非常識な建築業界・その2 商社化するゼネコン

前回の続き。

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

 

「住宅作家」、「建築は写真表現」

[オイルショック後]
「大きな仕事」のない建築家が自己表現のためにたどり着いた新天地。それが「住宅」でした。
 その前に、戦後の「住宅作家」といわれる方々のことをお話ししましょう。(略)
小さな住宅でしか成し得ない繊細な表現を得意とし、素材や工法にこだわった家づくりで成果を挙げていきました。たとえば、日本の伝統的木造や「在来工法」といわれる木造建築の構成方法を、現代的な技術とデザインセンスで再構成し、生活空間を刷新するような提案です。(略)
 なかでも、あとに続く建築家たちに非常に大きな影響を与え、日本独特の「小住宅作品」というジャンルを確立したともいえるのが、磯崎氏と同世代の篠原一男氏です。(略)たとえば、京都の有名なお寺の広間や能舞台、小さなお茶室といった空間には、「永遠の沈黙の美」があります。これを個人住宅に持ち込むことで、工芸的な価値以上の「何か」が表現できるのではないかと考えました。
 初期の代表作である「白の家」は、家全体が一つの床の間のようにしつらえてあります。(略)[静謐で厳格な雰囲気を]住宅で実現しました。
 この「白の家」が与えた影響は計り知れません。(略)
[予算も]豪華な材料もいらない、光の入れ方と窓の取り方と抽象的な素材の扱い方で、何もない空間に美的な価値を加えられることを示したのです。(略)
[基本非公開の個人住宅は写真で評価されることに]気づいた篠原氏は、「建築は写真表現である」と言い切りました。(略)[収納スペースが少ないつくりでも]いったん良い写真が撮れれば、あとはいくらでも物があふれ返ってもよいという開き直りもあったと聞きます。それはまさに、能舞台のような一瞬の虚構性でした。
(略)
1970年代後半から、趣味性の高い建築家とそれに共感するクライアントという最小単位の事業コンビにより、ライフスタイルまで含めた「小住宅による芸術表現」というニッチなジャンルが形成されていきます。
 リビングに巨大な丸太を置いてみる、一切の間仕切壁を取り去ってみる、コンクリートを打設しただけの荒々しい姿を残したままで内部の仕上げをしない、壁面を全面ガラス張りにする……。
(略)
吹き抜け内部に設けられたタワー状の家具を「都市と人間の関係を暗喩した空間」、内部の全面に貼られた鏡に部屋が映り込むことで「対称関係の虚像が現前する」など。小さな空間に誇大なテーマを盛り込んで、本来なら住宅に無関係なストーリーを載せていきました。(略)「小劇団型建築」の誕生です。
 そして、小劇団の主宰者たる若手建築家たちは、いわゆるガラスカーテンウォールで覆われたオフィスビル群や公民館、病院、学校などの建築に取り組んでいた組織設計事務所の仕事に対し、無個性、無思想、無批判と批判しました。
(略)
 小住宅による実験的な試みで一定の評価を得た建築家たちは、その実績を後ろ盾に、しだいに公共施設などの大型物件に活躍の場を広げていきます。彼らはそこでも、住宅設計のときと同じように、個人的世界観からくる特殊解の手法をそのまま採用しました。時代がバブル経済という好景気に沸いていたのも、特殊解的建築を後押しした要因でしょう。小住宅の設計でついた「悪いくせ」が、そのまま公共施設でも発揮されたわけです。そこから、日本の公共施設にはどや顔をした建物が加速度的に増えていきます。(略)
 ガラスの箱型、シルバーの円蓋、窓のない黒いモノリス、剥き出しの鉄骨オブジェなど。
(略)
 折しも1980年代は、磯崎氏らによるポストモダンスタイルの喧伝もあり、建築にはなんらかの物語性や文化に対する批評性がなければならないという風潮が支配的でした。単に機能的なもの、規格化され視覚的に整理されたモダニズム建築をつくっただけでは、建築をつくったことにならないというわけです。
 建築がいかに人目を引くか、その違和感から建築が街や人に投げかけるある種の虚構性、コンセプチャルなストーリー性の導出が重要視されていました。
(略)
いま見ると建築の意図が不明だったり、デザインが陳腐化していたり(略)
さらには、建築家自身が当時の建築デザインスタイルから転向してしまったため、「なぜ、あの頃あんなデザインにしたのか?」がうまく説明できないものがあります。

