前回の続き。
「話の特集」アートディレクター
「話の特集」の編集長矢崎泰久さんとは、その前に矢崎さんが「エルエル」っていう雑誌を作る時からのつき合いなんです。結局その雑誌は0号が出ただけで、創刊にはいたらなかった。その後「話の特集」を作るからまた手伝ってと言われて、予算もないだろうから「金いらないから、編集に口を出させて」ってことで、アートディレクターみたいなことをやったんです。
この頃「平凡パンチ」が創刊されて、よく覚えてるんですけど、大橋歩さんの絵がとてもいいなと思いましたね。ほとんど同じ時期なんだけど(略)「平凡パンチ」の方がちょっと早かったですね。
「平凡パンチ」のイラストレーションも、ぼくらがやろうとしていた、いわゆる挿絵画家じゃなくイラストレーターに依頼するという方向性がありました。少し違うのは、大橋歩さんはまだ学生だったし、「平凡パンチ」のイラストレーターは全くの新人を使っているという面白さがありました。(略)
別にADという肩書きはないんだけど、イラストレーターや写真家はほとんどぼくが選んでいたし、時には作家も選んだりしてたから、副編集長のような仕事だった
(略)
大学生になったらヘミングウェイなんかを読んでいたね。ライト時代によく読んだのは山田風太郎ですよ、初期の頃の。「話の特集」の頃からは、いろんな作家の挿絵を描くために読むっていうのもあった。小松左京は挿絵とは関係なくても読んでました。
(略)
星さんがショートショートを書くのは誰でも知ってるから、むしろ大長編を書いている小松さんに短いものを書いてもらおう」ってぼくが言って、小松さんの短編の連載が始まったんだけど、そこで初めて会った。
写真は篠山紀信、立木義浩、小川隆之、柳沢信、高梨豊とか、今思えばすごい顔ぶれですね。みんな二十代後半で、横尾ちゃんですらまだ一般には知られていないわけだから、横尾ちゃんの表紙じゃ売れないんだよね(笑)。でもなんか若い人達がやってるぞっていう感じで、アンテナが敏感な人はパッと飛びついたね、学生だった湯村輝彦が読者で投書してきたりして。
挿絵を依頼する時は必ず原稿を読んで、誰が描けば面白いか考える。まず読まなくちゃいけないし、その後全部レイアウトするから忙しかった。レイアウトはだいたいフォーマット決めてるから、編集部でやってよって言うんだけどなかなかできなくて、写植は全部自分で貼って、まわりの罫の版下を描いたりね、それから漫画描いたり。草森紳一に文章が長いからちょっと短くしてよって、夜中に呼び出して直してもらったり。今は草森紳一に直せなんて言えないけど(笑)。それから、あの頃黒田征太郎がカナダ、アメリカに行っていて、レポート書いてもらって、毎月一ページの連載やっていたんですよ。それが包装紙の裏とかそういうのに書いてくるわけだ(笑)。それをぼくが全部ちゃんとおさまるように原稿用紙に書き写して、三段組のうち上二段が四角いイラストレーションで、下は二十字の二十五行にきちっとおさめるとか本当によくやっていたね。
「ペルソナ展」
「ペルソナ展」っていうのは一九六五年にあって、メンバーに選ばれたんだけど、ぼくは劣等生だったですね(笑)。(略)
「ペルソナ展」で一番話題を呼んだのは、横尾ちゃんと木村恒久さんなんです。これは、それまではこうあるべきだっていうモダンデザインの流れがあって、それと百八十度違うんだけど、そのことが魅力的でしたね。一方で、亀倉さんはたしかその時トレードマークだけを拡大して展示していたと思うんだけど、正統派がまたいい。田中一光さんも圧倒的にいいんですよ。細谷巌さんも良かった。ぼくなんかはやっぱり中途半端なんですよ。むしろデザインから切り離して絵だけ出すとか、そうでなければ本当にきちっとデザインしたものだけ出せばいいんだけど、絵も見せたい、デザインしたポスターも見せたいってことで散漫で、展覧会では魅力がないわけだ。そんな具合で、魅力が正統派と異端派と大きく二つに分かれたと思うんですね。
その辺を境にして横尾ちゃん、木村さんははっきりデザイン界から別の方に行った。決別はするんだけれどもデザイン界はずっと彼らを見続けていたの。しかもデザイン界は彼らに影響を受けた。
その「ペルソナ展」でぼくは全然評価されなかったし、次の年に同じようなメンバーで「空間から環境へ」という展覧会をやった時には、もう外されてるわけね。でも外されてくやしいとか、挫折するとかとちょっと違って、まあいいかっていう感じ(笑)。あの人達とぼくとはちょっと違うんだって。プロデューサーがチョイスするんじゃなくて同じ仲間が「あいつは外そうよ」っていうのが明らかだったからね(笑)。
