- オリンピック・スタジオ
- ドローマー・ゲートの誕生
- コンプレッション・ブレンディング
- オプティカル・コンプレッション
- 先見者キース・グラント
- トライデント
- トニー・ヴィスコンティの裏技
- ベヒシュタイン製グランドピアノ
- トライマイキング
- クリス・トーマスによるピストルズ秘話
- クリス・トーマス:PAシステムの創造的な使用法
前回の続き。
英国レコーディング・スタジオのすべて 黄金期ブリティッシュ・ロックサウンド創造の現場
- 作者:ハワード・マッセイ,ジョージ・マーティン(序文)
- 発売日: 2017/10/27
- メディア: 単行本
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オリンピック・スタジオ
「胸いっぱいの愛を」
爆裂するドラムサウンドも魅力のひとつであり、これはオリンピックのスタジオ・ワンでジョージ・チキアンツが録ったものだった。
「経営陣は16トラックレコーダーを狭いほう[スタジオ・ツー]に入れた。ロックバンド勢をそちらに引き寄せて、[スタジオ・ワン]から遠ざけるためだったんだ。[ワンでは]主にクラシックや映画のサントラを録っていたから(略)
でもジミーは広いほう[スタジオ・ワン]を選んだ――そちらには8トラックレコーダーしかなかったのにね。ドラムをステレオでちゃんと録るには十二分な広さがいると、ジミーは考えたんだよ」(略)
ペイジ本人も言う。「あの曲をああいうパノラマ的なステレオ体験ができるものにするには、ボンゾをしっかりと前に出す必要があった、スティックの一打一打がはっきりと聞こえて、聴く人がそれをしっかりと感じられるように」
ドローマー・ゲートの誕生
「オリンピックで当初使っていたキーペックス・ゲートは良かったんだけど、[たとえリリースタイムを最速に設定したとしても]スイッチを切ったあとで、ディケイがはっきりと聞こえるくらい残っちゃったんだ」とフィル・チャップマンはふり返る。そしてそれは当然、軽いいらいらの種だった。「それまでは頭の中で鳴っているサウンドになるように、エコープレートを手動でオン/オフしていたんだけど、キーペックスだとそれができなかったからね」
(略)
[80年]「(略)彼はかなり変わったサウンドの出る、かなり変わった見かけのオルガンを持っていた。『それ、どこで買ったの?』と何気なく訊いたら、なんと『いや、自分で作ったんです』と。えらく感心したよ」。その鍵盤奏者の名はアイヴァー・ドローマーといった。(略)「で、僕のためにゲートを作ってくれるように、ちょっとずつ仕向けていったんだ」(略)[ディケイを]ピシッと切りたいんだよなあ』という感じかな。それでアイヴァーが1つ作ってくれたんだ。彼はまだ半信半疑で、こんなものが使い物になるんだろうかと自信なさげだったんだけど、それはまさにわたしが求めていたものだった。リバーブをドラムサウンドの要素と融け合わせるのに打って付けだったんだよ。早速、彼をうちのメンテナンス担当だったジム・ドウラーに紹介したら、ジムもその[機器の]潜在力をすぐに見て取り、こうしてアイヴァーは1台目[ドローマーDS201デュアル・ノイズ・ゲート。販売開始は1982年]を作ることになったんだ。僕にも1台作ってくれてね、あれは心底気に入ったから、何にでも使うようになった。アイヴァーはしかも、ゲーティングをする周波数を制御できるようにと、サイドチェインインプットも付けてくれたんだ」
コンプレッション・ブレンディング
高度に圧縮した信号を非圧縮のそれと融合させ、狙ったとおりのダイナミクスを手に入れる技術は、大西洋の両岸で古くから現在に至るまで一般に用いられている。だが、エンジニアのテリー・ブラウンによれば、その発案者はほかでもない、創意工夫に長けたオリンピックのオーナー、キース・グラントだった。
(略)
「キースがそれをしたのを初めて見たのは1964年、まだオリンピックがカートン・ストリートにあった時代(略)
クライヴ・グリーンが早くもコンプレッサーを発明していて――光が灯る、小さくてクールなダイオードを使ったもので、それがすごい威力を発揮してくれた(略)
当時は一般にモノでやっていたから、ステレオのコンソールはあったけれど、必要なのは左側だけだった。キースはそのクライヴのコンプレッサーをステレオバスの右側につないで、フェーダーを動かしてコンプレッションの量を調整して、自分の求めるサウンドを手に入れていたんだ。そうか、あれはああいうふうにも使えるんだ、賢いなあと思ったのを覚えているよ。実際、その手法はそれからオリンピックの定番になった。とても効果的だったんだ」
