天才ジミヘンドリックス・その3

前回の続き。

崩壊

 なんとかしてバンド・オブ・ジプシーズの演奏をメチャメチャにしてくれようと考えたジェフリーが、ヘンドリックスに楽屋でそっとLSDを渡したのだ、とバディ・マイルスは主張する。(略)
 ジェフリーがこのコンサートに個人的に投資しており、ネガティブな事実が知れ渡ることを極度に嫌う人物だったことを考えあわせれば、満場の観衆の前で自分のドル箱スターに大恥をかかせることが動機だったというのは、いかにも信ぴょう性が低い。ただ、彼が実際にLSDを服用していて、楽屋では自由に手に入ったアルコールも飲んだことで問題を悪化させたということは十分あり得る。彼が酒に弱いことを考えると、それらを一緒に摂取すればその影響たるやひどいことになったはずなのだ。(略)コンサートは惨憺たるものだった。(略)
 ヘンドリックスの出演時間は短いもので、「Who Knows」と「Earth Blues」というたった二曲をぶざまにとおすのがやっとという有様だった。その後で彼はステージに座り込み、続行することを拒んだのだった。(略)
 「あのね、俺たち、今はちょっとまとまりがつかないんだ。キツかったもんだからさ、もうちょっと時間をくれないか。少しだけ時間をくれれば、またしっかりやってみせるからさ」
 ヘンドリックスはドラマーが我慢してくれるよう懇願しているのには耳も貸さず、ギターのプラグを抜いてしまったため、マイルスは仕方なくまたマイクに向かった。
 「マズいことになっちまった。どうなってるのか俺にもわからないんだけど、ジミが降りたがってるんだ。ここはひとつ我慢してほしい。きっとまた後で何かできると思うよ」(略)
ヘンドリックスが楽屋に落ち着いている間にジェフリーは行動を起こし、マイルスと一対一で対決したうえ素早く彼を追放した。こうして、グループは一瞬のうちに終局を迎えたのだった。(略)
ボブ・リヴァインは述懐する。
 「ジェフリーも、もうこれ以上はないというほどバンド・オブ・ジプシーズのことは気にかけてませんでした。ヘンドリックスがツアーをこなし、契約を履行しているかぎりは、彼もサイドメンの皮膚の色がどうだろうと知ったことじゃなかったんです。彼にしてみれば、過去も未来もヘンドリックスこそが唯一のスターであり、他のミュージシャンたちが従業員ということに変わりはなかったわけでね。
(略)
 マイルスが去り、ビリー・コックスも宙ぶらりんという状態のなか、ジェフリーは直ちにノエル・レディングを呼び寄せた。(略)レディングは不本意な形で、ファット・マットレスからやっかい払いされていたのである。

