英国レコーディング・スタジオのすべて・その3

前回の続き。

秘技“ザ・ヴォーテックス”

[ブランドXの録音にアシスタントで参加したクリス・タンガリーディス。他は休憩に行き、ギタリストのジョン・グッドソールと残され]
わたしらに与えられた指示は「でかい音にしろ」だけ。(略)ふとひらめいて、それでジョンに「ねえ、そのスピーカーキャビネットを使って、大きなバスビン(低域用スピーカー)を作りましょうよ」と。ジョンはJBLのスピーカーが入ったマーシャルスタックを持って来ていたから、そこについたてでフレアーを付けた。長さは左右それぞれ15フィートくらいかな、それで巨大なバスビンに仕立て上げたんだ。おかげでかなりラウドになってくれた。音が全部、数フィート離して置いたマイクに向かってくるわけだからね――マイクは[ノイマン]U87だったと思う。
 「それと、U67も大量に部屋中にセットした。壁、床、天井、考えられる所にはすべて置いて、1本ずつ違うトラックに入れた。で、わたしは当時スタジオにあったキャダック卓をいじり回した。あれはクアッド対応だったから、トラックを4台のスピーカーにパンするのに使うジョイスティックが付いていた。ジョンが弾きまくっているかたわらで、わたしはそのジョイスティックを適当に動かしながら、コントロールルームで1人、好きに遊んだんだ。(略)
 「ジョンがプレイバックを聴きに戻ってきたから、さっきまでやっていたみたいに、いろいろなトラックをあちこちにパンしてみた、あくまでも遊びでね。ところが、それがステレオで聴いてもめちゃくちゃ面白かったんだ。ランダムな音が右から大きく出て、今度は左から出てという感じで、全体がぐるぐると動いているようだった。『うわっ、すごいよ、これ!』とわたしが感激していたら、ジョンも『おお、こりゃすげえ。渦巻きだ!』。
 「それでこの技を“ザ・ヴォーテックス”と名付けて、それからよく使うようになったんだ
(略)
最近はマイクを2本しか使わないことが多いかな――クローズマイクとスイートスポットにルームマイク、それぞれ違う側にパンして。気づいたんだけど、ギタリストがパッセージを弾いているとき、2本のマイクの距離によってそれぞれに位相の違う周波数が生じ、それが定在波を生む。基本的に一方が他方を相殺するから、それでパンで振って動いている感じになるんだ。「ヴォーテックスはどこで買えるんですか?」なんてよく訊かれるんだけどね、答えはもちろん――売ってません(笑)」

  • チョーク・ファーム・スタジオ

レゲエ録音

ヴィック・ケアリーの新スタジオは当時英国で急速に人気が高まっていたレゲエの録音で名を馳せることになる。ここの売りのひとつが45回転ではなく78回転用の電子回路を入れた旋盤で、これを使うと、ケアリーいわく「低音がずんと前に出た。それでレゲエの連中はうちでカットしたレコードに惚れたんだよ」
(略)
最盛期、チョーク・ファームはソーホーのグースベリー・サウンドとともに、レゲエ関連の仕事では無敵を誇った。実際、ジャマイカ産レコードのサウンドを英国で正確に再現できるのはイングランドにはこの2つのスタジオしかない、というのはプロデューサーの間では常識だった。

  • アップル

「パワー・トゥ・ザ・ピープル」秘話

 [アップルのカッティングルームを訪れたジョン・レノンはどんな音にしたいか、シンプルに伝えた]
でかい音でたのむ。この要望に応えるべく、マスタリングエンジニアたちは盤を半分の速度でカットする技を編み出す(略)マスターテープを半分の速度で再生するのはわけなかった。だが、問題は彼らが使っていたノイマンの旋盤で、多少手を加えても、最遅で331/3rpmをわずかに下回る程度にしかならず、必要とされる速度22.5rpmには到底届かなかった。「でも、うちの連中は見つけたんだ」とエンジニアのジョン・スミス。「旋盤にかける電圧を落とせば、速度を半分に、いやそれ以下にだってできると。旋盤とテープマシンを両方とも半分の速度にしてカットすると、アセテート盤の音量が上がり、低音もかなり良くなった。もっとも、これがノイマンの耳に入っていたら、うちとの保証契約書は確実に、窓から放り投げられていただろうけれどね(笑)」(略)
スミスいわく「どういうわけか、あれはカットしてからプレス工場に行くまでに、少なくとも半年はかかった。どうしてなのかは知らない。(略)缶に入ったまま、長らく棚の上で工場行きを待っていた。それでようやく白ラベル[のプロモ]盤が来たんだけど、驚いたよ、かなりハードエッジなサウンドになっていたんだ、神に誓ってほんとうに。これはあくまでわたしたちエンジニアの見解だけど、その半年の間にアセテートが物理的に固くなったから――実際、少なくとも工場に送るときの普通の盤のような柔らかさはなかったし――それがサウンドにも影響を及ぼして、よりハードな感じに仕上がったんじゃないかな」

