作家はどうやって小説を書くのか ヴォネガット、アップダイク

第二巻に突入。

――「ヴォーグ」ではどんな仕事をしてたんですか?

キャプションを書いてた。「このかわいいピンクのドレスならいい男がつかまります」みたいなのを。おかしいのは、「ヴォーグ」で働いていた女たちって地味なのよ、ぜんぜんシックじゃないの。礼儀正しいお上品な女性たちで――あんなお上品な女性たちに会ったのは初めて――ああいう雑誌とはまるで縁のないひとたちばかり。みんな、珍奇な小さなボンネット帽をかぶって、そして、雑誌のページではモデルたちを処女に化けさせてたわ、すれっからしの女極道どもをむちゃくちゃかわいい恋人に変身させてね。いまは、編集者たちも雑誌に合った格好をしていて、みんなシックですごいもんよね――モデルなんかはブラム・ストーカーの頭のなかから出てきたような姿をしてるし。キャプション・ライターも――あたしが昔やってた仕事だけどさ――ゴルフのクラブの木のヘッドは75ドルのミンクのカバーで包みましょうなんて書いてる、「――あなたのお友だちはなんでも持ってるでしょうから」とかなんとか。世も末よね、そう思わない?

ロスト・ジェネレーション

ガートルード・スタインよ、あたしたちにいちばん害を与えたのは。「あんたたちはみんな迷える世代よ」なんて言ったんだから。その言葉を聞くと、あたしたちはみんな小躍りしたわ、やっほお!あたしたちは迷ってるんだって。いきなり、自分たちはなにかを変えたような、というか、なんの責任もないような気持ちになったものよ。でも、忘れないで、1920年代のひとたちはさ、失敗者のように見えるけど、そうじゃなかったんだから。フィッツジェラルドも、ほかの連中も、たしかにムチャクチャだったし、たしかに飲んべえだったけど、すごい一所懸命仕事してたのよ、いつも。

修道院

あたし、ニューヨークの女子修道院に行ってたのよ(略)
ディケンズは読ませてもらえなかった、低俗だっていうんで。まあ、あたしは読んだけどさ、サッカレーもね。(略)
いまでも忘れないのはオイルクロスの匂い、修道女の服の匂い。結局、あたしは叩き出されたの、いろいろあってね。ひとつだけ言うと、聖母マリアの無原罪懐胎は自然燃焼じゃないですかって言っちゃったのよ。
――その頃のことは小説の材料にはしました?
いるわよねえ、そういうやつって。自分の子どもの頃のことを書く作家たちって!でも、あたしが自分のを書いたら、あなた、ここにあたしといっしょにいられなくなるわよ。

フォースター

おもになにを読んでるかっていったら、古いものかなあ(略)
『虚栄の市』は一年に十二回は続んでるかも。初めて続んだのは十二歳のときだけど――「ジョージ・オズボーンは心臓を撃ちぬかれて死んで横たわっていた。」って一行はゾクゾクするわね。(略)
生きている作家だと、E・M・フォースターがベストかなあ、どこがそうなのかはよくわからないんだけど、でも、セミファイナルくらいには入る、そう思わない?(略)
フォースターに会えるんだったら、あたし、土下座でもするわよ。かれが書いたもののなかでいつも思いだす文章はこれよ。「いまのところはまだそういう事態に遭遇してはいないが、友を裏切るか国を裏切るかのどちらかを選ばなければならないようなことになったなら、国を裏切る度胸をもっていたいと思う」。どう、アメリカの憲法修正第五条がなんかつまんないものに見えてこない?