エレクトリック・レディ

予定から一年近くも遅れ、50万ドルもの巨費を投じられたエレクトリック・レディにとって初のレコーディング・セッションは、Aスタジオの広大なスペースでクレイマーがひとりピアノを受け持ち、ジェフリー、リヴァイン、マーロンその他の関係者たちが不安げに見守るというものだった。(略)
 クレイマーは回想する。
 「ヘンドリックスは、スタジオに入ってレコーディングに取りかかるのが待ち切れない様子でした。Aスタジオが使い物になるまで、家に電話をかけてきては『まだできないのか?いつ準備が整いそうなんだ?』とたずねるんですよ。
(略)
 「あのスタジオは、当時流行していた小ぎれいなばっかりのスペースとは反対に、ジミが気持ちよく仕事ができるようにと建設したものですからね」(略)
ヘンドリックスから直接意見を取り入れ、数多くのアイディアを実行に移していた。Aスタジオのコントロール・ルームとスタジオ本体を囲む、曲面を描く防音壁もそのひとつである。壁には白いカーペットが張りめぐらされ、色とりどりの照明が取りつけられたうえに、ヘンドリックスが意のままに照明をコントロールできる計器盤までが用意された。そのおかげで、彼は気分に合わせて色を選ぶことができるというわけである。(略)
 「彼はスタジオにいるだけでご機嫌でした。『赤のライトにしようか、いや今夜は黄色だな』などと言っては、さまざまな色で作られた虹を壁に架けるんです。(略)
 フェイ・プリジンは述懐する。
 「あのスタジオは、ジミにとっては頂上だったの。言ってみれば、自分だけにとっての頂上ってことかしら。1965年のある日、ジミを小躍りさせる出来事があったの。(略)[私の]母親がジミに傘を一本買ってあげたの――彼にはそんなお金、なかったから。ジミは髪が濡れるのが嫌だったの。それがあの時は、あたしに向かってスタジオを指さし、『考えてもみてくれよ、俺がこの場所の主なんだぜ。俺のものなんだ。俺の持ち物なんだよ』って言うのよ。彼にとっても信じられないようなことだったのね。公に自慢することは恥ずかしがってたけど、ジミはあの傘のことを決して忘れなかったし、あたしもそれを覚えていて理解してくれてるってことがわかってたのよ」
 アルバート・アレンも意見を同じくしている。
 「彼はエレクトリック・レディを心底誇りに思ってましたし、あのスタジオは私たち全員にとって特別な家だったんです。ヘンドリックスには、あそこでやってみたいことが山ほどありました。ジェフリーがあそこに本拠地を移したことには神経を尖らせてましたけど――『こいつは本当に俺のものなのか、それともあいつのものなのか?』とか言ってね――それでもハッピーだったんですよ」
(略)
 エディ・クレイマーはささやかなアシスタント・エンジニアの面々に向かって、厳格な命令を下した。仕事中はドラッグの使用を許可しない、というものである。ジョン・ジャンセンは語る。
 「いかにもクレイマーらしいですよね。彼はドラッグをやらなかったんです。それがルールになったわけだし、みんな彼の周りではおおっぴらにはやらなくなりました。大変なことだったと思いますよ。だって、スタジオに立ち寄った人たちは皆、ドラッグでヘンドリックスと友だちになろうとしていたわけですから」
(略)
エディは私たちが機材の延長でもあるかのように、常にスタンバイさせていたんです。午後八時スタートの予定でジミが午前零時まで姿を現わさなくても、そんなことは関係ないんですよ。ヘンドリックスがいつスタジオに入ってこようと、私たちはその時点で完璧に態勢を整えておかねばならなかったわけなんです」(略)
 デイヴ・パーマーはつづける。
 「仕事時間といったら信じられないような長さでした。もうどのくらいスタジオにいたのかなって、誰かに訊いてみたことがあるんですよ。『二週間だよ』という返事がもう信じられないくらいでしたからね。半年ほどはいたような気がしてたもんですから」
「あの夏は真っ黒にスタジオ灼けってところでしたね」とジョン・ジャンセン(略)
[単調な全米ツアーを組もうとするジェフリーにジミは折衷案として]
ミッチェルがお気に入りだったチェコスロヴァキアや、メキシコや日本など、新しい国に行かせろと要求したのである。ボブ・リヴァインは説明する。
 「ヘンドリックスはもともと、ストーンヘンジで大きなコンサートを開きたがってたんです。もしそれが無理だというんなら、メキシコやユカタン半島、それに日本をツアーしたいってわけです。日本がいちばん見込みがありましたけどね。

