ゲイリー・バートン自伝 その2 モンク、エリントン

前回の続き。

ゲイリー・バートン自伝

ゲイリー・バートン自伝

 

『ブロンド・オン・ブロンド』、チェット・アトキンス

[ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』]に影響を受け、いまも素晴らしい記憶として心に残る自分自身のナッシュヴィル時代を思い出した。そして考えれば考えるほど、ジャズとカントリーミュージックの融合というテーマが鮮明になってゆく。(略)
ナッシュヴィル時代の恩人、チェット・アトキンスに相談したところ、自分も手伝うと言ってくれた。
 チェットはセッションにふさわしいミュージシャンを見つけるだけでなく、選曲にあたってもかけがえのない存在となった。続く数ヵ月のあいだ、僕が何度かナッシュヴィルに赴くと、彼はそのたびにオフィスで働きつつ、僕が一日中ずっと一緒にいることを許してくれた。チェットはRCAの花形プロデューサーでもあり、有望な歌手やプロデューサーと会い、彼らのデモテープに耳を傾けることに一日のほとんどを費やしていた。彼ほど素朴かつ飾り気のない人間に僕は出会ったことがない。(略)
[『テネシー・ファイアバード』は売上げとしては失敗]
(略)
[『ブロンド・オン・ブロンド』]に参加したミュージシャンの数名と、僕はやがて知り合うことになる。ディランがそのアルバムの代表曲をいかに組み立てたか、彼らは僕に教えてくれた。ディランはいつものスタート時刻である午後六時にスタジオヘ足を運び、あと一曲書き上げる必要があるとその場のミュージシャンに告げる。一同はそれを待たねばならない。ディランはピアノの前に座り、十名ほどのミュージシャンが待ち詫びる――そのあいだもギャラは発生していた――なか、続く六時間を作曲に費やしたというではないか!午前零時を回るころ、ディランはようやく立ち上がり、並み居るミュージシャンに新曲を教えると、それからさらに六時間かけて最終バージョンの収録を行なった。こうして完成した曲こそ〈ローランドの悲しい目の乙女〉であり、LPレコードの片面全体を占めるこの取り留めのない叙情豊かなバラードは、リリースされるや名曲と評価された。 

Sad-Eyed Lady of the Lowlands

Sad-Eyed Lady of the Lowlands

  • provided courtesy of iTunes
テネシー・ファイアーバード

テネシー・ファイアーバード

 

