話の特集、和田誠
『話の特集』 で和田誠さんのした[『暮しの手帖』の]パロディ、『殺しの手帳』には、めちゃくちゃ反応した。
(略)
私にとっては『話の特集』の創刊自体が、まるで夢のようだった。(略)何から何までが「新しい雑誌」だったのだ。
まず雑誌にアートディレクターがいた。そして、それは和田誠さんなのだ。表紙が横尾さん、イラストレーターは宇野亜喜良さんをはじめほとんど広告畑のデザイナー。そして篠山紀信さん、立木義浩さん、高梨豊さんと後にビッグネームとなるカメラマンが勢揃いだ。こんな、こんな雑誌を待っていたんだ!と私は思った。
「『NIPPON』が創刊された時の驚きは今でも忘れることができない。」
と書いたのは、亀倉雄策である。(略)当時の水準をめちゃくちゃに超えたデザインは、いま見ても、とても昔の雑誌のレイアウトに見えない。私は、亀倉さんの驚きを、自分の『話の特集』体験に重ねている。同等のショックと喜びだったと思う。
『話の特集』は、業界誌や専門誌の才能と水準を、いきなり一般雑誌に一挙に持ち込んだ。このことで、その後の日本の雑誌文化が、大きく舵をきったことを、私はもっと世間は知っているべきだと思う。(略)
『話の特集』創刊の四年後、一九七〇年、『少年マガジン』の表紙をなんと、横尾さんが担当するようになっていた。少年漫画誌の編集部員の、おそらく全員が『話の特集』の影響下にあった、と私は睨んでいる。
(略)
その活動があまりにも多彩で華麗であるために、忘れられてしまいそうな、出版文化の歴史を動かした人としての和田誠像を、正しく伝えてほしい。
美学校
「美学校」は「現代思潮社」という出版社が、いままでの美術大学とはまったく違う新しい美術学校をということではじまったのだった。
この「現代思潮社」というのがそもそも「良俗や進歩派に逆行する『悪い本』を出す」というのが“モットー”という会社で、吉本隆明や埴谷雄高、澁澤龍彦や種村季弘といった著者の本を出版していた。
(略)
術中に貼られていた、[赤瀬川原平デザインの奇怪なロゴタイプの]この異様なポスターを私は何度も凝視していたので、いまでもその人名をいくつか思い返すことができる。(花文字)赤瀬川原平、(漫画)井上洋介、(硬筆画)山川惣治、(図案)木村恒久、(油彩)中村宏、(素描)中西夏之。
そして講師陣には澁澤龍彦、瀧口修造、種村季弘、埴谷雄高、土方巽、唐十郎とある。(略)この講師の面子だけでも、めちゃくちゃインパクトである。
それに無試験だ。私は生徒になると即決した。
木村恒久先生
当時のデザイナーの中で、もっとも深いところまでデザインについて理詰めに考えていたのは木村さんだろう。
(略)
木村さんの授業は、そういう木村さんの日々考える中での一人言のようだった。
(略)
「水彩画、描いてる時に筆洗で筆、洗いますね、横に紙が置いてあって、余分な筆の先の絵具を、そこになすりつけてから筆洗で洗う。水彩画一枚描き終わった時に、こっちの紙に意識してない絵が描けてる」
「電話で話してる時に、メモの用意に持ってるエンペツでくるくるくるっと、無意識にイタズラ書きしてますね。あれ、何ですか?」と質問形だ。「最近ボクがやってるパターンはアレです」
「デザイナーとしての義理があるから、くるくるに厚みつけて影つけてますけどね」
と、いきなり実作例の秘密が開示される、おもしろい。(略)
[赤瀬川先生の話によると、中平卓馬が頼んだ写真集のデザインを]取りに行くと、いきなり「情報論」とかムズカシイ話題をふっかけてきて、ちっとも上がったはずのデザインが出てこない。[ようやく座ブトンの下から出してきたのが]
(略)
丸と四角だけのなんとも言えないデザインなのだ。
「なにしろその情報論ヴワァーの後だからねえ、そのまんまもらって帰ってきたらしいよ、注文つけるスキがない(笑)」(略)