  • アイランド

ヘリオス誕生秘話

 クリス・ブラックウェルはオリンピックのメンテナンスエンジニア、ディック・スウェッテナムが同社の広いスタジオ・ワン用に作ったコンソールが大好きだった。というか、惚れ込んでいた。だからこそ、2部屋からなる自身の録音施設にはスウェッテナムのコンソールがどうしても欲しかった。あれはきっと客を呼ぶ目玉になる、スタジオの黒字化に大いに貢献してくれるはずだと、ブラックウェルは考えた。
 だが、それには問題がひとつあった。どうしたらオリンピックの社員を説得し、競合他社のためにミキシング卓を作らせられるのか?悩んだブラックウェルはプロデューサー/エンジニアのグリン・ジョンズに相談する。ジョンズの提案は、スウェッテナムと一緒に会社を立ち上げ、コンソールの設計および製造業を始めてみては?こうしてヘリオスは生まれた。
 アイランドは、移動スタジオ用を含め、合計7台のヘリオス卓を作らせた。ジェフ・エメリックはアップル・スタジオ用に1台頼んだ。ピート・タウンゼントはランポート・スタジオ用に1台、イアン・スチュアートはローリング・ストーンズ・モービル用に1台、さらにブラックウェル最大のライバル、リチャード・ブランソン率いるヴァージン・レコードも3台(略)最終的に125台前後のヘリオス卓が英国および欧州のスタジオに置かれた。しかも、そのすべてが特注品だった。(略)
これもまた、音にも経営にも明るかったブラックウェル氏の慧眼の証だ。

  • グッド・アース

[トニー・ヴィスコンティ談]
「自分のスタジオだったからね、やりたいことは何でもやれた。機材ももちろん、気に入ったものが発売されたら、すかさず手に入れた。その頃にはもう売れっ子のプロデューサーで大金を稼いでいた[から、節税のため](略)新しい機器に金を注ぎ込むのは理に適っていた。つまり、予算は青天井だったわけだ」

トニー・ヴィスコンティ:キーペックス

「プロデューサーに自前のスタジオをくれてやれば、そいつはやりたいことを何でもするようになる。で、わたしはまさにそうしたんだよ」と言って、トニー・ヴィスコンティは笑う。(略)
[その結果が]大量のアウトボード機器という宝の山だった。ヴィスコンティはキーペックスやゲイン・ブレインといったヴァレー・ピープル社(元アリソン・リサーチ)の機器にとりわけ入れ込み、文字どおり数十台も所有するに至った。さらに、彼はそれらを持っていただけではなく、かなり創造的な方法で使いもした。「トリガリングにはかなりはまった――たとえば、スネアの音がちょっと細いなと思ったら、100Hzの正弦波信号をムーグ・シンセで出して、スネアをその正弦波のトリガーにするとか。そうすると全体に太くなった。キーペックスが登場する前は、どれを使ってもこういうことはできなかった。キーペックスの反応はむちゃくちゃ速かったからね。あれはその手のことをするために作られたようなものだったんだ。
 「『スケアリー・モンスターズ』のタイトル曲ではキーペックスをボーカルに使った、卓上のオシレーターが出す20Hzの信号にキーを合わせて。隠し球的な小技だよ。で、声にトレモロがかかったようになるまでスレッショルドで遊んだんだ。それとヴァレー・ピープルのゲイン・ブレインもお気に入りだった。あれは驚愕の一品だったな。よくあれにべースを通したものでね、いい感じのパンチのあるサウンドになったんだ」

スタジオ名がクレジットされてない作品が多数ある(略)海外で録りました、という体を装いたがる顧客もいたんだ、税金対策だよ。最初にやったのはマーク・ボラン。いや、マークの言葉に嘘はなかった――録音は国外でやっていたからね。でもミキシングはグッド・アース。