マフィア

 当時、ヘンドリックスを悩ませていたもうひとつの問題は、マンハッタンを拠点にしのぎを削っていた過激な左翼政治集団の数々に、献金やゲスト出演などを迫られていたことだった。そのため彼は、自分がほとんど関係してもいなければ理解もしていない大義を援助するために利用されたり、悪くすれば道具として扱われるのではないかと神経を尖らせつつあった。ハーレムでは、ブラック・パンサーに対するヘンドリックスの用心深くなんともはっきりしない支持ぶりが、彼の意志に反して地元のマフィアに利用され暴力沙汰になってもおかしくないような事態を引き起こした、とアルバート及びアーサーのアレン兄弟は述懐する。
 「ハーレムにはひとり、本当に恐れられたスジ者がいまして、住民も皆、その男のことは頭に入れてました――もちろん、ジミも含めての話ですが。この男は一流DJの何人かを支配下に置いてましたし、何人か殺してもいたもので、誰も手を出したりはしなかったんです。(略)
[ジミが]自分のショウにやって来るとこの男が広告を出していたもので、ジミは怒り心頭に発しましてね。(略)
ベルボトムを穿いたヘンドリックスは腫を返し、ギャングらしい服装に身を包んだ連中に向かって歩き出しました。彼は片手で広告ポスターをふりかざし、もう一方の手はギター・ケースをさげていました。私は仰天して弟に振り向き、『どうしたらいいんだよ?』と言いましたよ。(略)
連中は拳銃を持ってたんですから。もし実際に揉め始めてたら、私たちとしてはあの連中を殺すしかなかったでしょうね。そうしなければ、連中は戻ってきて私たちを始末してたでしょうから。ヘンドリックスは『よくこんなことができるな?そんな権利はないはずだぞ!』とわめいてましたよ。男は、こいつはちょっとおかしいんじゃないかと、言いたげな目でヘンドリックスを見ていました。それから私たちに視線を移し(略)
『そこのふたり、このクソ野郎を正気に戻してやったほうがいいぜ』と言ったんですよ。それでも、ヘンドリックスはひるみませんでした。筋を通す男でしたからねえ。彼は広告を指さしつづけ、『どんな権利があってこんなことをしてるんだ?』と言ったんです。私たちはもう拳銃が飛び出すものと観念してたんですが、ジミは一歩も退きませんでした。結局その男は、お前が出ようが出まいがショウはやる、とヘンドリックスに告げたんです。子分たちに案内されて男が去ろうとすると、ヘンドリックスはその後を追い、『お前ら、弁護士をよこすからな!こんなもんに俺の名を使う権利なんて、お前らにはありゃしないんだ!』と怒鳴ってましたよ。もう連中も言い返しはしませんでしたけど、それにしても殺されなかったのはラッキーでしたよね」

