非常識な建築業界 「どや建築」という病 森山高至

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

 

「新国立競技場問題」

空港、駅舎のコンペでも起きた「新国立競技場問題」

 ある鉄道路線の駅舎の建て替え計画でも、似たような話がありました。
 設計コンペを開催した結果、選ばれたのは建物のほとんどの部分がガラス張りで、外壁には複雑な形状のアルミ格子を張り付ける案でした。ガラス張りは「地域に開いたコミュニティのイメージを視覚的に表現したもの」
(略)
 しかし、実際にその駅舎がつくられると、たちまち苦情が寄せられました。建物をガラス張りにしたことで、夏はビニールハウスのような暑さで駅舎全体が苦しめられたのです。対策として冷房をフルパワーでかけ続けたものの、効き目はほとんどありませんでした。当然、光熱費は高騰しました。さらに、駅舎内の照明がガラスを通して外部に漏れることで、夜の明かりに吸い寄せられる羽虫と、それを捕えんとする蜘蛛の巣がガラス面を覆い尽くし、見るも無残な光景が展開されました。朝になれば虫たちの死骸が建物の隙間に溜まっています。その清掃費も年々かさんでいるといいます。
 「コミュニティ施設としての駅舎」は、その目玉の一つが駅舎内に設置された図書館ゾーンでした。しかしこれも、ガラスを通って入る直射日光で本が日焼けする、本棚の棚板や受付カウンターが強烈な日差しで反り返る、温室と化した施設内部の暑さに耐えかねて利用客が寄り付かないなど、まったくの機能不全に陥りました。地域の人々に開いたはずの「ガラスの駅舎」でしたが、ふたを開けてみれば誰も寄り付かず、しかたなく駅前のコンビニエンスストアに「避難」する人が続出したといいます。

コンペの実情

シンクタンク側は自分たちの恣意性を疑われると困りますので、なるべく客観的に審査委員を選出するよう心がけています。無難なのは地元の大学の建築学科の教授(略)
 たとえば地方の図書館建設に関するコンペで審査委員を構成する場合、その顔ぶれはおおむね以下のとおりです。
 地元の大学教授1名、すでに地元で大規模建築の設計経験がある建築家1名、行政側からは建築課の担当者1名、図書館司書の代表1名、昨今は環境問題に詳しい大学の先生が呼ばれることが多いので環境問題の専門家1名、図書館の場合は教育委員会から1名、地域の商工会の会長と、図書館利用者の代表として民生委員から1名。ざっくりいえば、建築に詳しい人3〜4名、そうでない人3〜4名、それに市長が加わって10名弱という陣容が一般的です。
 あるいは、先に審査委員長だけを決めておき、その人にほかの審査委員を集めてもらうやり方もあります。(略)結果として審査委員長が自分の「仲間たち」に声をかけてしまうため、実質的に審査委員長の独断で優秀案が決められてしまうおそれがあります。
(略)
[議論が尽くされることなく]
ほとんどの審査会は、建築に詳しい大学教授や著名な建築家が推す案を、建築に詳しくないほかの審査委員が追認するというかたちで進められるからです。
 私の友人の建築家が参加したある博物館のコンペは、まさにその典型でした。
 審査委員長を務めた著名な建築家は、審査の議論に入る前からある一つの応募案を気に入っており、最初から「○○さんの案でいいよね」と結論ありきの審査会を進め、あろうことか「もう○○さんの案でいいから、ほかの案は見なくていいよ」と最終審査に残ったすべての設計案を見もしないで独断で優秀案を決めてしまったのです。最初からこのコンペを「出来レース」ではないかと疑っていた友人は、後日、情報公開制度の開示請求によりこの審査会の議事録を入手してその事実を知るに至り、コンペを主催した自治体を訴えました。
 しかし、結果は芳しいものではありませんでした。新国立競技場問題でもはっきり目にしたように、関係者全員が責任を回避する言い訳に終始したのです。訴えられた自治体は「決めたのは審査委員」、審査委員は「コンペを企画したシンクタンクの趣旨にのっただけ」、シンクタンクは「私たちが関わったのは企画の段階までで、審査にはノータッチ」。(略)
[責任のたらい回しの間に]裁判の結審よりも前に問題となった建物が完成
(略)
[また建築に詳しい審査員にも設計案は募集要項をクリアしているだろうという勘違いが]
 その最たる例がコストでしょう。募集要項には建設費の上限も示されていますから、応募者はその予算内に収まる案を提出しているだろうと勝手に了解しています。
(略)
 新国立競技場の建設費が問題になったときも、一般の人たちは「専門家が揃いも揃って何をやっているのだ」と憤りましたが、建築業界の人から見れば、彼らは「デザイナーの先生」であって(略)コストの話を突っ込まれても分からなくて当然というふうに、醒めた目で見ていたものです。