横尾忠則
ぼくは横尾ちゃんの一連の仕事は、ペルソナより前から評価してきた人間の一人なんです。初めの頃デザイン界はあまり評価してなかったんだよね。ぼくはあの春日八郎のポスターがイルフィルに貼ってあるのを見て、褒めたんだよね。ものすごく画期的で面白いと本当に思った。でもみんなは「大丈夫か、こんなことやって。食えなくなるよ」とかって言ったらしいんだ。今その人達は、そのことには触れずに、最初から横尾ちゃんを認めてた、みたいな顔してるけど(笑)。
こんなこともありました。イラストレーターズ・クラブで年度賞の候補に横尾ちゃんほか数人があがった。亀倉さんと瀧口修造さんと勝見勝さんに名誉審査員みたいになってもらって、三人が最終決定することになっていた。横尾ちゃんが圧倒的にインパクトが強かったんだけど、その時に勝見さんが「こんなものがもし賞に入るんだったら、席を蹴って帰る」ってみんなの前で言ったんです。「瀧口さんは若い者に受けようと思って、こういうものを褒めるけど」とか、それはひどい事を言った。ぼくはこの野郎、殴ってやろうかと思うくらい腹が立ったけど、お願いして来てもらってるし、こっちも若いし、我慢してた。立ち上がって「あんたはヒドイ」と言うべきだったと今思ってます。それを言わなかったことが生涯で一番後悔してることかもしれない。
独立
ライトを辞める決心をしたのは、やっぱり面白くなくなってきたからなんです。それは社内の人間関係ではなく、広告業界がぼくには向いていなくて、そのためにぎくしゃくするのがいやだったからなんです。(略)
だんだんクライアントが「もうちょっとここを大きくしろ」とか要求するようになって
(略)
「週刊サンケイ」の表紙が始まる十月までは、仕事はほとんどなかったんですよ。でもね、向さんの提案でライトから嘱託料みたいなものはもらってたんです。(略)[キャノンのPR誌に]パロディみたいなものを作っていたんだけど、これは嘱託料のうち(笑)。
「週刊文春」
田中健五さんが、「週刊文春」の編集長になった時に雑誌をがらっと変えたいっていうことで、まず表紙から、と思ったらしいんですね。一九七七年です。週刊誌だからやっぱり似顔絵を頼まれるのかと思ったのね。サンケイでやったからなあと思ってたら、「その辺はこだわってないし、『週刊サンケイ』でやってたことを知ってるから似顔絵じゃない方がむしろいいと思う」ってことで、それだったら面白いから引き受けることになったんです。何を描くかについて希望を聞くと、「何でもいいけど、しいて言えば都会のメルヘンかな」って。そう言われてもなんだかよくわかんなくてね(笑)。ちょっと漫画っぽいもの、例えば電車の吊革にぶら下がったサラリーマンが空中を飛んでいるみたいなものをふっと思いついたんだけど、でもそんなのを毎号描いても息切れすると思って。で、今までにぼくが発表してない全く新しいスタイルで描いてみようと思ったんです。つまり、似顔絵以外に、星新一さんので描いてるSFタッチとか、谷川俊太郎さんとやった絵本的なものとか、いくつかスタイルがあるけど、そういうのを全部やめて全く新しいものにしようと思ったんですね。グワッシュを使って、かなり描き込んだ、リアルなタッチで描こう、自分の中で新しいものが生まれるかもしれないから、と思って始めたの。
(略)
「週刊文春」は何を描いてもいいという条件だから逆に自分の方で制約を作って、グワッシュで描く、ケント紙に原寸で描くということは守っていこうと思っているんです。業界の人は、ぼくのいろんなスタイルが出ていても、「和田がやってる」ってわかるかもしれないけど、ほとんどの読者は知らないから、作風を変えると絵描きが変わったと思われちゃうでしょ。厳しく言うとマンネリなんだけど(笑)、でもそれが逆に面白いかなっていう気はしてるんですよね。十年目ぐらいにちょっと作風を変えた方がいいかなって考えたことはあるんですけど、むしろ自分がマンネリだなって思った頃に、世間がこのスタイルは「週刊文春」だってようやく覚えてくれるぐらいのものだろうと思うんですよね。だから安定路線って言う人もいるかもしれないけど、できるだけ同じスタイルで、でもマンネリと言われないような(笑)、同じネタが出てこないように、そういうふうには考えているんですけど。