「カラーテレビ、あの素人に触らせないようにしてあるツマミ、あれ勝手に動かすとおもしろいネェ。色メチャクチャになりますよ」と授業の時にも言っていた。(略)
「情報、変わりますよ」
というのは、木村さんの口まねをする時のコツなんだけど、あきらかに「情報」変わる。
唐十郎の講義
その日は、はじめて見る、怪しい風体の男がさっきから教室のはしにある流しで、蛇口から直接水を飲んでいた。いや、飲んでいただけならなんともないが、ずっと飲み続けているのだ。
その異様さに、だんだん気のついた頃、「客の入り」を確認してた唐先生が入ってきた。
「なんだ!?キミは?」
って、まるで志村けんのコントみたいだが、ほんとにコントがはじまったのだ。
水飲む男は、大久保鷹だった。状況劇場の看板俳優である。先生は男に次々に難題をふっかけた。三階の窓から、ちょっと跳び降りてみろ、なぜ跳び降りないんだ!?と怒鳴ったと思うと、今度は「こんにちは、さようなら」と、何度もアイサツを繰り返させたりする。ほうほうの体で男が怪しいままに退場すると、世阿弥の『風姿花伝』の講義がはじまった。
土方巽の講義
その人は、怪僧ラスプーチンのような、東北のお婆さんのような人で、いつの間にか教壇に座っていた。長髪を後ろに束ねて、猫背で小さく座っているが、異様に鋭い顔をしている。生徒がしんとして固唾を呑んでいると、
「ビューウ、ビューウ」
とその人が突然発声をした。その人が土方巽さんであることは、もちろん知っているのだったが、怖いではないか、とても正気の人には見えない。
「私は東北の秋田の生まれですがね、秋田では外が吹雪いて寒い晩に、客になって他家を訪ねる時は、戸が開いたらもう風になって入っていくのだよ。ビューウ、ビューウと言うて、お晩ですも、外は吹雪だのも、何も言うこどはない、ビューウ、ビューウとそれだけ言うて入っていぐのです」
と言って先生は講義に入ったのである。二時間の講義は、おそろしく具体的で抽象語のまったくない話なのだが、まるで雲をつかむような難解さである。が、ただわからないというのとも違う、東北弁でボソボソと語られる話がまるで知らない世界をいきなりのぞかされたような気がして、雲はつかめないが、そこらじゅうにたなびいているのが見えている。かと思うと、「この世で一番、こわいものは何だ!風邪ですよ風邪!ゴホンゴホンの風邪!?」とか
(略)
東北の赤ん坊は自分の体の中におりていって、自分の体で遊ぶのだ。一日中ぐるぐる巻きにされてツグラの中にいれられて、動けないから自分の体をおもちゃにして遊んでいるしかないのだと言う。これが「舞踏論」だった。何がわかったのかはわからないけれども、何かがわかったようなおもしろい講義だった。
土方巽全集 1 『病める舞姫』『美貌の青空』 - 本と奇妙な煙
墨池亭黒坊と「伸坊」
たとえば、このピカソのキュビスムみたいな美人像は、『滑稽新聞』一七三号の表紙の模写だ。墨池亭黒坊っていう浮世絵師の描いたものだが、これが描かれたのは明治四一年。
(略)
黒坊の絵は端正でありながら、必ず洒落たアイデアとグラフィックイメージの驚きがあって、赤瀬川教室での一番人気だった。赤瀬川さんは、その頃「赤坊」ってサインを自作のイラストレーションに入れるようになっていた。我々もマネしてそれぞれ名前の下に坊の字をつけて名乗り出した。私のペンネームが「伸坊」になったのはこの時からだ(本名は伸宏)。
和田誠の功績
私が言いたかったのは、和田さん(たち)がイラストレーションとかイラストレーターという言葉の使用にこめた意味は、当時ももちろんあった「挿絵」とか「挿絵画家」とは違う表現をしはじめたジャンルに、新たな名称を与えて、その違いをあきらかにしたかったということじゃないかということでした。