コンペ必勝法

 このように、その街にとってどのような施設がふさわしいかという議論をしているように見えて、実は議論の中心は、自分が興味のある分野や業界内の流行を意識した個人的な世間話です。そして、自分と同じ意見をもつ建築家、自分が好きなデザインをしている建築家、それを選ぶことで選んだ自分までが評価されるような設計案を、知らず知らずのうちに推しています。極端にいえば、建築家をはじめとする建築に詳しい審査委員の興味は、造形デザイン、空間構成、設計案に付された解説だけです。
 どうしてそうなるのかといえば、審査委員として招聘されている建築家は、常に審査する側の人間ではないからです。今回は自分が審査する側であっても、別のコンペでは自分が応募者の立場になり、いま審査されている側の建築家が自分を審査する側に回ることもあるわけです。
(略)
 結果として、最優秀案の選出はある種の業界内の流行に乗らざるを得なくなります。しかも、それが一般の人にはあずかり知らぬ「業界内の流行」であるだけに、審査の結果だけを見せられた市民は、選ばれた案にどうにも納得しがたい居心地の悪さが残ることもしばしばです。
 その居心地の悪さにさらに拍車をかけるのが、最優秀案に添えられる審査委員長の講評です。
 「環境に配慮した形態的な操作が周辺のアクティビティを喚起して……」
 「祝祭性とシンボリズムが未来の躍動感を呼び覚まし……」
 講評といっても、その多くはちょっとした「ポエムのようなもの」です。
(略)
建築業界が抱える内向きの構造をむしろドライに受け止め、成功した建築家にフランスのジャン・ヌーベルという人がいます。彼があるインタビューで答えていましたが、設計コンペに臨む際は審査委員のメンバー構成を確認して、その人たちが選ぶであろう建築家、審査委員の派閥に属しているであろう建築家を予想して、彼らの建築表現に極力似せた案を作成するのだそうです。その結果、一次審査を通過して二次審査で審査委員と顔を合わせたら、「あのデザインを見て、てっきり○○さんの案かと思ってたけど、なんだキミだったのか」と言われるそうです。そんなことを繰り返しているうちに審査委員に顔見知りが増え、最終審査に残りやすくなる、という趣旨の発言をしていました。(略)
これは紛れもなくコンペ対策の王道に違いありません。
 要するに、建築の良し悪しを決める基準はないのだから、あとは審査委員が気に入りそうな設計案を出しておけば選ばれやすいということです。

日本スポーツ振興センター は地道に計画していた

 実は、そのような長期的視点で計画が進められていたのが、ほかでもない国立競技場でした。新国立競技場の建設計画(修繕計画)は、そもそもオリンピック誘致のために降って湧いた話ではありません。それ以前から、長期修繕計画の一環として粛々と進められていました。国立競技場の運営母体であるJSC(日本スポーツ振興センター)は、新国立競技場の建設に関する騒動で批判の矢面に立たされ、すっかり「無能な役人集団」のイメージをつくられましたが(略)じっくり[計画を]練っていたのです。
 JSCという団体の始まりは、もとをただせば1955年に設立された「日本学校給食会」です。これは、戦前からの貧困児童対策を受け継いだ(略)日本全国の子供たちが「きちんと昼食を食べられるように」という政策の受け皿となっていたのがこの団体の前身でした。そのような団体がなぜ国立競技場に関係しているのかといえば、1986年に特殊法人国立競技場と統合されたためです。こちらの仕事も、年々老朽化する競技場の不具合や競技用施設の更新、大会開催の準備や陸上トラックの整備、芝の育成管理といった非常に地味な仕事です。国立競技場の長期修繕計画はこれら一連の仕事の延長線上にありました。(略)
 具体的な技術的調査と修繕に関する設計はほぼ終わり、計画はいつでも実行に移せる準備を整えつつありました。サブトラックの設置が必要なことも分かっていました。(略)
 しかし、こうした検討の蓄積は、ある瞬間すべて反故にされました。
(略)
きっかけは、元来オリンピックともスポーツとも関係のない「神宮外苑再開発計画」という出自のよく分からない都市開発の構想案といわれています。ある神社地のコンサルタントが描いた青写真に、政治家やゼネコン関係者、開発利権者が相乗りしてオリンピックを出汁に強引な計画を進めたのが、すべての破綻の始まりでした。

ザハを応援していた20代の著者

 くだんのザハ氏も、若い頃からそんな[脱構築]建築家の一人と思われていました。ただ彼女の場合は筋金入りで、外観が「なんとなく脱構築風」の建築とは異なり、建築構造自体を物理的に脱構築できないか大真面目に考えていたという点で、ほかの建築家とはその本気具合が異なります。(略)
 ちょっと信じられませんが、本当にアンビルトだった時代の彼女は、断片的な物体を何の支えもなしに宙に浮かせたいと本気で考えていたようでした。当然、建築の構造は成立しません。そこで、ある物件で施工を担当していたゼネコンが、外から見えない部分に柱・梁で構成される一般的な構造体を仕込もうと計画したところ、その働きを察知した彼女は烈火のごとく怒り出しました。「それをしてしまったら、この建築の意図が台なしになるじゃないの!」。
 なんとも理不尽なやり取りですが、そのときの様子は私もよく覚えています。なぜなら、いまを去ること四半世紀前、私は彼女の仕事を手伝ったことがあるからです。
 20代の頃に勤めていた設計事務所が(略)サポートしていた時期があったのです。その設計案とは、部材の断面が鋭角で、垂直な材も水平な材も存在せず、既製の鋼材はほぼ使えないという、尖りに尖りまくった現代彫刻ばりの建築でした。いまでこそ私は「正気」に戻りましたが、正直に白状すれば20代の頃はそんなアバンギャルドな建築にすっかり魅了されていました。「ザハ、がんばれ」と応援すらしていたものです。