ぼくが始めた頃は、谷内六郎さんがまだ健在で「週刊新潮」の表紙をやっていたんですよ。谷内さんは創刊の時からやっていて、ぼくはその頃学生で創刊号からしばらくは買って表紙だけとっておいたくらい。それが文春と同じ発売日でお店で並ぶっていうのはとても嬉しかったですね。売店でほかの週刊誌と並ぶ姿はいまだに意識するんですけど、たまたま二冊同じ色調が並んじゃうとか、まるで違うとか、そういうことが面白いって言うか、興味があるっていうか。
(略)
毎週水曜日が締切だから、だいたい火曜日には描くものを決めるんだけど、水曜日の朝になってもどうしようかって思うことはあります。それでも今のところ何とかなってます。ひとつは季節感のあるものを描く。時事ネタはほとんどないんですけど、カイワレが話題になった時は描いた。あとは誰かが亡くなった時に追悼の意味で、山城隆一さんの時は山城さんの猫の皿に野菜がのってる絵を描きましたね。そういうのは時々あるんですね。ジャズの人だったらレコードジャケットを組み合わせて描くとか。
(略)
描く順番は、絵を先に描いてからレイアウト。といっても初めからタイトル位置は決まっているから、そこにはちょろちょろしたものは入れないように計算して描く。「週刊文春」というロゴは自分で作りました。色は絵によって変えていて、絵はロゴの色を考えずに自由に描いている。トレペをかけてから、どんな色にしようかなって考えます。クリスマスだから赤と緑にしようということもある。一週前のはまだ印刷が上がってないから、うっかりすると同じような色指定をしてしまう時があって。なるべく覚えておくようにしてるけど。
映画監督
[角川のテレビCMやったり]「野生時代」にショートショートも書いたし、角川映画で大林宣彦監督の「金田一耕助の冒険」のタイトルデザインをアニメーションでやったこともありました。そんなことで角川春樹さんから「あんたいろんなことするけど、次は何をやりたいの?」って聞かれたんです。それでぼくは「映画のシナリオが書きたい」って、本当に何気なく言ったんだけどね(笑)。そしたら「何がいい?」って言うから、「麻雀放浪記」って言ったんです。
(略)
角川さんが「うちで文庫になるから、シナリオにしてみてよ」ってことで書いたんです。(略)角川さんは深作欣二さんに頼もうと思ってたらしいんだな。(略)監督とシナリオライターという感じで[深作とも食事]
(略)
シナリオのために、下に文字原稿が書けて、上は絵が描けるように空いてるという自分の原稿用紙を作ったんです。そこに具体的にイメージした絵を描いたもんだから、ここまでイメージができているなら、監督は自分でやれって角川さんに言われたんですね。一週間ぐらい考えたかな。さすがに今までになく迷ったね(笑)。
(略)
撮影前に何人かの人に、どういうのがダメな監督なのか聞いたの。岸田今日子さんは「迷う監督」って言った。自分で決められない監督っているんだって。OKって言えなくて、スタッフに「どう?」って聞いて、みんながOKって言うと「OK!」って言う監督が。吉水小百合ちゃんは「あんまり気を遣う人はダメね」って。「気を遣うのはいいんじゃないのか」って言ったら、「監督が気を遣ってると自分が余計気を遣うから、かえってくたびれちゃう」と言ってた。澤井信一郎さんは、「やたらカメラをのぞいてカメラマンの意見を聞かないで自分で決めちゃうのは、カメラマンに嫌われる」とかね(笑)。
(略)
もう一本撮りたいって撮影してる最中に思ってました。こんなに面白いものはないと何日目からか思い始めたもんね。(略)
上手くいけば絶対味をしめてまたやりたくなるだろうし、上手くいかなかったら、くやしいからもう一回やりたいだろうし。作品の評価なんかより、とにかく現場の空気がいいんですよね。
撮り終わってしばらくして、とりあえずシナリオ書いておこうと思って、「快盗ルビイ」を書いた。
(略)
ぼくは映画ファンだったから、映画を観るのが好きな人間だったんだけど、一本作ったら、作る方が断然面白くなっちゃった。
デザイン論
演劇のポスターだったら、タイトル・出演者・作者・日付・場所・プレイガイドなどを入れるという絶対条件がある。お客さんにいつ発売で、どこに行ったら買えるというメッセージがちゃんと伝達されるポスターが好きなんですよ。メッセージが読めないくらい小さくて、下手するとどこでやってるかもわからないポスターがあるけど、そういうのが嫌いなんで、ぼくは場所や日時などはっきり読めるように組むんですよね。そうすると空くスペースが出てくるから、そこに絵を描く。極端に言うと情報があれば絵なんかなくたっていいわけですから。
