちろんそれを目撃したのは僕だけじゃない。ジャズ界広しといえどミンガス以上に揉め事を起こした人物はいないだろう)。彼がフェスティバルのジャムセッションで他のミュージシャンを罵ったり睨みつけたりしている現場に、僕は二度出くわしたことがある。フランス南部で開催されたニース・ジャズフェスティバルのあと、深夜のレストランで見かけたのが最後の思い出だ。店内は出番を終えたミュージシャンで混み合い、ミンガスもサラダの大盛りを持ち帰りで注文していた。そのころすでに、彼はALS――ルー・ゲーリック症候群――と診断されており、自ら始めたニューエイジ治療法の一環として厳しい食事制限に甘んじていた。サラダもドレッシングは絶対にかけなかったけれど、テイクアウト用の箱をあけると中身はオイルまみれ。ミンガスは怒り狂った。ウェイターにサラダを投げつけレタスとドレッシングまみれにし、ウェイターが追いかけるのもかまわず立腹しながら店を出ようとする。(略)しかしウェイターはなんと、紙切れとマーカーペンを取り出しサインを求めたではないか!まさにフランス。まさにミンガス。

 

31歳の時、バークリーの生徒キャサリンゴールドウィン21歳と二度目の結婚。キャサリンの祖父はサミュエル・ゴールドウィン。キャサリンの父はクインシー・ジョーンズヘンリー・マンシーニにゲイリーのキャリアを確認。


ビル・エヴァンス

一九七九年、ジョージ・ウェインから連絡を受けた僕は大いに喜んだ。ニューヨーク・ジャズフェスティバルでビル・エヴァンスと何曲かジャムしてほしいというのだ。スタン・ゲッツのバンドに所属していたときビルと共演する機会があったものの、結果は芳しくなかった。フェスティバル当日、楽屋で後と話していると(略)長年にわたって互いの演奏をどれほど尊敬していたかの話になり、一緒にアルバムを制作するという可能性にまで発展した。
(略)
しかし演奏が始まってみると、どうしてもテンポが折り合わず自由に演奏できない気がした。(略)
[半年後、再度共演のチャンス]
僕も今度こそ違う結果にしようと意気込んだ。(略)[だが]何一つ満足できない。ビルのテンポにどうしてもついて行けないのだ。(略)
 それから何年も経ってビルがこの世を去ったあと、エディー・ゴメスとのコンサートで日本に向かっていた僕は(略)そのことについてエディーに訊いてみると、驚くべき答えが返ってきた。「ああ、テンポの件だな。ビルのトリオと共演した人間はみんな、演奏するのが難しいって言うんだよ。(略)
 ミュージシャンとして見るならば、ビルは水から上がった魚のようだった――ショービジネスで生きていくには内向的すぎたのだ。僕もそこまでじゃないとはいえ同類だから、難しいことはよくわかる。それにビルは昔ながらの内向型だった。人見知りがひどくステージに上がると緊張してしまい、観衆のほうを見ることなくうつむいたまま演奏するほどだ。ステージ上で話すことも滅多にない。そのせいで大ホールではなく小さなクラブが活躍の舞台になってしまった。何しろステージに上がると不安が募り、観衆とコミュニケーションをとることすらできないのだから。(略)
[革新的プレイヤーであり、同世代のミュージシャンの憧れの存在だったが]
最後まで自分に自信を持てず、ジャズの象徴という地位にも心地の悪さを感じていたのだ。
 ビルはスティーヴ・スワローの曲を好んでいて、自身のレパートリーに何曲か加えていた。(略)
[だがスワローが聴きに行くと何故かいつも演奏しない]
[ある日のステージ]モノクロのプログラムに〈ピー・デュース〉の曲名が記されている。ようやくビルの演奏による自分の曲を聴ける、スワローはそう確信した。しかしプログラムのその箇所に差しかかると、ビルは代わりに自身の曲<ブルー・イン・グリーン>を弾きだしたではないか。作曲した人間の前で演奏するなど、臆病なビルにはできなかったのだ。