ハリウッド

ハリウッドのお金はね、お金じゃないの。あれはね、凍った雪なのよ、手に持つととけるの、自分以外はなんにも残らない。ハリウッドの話はあたしにはできないね。あそこにいたときもホラーだったし、振り返ってみてもホラーだよ。
(略)
――ハリウッドは芸術家の才能をダメにすると思いますか?
いいえ、そんなことはない。だれも自分からくだらないものを書いたりはしない、とあたしは思うのね。ただ、結果としてゴミだったりするということよ。ハリウッドの作家たちは自分からくだらないものは書いたりしてないよ。ベストを尽くしてる。ものを書くときはね、くだらないものを書いちまえなんて思っちゃダメよ。そんなふりをするのもダメ。できるかぎりのベストをださなくちゃ。そして、ベストをだしたからこそ、めげるわけよ。あたしはうまく書きたいとすごく思ってる、でも、書けないのがわかってるの、うまくできないのがわかってるの。だからこれまでずっと、まあ、死ぬまでずっと、うまく書けるひとがうらやましいのよ。
――それではハリウッドの悪というのはなんなんでしょう?
ひとよ。たとえば、スコット・フィッツジェラルドの顔に指を突きつけて、おまえに払うのか、おまえがこっちに払うべきだろう、なんてぐだぐだ言う監督よ。スコットはひどい目に遭ってた、あの頃のかれの姿を見たら、あんただって気持ち悪くなったと思うね。かれが死んだときは、だれも葬式に来なかったんだよ、ただのひとりも。花ひとつ贈ってこなかった。だからわたしは書いたの、「かわいそうなロクデナシ」って。『グレート・ギャツビー』の一節そのままよ。ところが、それをみんなはワイズクラックとうけとめた。こっちは大マジメだったのに。

自殺

――作家志望に最上の知的トレーニングとはなんだと思います?
たとえば、うまく書くのがどうしようもなくむずかしいとわかったら、首を吊ってみるのはどうだい。そうすれば、無慈悲にも縄が切れたら、その後の人生は精一杯うまく書こうと頑張っていくしかなくなる。首を吊った話は少なくともネタになるし。
[三年後、拳銃自殺]

スタイル

――どのくらい考えて努力した末にあなたの画期的なスタイルは生まれていったのか、話していただけますか?
それはまた時間もかかる疲れるばかりの質問だな、二日かけて答えたとして、こっちはすっかり自意識過剰になって、書けなくなる。とりあえず言えるのは、素人がスタイルと呼ぶものは、たいてい、当初は下手なものだったということだ。以前作られていなかったものを作ろうとすると、どうしても下手なものに見えるんだよ。新しい古典となるもののほとんどはそれ以前の古典とは似ていない。最初は、下手なところしか見えない。そのうち、それがそんなに目につかなくなる。そしてその下手さがいかにも下手に現れてくるうちに、ひとはだんだんその下手さがスタイルなんだ、と思いはじめ、たくさんの人間が真似しはじめる。嘆かわしいことだがね。

なぜ青春期にこだわるのか

――あなたの作品の多くはおなじ場所、オリンガーが舞台です。(略)どうしてあの素材にそんなに引かれるんですか?
(略)わたしがペンシルヴァニアの南東部に引かれるのは、あそこだとなにがとうなっているかがわかるからです(略)土地の基本的な感触を体が承知してると、いろいろ自由に想像を働かすことができますから。
――わたしの言ってるのはそういうことではありません。なぜオリンガーのことを書きつづけるのかということではなく、だれが見てもあなたの青春期と家族でしかないものについてあんなにたくさん書くのはどうしてかということです。(略)
それはしかたないです――わたしには自分の青春期がおもしろく思えたのですから。ある意味、わたしの父と母は、ふたりともなかなかの役者なので、わたしの青春期を劇的なものにしてくれてました。おかげで、こっちが大人になったときには、ほぼできあがった話のネタが肩にどしりとのしかかるほどすでにもうあった。
(略)
なにしろ、わたしは、登場人物の名前を決めてしまうと、その仮面のなかにすっかり入りこんでしまうところがありますから。そして自分は思いだしてるのか、それとも想像してるのか、区別がつかなくなる。過去を思いだしてるのかどうかなど、どうでもよくなる。紙の上につくりあげていくものは、事実がどうだったかどうかなど関係なく、自由に舞いあがっていくべきだし、わたしの場合はそうなってます。(略)
言い換えると、わたしにはどうでもいいんです、わたしの生活とわたしが書くもののあいだのつながりなんか。そういうことを気にするのは不健全だし見当違いだと思います(略)
作品は、紙の上に書かれた言葉は、わたしたちの生身の存在とは切り離されたものとしてあるべきです。デスクの前にすわったら、あとはもう、わたしたちは吐き出したものについてのみ釈明する存在でしかない。
(略)
 わたしひとりじゃないと思いますよ、人生の最初の十八年間の経験を大事にしている作家は。ヘミングウェイは極端なほどミシガン時代の話を大切にしていた。わたしに言わせれば、頼っていた。マーク・トウェインをごらんなさい。ジョイスをごらんなさい。作家は、二十歳をすぎたら、自分の身にふりかかることにかんして自意識過剰にならざるをえない。なにしろ、その頃にはもう書くことを仕事にしてるんですからね。作家の人生はふたつに分かれているんですよ。作家の仕事をはじめたとたん、経験を素直に受けいれるという姿勢はいっきに弱まるのです。書くことができるというのが一種の盾になる。隠れ蓑になる。苦しみも即座に蜜に変えられるようになる――若い頃は、しかし、無力ですからね、奮闘し、観察し、感じることしかできない。