デザインってすごく好きなんです。デザインはあくまでも人のためにあって、限りなく縁の下の力持ちだから、自己主張しないものだと思ってる。
(略)
昔は、着物の柄にしても無名性のものだったと思うんですよ。茶碗の絵とか。それが近代にきてデザイナーのアイデンティティーが確立されて個性的になった代わりに、肝心なことを、例えばどうやったら読みやすくなるんだろうというようなことを見落としちゃった。文字の組というのは、デザインにおける最も大事なことだとぼくは思うんだけど、文字は読みやすくすればするほど個性は消えるんだよね。
でも、あえてそうするデザインがぼくは好きなんですよ。今はそういう人が少なくなっちゃって、文字を組むのも写真と組み合わせるのも、自分の作品にしようとするから限りなく読みにくくなる、文字は小さくなる、字間は詰まる、他人の文章を勝手に改行する、淡い写真の中に白ヌキする、どんどん悪い方に行く。
(略)
作家性は必要ですけど、変な自己主張を避けて作家性を持つというのは微妙なバランスで、それができる人は本当に少ないんじゃないかなあ。お前はどうだと言われると困るんだけど、ぼくはデザインはほとんど没個性でいく。ただしイラストレーターでもあって、絵というのは下手糞でもそれなりに自分が出ちゃうから、自己主張できないという欲求不満はないんだけど、絵でもあまり俺が俺がと言いたくないんです。
作曲
七冊目の「17のこもりうた」は題名どおり子守歌を十七曲集めたもので、作詞は高橋睦郎。曲はぼく。
一九六〇年頃から、ぼくは曲を作ることが好きになって、たくさんの歌を作っています。ヒットソングがないので、作曲家としてはまったく無名ですけど。
高橋睦郎は詩人ですが、当時はデザインセンターに勤めるコピーライターでもありました。ぼくが「歌を作りたいから歌詞を書いてよ」と頼むと、気軽に書いてくれる。ある日はぼくのうちにやって来て、目の前でどんどん詞を書くので、ぼくもピアノに向かってどんどん曲をつける、というふうに、すごいスピードでできた歌がたくさんあります。「17のこもりうた」はそんな調子で作りました。
この本を見た岸洋子さんが「私が歌ってあげましょうか」と言ってくれて、数年後にレコード化が実現しています。
(略)
ちょっと曲を作ったりすることもあまり変わらない。結構テレビでぼくの曲が流れるんだよ(笑)。高倉健さんが歌ってる缶コーヒーのとか、深津絵里ちゃんのチョコレートとか。
1945 (小学3年) 疎開
疎開先で描いた漫画が一冊、手元に残っています。これを見ると絵を描くのが好きだったこともよくわかるのですが、それよりも「本を一冊作る」という意識だったんだなあ、と思います。三つの話からなる短篇集で、それぞれの扉があって、話によってレイアウトを変え、最終ページには奥付まである。著者検印の印紙まで意味もわからず貼っています。ぼくは本が好きだったんですね。絵本、漫画本はもちろん、少年雑誌などもたくさん読みました。たいした読書家ではないけれど、本の手ざわりやページをめくる時のわくわくする気持が好きだし、書物のスタイル、編集の洒落っ気、構成の面白さなどにも惹かれる。それは子ども時代から現在まで変わらず続いていることです。
星新一
児童文学の今江祥智さんと知り合ったのは、谷川俊太郎さんの紹介でした。今江さんは童話を書くかたわら出版の仕事にも関係されていて、ある時期は「ディズニーの国」という雑誌の編集長をやっていました。題名通りあちらと提携してディズニー漫画を見せる雑誌ですが、今江さんはそれだけじゃ面白くない。半分は自分の好きなページを作っていて、ある時、星新一さんに子ども向けのショートショートを依頼したんです。
(略)
これをきっかけに、星さんはヤング向けショーショートを積極的に書き始めます。(略)それまで星作品の挿絵はだいたい真鍋博さんが描いていましたが、ヤング向けの作品の時にぼくを指名してくれたため、ぼくも星さんの挿絵に進出することができたわけです。
星さんの挿絵のほとんどをぼくと真鍋博さんが描きました。星さんが不特定のイラストレーターに依頼することを嫌ったからです。理由は、多くの画家は大事なオチを絵にしてしまうから、ということでした。
装丁のコツ
「装丁のコツは?」と時たま人にきかれることがあります。僕は「初校ゲラをよく読むことです」と答えています。文章の中に装丁のヒントになる要素が含まれているから。あとはそのヒントを生かして、丁寧に仕事をすることだけです。