僕はゲイ、いままでずっとゲイだった

キャサリンと別れてから数年間、僕は何名かの女性とデートしたけれど、いずれも真剣な交際に発展することはなかった。そのことは僕に自身の性的アイデンティティを(再び)考えさせ、これで何度目になるだろうか、自分は何者――あるいは“何物”――なのかと悩ませた。二度の結婚期間中、この件を突きつけられる原因となりそうなことは、なんであっても避け続けたのである。だからと言って別に難しいことはなく、僕は両方の結婚生活を快適に過ごしたし、おかげでもう一つの感情を隠すのは簡単だった。しかしいま、人生の表面下で渦巻くこの逆流を理解する必要に迫られている。幸いなことに素晴らしいセラピストと巡り会い、一年ほど探求を続けた結果、自身を完全に理解できた“なるほど!”の瞬間がやって来た。僕はゲイ、いままでずっとゲイだったのである。これがわかるまでこんなに長くかかるとは言じられなかった。僕はそれを他の誰からも隠していただけでなく、自分に対しても秘密にしていたのだ
(略)
 インディアナの片田舎で音楽人生を始め、一九五〇年代に育ち、そして六〇年代にキャリアの第一歩を踏み出した僕にとって、同性愛という考えは存在しないに等しかった(当時は“ゲイ”という単語さえなかった)。
(略)
四十代に入ってもなお、自分は異性愛者でありながら、男性にも魅力を感じる“特殊能力”を持っていると考えていたのだ。少なくともそうであることを心の底から願っていたし、疑問を投げかけることもなかった。言わば、自分自身にわざと嘘をついていた。もう解決済みだと心の底から思っていたうえ、長年にわたってそれが正しい説明のように思えたのである。
(略)
以前に記したとおり、(相互マスターベーションを通じて)僕を性に目覚めさせたのは高校時代の友人である。そしてときおりベッドをともにし、ティーンエイジ・バージョンの同性愛行為で夜を過ごしたものだ(二人とも自分たちが何をしているのかわからないでいたので、激しい行為はまったくなかった)。(略)異性愛に至るまでの一時的現象だと大半の人は見なすだろう。僕もそのころは、性的感情などなければいいのにと思うこともあったけれど、やがて体験する混乱や苛立ちに比べればましだったに違いない。
(略)
[63年召集令状が来て徴兵検査場へ。質問票の]三ページ目に次の質問があった。「あなたはいままでに同性愛の傾向がありましたか?」そう書かれていれば答えるのは簡単だ。同性愛行為をしたことがあるかと訊いているのでなく、“傾向がある”かどうかを尋ねているのだから(略)正しい答えは「イエス」だけど、公の場でそう答えるのは怖かった。(略)
 僕は深く息を吸い、「イエス」の欄にチェックを入れた。(略)
僕は次の検査に向かう代わり、他の数名とともに列から離れるよう命じられた。精神医との面談を待つあいだ、列から離れた他の面々を見てみると、ゲイか薬物中毒者(質問票にはその項目もあった)なのは一目瞭然だった。やがて僕の番になり、精神医から他の同性愛者とどのように知り合ったかと訊かれた。自分はナイトクラブで働くミュージシャンなので、人と会う機会が多いと答える――話としてはそのとおりだけど、当時は男女いずれとも付き合っていなかった。しかしそれだけで十分だったらしく、精神医は一枚の紙を渡し待合室に持っていくよう告げた。一時間ほどして他のゲイや薬物中毒の連中が萎縮するように戻ってきたあと、糊のきいた軍服姿のいかつい男が室内に入り、怒鳴るようにこう言った。「よし、貴様らホモ野郎どもはここから出ていけ!」
 僕は汗まみれで建物を離れた。その後二日ほどほとんど何も食べられなかったけれど、とにかく終わったのだ。自分がゲイであることを他の誰かに認めたのは初めてだったものの、実はまだよくわからないでいた。そう、僕には“同性愛の傾向”がある。だけどそれはどういう意味なのか?
 それから数週間後、僕のもとにニューヨーク市保健局から手紙が届いた。性的に逸脱した人向けの無料セラピーに参加してはどうかという案内ではないか!なんてこった。つまり陸軍は僕のプライバシーを侵害し、彼らの言う“性的に逸脱した人”であるとニューヨーク市に通報したのだ(もちろん、その手紙は無視した)。二週間ほどしてまた手紙が送られ、この無料セラピーを受診することのメリットがさらに強い調子で記されていた――しかもそのあと、電話帳にも載っていない僕の番号に、誰かから電話がかかってきたほどだ(陸軍は電話番号も漏らしたに違いない)。
 しかし僕は放っておいてくれと言う代わりに、やっぱり受診すべきなんだろうと判断した。疑問を感じていたのは確かだから。そこでアポイントを取り、若い医者と面談する。(略)
[仕事で定期受診ができないなら]自身のセラピストを見つけてはどうかと勧められた。(略)
 最初のセラピストであるビル・フェイは時代の先を行く人物だった。一九六三年当時、精神医学に携わる人たちは同性愛をいまだ心の病気と位置づけていたものの、ビルははるかに開明的な精神の持ち主で、僕の同性愛を異性愛に至る一段階に過ぎないと位置づけたのである。だがそれも当時の一般的な理論であり、僕にとっても信じやすいものだった(もちろん、僕は必死になってそれを信じようとした)。ビルは真剣に僕を助けようとしてくれたけれど、自分の性的傾向を理解するには至らなかった。そのことで彼を責めるつもりはない。(略)僕の準備が整っていなかっただけだ。
(略)
 五年後に結婚したとき、僕はセラピーをやめることにした。目的を達したかに思えたからだ。そのころは愛する人間との共同生活を始めて満ち足りた気分だったし、矛盾する感情とどう生きていくかわかった気になっていた。結婚生活中、自身の同性愛的側面にどう向き合っていたのかと疑問に思うだろう。正直に言うならば、僕はその感情をほぼ完全に隠し、二度の結婚生活に全力で打ち込んだのである。そこから逸脱しようとはまったく思わなかった。