オプティカル・コンプレッション
「キースは革新者だった」と、クライヴ・グリーン(略)「こんな機材やあんな機材を作ってくれと、よく言われたものだった、とくにコンプレッサーをね。
(略)
「オリンピックがカートン・ストリートにあった時代、市場にあったコンプレッサーはフェアチャイルドだけだった。でもあれは真空管を使っていたし、相当高額だった。VCA[ボルテージ・コントロールド・アンプリファイア]はまだ存在すらしていなかったんだけど、光依存性抵抗(LDR)[訳注:フォトレジスタ、フォトセルとも呼ばれる]というものは買えた。そのセルの電気抵抗は独特で、光を当てると、抵抗が低くなる。だからそれを電球を入れたアナログ回路に組み込んで、そこを通る音声信号によって電球の光の強さが変わるようにすると、かなり効果的なコンプレッサーになったんだ。しかもその類の場合、コンプレッサーが圧縮を始める前に信号の頭がそこを通過するから、とてもいいサウンドが創れるという利点もある。もっとも、反応があまりに遅すぎて、ブリックウォールリミッターとしては使えないけれどね」
グリーンがキース・グラントのために手作りしたこの機器は結果的に、スタジオ使用を目的に開発されたUK初のオプティカルコンプレッサーになった。(略)
[LDRのフィラメントの反応の遅さは]前もって電流を流して温めておけば改善できたし、それでレスポンスタイムを早くすることができた。それからずいぶんあとになってLEDが登場して、LEDはレスポンスタイムがずっと早かったから、おかげでフィラメントが温まるのを待たなくてもよくなった」。素材もサウンドに大いに関係した。「当時普通に手に入ったLDRには硫化カドミウムが使われていたんだけど、その後、セレン化カドミウムが使われるようになって、それでレスポンスタイムがぐっと早くなったんだよ」
先見者キース・グラント
設計者として、キース・グラントは世界屈指の名録音施設を建てた。エンジニアとして120曲近いトップ20ヒットを録り、そのうちの1曲、プロコル・ハルムの「青い影」は現在でも全世界のラジオで頻繁に流れている。だがそれよりも何よりも注目すべきは、1人の人間として残した、永遠に輝きを失わない功績だろう。
「オリンピックですばらしかったことのひとつに、誰も何も隠し立てをしなかった点がある。レコーディングに関してはとくにそうだ」と、グラントは語っている。「誰かが何か方法を見つけたら、それはみんなに伝えられた。ジョージ・チキアンツが〈イチクー・パーク〉のフェイジング法を発見したときもそうで、次の日には全員、そのことを知っていた、文字どおり全員がね。オーケストラのマイキングも、スタジオのセッティングも、EQの設定も、エコーの設定もそう。みんなでアイデアを共有したし、秘密は一切なかった。
「あそこの連中はみんな、仲間意識がとても強く、結束が固かった。自分が必要とされていないなら、働かなくていいし、必要とされているなら、働かないといけない、それがあそこの基本精神でね。単純明快だったんだ。
(略)
誰もが平等だったし、いわゆる責任者はいなかった。みんな、自分が何をしないといけないのかがわかっていて、めいめいがそれをちゃんとやったんだ」
フィル・チャップマンは端的に言う。「オリンピックが独特だったのは、スタッフが完全に自由だったからなんだ。どんなアイデアも自由に試せたし、それがどんなに突飛で、どんなに向こう見ずなものであろうが、関係なかった。キースの辞書に“できない”の文字はなかったんだ。(略)何ものにも音楽の邪魔はさせない、と。それが信条だったんだ。
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トライデント
[人間味のない実験室のような大手スタジオでは]「皆が白衣を着て科学おたくのようにふるまう。そのせいでアーティストは創造に必要な生気を吸い取られていた。だからトライデントはミュージシャンが自由に自分を表現できる場にしたかった。どことも違う空気感が欲しかったんだ」(略)
[ドラマーとしてまずます成功したノーマン・シェフィールドは、家族のために旅回りの暮らしをやめ]