ドナルド・バーセルミ

――せっせと偽装してみせる――遊んでみせるということについてはどう思われます?ドナルド・バーセルミのような作家はどう思われますかってことなんですけど?
 かれは、ある意味、アートディレクターでした。ケルアックの作品がジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングに対応したアクション・ライティングのようなものだったように、バーセルミの短編、それと中編ひとつは散文のなかになにかポップなものをもちこもうという試みのように思えます。つまり、かたや、アンディ・ウォーホルのキャンベルのスープ缶、かたや、『雪白姫』で七人のこびとがつくっている中華風のベビーフード。言うなれば、ハード・エッジ・ペインティングに対応したハード・エッジ・ライティングです。ある短編のなかでかれは言ってます、バカはさておき、だれもが、固い栗色の言葉に十分に満足をかんじるものだ、と。それから、かれの短編は、そこに書かれていないことが、そこで起きていないことが、大事なものになっていると思います。見た目はいかにも月並みなものといったかんじになってはいますが。
  はい――かれはおもしろいとは思います、ただ、カルチャー・シーンのなかのオペレーターとしてのほうがおもしろい――うん、こっちの精神に語りかけてくる歌い手としてよりはね。変な言い方で、ちょっとうまく言えないですが。

前書き

 このカート・ヴォネガットとのインタヴューは、もとはと言えば、この十年間におこなわれた四つのインタヴューを合成したものだった。それが本人によって徹底的に書き直された。作家は、紙に記されていた自分がしゃべった言葉を信じられないという顔でながめていた……じっさいのところ、以下のインタヴューはかれ自身がかれ自身とおこなったものと見なすことができる。
 合成されたインタヴューの最初のもの(マサチューセッツ州ウェスト・バーンステイブルでヴォネガットが四十四歳のときにおこなわれた)についていた前書きにはこうある――「かれは退役軍人で、家庭人で、気骨のある、融通無碍で、悠々としたひとだ。肘掛け椅子にゆったり腰かけ、毛羽だったツイードのジャケット、グレイのフランネルのズボン、ブルックス・ブラザーズのブルーのシャツという姿で、いくぶん前屈みになって、両手をボケットに突っこんでいる。たびたび咳とくしゃみの爆弾を浴びせかけてくるが、それは秋の冷気のあおりでもあれば、長年のヘビースモーキングのせいでもある。声はよく響くバリトンで、中西部の訛りがあり、口調には皮肉なところがある。ときどき率直で鋭い笑みを浮かべるが、それはこの世のほとんどあらゆるものを見てきた、そしてそれらを自分のなかにしまいこんできた者の笑みだ。不況とか、戦争とか、暴力的な死の可能性とか、企業の広報の空しさとか、六人の子どもとか、定収のない生活とか、長いこと認められないこととか」
 合成されたインタヴューの最後のものは、最初のものから何年かたった一九七六年の夏におこなわれた。このときのかれの様子はつぎのように書かれている――「……動きかたは控えめで温厚で、老いた飼い犬のようである。全体的に風貌は乱雑である。長い縮れた髪やヒゲややさしげな笑みから浮かびあがるのは、まわりの世界をおもしろがっていると同時に悲しんでいる男の姿だ。
(略)
 「ヴォネガットは一九三六年からずっとポールモールのチェーンスモーカーで、インタヴューの間にも一箱の大部分を吸っている。声は低く嗄れていて、話をしながらたえず煙草に火をつけたり煙を吐き出したりする仕草はまるで会話に句読点を打っているかのようでもある。電話がじゃんじゃん鳴ったり、パンプキンという名の小さな毛むくじゃらの犬が吠えたり、いろいろ邪魔してくるものはあるが、ヴォネガットの温厚な性格はそんなものにはいっさい左右されない。じっさい、ショートリッジ高校の同窓生でもあるダン・ウェイクフィールドがこう言っているとおりだ、「あいつはよく大声で笑い、だれにでも親切だったよ」」

