小沢健二の帰還 宇野維正

小沢健二の帰還

小沢健二の帰還

「ある光」

[『Love music小沢健二〜ライナーノーツ〜』:スチャダラパーBose証言]
「「ある光」っていうのは、これはそれこそもう、まあねえ別に、プライベートのことはあれだけど、僕らもそばで見ててその頃ってわりとあの「大丈夫かな?」っていうか「どうなっちゃうかな?」みたいな感じもあったんだけど。まさに、どうやって(この先に)向かっていくのかなみたいのを、ホント、赤裸々にっていうか、それを曲にして本人はいなくなってしまうっていう。これがね、そのドラマ的にもすごいし、自分らはもうそばで友達として見てたから。なんか、泣いてしまうような」
 「誠心誠意、ボロボロになるまで、表現を追求してしまうタイプの人なんで。その賢い頭がフル回転してる状態がずっと続いているようなのを本当に続けてしまうんで。このままいったらちょっとぶっ懐れんなみたいな、そばで見てても思うようなね。だからこれがこういうふうに形として曲になってなかったら危ないよねみたいなとか、これを無視してこの後もまだ続けるようなことがあったら危険だったよねと思いますよね。友達として。ファンとして」

「漆黒の/純白のNYシティの中に姿を消した」

[NYでチャド・ムーアによって撮影された二階堂ふみ写真集に寄せたコメント]
彼女より前に存在した多くの人のように、いつか二階堂ふみさんが漆黒の/純白のNYシティの中に姿を消したら、あなたはこの写真集の一頁一頁に必死で手がかりを探すのだ。なんでだ、と絶望に暮れながら。
(略)
もはや自分自身のことについて書いているとしか思えない、というか実際に自分自身のこと(言うまでもなく「彼女より前に存在した多くの人」の一人は小沢健二のことだ)について書いた、謎解きのヒントのような濃密な九五文字のメッセージだ。「漆黒の/純白のNYシティの中に姿を消した」小沢健二の手がかりを、ファンは彼が残した作品のワン・フレーズ、ワン・フレーズを検証しながら必死で探し続けてきた(本書のように)。絶望に暮れながら。

「ガット・トゥ・ギヴ・イット・アップ」

[祝マーヴィン・ゲイ生誕60年アルバム『マーヴィン・イズ60』日本盤のボーナス・トラック]
ニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオ。小沢健二の「ガット・トゥ・ギヴ・イット・アップ」がレコーディングされたのは、その超名門スタジオだった。もっとも、小沢健二のバージョンは同作に収められていたジャネイによる同曲のカバーのトラックをそのまま流用し、そこに小沢健二が日本語の詞をのせて歌っただけのもの。本来、そんなボーカル・トラックのレコーディングだけでわざわざ使うようなスタジオではない。その時期、ちょうどエレクトリック・レディ・スタジオには、同作にも参加しているディアンジェロが歴史的傑作となるセカンド・アルバム『ブードゥー』のレコーディングのため、バンドのリハーサルから数えると四年以上にわたって延々籠っていた。
(略)
 ちなみに「ガット・トゥ・ギヴ・イット・アップ」の「イット」は女性器のこと。小沢健二による日本語詞は元の歌詞のエッセンスをすべて残していて、《体はやりたい》《沈ませて あなたの底》(歌詞カードに「底」と記されている部分は「アソコ」とはっきり歌われていた)《その瞳 どう見ても やりたいのは一緒》などなど、全編驚くほど露骨なセックス・ソングに仕上がっていた。
 そんな謎多き『マーヴィン・イズ60』日本盤に貼られたシールに、小沢健二はこんな推薦コメントを寄せていた。
Marvinは、繊細な知性と、孤独と、それから性愛の輝きを、黒人音楽の最高峰の一つに昇華しました。このアルバムは、その彼が残した美の設計図を基に、現在のMotownに関っているおおぜいのアーティストが、豪華に、官能的に、録音したものです。(『マーヴィン・イズ60』)
 三年後、我々は、まさに「繊細な知性と、孤独と、それから性愛の輝き」の結晶のような作品、小沢健二のフル・アルバムとしては『LIFE』以来八年ぶりとなるアルバム『Eclectic』に心底驚かされることになる。

