サリンジャー 生涯91年目の真実

サリンジャーの決定版・評伝。

サリンジャー ――生涯91年の真実

サリンジャー ――生涯91年の真実

 

一族の歴史

[終生ロシアにとどまった]曽祖父を道化師ゾゾとして創作し、一家の家父長としての栄誉をささげるいっぽうで、じつはつねにこの曽祖父の霊が自分を見守っている気がする、と語っている。(略)
[アメリカに移住し最後はシカゴで総合病院を開業した祖父]ドクター・サリンジャーは息子に会いによくニューヨークに来ていて、ホールデン・コールフィールドの祖父のモデルになった。バスに乗っているあいだ、窓から見える通りの名前を大声で読みあげてホールデンを困惑させる、愛すべき人物だ。(略)
[姉のドリスさえ母マリーはアイルランド生まれと信じていたが実はアイオワ州生まれの可能性が高い。両親を亡くし結婚を機にユダヤ教に改宗、名前もマリーからミリアムに](略)
 サリンジャーは母の庇護のもとで成長し、終生母と親密な関係を保ち、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を「母に」と献辞をささげているほどだ。母は息子が偉大な人物になる運命にあると信じつづけ、息子もおなじ思いを抱くようになった。(略)
 そんなふうに自分を信じてくれない人たちのひとりが父親だった。ソルは社会的地位が上がるにつれて、ほとんどが裕福な実業家や株式仲買人という隣人たちの世界と一体化し、ユダヤ系移民の息子という自分の民族的背景を、前面に押し出さなくなっていった。1920年の国勢調査では、「チーズ工場」の工場長と名乗り、両親はロシアの生まれだと認めていたが、1930年には彼の姿勢が変わって、自分は農産物関係の仲買人で、両親はオハイオ州の生まれだと、国勢調査員に語った。(略)
[サニー16歳、成績が悪くマクバーニー校を追われ]
甘やかし放題の母親と妻の強硬姿勢に屈する父親がいる状況では、サニーを寄宿学校に行かせるしかないのはあきらかだった。(略)
[父ソルがヴァレーフォージ軍学校の面接に出なかったのは、父と子の不仲のせいとされてきたが、大恐慌時代の反ユダヤ感情によりユダヤ系入学者数が制限されたことを考慮し] 
ソルは家に残った。代わりに、白い肌と赤褐色の髪をした妻を行かせた。(略)いろいろ問題の多いこの親子関係だが、この日のソルの不在ほど、息子への父の愛を雄弁に語ってくれるものはあるまい。

学生生活

[サニーをやめ、ジェロームも拒否して、ジェリーと名乗る]
マクバーニー校で芝居に出演すると、ほかの点では彼を嫌っていた教師たちがしぶしぶながら彼を認めてくれた経験から、ヴァレーフォージに追放されていらい、演じることはサリンジャーの快感となり、演技をつづけたいと切望した。(略)「シェイクスピアのセリフを暗唱するみたいに、気どったしゃべりかたをしていた」[級友の回想]
 自分はヴァレーフォージで作家になった、とサリンジャーはよく言っていた。友人たちは、消灯後もずっと毛布の下で懐中電灯をたよりに書いていた彼の姿を覚えているという。彼は在学した2年とも年鑑の編集長をつとめ、年鑑に派手に登場した。じじつ、年鑑『交差したサーベル』の1935、1936年度版は、どのページをめくってもジェリー・サリンジャーに出くわすほどだ。彼はほとんどすべてのクラブ、すべての芝居の写真に、そしてもちろん、年鑑のスタッフとしても写真に登場した。(略)
[ほとんどのページに]皮肉で観察眼のするどい、それでいてあたたかい機知にあふれた彼の肉声が聞こえてくる。
(略)
[成績が悪くニューヨーク大学を退学。父は息子が輸入業に興味を持つことを期待して自分の会社の取引き相手の通訳としてポーランドオーストリアへ送る]

1937年訪欧

ユダヤ人地区で、ある一家と10ケ月過ごした。すぐにその一家の人たちが気に入った彼は、その娘とはじめての真剣な恋を経験する。オーストリアにおけるサリンジャーの「家族」についてはほとんどわかっていない。ただわかっているのは、サリンジャーがこの家族を理想化し、彼らを生涯にわたって純真と高潔さのシンボルとみなしたことだけだ。サリンジャーはよく彼らのことを思い出し、この家族との生活をウィーンで経験した至福の家族生活として、理想化の度合いを深めていったという。のちにヘミングウェイヘの手紙で、この一家の娘の無垢な美しさについて想い出を語っている。
(略)
[ポーランドで]父の輸入業のさらに基本的な部分を体験した。たとえば、朝は夜明けまえに起床し(略)重い足をひきずって、「ピクニック用ハムの缶詰」としてアメリカ市場に送られる運命にある豚を殺しに行くのだった。(略)肉類輸出業がどんなものか、豚がその大半を占めるということが、サリンジャーにもすぐわかってきた。
(略)
[当時の]オーストリアポーランドでは、戦争の脅威がひしひしと感じられ、この意欲あふれる若き作家に深大な影響をあたえたのはたしかで、この土地にたいする彼の大切な想い出を悲しみでいろどることになるのだ。(略)
オーストリアナチスは権カヘの道を暴走し、刑務所から解き放たれたナチスの暗殺団が勝手気ままにウィーンの街を弾圧していた。ユダヤ系とみなされた通行人は、排水溝の掃除を強要されて見物人たちの嘲笑を浴び、ユダヤ人の家や会社は暴徒に略奪される始末だった。こんな悪夢を目撃したサリンジャー(略)
[オーストリアの「家族」は全員ホロコーストで虐殺]

