絶滅危惧職、講談師を生きる 神田松之丞

絶滅危惧職、講談師を生きる

絶滅危惧職、講談師を生きる

僕の好きな先生

 松之丞が好きだった先生の一人に、森本平という人がいる。万葉学者の森本治吉を祖父に持つ歌人の家系に生まれた、現代短歌界きっての異端児だ。たまたまそのころ、講師として聖学院高校で現代文を教えていた。
「この人の本職を見ると、すごい作品があるんですよ。女子高生をガスバーナーで焼いてガングロにする、みたいなそういう短歌。今考えると僕の芸風とも似てるんですけど、短歌界は萎んでいるから、他のジャンルと対抗して闘っていくには激しいものを見せていく必要があると。もちろんちゃんとした作品もあるんですけど、そういう人をひきつけるような、面白いものも取り入れていかなきゃいけない、みたいなことを言って異端児扱いされていたそうです。(略)毎回の授業も高座みたいな感じですよね。緊張感あるし、俺は今日こう出るけど、おまえはどう出る、みたいなそんな駆け引きがありました。当時小林よしのりの『戦争論』が流行っていたんですけど、先生はそれが嫌いだったんですよ。ある若手の古文教師が授業で『戦争論』を褒めたら、森本先生は『あいつの言うことなんて信じなくていい』と。つまり授業間でネタにするんです。芸人の楽屋オチみたいなもので、ディスり合うわけですよ。それですごくキャラが立ってるし、エンターテイメントみたいな感じでした。

立川談志

立川談志に出会ってよかったのは、あの方がありとあらゆる芸に精通していて、浪花節だったら東武蔵がいいとか、ちょっと偏ってはいるんですけど、そういう見方、視点を教えてくれたことです。また、芸にはいろいろな思いや歴史が詰め込まれているけど、演者はそれを自分なりに変えていいものだとして、演出法にも言及する。そこまで独自の視点で、俺はこう考えている、みたいなことを極端に前面に出すやり方を僕は談志という人から教わりました。だから僕は、談志師匠が談志というキャラクターを日常で演じていたことよりも、あの方が演芸に対して真摯な愛情を持っていたこと、その落語小僧の面が本当に好きになって、この人にどんどん触れたいという純粋な思いが生まれたんです。談志が講談の(神田)伯龍がいいよ、と言えば伯龍を聴きに行くし。もろに影響受けました。自分の高座スタイルもかなり似てますしね」
 松之丞が初めて生の談志の高座に触れたのは二〇〇二年三月二十三日のことだった。一年間の浪人生活が決まった直後のことである。
「航空公園(所沢ミューズ)の独演会でした。志ん朝師匠が亡くなった半年後ぐらい、寒い日でしたね。(略)
常連たちが交わしている会話とかもかっこよくて、落語初心者の背伸びしたい喜びをくすぐるんです。
(略)
その日は仲入り後の『らくだ』がよくて。震えるような出来でしたね。駅まで歩くと十分ぐらいかかるんですけど、帰り道ずっと鳥肌立っていました」
(略)
「落語を聴いてあれ以上の経験は以降もない。談志への弟子入りも当然考えましたし、自分の中で演芸というもの、落語、立川談志、そういうものに対する価値が一気に上がりました。浪人だったとか、十代の一番感性豊かなときだったということもあるでしょうし、僕の体調も、談志師匠の体調もたぶんよくて、波長がすごく合ったんだと思います。最高の出会い、僕の中の何かを動かした一席でした。
(略)
 「談志師匠の噺は、滑稽で、わははって笑うっていうものよりも、人間の奥行が出て、悲しいと思わせるものに惹かれました。どこかできっと、[九歳の時に自殺した]うちのおやじの寂しさとかにリンクしたんです。(略)
僕のおやじに欲しかった、自分の十何年の人生で欠落してた部分を見たのか、あるいは談志師匠に父性を見いだしたのか、内容にうちのおやじをリンクさせたのか。いずれにしろ、ピースがはまった感じがありました」
 松之丞は自身を臆病だと言う。そこまでの衝撃を受けていながら、立川談志に即入門しようとはしなかった。
「その時点でもう、芸人になりたいとは漠然と考えていました。(略)
決意と呼べるものになったのはその日だったと思います。そこで思ったのは、誰かに入門しようと覚悟を決められるまで、さまざまな芸、いろいろな演者を聴こうということです。そのために大学の間はきっちり客席、高座の前で聴く。
(略)
「僕は、志ん朝師匠が亡くなるのに間に合わなくて、生の高座に触れられなかった。不謹慎な言い方かもしれませんが、今死にそうな人を片っ端から観ないといけないと考えました。
(略)
[演劇という選択肢はなかった]
「芝居にはすごい拒否反応がありました。僕はああいう、わきわきやってるのは嫌いなんですよ。全部一人でやりたいからかもしれません。人に合わせたくない。みんなでやると(略)自分の考えてることをそのまま反映させられない。談志師匠は自分の意志を完全に貫いてる高座だったので、このへんに自分の向いているものがあるんじゃないか、という希望を漠然と感じました。