そうして、それは具体的には、非専門家に開かれた『話の特集』という雑誌で、イラストレーターやイラストレーションを使うことで、一目瞭然に、その意味内容を伝えていたのだと、思います。
(略)
レイアウト、デザイン、アートディレクション、という考え方、テキストとヴィジュアルのウェイトの置かれ方、イラストレーターの扱われ方。つまり、「編集者の考え方」がガラッと変わった。変わったなり、それはすぐさま、「当り前」のことになっていく。
そして、「雑誌はヴィジュアルなもの」になった。その、そもそもの源流のところにいたのが和田誠と『話の特集』だったのだ。このことはクッキリ記憶されるべきだ。『新青年』のことをさんざん話題にしたくらいにはすくなくとも。
イラストレーションというコトバが輝いていた時代、それが日本の「イラストレーション史」だ。輝かせた和田誠さんの名前は、もちろんいまもよく知られてはいる。が、もっと!年表にクッキリ記されなくちゃと私は思っている。(略)
そして、実はつげ義春さんもまた同じような波及力を持った人だったのではないか?と最近、気がついたんです。
(略)
[『ねじ式』で]おだやかなマンガらしい画風だった表現から、突然ガラリと変わってしまったんです。一九六八年のことです。
(略)
難解で、それなのになんだかぐいぐい魅きつける魅力がある。それは、つげさんが『ねじ式』用に新しい絵を発明したからでした。
(略)
特に一九七八年~一九七九年にかけての、「稚拙なタッチの絵」の、圧倒的な効果というのは、おそるべきものだったと思います。
この、ナイーブアートのような絵をマンガに持ち込む、という革命的手法は、実はつげ義春が元祖だった。
ということに、私は『ねじ式』を話題にした時、いまさらのように気がついたんでした。実は「へたうま」イラストレーションの元祖は、つげ義春さんだったのではないのか!?
実際には「へたうま」イラストレーションということを言い出したのは湯村輝彦さんであって。それはまちがいのないところです。(略)
そして余談ですが、湯村さんのイラストレーションに対して「へたうま」とはじめに指摘したのは、つまりその魅力を明言したのは、またしても和田誠さんだったわけです。
青林堂
私が青林堂の社員になって長井さんに教わったこと。それは「優れた作品に対する感謝」の気持ちだ。「楽しませてくれた人を尊敬する」気持ちである。
長井さんは、その気持がとってもピュアで、それがハッキリ顔に表れる人だったと思う。
(略)
[どこの出版社でも門前払いの白土が、これで駄目なら廃業と、最後に持ち込んだのが]
長井さんのやっていた三洋社だった。
作品を見るなり長井さんは、
「あ、『こがらし剣士』の白土三平さんですね」
と言ったそうだ。いままで回った出版社とは、まるで対応が違う。(略)
この対応ができたのは、長井さんが持っていた「尊敬力」だったと私は思う。(略)
『ガロ』の編集を主導したのは、実際には白土三平さんであったろう。若い読者や、マンガ家たらんとする人々に、三平さん自身がコラムで呼びかけていたし、水木しげるさんや滝田ゆうさんに声をかけて『ガロ』の主軸を作ったのも三平さんだ。
(略)
『ガロ』はまず、作者同士のつながりなのである。が、それも長井さんの「尊敬力」があったればこそなのだ。と私は思っている。
資金に余裕のあった時も、原稿料がタダの赤貧の時も、さまざまな才能が集まってきたのは『ガロ』に載ったそれまでの「作品」の力と長井さんの「尊敬力」のなせる業である。
たとえば「入選作」を選ぶ時に、それは現れる。つまり「出版界の常識」にも「資本の論理(金儲け主義)」にも、とらわれない判断ができるのは、この稀有なキャラクターに限られるのだから。
たとえば、川崎ゆきおの入選作『うらぶれ夜風』である。私が入社した直後だったと思う。これが入選して「アッ」と驚いたのは私だけではなかったろう。