ロンドン北部の郊外の町ウォーザン・クロスに楽器とレコードを扱う店を開いた。そして間もなく、テレビの修理工として機械いじりの腕を磨いていた弟バリーを雇い入れる。兄弟は地元の音楽のプロモーションに関わるようになり、さまざまなダンスホールギグの仕切りや、ザ・フー、ジ・アニマルズといった人気アーティストのブッキングを始めた。同じ頃、シェフィールドはテレビのCM音楽を書く仕事も受けるようになった。
売り物のレコードと楽器の仕入れを続けるなか、彼らは中古の録音機器も買い集め、いつしか店にはなかなかのコレクションができ上がっていた。そこで兄弟は上階のオフィスに間に合わせのコントロールルームをこしらえ、下の階の売り場とタイラインでつなぎ、店の休憩時間中に地元ミュージシャンたちが録音できるようにした。
この試みが当たった、1966年頃には店では明らかに手狭になり、兄弟は外に目を向けることにする。(略)
[ソーホーの中心にあった崩壊寸前の建物。68年3月開業。7月30日アビイ・ロードに不満を持ったビートルズが「ヘイ・ジュード」を録りに来たことで運命が決した]
[71年A&Rも開始、三番目に契約したのがクィーン。ファーストおよびセカンドアルバムの制作ではスタジオの“空き時間”を無限に使うことが許されていた]
クイーンは社員エンジニアのロイ・トーマス・ベイカーを卓の前に座らせ、その時間をがつがつと貪り食った(略)
クイーンとトライデントはその後、険悪な雰囲気のなか決別することになるのだが(略)[世界的スターとなる]彼らの背中をシェフィールド兄弟との契約が大いに押した(略)
[73年、ビデオ制作にも参入]
ノーマン・シェフィールドはミュージシャンであり、起業家であり、反逆児であった。(略)弟のバリーと力を合わせ、うち捨てられていたソーホーの彫刻作業場を業界有数の卓抜なスタジオに一変させた。(略)
(現在でも)高い人気を誇るコンソール製造会社を立ち上げ(略)
[スタジオ崩壊後は、他に先駆け]アップル社のUK販売代理店を開き(略)英国で使えるように変圧器を付けて売った。
トニー・ヴィスコンティの裏技
トニー・ヴィスコンティは、トライデントで駆使したお気に入りの裏技があったのだと笑顔でふり返る。「男子トイレだよ。(略)スタジオフロアのすぐ脇にトイレがあったんだ。(略)わりとすぐに『そうだ、ここならいい音が出せるぞ』と気づいた。(略)エコーはどんなセッティングのプレートリバーブのそれよりもはるかに上。というわけで(略)アーティストを男子トイレに入れて録ることにしたんだ。(略)フロアのすぐ脇にあったから、ケーブルをつなぐのも楽だったんだよ。
「1968年には早くも、わたしはトイレでTレックスを録っていた。〈ライド・ア・ホワイト・スワン〉では(略)手拍子とタンバリンをそこで録った。ついにはマーク・ボランのギターアンプもそこに置いて、目の前と少し離れたところにマイクを1本ずつセット。ボランがボリュームを上げると、ものすごいリバーブがぐわんと。リバーブはいい感じで短かったし―1秒以下かな―タイルやら排水管やら、音を跳ね返しやすい硬い表面も最高のサウンドをくれた。あそこにミュージシャンやアンプを何回入れたことか、それこそ数え切れないね。ドアを開けっ放しにして、マイクを1本突っ込むこともあった、ドラムのアンビエントが録れたから。あのトイレは2台あったEMTプレートの見事な代わりになってくれた。(略)男子トイレは換気口が通りに面していた。だから道行く人にしてみれば、どこからか轟音が聞こえてきて、うるさくてしかたがないこともしょっちゅうだったと思う。角のサンドイッチ屋のご主人には実際、あんたたちのせいで客が逃げちまうって、よく文句を言われたよ。(略)
だから近くの格子に耳を当てれば、たとえばジョージ・ハリスンの次のシングルが何なのか、一発でわかったと思うね」
ベヒシュタイン製グランドピアノ
トライデントにあったハンドメイドのベヒシュタイン製グランドピアノは100年以上前に作られたもので(略)
[「ヘイ・ジュード」「ユア・ソング」などに使われ]
スタジオ付きのピアニストだったリック・ウェイクマンがデヴィッド・ボウイの「チェンジズ」や「火星の生活」で弾いたのも、このピアノだった。(略)
並外れてブライトなサウンドは、ハンマーを固くしてあったのと、その重く硬いアクションのせいで、演奏者は気合を入れて鍵盤を叩かざるをえなかったから生まれた、とも言われている。
トライマイキング