(略)

九〇年代の大半を通じ、僕の個人生活もありがたいことに安定期を迎えていた。ボーイフレンドのアールとはますます関係が深まっていた(略)
一九九七年を迎えるころには七年間にわたる僕らの関係にピリオドが打たれ、僕はまた独りになっていた。過去の別れと同じく、パートナーのいない生活は僕を孤独にさせ、僕から方向性を奪い取った。けれど今回は、自分の性的指向にまつわる混乱で苦しむことはない。事実、地元や旅先で知り合った新しい男性と情熱的な交際を始めていたのである。四十代になるまでゲイとしての人生を送れなかったこと、つまり失われた時間を取り戻そうとしていたのだろう。このころ、僕は多種多様な魅力ある男性と出会った(CIAのエージェントとシカゴでロマンチックな週末を過ごしたこともある)。

即興演奏のプロセス

演奏中いったい何を考えているんですかと訊かれることがよくある。その答えは意外に聞こえるかもしれない。当然、大半の時間は音楽のことを考えている――ただ、特定のことや全体を見渡してのことだけではない。僕は「次にBフラットを出すべきだろうか?それは八番目に出すべきだろうか?右手のマレットで叩くべきだろうか?」といったことには重きを置かず、その音楽の全体的影響が思考の大半を占めている。つまりどんなムードを音楽に持たせるかなど、その作品が持つ感情面の性質だ。俳優が演じる人物の感情を把握するのと同様、僕もその音楽の主観的感情と自ら判断したものをしっかり掴もうとしているのである。
 ときには意識下の精神が批評家の役を果たすことがある。パフォーマンスが進むなかで僕は自身の“内なるプレイヤー”に話しかけ、演奏がどんな具合に進んでいるか自分の意見を伝える(「ああ、せわしないなあ。誰もついていけないよ」とか「繰り返しが多くてつまらない。何か違うことをすればいいのに」)。しかし、ある特定の音程を出すよう自身に告げることは決してしない。それは無意識の仕事だ。さらに、意識下の精神がどこかへさまよい、まったく別の何かをしていることがときどき――いや、頻繁に――ある。明日しなければならないこと、その日乗った飛行機のこと、あるいは二列目に座っていた変な帽子の女性のことなど(略)その仕組みは単純で、自分が即興演奏に直接関わらない限り、意識下の世界ではなんでも自由に考えられるのである。
 即興演奏に影響を与えるにあたって、無意識の精神は二つの機能を持つ。まずは巨大なデータベースとしての機能。ボキャブラリーを組み立て文法規則(文章を組み立てるのに必要)を蓄積するのと同じように、それは長年かかって習得した音楽をすべて記憶している。耳にしたレコード、演奏した曲(加えて、少なくとも意識のなかでは忘れてしまった曲)、そして練習あるいは復習したレッスンは、いずれも細切れの状態で記憶のなかに保存されている。それは一種の図書館であり、無意識の精神はそこにアクセスしたうえで望みの音程を引き出し、音楽的に正しい順番へと並び替えている。
(略)
 無意識が持つもう一つの機能(略)たとえ電話でも、最初の数語を聞いただけで友だちの声だと認識できる[ように](略)僕らはそれぞれ独自のスタイル――フレージングやお気に入りの旋律などを土台としている――を発達させており、それが音楽的個性となる。
(略)
 僕も大半のミュージシャンと同じく、自分の内なるプレイヤーが古臭いリックやつまらないフレーズを選んでしまい、止めに入る間もなくそれらを演奏してしまうという、フラストレーションのたまる期間を何年か過ごしたことがある。そこでようやく、内なるプレイヤーとコミュニケーションを図る必要性に気づいた。自分が好まないものを最後の瞬間に修正しようとするだけでは十分じゃなく、自分がどんな結果を望んでいるか、事前に知らせてやる必要があるのだ。
(略)
[それに加え]僕は聴き手ともコミュニケーションをとらねばならない。(略)
「作曲上の諸要素をお見せしましょう。これがテンポ、これがセクションAからセクションBに移行する場所。そうそう、ここにある珍しい半音階の楽節を見ていってください」これらはハイライトであり、僕らはそれを即興演奏で強調する必要がある。 

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