著者の学生時代

[大学の新歓合宿で教授や講師、上級生たちが「建築はいかに可能か?」といった禅問答を延々と続け]
[演習で]先生はどこにでもありそうな戸建住宅を思わせる図面が提出されると、「こんなのは建売住宅のプランだよ」と吐き捨てるように一蹴します。あるときなど、「うーん、住宅としては○だけど、建築としては☓だな」と退けられた学生がいて(略)
[やがて皆]ありきたりな住宅とは何かも知らないうちから、オリジナルに向かって駆け出していくのです。
(略)
私が学生だった1980年代後半頃は、建築に対する評価基準がすでに「工学」から「芸術・アート」の枠組みに移行しつつあり、教育の現場にもその影響が着実に忍び寄っていました。気づけば、非常勤講師のなかから教授格として大学に残る人も少しずつ現れ、建築教育の場はいつしか彼らのイデオロギーに支配されるようになっていたのです。
 結果、アカデミズムの現場でも「建築のゴールは自己表現」という前提に傾き始め、構造力学や材料工学といった学問はそのための手段でしかないという、いびつなヒエラルキーが生まれてきました。「表現のためのアクロバットな構造形式」や、本来の使用目的を逸脱した素材の活用法をあえて選択し、それをもって建築の表現とするような傾向です。

同じデザインはつまらないか?

 気象条件や自然環境からも、建築は制約を受けます。高温多雨な気候において建築に求められる最も重要な役割は、雨や湿気に対する配慮です。そこから、屋根の傾斜や軒の出の処理、雨水を雨樋から排水溝まで適切に導いていくかたちが決まります。最終的に川へ流すまでの仕組みという意味では、街のかたちもおのずと決まっていきます。
 これら、さまざまな制約を受けたうえで建物の基本形は最も合理的な姿に定まっていくのです。時代とともにアップデートされていくところもありますが、基本的な部分は常に継承されていきます。結果として、建築のかたちは日本中で類似のものが多くなります。
 だからといって、その状態を「つまらない」とは誰も言いません。三角形の屋根が連なる古い街並みを見て、「まったく同じデザインでつまらない」と吐き捨てる人がいたら、その人はむしろ美的センスの乏しい人でしょう。(略)
そのなかにある細かな意匠的差異を見抜き、地域ごとの街並みをそれぞれに愛でる能力を持ち合わせています。たとえば、京都と関東では格子の太さや間隔が異なります。京都は繊細でたおやかな美が好まれますが、関東の美は無骨だけどすっきりしています。奈良の住宅の屋根は緩いカーブでむくりがついていますし、雪国の家には雁木構えがあります。
 これが現代建築になると、それまでの価値観が一変します。
 なにしろ、建築の定型を否定したい、抽象的な純粋形態に近づけたい、常にオリジナルな提案をし続けたいと考える人たちが建築をつくっているのです。先ほどの例でいえば、三角形の屋根が連なる古い街並みを見て、「まったく同じデザインでつまらない」と見るか、もしくは古い街並みの中に目立つように「ガラスの箱をガンっと入れてみたい」と考えてしまう人たちなのですから、一般の人と同じ価値観を持ち合わせているとは思えません。最初から「常識的な評価」を拒んでいるのです。
 つまり彼らにしてみれば、建築を構成する方法そのものがほかと似ている時点で、それは単なるモノマネであり、建築としての評価に値しないというわけです。

傾斜マンションができる理由

[バブル崩壊で新規採用を減らした結果、次代のリーダーが不足に]
[法改正による派遣労働増加で]現場での業務の最優先事項が「個人的なリスク回避」になりました。(略)
 元請けのゼネコンからやってくる工事監督のもとには、かつてのように同じゼネコンの後輩が助手としてつき、先輩のスキルを学んでいるわけではありません。契約期限を決められ、業務範囲を限定された「派遣監督」が現場ごとに集まるだけです。派遣会社から送り込まれる派遣監督たちは、契約内容以上のがんばりを見せたところで誰かに評価されるわけでも、昇進するわけでもありません。(略)
 一方、ゼネコンの工事監督も、そのような派遣監督に建設現場を束ねていく際の要領を指導、教育していく動機がありません。法改正への対応やコンプライアンスの遵守が厳しく求められるなか、ますます増えていく管理書類や報告書の提出に追われる毎日です。「余計なこと」をしているヒマはないのです。
 気がつけば、長きにわたって培われてきた建設現場の「元請け・下請けシステム」「工事監督のOJT」は過去のもの(略)駅前再開発のような大規模な建設現場でも、最初から最後まで現場に関わるゼネコンの正社員はほとんどいません。代わりに現場にいるのは、短期間での出入りを繰り返す派遣労働者ばかりで、現場で「人材を育てる」という昔ながらのやり方は難しくなってきました。
 短期的な利益を追求するばかりで長期的な人材教育をおろそかにし、人材の流動化という流行りの労働思想に乗ってしまった結果、多くの現場では工期に追われ、工事費用にも余裕がなくなり、建設工事のクオリティは目に見えて下がっています。横浜の傾斜マンション問題も、まさにそうした状態が行き着いた先で、起こるべくして起こった事件だったのです。
(略)
[「派遣監督」は]もともとはゼネコンの正社員として現場で教育を受け、ゆくゆくは現場主任になったであろう人物が数多くいます。それ以外では、設計事務所で工事管理能力の高かった一級建築士などです。彼らが会社の倒産、リストラ、自己都合による退職などのさまざまな理由によりフリーランスとなって派遣会社に登録したことで、再び現場に戻ってくるようになりました。みなそれなりに能力のある人たちではあります。
(略)
[派遣同士では暗黙の信頼関係が期待できない]
 そこで登場するのが各種の報告書です。書類による報告、書類上のデータが、組織の関係や工事の連携を維持する唯一の「武器」になります。しかし、見方によってはこれほど脆弱な武器もありません。(略)
報告書さえうまく取り繕っておけば、実際の工事に多少問題があっても、現場はさも順風満帆に進んでいるように見せることができます。横浜の傾斜マンション問題でも、報告書に記載される数字のつじつまさえ合わせておけば、何の問題もなく次の工程へと移れる環境が整っていました。
(略)
[ゼネコンがすぐ記者会見を開けなかったのは無理もない]
なにしろ、杭工事の責任者は、派遣会社からやってきた派遣監督です。あくまで私の推測ですが、元請けのゼネコン社員は誰も現場を見ていなかったおそれすらあります。(略)
問題となったマンションの建設に自身が建設会社として関わっていたという自覚すらなかったかもしれません。