《コラム》デューク・エリントン

(略)デュークの発想はどこから生まれたものなのか、僕はいまでもよくわからない。先達のような存在はなく、モダンジャズを一人で発明したと言っていい。この音楽がどのような音であるべきか、あたかもそれを“耳にした”かのようで、あの独特なビッグバンド構成がジャズというものを事実上定義づけたのだ。三〇年代にビッグバンドを組む以前、デュークはまず中サイズのバンドから始め、その音楽は当時の需要を反映していた。つまり、最初はダンス音楽を主に作曲し、バス、列車、あるいはツアー先のホテルでそれを書き上げたのである。しかし商業性が必要とされる状況のなかでも、デュークは独創性の追求にこだわった。(略)
デュークのバンドには特筆すべき特徴がいくつかあるが、その一つがミュージシャンとリーダーとの長きにわたる信頼関係である。バンドメンバーはデュークのことを陰で“腫れ目野郎”と呼んでいたけれど、いずれも数十年にわたってバンドにとどまった――デュークが一人一人の独自性を尊重したのが理由の一つだろう。大半のバンドリーダーは金管楽器あるいはリード楽器セクションの一体性を追及するが、デュークはミュージシャンのあいだに一体性の欠如を求めた。サックスセクションを耳にすると、単に五本のサックスでなく、各プレイヤーそれぞれの音色が聴こえるという具合だ。
(略)
彼のバンドは五十年間ぼぼ休まずに活動した――ここで言う“休まずに”とは“毎晩欠かさず”の意味である。(略)晩年になっても、週に七回演奏することを望んでいたという。(略)
[エージェントのジョージ・ウェインが明日は休みと告げると]デュークはしばらく考え、こう答えた。「次のギグはハンブルグだったな、ジョージ。さっさとそこに行こう。仕事探しに苦労していると思われたくないんでね」
(略)
デュークの死から数ヵ月以内に、古くからのメンバー数人がこの世を去ったというのは極めて暗示的だ。
(略)
[共演は叶わなかったがデュークに誘われ一度セッションを見学]
時刻は夜の十時(略)建物の前には五、六台のリムジン(略)なかに入るとスタジオAにバンドメンバーが集合していた(略)エンジニアブースはすでに人で一杯(略)その場に白人は僕だけだった。(略)
あるテイクでは、偉大なるアルト奏者ジョニー・ホッジスが休憩から戻らないまま演奏が行なわれた。また音が正しくないとデュークが演奏を止めることもあった。誰かが前の曲を演奏していたのだ。指摘された人物はこう言った。「いや、曲が変わったなんて聞いてないぞ」すっかり飽き飽きしたメンバーにとって、これも毎度お馴染みのギグに過ぎないのだ。
 こうした混乱のなか、デュークが音楽に集中できるのが不思議でならなかった。しかし数ヵ月後にリリースされた『極東組曲』(略)は、発売されるや嵐のような賞賛を受けた。いまこのアルバムに耳を傾けても、レコーディングに立ち会えたことが信じられない。(略)
 エリントンは革新的なビジネス手法でも名高い存在だった。(略)[IRAや401k]が生まれるはるか以前から、デュークはサイドマンのために一種の退職プログラムを編み出していたという。
(略)
僕が彼を敬愛するのには、もう一つ個人的な理由があった。
 デュークはゲイでないにしても、当時としては稀なほど同性愛に寛容だった。またゲイを公言していたビリー・ストレイホーンとは、作曲上の共同作業者として終生強い関係を維持し続けた。ストレイホーンはハーレムのみならずゲイ社会にも強い影響力を待ち、長期にわたる交際を二度も堂々と行なった(当時としてはこれも珍しいことだった)人物である。二人の関係はごく親密ながら謎めいた部分も多かった。他のミュージシャンと違って決まった額の報酬を受け取るのでなく、必要な額をデュークに請求していたのがその一例だ。
 そして最後に、いつも多くの人間と付き合いながら、ジャズやロックの分野で活動する若いミュージシャンとなぜああまで親交を結ぼうとしたのか、僕は不思議でならない。何しろ、大切なレコーディングセッションに僕を招待するくらいなのだ。たぶん僕自身が気づいていない方向性を僕のなかに見出したのだろう。

k.d.ラング、カミングアウト

k.d.は僕に、収録曲の半分を演奏してもらいたいという。自分はちゃんとした教育を受けたミュージシャンじゃないから、と彼女は恥ずかしそうに説明する。(略)
最初の曲で僕がいくつかのバリエーションを演奏し終えると(略)
「最初のパートで演奏してくれたシングルノートのメロディーがいいけれど、コードがAになるところは、FシャープからAに移るとき演奏したフレーズを使って、それから一拍置いてほしいの」彼女は自分が望む音楽をきちんとわかっている――それに、“ちゃんとした教育を受けていない”ミュージシャンにしては説明も上手だ。それから僕らはぴたりと息が合った。
 二人のコラボレーションには裏話がある。当時、k.d.はレズビアンであると広く認識されていたものの、プライベートを自らの口から語ることはまだなかった。一方の僕は、友人やバークリーの同僚に以前からカミングアウトしていたけれど、彼女がそれを知る由はない。(略)
「バークリーの人たち、あなたの好みを知ってるの?」スタジオでともに働いたわずか一日で、彼女は僕がゲイだと結論づけたのだ。本人もまだはっきり自覚していないのに、すぐ見抜かれたのである。それから数日かけて残りの曲をレコーディングするなかで、僕らはカミングアウトや家族への説明といったことを沢山語り合った。僕はその会話から、彼女がカミングアウトをためらっている一番大きな理由を知った。つまり、エドモントン在住の母親に自分の友だちを嫌ってほしくなかったのである。(略)
[翌年グラミー受賞式]母親を伴う彼女の姿を見た。当時すでに『ザ・アドヴォケイト』誌のインタビューを受け、自身のプライベートを公表していたのである。僕はものすごく幸せな気分になり、『アンジャニュウ』のレコーディングに参加できたことを誇りに感じた。