「長井さん、スゴイねえ」
と赤瀬川さんも言った。アレを入選させるって。普通できない。でも、おもしろいんだよね、読んだらおもしろい。
佐々木マキさんはすでに、川崎ゆきおのファンになっていた。コマの細部やセリフのおもしろいのを話題にしていた。
「あれを入選させる勇気はどこからくるんですか?」と私は直に聞いてみた。長井さんの答えは、
「おもしろいから」
(略)
斬新すぎる画風は、どうして生まれてしまうのか?それは描き手のモチベーションが少年マンガや少女マンガの外側からやってくるからである。川崎ゆきおのモチーフは、おそらく江戸川乱歩の戦前の挿絵だろう。ジャンル違いからの引用だ。
花輪和一は伊藤彦造のキャラをモロに引用した。しかし、文脈がまるで違っている。異常に妖艶な美男がナンセンスなセリフを吐く。
蛭子能収は、横尾忠則とゴダールのファンである。モロに横尾さんの描法をとり入れているのだが、本人の個性がムキ出しで、それと気づけない。
オリジナルに似ないのは、ヘタだから、でもあるけれども、それより自分に描きたいものがあり、描きたいようにしか描けないからでもある。
結果、それぞれの絵は、引用したオリジナルとは似て非なる「魅力」を持つことになる。その部分を「尊敬」し「支持」してくれる人があるからだ。
常識ある編集者は、これを理解できない。なんでいま、わざわざ戦前の古くさい絵を持ってくる?なんでいま、猟奇なの?なんでエログロナンセンスなの?とわからないでいるうちに、世の中のほうが変わってしまうのだ。(略)
長井さんに、時代の先が見えていた。と考えるより、モノを作る人というのは「自分の好きに作るのだ」ということをわかっていたということだろう。(略)
私の仕事の仕方にも、長井さんはなんでもOKだったわけじゃないハズだ。(略)
でも、編集に関して任されてからは一度も口をはさまれたことはない。
「ミナミはミナミなりにやりたいことをやってるのだ」
と、わかってくれていたに違いない。
まわりが見えなくなっている私に
「ミナミ、あんまり凝らんでいいぞ」
というのと、連日遅刻していた私に一年一度の忘年会の時にだけ
「チコクはな……なるべくな」
と一言いわれたきりだ。
編集者のころ
同僚の石川文子さんが、マキさんの奥さんだったのだ。マキさんは文子さんを迎えに来たのだったか。ニコニコしながら部屋に入ってきた。私はつられてニコニコした。ニコニコしているマキさんと同じ場所でニコニコしていると、友達にしてもらえたようでうれしかった。
(略)
佐々木マキさんは「少年のような」という形容がまだなかった頃にそのような人だったけれども、それでももう、その頃は二〇歳をすぎていたはずだ。
(略)
林静一さんとは、毎月イラストの原稿を受けとりに渋谷の喫茶店でおちあって、ムズかしい話や、ホモやヘンタイの話を一時間も二時間もねばってしていた。冗談やスケベ話とムズかしい芸術論を林さんは区別なしに話した。
(略)
つげさんの前では私はたいがい迷惑な客だった。やりたくないっていう信号をさんざん送っているのに無視をして、タダの仕事をしつこくさせようとする図々しい編集者だったからだ。
忠男さんにも、それは同じことが言えるので。本当に迷惑だったろうと思うが、甘えるだけ甘えていたと思う。千葉のお宅まで行って、ワク線を引いたり、ベタを塗ったり、時にはスミ入れをしたりしたのは私にはとても楽しい思い出だったが。
決定的に嫌われたな、と思ったのは花輪和一さんだった。花輪さんの部屋で見つけた、ハ割方出来上がったまま、打ちすてられた作品を、完成してほしいと無理にせがんで、無理矢理、描かざるを得ない具合に追い込んでしまった。描きたくないから、そうなっていたのにちがいないのを、とにかくファン心理で完成してほしいと無理強いしたのだ。以後、まともに口を利いてもらえなくなった。