  • タウンハウス・スタジオ

一発で世界を変えたドラムサウンド

ゲートをかけたスネアサウンド、80年代のレコード界を席巻したあのサウンドだ。
 物語は1979年後半、タウンハウス・スタジオの名高き“ストーン・ルーム”から始まる。「あそこはライブな部屋で、フロアは石敷きだった。石にした理由の少なくとも半分は見かけだったと思う」と、エンジニアのミック・グロソップは筆者の拙著『Behind the Glass』で語っている。「というか、いまの基準に照らせば、かなりライブだった。あそこでスネアを叩くと、とんでもなくラウドな音がした、信じられないくらいにね。実際、少しばかり手に余る感じだったから、音響特性を変えたほうがいいかな、とも思っていたんだけど、それがドラムサウンドの定番を生むことになるんだから、面白いよね。
 「ピーター・ガブリエルはスタジオに入る前から、パーカッションサウンドの選択肢を減らしたいと考えていて、今回のアルバム(略)にシンバルはいっさい、クラッシュもライドもハイハットもいらないと決めていた。それは、従来はハイハットとライドで刻む部分をフロアタムとかで補うしかないことを意味した。
 「タウンハウスのSSL卓には天井に取り付けたマイクを使うトークバックシステムがあって、そこには凶暴なコンプレッサーをかましてあった。中でドラムを叩いても、その音を声のレベルと同じにするくらい超強力なやつを――[トークバックシステムでは]それくらいがちょうどよかったからね。そのときのドラマーはフィル・コリンズで、彼はしばらくミュージシャン同士で何か話していて、おもむろに叩きはじめた。その瞬間、コントロールルームにいたみんなの耳に、ものすごく圧縮されたドラムサウンドが飛び込んできたんだ。ピーター・ガブリエルはそいつを耳にするなり、『おおっ、いいね!録って!』と。で、[エンジニアの]ヒュー・パジャムSSLのチャンネルコンプレッサーを使ってそのサウンドを再現しようとした。ヒューはゲートをあれこれいじっていたんだけど、またもピーターの耳が反応した。フィルがスネアを叩くそばから、リバーブをゲートがばさっと切る様子にね。で、それが伝説の定番サウンドになったというわけなんだ。あれはあくまで偶然生まれたものだったのに、絶対に使えと言って譲らなかったのは、ピーターだったんだよ。
 「この話の肝は、もしもシンバルを使っていたら、あのサウンドは使いものにならなかったという点にある。ゲーティングのせいで、シンバルのディケイが全部、でたらめにばさばさ切られちゃって、全体のサウンドがめちゃくちゃになっていたと思う。あのサウンドは基本的に、ドラムを叩いた音と圧縮されたアンビエンスであって、アンビエンスは消えはじめた途端にばっさり切れる、あのゲートのリリースタイムはかなり短かったからね。シンバルがあったら、そうはいかない。逆に言えば、あれはシンバルがなかったからこそできた芸当だった。影響力絶大の超クリエイティブなサウンドエフェクトは、限られた選択肢と偶然の連続によってしか生まれない、という一例だよ」

“RSM”:ザ・ローリング・ストーンズ・モービル

キース・リチャーズはその頃すでに、自分にしか聞こえない、何とも定義しようのない完璧(または非完璧)を追い求め、バンドにスタジオジャムを何時間も延々と続けさせる手法を取り入れていた。リチャーズにしてみれば、スタジオは新たなサウンドやジャンルを試す場というよりも、むしろ豪華なリハーサル室であり、彼はそこで自らが信頼するミュージシャンたちに何らかのリフを与え、彼らがどこまで持って行けるのか試すため、故意に、しばしば朦朧とするくらいまでそれをくり返させていた。
(略)
[倹約家のミック・ジャガーは膨れ上がるスタジオ代を気にしていたが]
 197O年前半、イングランド南部の領主邸スターグローヴスを購入したジャガーの頭に、ひとつの案が浮かんだ――あそこでなら、キースの果てしないジャムを同じく果てしなくかさむ費用を心配せずに録れる、録音に使う機材を運び入れる算段をつけるだけでいけるはずだ。計画を練るなか、ロードマネージャー(にして臨時名ピアニスト)イアン・スチュアートがトラックの中をコントロールルームにする案を思いついた
(略)
 こうして生まれたのが、かの近代的モービルスタジオだった。(略)
機材はほぼすべて(略)トラック内の所定の位置に固定だったため、積み降ろしや搬出入という、それまでの出張録音車に付きものの骨の折れる作業も不要だった。この製作にあたり、彼らはグリン・ジョンズを相談役として招き、音響設計をサンディ・ブラウンに任せ、電子機器類はディック・スウェッテナムとその新会社ヘリオスに発注した。
 197O年夏、ローリング・ストーンズ・モービル(“RSM”と記されることが多いが、スタッフ間では一般に“マイティ・モービル”または“ストーンズ・トラック”で通っていた)は無数のトラックを録り、そこから「スティッキー・フィンガーズ」が生まれた。
(略)
1973年、ストーンズが欧州を回っている最中、元オリンピックのエンジニア、ミック・マッケンナがRSM部隊に加わり、イアン・スチュアートとともに、さらなる開発の指揮を託される。
[2年のうちに、16TRから24TRに、ヘリオス卓のインプットも20から32に。間もなく事務所に問い合わせが殺到し、ミックは絶好の商機と、ZEP他に貸出し]