ロイ・ヘインズ加入

[ボブ・モージズが脱退]というわけで、僕らが生み出した独特な音楽性にふさわしいドラマーを見つけなければならない。だけど僕はリスクを承知で、当時まだスタン・ゲッツと活動していたロイ・ヘインズにあたってみることにした。(略)
のっけから、ロイにこう声をかけた。「僕はボールを投げた。あなたがそれをどう返そうと、僕はかまいません。僕のグループはようやく波に乗って順調に活動しています。あなたがこちらに移ってくれることは可能でしょうか?」ロイはしばらくためらったものの、スタンとの活動は終わりに近づいていると言った。そして一転明るい表情になり、こう続ける。「いちいちドラムを運ぶ必要がないのなら、OKしよう」それは大丈夫、と僕は答えた。かくしてツアーのあいだ、ロイのドラムを運ぶのはスワローと僕の役目になった――それで素晴らしいアーティストを手に入れられるなら安いものだ。
 今さらながら、ロイがゲイリー・バートン・カルテットにすんなり加わったのは驚嘆に値する。彼自身ジャズスターとして名声があり、しかも当時すでに四十代なかば、異質な音楽を演奏する長髪の若者たちより一回り以上年長だったのだ。(略)彼の存在がありがたかったのは確かである。素晴らしいパフォーマンスを見せただけではなく(それはいつものことだ)、僕らのグループに大きな名声をもたらしてくれた。ロイの加入にジョージ・ウェインも興奮したし、ジャズ界における僕らの地位が、彼の存在のおかげで大きく向上したのは間違いない。

ゲイ、結婚

同じころ、カリフォルニアでまたしてもロマンスが生まれようとしていた――今度も相手はミュージシャンの妻である。僕にはそういう関係が運命づけられているのかと、そのときは感じたものだ。またセラピーを通じて自分の性同一性とも向き合い続けていた。明らかな兆候があったにもかかわらず、僕はゲイであることを絶対に認めたくなかった。男性に惹きつけられることもあったけれど、女性に魅力を感じることもまた事実であり、そのことが僕をひどく混乱させていたのである。だがそんなとき、事実を直視しなければいけない状況に立たされる。それより前、ニューヨークに住むある男性に強い感情を抱いたけれど、相手がストレートだと思っていた(たとえば、いつもガールフレンドを連れていた)から行動を起こす気になれないでいた。ところがある日のこと、二人で音楽の話をしていると、彼はこんなことを呟いた。君と友だちでいるのは間違っている、なぜならとても魅力を感じているからだ、と。こうしてぎこちない恋愛が始まった。当然、二人の関係は誰にも明かしてはならない。僕らは二人とも、自分が“ゲイ”だと考えていなかったからだ。いまとなっては馬鹿げているけど、当時はまだストレートの傾向が強いと思い込んでいたのである。つまり、男性を高く評価できる能力――一種の“アーティスト的な才能”――が自分にはあると信じていたのだ。その男性と僕は、ツアーの合間など、機会があればともに夜を過ごしたけれど、常に満たされない感じを覚えた。付き合っていることは秘密にしていたので、有意義な関係を持つことができない。それに二人ともゲイのなんたるかを知らなかったから、いつもつまづいてばかりいた。そんなことが一年近く続いたあと、一週間にわたるボストン滞在が状況を一変させる。
[ドンナ・ハリーという若くて魅力的な会計係と結婚することに] 