ドレスデン爆撃

それからは毎日、街まで歩いていっては、瓦礫をかきわけて地下室や防空壕を掘り出し、遺体を集めた、衛生上の理由で。そういうところに入っていくと、典型的な防空壕は、まあ、たいていはただの地下室なんだが、心臓麻痺を同時におこしたひとたちでいっぱいの路面電車の内部みたいだった。みんな椅子にすわったままの姿勢で死んでいる。焼夷弾がひきおこす熱風っていうのはすさまじいよ。自然界ではありえない。爆発の最中に起きる旋風に口をふさがれて、だれも息がつけない。われわれは死者たちを引きずりだし、ワゴンに積みこんで、公園とか、街中の大きな、広々とした、瓦礫があふれていないところに運んだ。ドイツ人たちはせっせと薪を積んでは遺体を焼いた、臭いがひどいし、病気が広がらないようにね。地下には十三万の遺体が埋まっていた。おそろしく手間のかかるイースターエッグ探しだったな、あれは。
(略)
数日たつと街のそこかしこから臭いがたちはじめた、それで新しい技術が発明された。まさに必要は発明の母さ。われわれが防空壕のなかに突進していき、身元確認などはしないで、遺体の膝から値打ちのありそうな品をかき集め、それらを見張りに渡す。すると今度は火炎放射器を抱えた兵隊たちがあらわれて、防空壕の入り口に立って、なかの人間を火葬にする。金製品や宝石類は取りだして、なかの人間は全員焼くというかっこうさ。(略)
なかなか見られないべらぼうな風景さ、ぶったまげるよ。(略)
[アメリカでは絨毯爆撃について]戦争が終わる直前まで秘密にされていたんだから。どうしてドレスデンを焼き尽くしたのかというと、ひとつには、それまですでにほかのものもすべて焼き尽くしていたからさ。つまり、こういうことだ。今晩はなにをする?みんないろいろやってるし、ドイツ軍はまだ戦ってるから、街でも焼くか、みたいなね。
(略)
まったくのでたらめだよ。やつらがやっていたのは街の上空に何百機と飛んでいって、なんでもかんでも落っことすということだったんだから。戦争が終わってからわたしはシカゴ大学に入ったんだが、入学の面接をした男がドレスデンを爆撃していたひとりだった。わたしの履歴のそこのくだりに来ると、かれは言ったよ、うーん、われわれだってあれはやりたくなかった、とね。そのコメント、頭から離れない。
――よくある言い方ですか、つまり、われわれは命令されたからやったのだという。
もうちょっと人間味はあっだけどね。爆撃は必要だったと感じていたんだと思うよ、たしかにそうだったかもしれない。ともかく、みんなが学んだことは、街はけっこう速く再建できるということさ。当初、技師たちは、ドイツの再建には五百年かかる、と言っていた。ところが、じっさいにはだいたい十八週間で済んだ。

そんな気がする

――ショートリッジ高校を出るとコーネル大学に行ったんですよね?
そんな気がする。
――そんな気がするっていうのは?
昔、すごい酔っ払いの友だちがいてね。だれかに、昨日の晩も酒を飲んだろう、と訊かれるたび、ぶっきらぼうにこう答えていたんだよ、「ああ、そんな気がする」とね。その言い方がわたしはずっと好きなんだ。人生は夢だということを認めた言い方じゃないか。