「スモーク・オン・ザ・ウォーター」

1971年末、RSMはスイスの町、モントルーに運ばれていた。ディープ・パープルがこれを使い、同地の劇場パヴィリオンの音響を活かし、ステージの模様を録る予定だった――観客のいないライブ・アルバムの制作である。
 録音を翌日に控えた晩、RSMはカジノというアリーナの横に駐車されていた。そこはギャンブル場やレストラン、劇場などからなる複合施設の一部で、中ではフランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションが演っていた。ところがその最中、観客の1人が天井に向けて放った信号弾が原因で火災が発生。カジノは焼け崩れたが、“マイティ・モービル[訳注:無敵の車、の意]”はすぐそばのグランド・ホテルに移動し、間一髪難を逃れた。ディープ・パープルはライブ盤作りを諦め、最終的にそこでアルバムを録ることにしたのだが、このときに目にしたレマン湖上に広がるおびただしい煙の光景がきっかけとなり、バンド史上最も有名な曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が誕生した。そして、歌詞の一節“ローリング・トラック・ストーンズ・シング”とともに、RSMの存在も(呼称は多少変えられたが)永遠のものとなった。

アンディ・ジョンズ

「メイン・ストリートのならず者」秘話

1999年、「メイン・ストリートのならず者」の制作について訊かれた際、エンジニアのアンディ・ジョンズは開口一番、「きつかったよ」と、しみじみとした口調で語った。
 亡命中のキース・リチャーズが仮住まいにしていた館ネルコートは「素敵な所ではあった、豪華で、びっくりするくらい広くて。それにちゃんとした地下室もあった(略)
あそこは石と漆喰だらけでね、だから作業はかなり難航した。それとフランスの南部だったから、電気が来たり来なかったりという状態がいつもだったし、湿気がひどく、めちゃくちゃ暑かった。(略)おかげで曲の途中でギターのチューニングがおかしくなるのはしょっちゅうだった。ドラムもまともな音で録れたことがなくて、実際の話、妥協の連続だよ。
(略)
 「おまけに、ストーンズストーンズだから、たとえばおれが夕方6時に顔を出す。でもビルが現れるのは9時、キースは10時頃にようやく下に降りてくるんだけど、今度はミックがどこかにぶらりと出かけて、結局、夜中の11時や12時くらいまで生産的なことはまずできない。それから2、3時間はどうにかまとまるかもしれないけど、またすぐにばらばら。そんなところにおれは半年もいたんだ」
 さらに悪いことに、ミック・ジャガーは最初の妻ビアンカと結婚したばかりで、そのせいで、ジョンズいわく、どこか「上の空」だった。
(略)
 「とにもかくにも、ほとんどいつも、ストーンズは地球上で最も下手クソなバンドだった」と、驚くほどあけすけな物言いでジョンズは続けている。「テンポはずれる、音は外す。なのに誰も『おい、ひでえな、何やってんだよ』とは言わない。誰も『おまえ、チューニングくらい直したらどうだ?』とは言わない。クズ同然の騒音が延々と続く。なのに何時間か、あるいは何日かすると、いきなりぴたっと合う。ビルがすっと椅子から立ち上がり、ベースを弾きはじめる。キースがチャーリーの横に立つ。するとたちまち魔法が起きて、うおおっ!宇宙にまでぶっ飛んでいきそうなくらいの極上体験ができる。いまにして思えば、死ぬほど退屈だったけど、人生最高の時間だったよ」

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