ヴィレッジ・ヴァンガード、マックス・ゴードン

ゲイリー・バートン・カルテットの活動二年目となる一九六八年、長年ジョージ・シアリングのツアーマネージャーを務めたエド・ファーストのおかげで大ブレイクのチャンスがやって来た。(略)
 ヴァンガードは当時(たぶんいまも)、ニューヨークの数あるステージでもっとも名高い場所であり、それはマックスのバンド選定に対するこだわりの賜物である。彼は音楽を評価するうえで優れた聴覚を持っていて、自身の基準を満たす音楽家しか絶対に雇わない。地下一階にある音楽フロア自体は、オープン以来何も変わらず、掃除すらしていないんじゃないかと思わせる風情だ。
(略)
 エドは階下に僕を連れて行き、マックスに引き合わせた――少々太り気味の老人で、坊主頭に白髪がほんのわずか残っている。(略)マックスは数十年前からニューヨークのナイトクラブ業界に関わっており、一時はヴィレッジ・ヴァンガードだけでなく、中心部にあるより高級なサパークラブ、ブルー・エンジェルも経営していた。(略)
エドの推薦があったからか、なんと翌月ステージに立つセロニアス・モンクと同じ週の出演をオファーされたではないか。
 こうして向こう数年間にわたる素晴らしい経験の幕が切って落とされた。僕らはすぐにヴァンガードの“ハウスバンド”も同然となり、望むときにいつでもステージに立てる特権を得た(モンクと同じ夜に出演することもよくあった――これ以上の喜びはあるまい)。そしてほどなく、マックスが音楽および音楽シーンだけでなく、このささやかなおんぼろクラブで繰り広げられるすべてのことを愛する、気のいい老人であることを僕は知った。彼は毎日午後一時に顔を見せ、薄暗い店内に一日中座りつつ、届けられた品々に受け取りのサインをしたり、ときどき外に出て葉巻を吸ったり新聞を読んだりする。それから午前二時に閉じるまで、ずっと店のなかにいる。来る日も来る日も奥のテーブルに座ってすべてのステージに耳を傾けていたから、誰よりも音楽を知っているわけだ。
(略)
ヴァンガードで得られた一番の喜びと言えば、セロニアス・モンクが長年率いたカルテットの演奏、とりわけモンク自身の演奏を耳にできたことである。彼らは一体となって実に見事な音楽を聞かせたし、モンク自身も予測不能な不規則弾と評されながら、実像は心優しく何かと励ましてくれる人物だった。口数は極めて少なく、何かを話したとしても意味はよくわからない。だけど僕らのバンドを心から気に入り、レパートリーに新曲を加えたときには必ず僕らを褒めてくれた
(略)
 僕らがヴァンガードで定期的に演奏するあいだ、マックスからギャラが全額支払われないこともたびたびあった。未納の税金に苦しみつつも店を閉じまいと奮闘していた彼は、常に五百ないし千ドルほど不足していたようだ。こうした事態は数年ほど続き、マックス自身もその事実を否定こそしなかったものの、僕に数千ドルの借りを作るところまで追い込まれた。僕は渋々ながら、ニューヨークに別の拠点を持たなければならないと判断する。それ以来、ヴァンガードに行くのも億劫になってしまった。マックスと顔を合わせるのが気まずかったのだ。それから五年後、僕はヴィレッジにあるイタリアレストランで彼と偶然出くわした。僕を見たマックスは笑みを浮かべてこう言った。「君への借りは忘れてないよ」それだけでなく、彼は正確な金額まで憶えていた。
 もちろん、僕はそのうち一セントも受け取っていない。そして、マックスは僕を含むジャズ界のみんなに愛されつつ、一九八九年にこの世を去った。