「アイスナイン」

――『猫のゆりかご』の登場人物たちの何人かはGEでのお知り合いがモデルになっているというのは本当ですか?
いつも上の空の科学者、フェリックス・ハニカー博士はアーヴィング・ラングミュア博士のカリカチュアだ。GEの研究所のスターだったひとさ。わたしもすこしは面識があったが、兄貴はかれといっしょに仕事をしていた。素敵なくらい上の空のひとでね、いつだったか、カメは首を引っこめるとき背骨はたわむのかなあ、縮むのかなあ、と大声で言いながら考えこんでいたこともある。これは小説にいただいた。また、家で奥さんに朝御飯を用意してもらったとき、皿の下にチップを置いたこともある。これもいただいた。でも、いただいたもので一番重要なのは、わたしが「アイスナイン」と名付けた、室温で安定する凍った水というもののアイデアだね。直接に話を聞いたわけじゃない。研究所では伝説になっていた(略)
H・G・ウェルズがスケネクタディに来たんだ、そしてラングミュアが接待役を仰せつかった。ラングミュアは、なにかサイエンスフィクション的な話をすればウェルズは喜ぶんじゃないか、と思い、室温でも溶けない氷の話をした。ウェルズは関心を示さなかった、というか、少なくともそのアイデアをつかうことはなかった。そしてウェルズが死に、やがてついにはラングミュアも死んだ。で、わたしは思った、よし、見つけた者勝ちだ――このアイデア、もらった、とね。ちなみに、ラングミュアは民間企業の科学者として初めてノーベル賞をもらった人物だよ。

――創作は教えられると、ほんとうに思いますか?

ゴルフが教えられるというのとだいたい同じだね。スイングの明らかにまずいところをプロは指摘できる。そういうことをわたしも、たぶん、アイオワ大学に二年いたときにやった。ゲイル・ゴドウィンやジョン・アーヴィングやジョナサン・ペナーやブルース・ドブラーやジョン・ケイシーやジェーン・ケイシーはみんなあそこでわたしの学生だった。みんな、その後素晴らしいものを出版するようになったよ。
(略)
言ったのはポール・エングルだ――アイオワのライターズ・ワークショップの創設者さ。わたしに言っていたんだ、ワークショップ専用の棟が建ったら、つぎのような言葉を入り口に刻みたい、と。
 「深刻になりすぎるな」
――それって有効ですか?
きみたちが勉強しようとしているのはいたずらのしかたなんだということを学生たちに伝えている。(略)
白い何枚もの紙のうえに刻まれたいくつもの小さな黒い記号でひとを笑わせたり泣かせたりしているんだから、いたずら以外のなにものでもないだろう?立派なお話はどれもこれも立派ないたずらであって、みんな繰り返し繰り返しまんまと乗せられているということさ。(略)
[ヴォネガットの挙げた例に対し「すごく古風なプロット」です、と聞き手が言うと]
ここで言い切っておいてもいいけどね、どんなにモダンな小説的企みがあろうが、プロットがないようなものでさえ、いま言ったような古風なプロットのひとつがどこかに入ってないと、読者にほんとうの満足は与えられないんだよ。プロットは人生を正確に表しているから大事だ、と言いたいんじゃない、読者にページをめくらせる方法として重宝なんだ。創作指導のクラスをもっていたとき学生たちによく言っていたのは、まずは登場人物たちになにかを欲しがらせろということ――コップ一杯の水であってもかまわないと。
(略)
それから、登場人物たちを対決させないでおくと、読者は眠ってしまう。学生たちはよく、対決は書かない、だって現代生活ではみんな対決を避けて生きているんだから、と言う。現代生活は孤独なんですよ、と言う。怠慢だよ。作家の仕事は対決を書くことさ、そうするとなにか驚くような啓示的なことを登場人物たちが口にして、われわれみんなを教育して楽しませてくれるんだ。そういうことを作家ができない、しないというのなら、商売から撤退するべきだ。

次回に続く。

 

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