『刹那』

 二〇〇三年八月三一日、つまり「夏休み最後の日」にして、『LIFE』がリリースされた一九九四年八月三一日のちょうど九年後にリリースされる予定だった、小沢健二にとって初のベスト・アルバムになるはずだった作品。それは結局、度重なる発売延期を繰り返して、多くのファンがもはやリリースされること自体を諦めかけていた年の瀬の一二月二七日に、『刹那』というタイトルでリリースされた。
(略)
 『刹那』はキャリアの集大成的なベスト・アルバムでもなければ、アルバムの未収録のシングル曲を網羅した作品でもなかった。(略)そのうち六曲(同じく、「流星ビバップ」も含めると七トラック)が一九九五年に発表された曲という、特定の時期に偏った曲を、一枚のアルバムとして編集した作品だった。
 一九九五年といえば、前年にリリースした『LIFE』がジワジワと現象化していき、テレビの音楽番組やCMに大量露出して、年末には初のNHK紅白歌合戦にも出場と、このまま小沢健二は国民的スターとなっていくんじゃないか、というほど華やかな活動を繰り広げていた年。そんな最盛期に発表した曲を中心とするアルバムに『刹那』と名づけた小沢健二。二〇〇三年時点の彼の心の奥底にあった、触れてはいけない冷たいものに触れてしまったようで、自分はそのタイトルにショックを受けずにはいられなかった。
(略)
繰り返すが、そのような狂騒の日々の記憶を、小沢健二は『刹那』と名づけた。持続的な生命力の輝きを象徴しているかのような『LIFE』というタイトルとは、あまりにも対照的である。

「うさぎ!」

 「うさぎ!」はマスメディアを通して大きな声で届けられた作品ではなく、小沢健二が個人的な媒体を選んで、限定された読者に向けて書かれた作品なので、読者も自身に引き寄せないとうまく語れないところがある。この時期に自分が毎回どのようにして「うさぎ!」を読んでいたかについて、少し書いておこう。
 季節ごとに届く、有限会社小澤昔ばなし研究所からの封筒。日中それを確認すると、とりあえず夜中になるのを(家族ができてからは家族が寝静まるのを)待つ。そして、ちょっと緊張しながら封筒を開けて、(アルコ−ルではなく)コーヒーかなにかをいれて、ソファーかなにかに横になって、音楽もかけず、ゆっくりと季刊『子どもと昔話』のページを開く。そして、とりあえず「うさぎ!」の新しい回を真っ先にじっくりと読む。大体一〇ページから二〇ページだから、どんなにじっくりと読んでも三〇分もあれば読み終わるが、読後はどっと疲れて、そのまま文末に「興味がある人のために」という小さな見出しのある回は、そこに記されている参考文献の数々をぼんやりと目で追う。その多くは、どこかの国の大学や図書館にでも行かないと手に取ることができない主に英語の文献や資料だ。
 二〇〇五年の秋に始まった、そんな小沢健二との新たな繋がり。(略)
「うさぎ!」の文章は小沢健二が思考の過程もフィールドワークの足跡も剥き出しにした、ナマの言葉に溢れていた。(略)
語り手やその語り口も連載回ごとの統一感は保たれていたものの、回を追うごとに地滑り的に変化をしていく不安定なものだった。申し訳程度にいつものキャラクターが出てくるだけで、ほとんど研究論文のような内容の回も少なくない。しかし、そこには読者に対する「見たことのないものを見せてあげなくては」「知らなかったことを知らせてあげなくては」という真摯な熱があった。
(略)
 結果的に、「うさぎ!」は小沢健二のキャリア全体を通じて極めて重要なターニング・ポイントにして、その表現活動全体における中心的な存在となっていった。それは個人的な見解ではなく、本書を執筆している現在(二○一七年)の視点からその後の小沢健二の活動を見わたした時に、くっきりと浮かび上がってくる一つの事実だ。