《コラム》セロニアス・モンク

ジャズファンのあいだでモンクは極めて個性的な人物として知られているが、直接会った人はみな彼から伝わる優しさや親切心に気づく。モンクのキャリアには悲劇的な一面があった。ビバップのパイオニアの一人に数えられるものの、奇矯な振る舞いが多く、精神的に不安定な人間と周囲から見られていたため、スポットライトを浴びるのはいつも他のミュージシャン(特にディジー・ガレスピーチャーリー・パーカー)だった。(略)
[モンクは]ジャズヘの貢献に対する過小評価に悩んでいたという。
(略)
 ある夜のヴァンガード、モンク率いるバンドはいつもの曲でステージを始めた。しかし(略)[即興ソロに行かず]モンクは楽譜のメロディーをひたすら演奏し続ける。数分ほど経って他のメンバーがだんだんと演奏を止めてステージを降りたけれど、モンクはいつまでもそのメロディーを繰り返した。[途方に暮れるメンバー](略)
マックス・ゴードンが、客全員から喝采を浴びればモンクも演奏を止めるだろうと考えた。そこで僕らは客に拍手を促したけれど、演奏はなおも続いた。さらに十五分ほど経ち、客が困惑し始める。ついに、ベンがピアノのそばに来てモンクを無理矢理立たせ、断固たる足取りで厨房に連れて行ったかと思うとコートを着せて、裏口から表に出した。モンクが方角を見失ったのは明らかだ。しかし翌日の夜、モンクは再び舞い戻って素晴らしい演奏を聴かせた。珍しいことじゃないんだろう。
(略)
[数年後ビバップ時代のオールスターによるツアーでは]
モンクはまるで彼自身でないようだった。ツアーの大半を通じ、人の顔すら認識できないようなのである。(略)横ではネリーが「どうしたの、T?ゲイリーよゲイリー。ヴァンガードで一緒に出演したじゃない。憶えてないの?」と繰り返していた。また肉休的にも哀弱しているのか、肌が灰色に近い。演奏にも力がなく、ヴァンガードで聴いたモンクとは思えなかった。
 モンクとネリーはいずれもエキセントリックな人間だった。ツアー中は何一つゴミ箱に捨てないのがその一例である。雑誌や空き瓶なども絶対に捨てず、手に入れたものは残らず二人の荷物となっていた。また立ち寄った場所で小さな土産物を買うのも好きだった。それだから、ツアーが進むにつれてモンクの荷物は信じられないほど増えてしまう。そのうえ、二人はホテルに着くたびすべての荷を解くことにしていたので、すぐにコレクションを収納する部屋が必要になった。ツアーの終わりごろになると、ギグや飛行機の時間に間に合わせるべく、ツアーマネージャーが荷ほどきと荷造りを手伝う有様だった。
 モンクはそのツアー後に引退したものの、さらに十年近く生き続けた。睡眠と散歩で一日がほぼ費やされていたという。(略)伝えられるところによると、彼はネクタイを締めたスーツ姿のまま一日中ベッドに横たわっていたらしい。一種の痴呆状態にあり、精神状態を改善するために処方された薬がかえって仇になったそうだ。

アトランティックと契約

[69年RCAとの契約終了、更新のオファーはあったが]
会社が僕のレコードを売ろうと頑張ったり、キャリアアップに手を差し伸べたりするなど望めない。しかも、僕が知るRCAの関係者はみんな会社を去っていた。(略)
[新しいスタッフは、ビリー・テイラーと共演させ、映画スターと勘違いさせるよう、“バートン・アンド・テイラー”として売り出そうと画策]
 こんな会社、絶対に去らなくてはならない。(略)
RCAが数え切れないほどの組織や手続きを擁する大企業である一方、アトランティックは同族会社であらゆる決断が個人ベースで迅速に下される。

次回に続く。