1938年帰国

[ペンシルヴェニア州の小さな大学]ニューヨーク出身のユダヤ系お坊ちゃんが、この辺境の大学にいること自体が特別なことだった(略)
サリンジャーはもう20歳になろうとしていて、ひとくせありそうな笑みをみせるハンサムな青年になっていた。188センチの長身で細身の彼は、みんなのなかで目立つ存在だった。(略)


 ジェリーはちょっと忘れがたい人物でした。ハンサムで物腰のやわらかい、洗練されたニューヨークっ子で、黒のチェスターフィールド・コートを着てました……そんなもの、あたしたち見たことがなかったんです。彼の痛烈でするどいユーモアにも魅せられました……ほとんどの女の子たちはすぐに彼に夢中になりました。


(略)
[大学新聞でコラムを持ち]
このころすでに、小説を批判するときにきまって「インチキ(フォーニー)」という言葉を使っていた。(略)
のちに友人となるアーネスト・ヘミングウェイも同様に否定して(略)『日はまた昇る』、『殺人者たち』、『武器よさらば』いらい、仕事の質は低下し、言動だけ派手になってる、という感じ」と引導を渡した。
[一学期でアーサイナスを去る]

1939年コロンビア大学入学

[無気力に受けていたウィット・バーネットの授業だったが、ある日、フォークナーの「あの夕陽」が朗読され]
バーネットは感情をおさえた調子で読んだ。「ぼくたちは自分なりのフォークナー作品を直接そのまま、なんの仲介者もなく、自分のものにした」とサリンジャーは回想している。「バーネットはいちどたりとも、作者と愛する沈黙の読者のあいだに立ち入ることはなかった」。この授業はサリンジャーに、作品を重視することと読者を尊重することの境界を教えてくれた。彼は作家として、生涯このバーネットの教訓を忘れず、作者は背後にひかえていること、読者と物語に干渉しないこと、読者と登場人物の関係にじかに参加しようとする自分のエゴを覆い隠すこと、を肝に銘じた。
(略)
[9月]彼の内部でなにかが変わったようなそぶりをみせまいとしながらも、それまで学校でみせていた横柄な、皮肉な態度も少なくなっていった。11月にはバーネットに手紙を書いて、それまでの怠惰とつよすぎた自負を悔いた。ついには真剣に、勇気をふりしぼって教師に相対し、自分の書いたいろいろなものをみせるようになった。
(略)
 その学期のおわりには、ウィット・バーネットはサリンジャーの指導者となり、彼がアドバイスと激励を求める父親のような存在になった。サリンジャーはなんとか彼をよろこばせようと努力した。当時の手紙はまさに純真な少年といった感じをうかがわせ、自分の無知を認める言葉や、たっぷりのお世辞にあふれている。バーネットヘの感謝の気持ちはつよく、あるときなど彼のためなら殺人以外なんでもやると、編集者に断言したほどだ。

社交界の娘たち

[エリザベス・マレーはサリンジャー]の最近の成功を自慢に思い、自分の友人たち、つまり、最上流社交界にデビューする娘をもつ親たちの仲間に会わせたがった。そして1941年7月、サリンジャーは、いつも新聞のゴシップ欄をにぎわすような、裕福で美しい娘たちに囲まれていた。自分の著作のなかで辛辣に批判してきたタイプだった。そんななかに、作家のウィリアム・サローヤンの恋人キャロル・マーカス、かの有名な「金はあっても不幸な娘」ことグロリア・ヴァンダービルト、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールの仲良し3人組がいた。
 ウーナ・オニールは溌剌として魅惑的な娘で、その美しさは「頭からはなれない」とか「神秘的」と評されていた。本人の魅力にくわえて、父親はアメリカ随一の劇作家であり、そのせいで彼女がサリンジャーにはいっそうすばらしくみえたことはたしかだ。
(略)
 ウーナ・オニールとの関係が冷えていくにつれて、サリンジャーとしては、ニューヨーカー誌に作品を載せることが、ぜひとも必要になってきた。派手に売り出して世間の注目を浴びれば、ウーナも関心を寄せてくれるだろうし、彼女がほめそやす、ストーククラブの得意満面な連中に、自分も近づけるだろう。
 1941年10月、サリンジャーはニューヨーカー誌から採用の通知を受けとった。それはビークマン・タワーズ・ホテルで書きなおした、長編小説の一部となるもので(略)彼はそのタイトルを「マディソン街はずれのささやかな反乱」と変え(略)ホールデン・モリシー・コールフィールドという不満だらけの若きニューヨーカーが主人公の物語だった
(略)
サリー・ヘイズはウーナ・オニールに似た人物で、浅薄で上流階級のしきたりにしか興味がない(略)
ホールデンが流行を追う社会のインチキを非難しているいっぽうで、その作者はストーククラブに陣取って、みせかけの生活を楽しみ、自分が著作のなかで悪口を言っている、まさにそんなものを欲しがっているのだ。