最後のコンサートはワイト島ではない

 歳月が過ぎても、ワイト島でのヘンドリックスの演奏は一部で極端に重んじられてきた。彼の最後のコンサートだったと、しばしば誤って伝えられてきたからである。このコンサートは彼にとって最後でもなければ、最高のものでもなかった。(略)
 事態はあっという間に悪化した。次の日の晩にストックホルムでこれも同じようにパッとしない演奏が披露され(略)
 マイク・ニールはこう説明する。
 「クライ・オブ・ラヴ・ツアーの際も、コックスがひどく内気になってると見える時はあったんですよ。それがヨーロッパに行ってみると、彼は本当にイカれてしまったんです。みんなから好かれていた真面目なあの男がね。クスリにやられたとは思えません。当時は私のほうがLSDをしこたまやっていたもので、トリップしてる奴がどんな具合に振る舞うかはわかってましたから。彼の様子は、LSDを飲んでいる人間のそれとは明らかに違って見えたんです。あのパラノイアぶりといったら、信じられないくらいでしたよ」
 1970年9月2日、デンマークのオルフスでのショウは古ぼけた体育館で行なわれ、観客もバンドも同じ床の上に立つという状態だった。この頃はビリー・コックスの状態はますます悪化しており、ヘンドリックスの気分も最悪だった。マイク・ニールは説明する。
 「ビリー・コックスが大変な状態におちいっていると、私たちの大部分が初めて気づいたのはあの時でした。彼は、ほとんどすべての人間に怯えていたんです。半年も前から一緒に仕事をしてきた者たちを含めてね」
 コックスの様子にいら立ち、心身ともにショウを開けるような状態になかったヘンドリックスは、無様な演奏ぶりで[演奏を中断](略)
ミッチェルが長々とドラム・ソロを展開する羽目になった。暴動の危険に怯えるジェリー・スティッケルズは、ジミの楽器が盗まれないうちに取り返してくるべく、ステージに行けとジーン・マクファデンに指示した。(略)
ステージに出た私はひとつひとつチューニングを整えるふりをして、それからケースにしまいました。なんとか全部運び出しましたけど、しばらくは縮み上がる思いでしたね」
 翌日の夜、コペンハーゲンでの演奏に臨んだヘンドリックスは見事に立ち直り、素晴らしい演奏をくり広げた。
(略)
 「[ドイツの]フェーマルン島のフェスティヴァルというのは、悪夢としかいいようがありませんでした。ミュージシャンもスタッフも、全員一軒のホテルに詰め込まれていたんです。[悪天候で]9月5日の演奏が中止されると、ホテルのバーは上を下への大騒ぎとなりました。喧嘩は起きるわ椅子は壊れるわでね。(略)
 ビリー・コックスの気分も悪くなっていた。階下のバーの騒ぎに動揺したらしい。スティッケルズは語る。
 「あそこでコックスも完璧にキレましたね。みんなが自分を殺そうとしていると言い張って、部屋で落ち着くこともできないんですよ。(略)
 湿っぽい冷気が忍び寄るドイツの夜、機関銃をたずさえたヘルス・エンジェルスの面々が内輪もめでもみ合うなか、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはこれが最後となるコンサートを行なった。スティッケルズが語る。
 「エクスペリエンスはトリを務めましたが、ステージからわれわれの機材がすべて片付けられるが早いか、ヘルス・エンジェルスはステージを燃やしてしまいましたよ。私たちはハンブルグに逃れ、そこからロンドンに舞い戻ったわけなんです」
 ロンドンにいる間に、コックスの当面の状態にも確信が持てないという事情ゆえに、ツアーの残りの日程をキャンセルすることが決まった。マイク・ニールは語る。
 「あの時点でコックスとコミュニケートするためには、『ビリー、ぼくを覚えてるよね。ぼくたち、友だちだもんな。あれもこれも一緒にやったじゃないか……』とか言うしかなかったんですよ」
 そんなコックスの姿を目にして、ヘンドリックスは激しく動揺していた。(略)医師はトランキライザーを処方したのだが、コックスはそれが毒薬だと信じて疑わなかった。(略)
[ひとりアメリカに帰された]コックスは、あっという間に復調
(略)
[コックスの後釜を検討中の状況に、ロンドンに居たダグラスが再度助力を申し出て来た]
ボブ・リヴァインは回想する。
 「ダグラスは、またヘンドリックスをかすめ去ろうと画策してたんです。でもヘンドリックスは、ジェフリーに対してある感情を抱いていたんですよ。彼を踏みつけにはできないということですね。音楽的な面では自分の成長のためになる人物とは見ていなかったんですが、複雑な心境にあったことは事実です。ヘンドリックスも変化を求める時期には差しかかっていたんですが、選択肢が限られていた、ということでしょうね」
 そうした選択を躊躇させていたのは、ダグラス――あるいはラヴ・コールを送ってくる他の人物たち――に鞍替えすることが横滑りを意味するのではなく、後退を意味するのではないかという観念だった。ヘンドリックスのフラストレーションに追い打ちをかけていたのは、自分の才能が望みどおり世にとどろいたのも、ジェフリーの戦術があればこそだった、という事実である。ジェフリーにどれほど欠陥があるにせよ、この事実こそ第一に評価すべきことだった。
(略)
 こうして、方向づけを切望するヘンドリックスはチャス・チャンドラーの元を訪れたのだった。チャンドラーは語る。
 「私はまだ、彼と同居していたロンドンのアパートに住んでました。彼はこれから行くという電話もかけてこないで、出し抜けに家のベルを鳴らしたんです。彼がやって来た理由は(略)生まれたばかりだった私の息子ステファンの顔をまだ見ていないから、ということでした。(略)
昔みたいにリスクというゲームをやろうとせがんできたりしてました。その晩、話が進むにつれて、彼はもう一度プロデュースしてくれないかと頼んできました。自分は客観性をなくしてしまって、何を披露すべきなのかわからなくなってしまったと言ってね。彼は、昔のチームを復活させたがっていました。彼と私、それにエディ・クレイマーという布陣ですよ。私は、オリンピック・スタジオを予約するからこれまでやってきたことを聞かせてくれと申し出ました。(略)そこで彼はニューヨークのエディ・クレイマーに電話を入れ、テープを持ってきてくれと要請したわけなんです」
(略)
[ジミからの依頼電話を受けたクレイマーは]
『ジミ、無茶言うなよ。君のためにこんな凄いスタジオを建てたんじゃないか。月曜には戻ってきてくれよ』言ったんです。長く重苦しい沈黙が流れたあとで、彼はあきらめたような口調で『お前さんの言うとおりだな。月曜には戻るからその時にまた』と言いました。
(略)
 9月17日、ヘンドリックスはもっぱら、西ドイツ出身でロンドンのランズダウン・クレセントに住んでいたガールフレンドのモニカ・ダンネマンと過ごしている。この日、カンバーランド・ホテルの自身のスイートルームとダンネマンのガーデン・フラットとを往復したヘンドリックスは、買い物に出たり仕事の電話を入れたりしながら陽気に過ごしていた。ダンネマンの記憶によれば、電話のなかでもっとも重要だったのは、弁護士のヘンリー・スタインガーテンにかけたものだったという。彼女の説明によれば、ヘンドリックスはチャス・チャンドラーをマネジャーとして復権させることを決意すると同時に、エディ・クレイマーには、作業中のテープをすべて携えてロンドンに来てほしいと望んでいた。ジミはそのことをスタインガーテンに伝え、自分の仕事からマイケル・ジェフリーを完全に排除するために必要な手続きを開始するよう指示していたと彼女は語っている。
(略)
 ヘンドリックスの名声をさらに汚したのは、ジミは自殺した可能性があるというエリック・バードンの奇怪な“暴露”だった。(略)バードンはヘンドリックスが死の前夜に作ったと伝えられる詩を引用し、ヘンドリックスが「この世から徐々に姿を消し、どこか他の場所に行こうとドラッグを服用した」と推測した。(略)
 バードンは後に自伝のなかで、オルソップに答えたインタヴューには後悔しているし、恥じているとも語り、自殺という主張を打ち消しているのだが、それでも彼の当初の主張は、ヘンドリックスの死後の伝説を劇的に形成してゆく建設的とはいえない思考過程に火を点けてしまった。