商社化するゼネコン

[大手ゼネコンの強みは、1.最先端技術の開発、2.資産規模による保証能力、3.実績。それゆえ、大手だから可能な公共事業に舵を切り]
結果として、構想する建築の質の問題以前に、受注金額の大きさや、工事の手配が可能かどうかを精査するまでがコア業務となってしまいました。(略)
 ゼネコンが商社化していくにつれ、建設現場にも大きな転換が訪れました。それまで工事監督がもっていた資材や発注先の決定権が取り上げられ、全社共通で購買部が管理するようになったのです。元請けと下請けの取引関係が全社的に一本化され、それまで名物監督のもとに築かれていた外部チームとの連携が壊されてしまいました。
 もちろん、一部の工事監督と下請けの間で企業コンプライアンス上問題のあった、なあなあの悪習が一新されたという効果はあるかもしません。しかしそれ以上に、臨機応変な助け合いや緊急事態における機動的対処といった「暗黙知」が現場から失われてしまったのは、大きな痛手でしょう。「ときには利益を度外視してでも動かなくてはならない」「この現場は多少無理をしてでも必ず工期に間に合わせる」という下請けと、「少し割高にはなるが信頼できる下請け会社に発注したい」という元請けの関係は、元請けの工事監督と下請け会社の担当者の個人的な人間関係により維持されていた部分がありました。ところが、下請け会社を一斉にリスト化して、本社側の判断でできるだけ見積りの安いところに発注するようになると、それまでの関係は瞬時に崩れます。
(略)
 私の知り合いの、50代半ばの設計者の話をしましょう。
 彼は、某スーパーゼネコンで設備設計をしているのですが、部下は一人もいません。人間的に問題があって部下がいないのではなく、何年も前から組織がフラット化されたことにより、上にも下にも人がいなくなったのです。
 それ以前の組織構造であれば、一つの課に10〜20人規模の組織がいくつもあり、その一つひとつが小規模な設計事務所のように半ば独立した機能をもっていました。当然、組織内の年齢層も多様です。いったん定年退職したあとに嘱託で顔を出している戦中派のご意見番、最後の大仕事でがんばる現トップ、入社数十年のベテランから、次のリーダーを目指す働き盛りの40代、仕事を覚えたてで生意気盛りの30代、やっとプロの顔つきになってきた20代、とバランスが取れたチームが形成され、若手は経験豊富な先輩から仕事を教わり成長していったものです。
(略)
 社内に上下関係はなくなりましたが、同時に仕事を引き継ぐ企業文化もなくなりました。(略)
ベテランとしては、新人教育をしても評価につながらないため、仕事の合間をぬって質問に答えることが、無駄なサービスかボランティアのように感じてしまいます。
 昇給や昇進は、具体的に数字を上げ続けるか、自己申告と自己査定をもとに認められます。かつての組織にあったような、「こいつはまったく不器用だが、ゆっくり育てれば大きく花開く人物だ」といった属人的な評価や、「あの先輩は無茶苦茶厳しいが、ついていけばどんどん仕事が身につく」といったような数値化や定量化ができない、見えない人材の評価も消えました。
(略)
 50代・部下なしの彼は、いま、かなり特殊な工場プラントの設備設計を一人で担当しています。しかし数年後、彼の知識や経験も含めて仕事を引き継いでくれる若手はいません。おそらく彼が退職すれば、そのゼネコンが請けていた仕事は継続不可能になるだろうといいます。しかし会社側は、事の重大さを分かっていません。別のセクションの担当者を異動させれば済むと高をくくっているのでしょう。
(略)
これらが未だ大事故や大問題にまで発展していないのは、現場に携わっている人々が、持ち場を必死で支えているからです。万が一、何か一つでも歯車が狂い、不測の事態が多重に起きてしまえば、即座に決壊するかもしれないことばかりです。

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