入隊

[真珠湾攻撃で戦争に、「ささやかな反乱」は掲載中止無期延期]
ラジオ、映画、新聞、雑誌がこぞってその狂乱状態をあおった。知人のほとんどが入隊したのに、彼は23歳にもなって両親のアパートに住みつづけ、戦争という非常時にささいな心臓疾患で義務を果たせないでいるのだ。(略)
[だが検査基準がゆるくなり入隊できることに]
「最後で最高のピーターパン(The Last and Best of the Peter Pans)」は、サリンジャーが入隊と家族と離れることへの、自身の複雑な感情を検証した作品である。(略)
ホールデンの兄、ヴィンセント・コールフィールドは母と対決する。調査票と軍隊をめぐって、ふたりのあいだに長い議論がつづく。メアリは自分の行為を弁護し、ヴィンセントが軍隊では幸せになれない、と主張する。(略)ヴィンセントは感情が混乱してしまい、母が自分で意識していない偽善をしてしまっていると責める。たとえば、目のみえない人に時間を尋ねるとか、脚の不自由な人に、崖からすべり落ちそうな子供をつかまえてくれと頼むとか。(略)自分の長寿より子供たちの生を望む母を、「最後で最高のピーターパン」と呼ぶのだ。
(略)
軍隊は結果的に、サリンジャーの作品に深い影響をあたえることになる。アメリカ深南部出身の兵隊、貧しいスラム街の安アパートの住人などが入り混じる、騒然たる社会の現実のまっただ中に放りこまれて、彼は自分の態度をみんなに合わせざるをえなくなった。彼の人間観は新しい個人に出逢うたびに変わり、文学的感受性に本質的な影響をおよぼした。
(略)
[ウーナへの]サリンジャーのラブレターはそれ自体、中編小説ともいえる代物で(略)ほとんど毎日書かれ
(略)
[同時期入隊中のウィリアム・サローヤンに手紙を書かなくてはならなくなったキャロル・マーカス]
「あたしウーナに言ったの。ビル(サローヤン)に手紙を書いたら、彼、あたしのこと、なんてバカなんだって思うわ。あたしと結婚なんかしないと言いだすかも。だから、ジェリーの手紙の頭のよさそうなところを抜きだして、自分が書いたみたいに、あたしのビルヘの手紙に使わせてよ」。サローヤンと再会したマーカスは、彼が自分との結婚に迷っていると知ってうろたえた。キャロルにたいする彼の考えは、彼女が送った「うわべだけが調子のいい手紙」を読んで、すっかり変わっていた。マーカスはあわてて、盗作を認め[めでたく二人は結婚、のちにウォルター・マッソーと再婚]

チャップリンに恋人ウーナを奪われる

[チャップリンは女優ジョーン・バリーの子供の父親認知訴訟の最中]
ウーナとのロマンスのセンセーショナルな背景となった。マスコミがこの一件をかぎつけると、チャップリンは不道徳な変質者で、「反アメリカ的」のレッテルをはられた。マスコミはキャンペーンをくりひろげて、彼の映画をボイコットした。(略)
アメリカ人の大好きな劇作家の、若く「無垢な」娘を、邪悪な行為によって「白い奴隷」におとしめた、とこの俳優を糾弾した。(略)
この事件はみんなの知るところとなり、サリンジャーには屈辱的だった。(略)ウーナの写真を自慢げにみせられていた軍隊の同僚は、いまや同情の目で彼を見ていた。(略)彼はプライドと芯のつよさをみせて、人前で泣き言はいわなかった。
(略)
[当時書いた短編「ある兵士の死」に『独裁者』を観にいく場面がチラリ]


 「どうしたんですか、パークさん?チャーリー・チャップリンは好きじゃないんですか?」……パークさんは言った、「いや、チャップリンはいいんだ。ただな、オレはおかしなチビがデッカイやつに追いかけられてばっかりってのがいやなんだ。女にはフラれっぱなしでさ。死ぬまでずうっとそのまんみたいにな」


(略)
[傷心を癒そうと基地で働く「ジョージアのカワイコちゃん」ローリーン・パウェルと恋に落ちるも、キスしようとして娘の母親に追い出され、交際は終わる。「ふたりの孤独な男」の中に]


 ときどき――どっちにしても、はじめのころだが――やつは基地の売店で働いてたかわいいブルネットの女の子とデートしてた。でもどうかしちゃったんだなあ――オレもよくは知らないんだが

まだまだ終わりません。一度にやるとぐったりする量なので、別の本をやったりしながら、飛び飛びでやります。何日後かに続く。
[下記につづく↓]
kingfish.hatenablog.com