小沢健二は生きていた

 そのような観客にとって、この「映画「おばさんたちが案内する未来の世界」を見る集い」に参加した目的が、何よりもまず「小沢健二の生存を確認すること」であったのは致しかたないことだろう。そして、当たり前だが、小沢健二は実在し、生きていた。
 フリッパーズ・ギター時代から、これまで何度となくステージ上の小沢健二を見てきた自分にとっても、この時の小沢健二の「実在感」は鮮烈なものだった。(略)
なにしろ、ほぼすべての参加者にとって、その姿を目にするのは約一〇年ぶりのことだったのだ。三九歳となった小沢健二には、旅先からそのまま立ち寄ったかのようなワークキャップやアウトドアブーツを身につけて上映会の会場に入ってきた瞬間から、周囲の空気を気圧すような迫力があった。
(略)
小沢健二は上映が終わると、まず最初に観客へ向かってこう切り出した。
「この作品を観て、どんなことを思い出しましたか?」
 どんなことを考えたか、どんなことを思ったかではなく、どんなことを「思い出した」か。それは、かつて《いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋りだすのなら》(「天使たちのシーン」)と歌った小沢健二らしい、あまりにも理想主義的な、(実際の距離はとても近かったにもかかわらず)遠くからの問いかけだった。
 その三年後、小沢健二は「うさぎ!」の中でこんなことを書いている(略)
 質問をされるたびに思う。質問というものは、その人が世界をどう見ているかを如実に表すなあ、と。(略)あたしにとっては、その「質問が生まれる背景」の方が、自分の答えよりずっと興味深い。自分の答えなんかは、元々考えていることなのだから、何も面白くない。(「うさぎ!」第二十二話)
(略)
[この文章は]小沢健二が一九九七年以降、紙媒体において対面でのQ&A形式のインタビューを一切受けていない理由にもなっている。「自分の答えなんかは、元々考えていることなのだから、何も面白くない」。小沢健二が求めているのは、「質問と答え」ではなく、「面白い対話」なのだ。
 しかし、少なくとも自分がその場に居合わせた、二〇〇人以上の参加者がいた「映画「おばさんたちが案内する未来の世界」を見る集い」では、そこで「面白い対話」が成立していたとは言い難かった。作者である小沢健二とエリザベス・コールがその場に求めていたものと、参加者が求めていたもののあいだには、埋められないギャップのようなものがあった。

「みなさん」の話は禁句

[岡崎京子展公式カタログ]『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』に、小沢健二は「「みなさん」の話は禁句」という長い文章を寄せている。
(略)
文章は『LIFE』期から二〇年後のアメリカのポップ・スター、テイラー・スウィフトと人気ファッション・ブロガー、タヴィ・ゲヴィンスンの話題へと移り、やがて一九九五年から一九九六年にかけて岡崎京子が雑誌に連載していた『ヘルタースケルター』の主人公りりこの話へと繋がっていく。スターと、「みなさん」という名の大衆の関係についての考察。


 スターは大衆に細かく分析される、と言うけれど、もしかしたらスターのほうが、大衆なるものをより精密に分折する。社会を分折する。
 でも、スターたちはその話はしない。「みなさん」の話は、禁句だから。
 スターが「みなさん」の話をすると、それが密かな表現でも、「みなさん」は嗅ぎつける。「みなさん」は、嗅覚はすぐれているのだ。嗅ぎつけた「みなさん」は「あの人って最近、ちょっとこわいよねー」と言って、離れていく。
 例えば、テイラーさんが楽屋で何百枚もサインをこなす日常を、こんな歌詞にしたとする。
 「深夜の楽屋でサインを書く/親愛なるカレンヘ、ポールヘ、ケイトリンヘ/あなたたちは/こちらからは見えないわ/マジック・ミラーのように/宛て名は全部/私の名前に見える」(まあ、もっと上手いだろうけど。)
 こんな歌詞を聞いたらら、確かに「みなさん」は「なんかテイラー、やばいよねー」と言って、すぐに離れていくだろう。
 スターが見るマジック・ミラーというテーマが、テイラーさん自身にとって、どれほど大事でも。
 同じようなテーマは、こんな歌詞になるかも。
 「この線路を降りたらすべての時間が/魔法みたいに見えるか?/今そんなことばかり考えてる/なぐさめてしまわずに」
 うーん、やっぱり「本当の日常を書いた歌詞なんて、みなさんは求めていない」というテイラーさんのマーケティングは正しい。(「「みなさん」の話は禁句」)

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com