「Captain Coconut」

[ダグラスとエンジニアのレス・カーンがジミのライブラリーを漁っていて見つけた「MLK」という謎めいた2トラックミックステープ。だがマスターが見つからない]
実はそんなものが存在しなかったからである。「Captain Coconut」は、実は“アレックス・コーダ”という変名を使ったジョン・ジャンセンによる作り物だったのだ。ヘンドリックスのテープ・ライブラリーにあるテープを一本一本選り分ける役割が自分のものだった頃のジャンセンには、二重の動機があった。ひとつは完成トラックを選び出すことであり、もうひとつは〈レインボウ・ブリッジ〉の様々なシーンに関係づけて使えそうなインストゥルメンタルのパッセージを見つけ出すことだった。ジャンセンはこう説明する。
 「あの頃には、もう吸血鬼の心境になりかけてましたね。ライブラリーにこもって、いけそうな断片を拾い出してたわけでね。その中に、この“MLK”と題された凄いフレーズが合まれてたんですよ((略)マーティン・ルーサー・キング――MLK――を賛美するものだったとか、ヘンドリックス自身がそれを書いたといったレポートがはびこっているが、実はそのどちらも正しくない。この三文字というのは、テープ・オペレーターがふと思いついて記した、説明のしようもないただの記号だったのである)。(略)
 「その後で、レコード・プラントでバディ・マイルスとやった素晴らしいジャムの断片を見つけだしました。そしてもうひとつ、アタマに使えそうなエレクトリック・レディでのフレーズも見つかったわけです。そこでこの三つをつなぎ合わせることにしたわけですが、テンポとキーがぴったり合うまでスピードを変えつづけねばなりませんでしたよ」
 だが、ジャンセンが最終的なミキシングの工程に入る前に、クレイマーが彼の手作業に気づき、詰め寄ってきたのだった。ジャンセンが振り返る。
 「エディはコントロール・ルームに入ってきて『ジョン、何をやってんだ?そんなのは認められないぞ』と言うんです。私もそうだな、と思いましたよ。どうかしてた、と思ったんです。実際、互いになんの関係もない音楽を三つつなぎ合わせてたわけですからね。そこで一巻の終わりでした」(略)
[だが『Crash Landing』が発表されてみると、「MLK」は]今や「Captain Coconut」へと作り変えられ、このアルバムにおいて明らかにされた、ヘンドリックスの音楽的方向性を顕著に示す作品と喧伝されていたのである。(略)ヘンドリックスの真の作品などであるはずもなく、まずジャンセンの手で創造され、次にダグラスとボンジョヴィが小手先で化粧をほどこした合成マスターとしか言いようのない代物である。

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