[マーク・ボランの愛人グロリア・ジョーンズのアルバム録音時、広いダイナミックレンジの歌声を活かすため、ノイマンKM84を3本輪ゴムでひとまとめにして、三角巾で吊った腕に持たせ、たるまないよう前に押し出させた。3つのチャンネルに振り]
レベルはすべて同じ、EQはなし――1トラックにミックスし、1つのモノ信号になるようにした。「そうしたらS/Nがぐっと良くなった。[おまけに、低音の力強さも増した](略)
[通常、コンプを先にかけ、リミッターで仕上げるが、それを逆にすると]
ダイナミックレンジが2倍で、ポンピングは半分、しかも歪みをかなり抑えられた。(略)
リミッターにUREI 1176を使い、レシオを4:1に設定し、アタック/リリースをやや速くしたが、スレッショルドはピーク信号にだけ反応するよう調整した。コンプレッサーにはADRヴォーカル・ストレッサーを用い、レシオを2:1、アタックを最遅に、リリースを約0.5秒に設定した。
(略)
異なる種類のマイクで試してみたが、すべて同じモデルのほうが信号の融合具合が良いことがわかった。また、トライマイキングはマイクを音源からある程度離して置くのが最も効果的であることも突き止めた。「近づけすぎると、位相の問題が起きるから」注意が必要だと、スタヴロウは言う。
- ウェセックス・スタジオ
クリス・トーマスによるピストルズ秘話
2、3カ月後、アルバム作りを始めるのにウェセックスに戻ったときにはもう、グレンはクビを切られていて、ミュージシャンはスティーヴ・ジョーンズとポール・クックだけだった。(略)
考えた挙げ句、テイクがキープかどうかを決めるには、スティーヴにベースをかぶせてもらう以外にないという結論に達した。(略)で、スティーヴがスタジオに入って弾いたのは、自分のギターとまったく同じフレーズでね、その瞬間、すべてがぴたっとはまってくれたんだ」
だが、これはまだほんの序の口だったと、トーマスは続ける。「いやね、僕はステレオがダメなんだ、聴いていられないんだよ、左耳が聞こえづらいからだと思うんだけど。だから、何かの楽器が片方のスピーカーからしか出ないとか、そういうのは嫌いでね。死ぬほどくり返しオーバーダブして、いろいろな楽器をいくつもいくつも積み重ねているときでも、左側から出てくるものは、それが何であれ、まったく同じものが右からも出るようにミックスしていた。左端と右端にパンするのはドラムオーバーヘッドとクローズアンビエントだけ。ディスタントアンビエントマイクはたいてい、ゲートをかけて中央にパンしていた。
(略)
名付けて“モノデラックス”。ギターパートを録り終えたスティーヴにその場でダブルトラッキングさせた。で、ミキシングの際に一方のギターを左端に、もう一方をセンターに置いて、どちらかのギターをハーモナイザーに通し[ピッチをわずかに変え]、それを右端に持っていった。その結果生まれたのが微妙な不完全の連続で、ギターのトリプルトラッキングに匹敵するくらい強力になった。これはいいと思って、それでピストルズの曲の音風景は[これ以降]全部、それでいくことにしたんだ。(略)
[というわけで]素のままのギターが真ん中にあって、その真下にまったく同じフレーズを1オクターブ低く奏でるベースがあるんだよ。
クリス・トーマス:PAシステムの創造的な使用法
1979年、ウェセックスでプリテンダーズと仕事した際、彼はPAシステムの創造的な使用法を考案したのだという。
「(略)あのスタジオはあまりにもデッドで、そこらじゅうがカーペットだらけだったからなんだけど、わたしはとにかくそれが気に食わなかった。それでふと、PAを持ち込んで、ドラムマイクを全部そこに通したらどうだろうと思ったんだ。ステージに立って、モニターから出てくるドラムを聴いている感じを再現できるんじゃないかと。サウンドに軽く生命を吹き込んでやりたかった、それだけのことなんだ。
「ただし、問題もひとつ。あまりにもうまくいったから、それを何にでも使いたくなっちゃったんだよ。たとえば〈プライベート・ライフ〉では、クリッシー・ハインドのボーカルもPAを通している。そのあと、オーストラリアでINXSのシングル〈ホワット・ユー・ニード〉を録ったときは、ドラムをPAに通しただけじゃなくて、手拍子みたいなドラムマシン的エフェクトも入れた。よく聴いてごらん、クローズマイクで録ったパートに負けないくらい、PAから出てくる音もはっきりと聞こえるから」
次回に続く。
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