初めての講談

 そうした日々の中、松之丞はついに講談と出会う。生まれて初めて生で聴いた講談師は、六代目神田伯龍である。
「正直に言ってしまえば、神田伯龍は当時の自分には難しかったんですよ。だけどとにかく行く。でも小雨とか降ってるとやっぱり行きたくない(笑)。バイトみたいな感じです。これは絶対自分の基調になるんだからって、そういう勉強のつもりで聴いてました。だから面白さがわからないんですよね。そして何一つ収穫のない帰り路。客席の空気も嫌だし。(略)[老人ばかりの所に]僕が入っていくという選民的な喜びはあるんですけど、伯龍先生は若い人がいるからといって喜ぶでもなく、もっと言うと客がいてもいなくてもいいような芸を淡々とやるんです。そこも辛かったですね。
(略)
講談については参考書も出ていない。十代の男が講釈講釈しているものをもし聴いたらどうなるかっていう、非常に実験的な行為だったんだと思います。文化がそもそも違う。僕はしぶとくくっ付いていって、そこで観客論みたいなもの、自分の中のお客としてのデータベースみたいなのを増やしていった。普通の客なら跳ね返されてしまって二度と来ないような会に、年間回数券を買って行ったんです。だって邑井貞吉(四代目)をトリビュートする『甲斐の勇吉』とか演目にあるんですよ。誰がそれを聴きたいか」

四年目の限界

 自分の会を開いたことによって光明を見いだした松之丞だったが、依然として前座のままだ。(略)すでに鬱屈は耐えがたいレベルに達していた。「もうこんな前座修業やりたくない」という態度を全身で表し、義務であるはずの太鼓の稽古会も他の用事をわざと入れてしまうなど、気持ちは爆発寸前になっていた。
「一度、ある師匠に太鼓が叩けなくて猛烈に怒られたことがあるんですよ。その師匠は僕に気を遣ってくださって、前座全体に向けて『天狗連(芸人気取りのアマチュア)じゃねえんだから、叩けないなんてあるか』みたいな言い方をされたんです。指導する係として当然のことなんですけど、僕は無駄に鼻っ柱が強くて『そもそも講談っていうのは太鼓がないんだし、こんなことで測ってんじゃねえよ』とか『そういうことを言う発想がだいたい天狗連なんだ』みたいなことを聞こえよがしに呟いて。その師匠は大人だから、それ以上僕にガーッと怒ると、引っ込みがつかなくなって下手したら僕が破門になりますから、そこで黙ってしまわれた。ちょっと治外法権みたいなことになってました。(略)
[前座の一年目から]僕、末廣亭の狭い楽屋ん中で上の人の着物をたたみながら『なんでこんなつまんないやつの着物をたたまなきゃいけないんだよ』って言ったこともあります。絶対それ聞こえてるんですよ。気が狂ってたんでしょうね、ちょっと」
[人格者で知られる師匠のおかげでそれが許されていた]

談志の死

膝から崩れ落ちるような思いがしましたね。ついに会えなかったということと、談志師匠に『おまえの講談いいな』って言ってもらいたかったという願望が叶わなかったということ(略)
『俺、何でこんなときにしょうもない下働きやってんだよ』って、それも苛々しました。立て前座って基本的にネタ帳だけ書いていればいいんだけど、逆に体を動かしていたくて、着物とかやたらたたんでたの覚えてますね。うちのおやじが亡くなったときと同じというか、自分の大事なものが消えてしまったという思いで、涙が出そうになっていたんです。そのとき、ガラガラって戸が開いて、うちの師匠が入ってきたんですよ。それで心からほっとして、まだこの人はいるんだ、と。

マクラ

「俺が客だったらこういう前座がいい、みたいなのはずっと模索していました。そこだけはプロフェッショナルだったと思います。ほかは全部糞でしたけど。それをプロの同業者に咎められるんならいいけど、受け売りの意見しか持ってないようなお客さんに何がわかる、という反発心もありました。自分が試した結果、やっぱり『前座にマクラは要らない』という結論に行き着くならいいけど、他のやつに邪魔される筋合いはない、と。結論としては、一〇〇%はしゃべる必要ないと、四年やってみてわかりました(笑)。でもそれは受け売りの考えじゃなくて、やりにやりきったあとで到達した結論ですから。もしマクラをしゃべりたい前座が今出てきたとしたら、ものすごく難しいから高座以上に工夫しなさいよ、と言うと思います」

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