丹下健三から「組織設計事務所」へ

 丹下達三という建築家の凄みはさまざまな角度から解説可能ですが、私はここでは「戦後日本の建築のひな形はすべて丹下健三の仕事に拠っている」という点を強調しておきたいと思います。
 一時、日本の建築界はあきらかに丹下氏を中心に回っていました。新たな空間イメージを実現する新たな構造技術システムを考案し、それにともない必要となる新素材を開発し、地域社会の中心的構造物となる建築を、新たな都市開発の核に据える。それらを一つに統合しつつ、各業務パートから新たな建築人材を続々と輩出していったのです。言ってみれば、技術と芸術と科学を統合したような存在、中世の巨人レオナルド・ダ・ヴィンチを彷彿とさせるようなスーパー建築家です。丹下健三のように振る舞い、丹下健三のように考えることが、理想の建築家であるといった風潮が時代を支配していました。そして、丹下氏が敷いたレールはそのまま門下生である前述の建築家たちに受け継がれていくものと思われていました。
 しかし、丹下氏によるモダニズム建築の日本的展開と成果を、さらに全国の都市へ押し広げ、建築の普遍的な姿として広く実現していったのは、ほかならぬ「組織設計事務所」でした。(略)
時代が求めていたのは、建築家個人のオリジナリティあふれる仕事ではなく、急増する社会資本整備の要求にビジネスライクに対応してくれる実務者のほうだったのです。(略)その点、戦後モダニズム建築の先駆者であった丹下氏をはじめとする建築家たちがもたらした「建材の規格化」や、それにともなう「個人的発想に依拠しない普遍的デザインのパターン化」は、時代の要請に対する合理的な解決策に合致していたといえます。
 組織設計事務所の活躍により、全国の市庁舎は丹下健三風のデザインに建て替えられ、学校や病院、そして公団住宅は、モダニズム建築の模範的回答のようにグリッドプランのコンクリート建築として画一的に整備されていきました。
(略)
現在まで至る日本の街の「普通の風景」をつくり上げたのは、誰あろう組織設計事務所なのです。(略)
これは非常に日本的な独特の成果といえます。
 では、丹下氏の門下生でありながら、組織設計事務所的な仕事に向かわなかった建築家たちは同じ頃、どこでどのような仕事をしていたのでしょうか。

磯崎新

 絶えず変化していく社会の具体的事実にのっとって、時代に合わせて文明批評をしたのが黒川紀章氏ならば、さまざまな社会的要請からつくられる建築を社会のひな形と見なし、逆に「批評的建築」をつくろうとしたのが磯崎新氏です。磯崎氏は、建築そのものを一つの社会批評につなげていこうとし、自身の建築の設計図と解説を入念に準備しながら、論文やドローイングなどあらゆる手段を駆使して建築活動を多面的に行いました。
(略)
日本の建築界におけるどや建築といえば、その元祖は磯崎氏の建築をおいてほかにありません。
(略)
磯崎氏は、その[工業化や科学礼賛の陰り]兆候をいち早くキャッチしました。一見、明るく見える未来にも、相反する陰のような存在がある。[ディストピアだってありうる。しかし](略)
好きこのんで暗い建物をつくってほしいと依頼するクライアントはいません。(略)
 にもかかわらず、磯崎氏はこのような建物を30代前半という若さで実現させました。(略)ディストピアな建築、デスな建築。どうしてそのようなことが、磯崎氏には可能だったのでしょうか。(略)
彼は、自分の建築の意味するところをクライアントだけでなく、広く社会に向けて徹底的に解説したからです。(略)
建築文化全体から見たその建築の意味、歴史的な流れにおける役割、視覚情報における機能について、すべて「解説したうえで設計する」というやり方をとりました。これは磯崎氏の「発明」といえるでしょう。
(略)
[それ以前の建築家と違い]
磯崎氏の建築は、それが何を意味するのか説明してもらわないとまったく理解できません。脱構築主義の建築と同じように、解説なしでは理解不能。(略)まさに、「どや建築」と呼ぶにふさわしい上から目線の建築です。しかもそれを、世界に先駆けて行っていきました。
 そして磯崎氏は、建物に要求される機能とは別の場所に建築表現を設定しました。
(略)
建物のかたちを機能性や新規性から導いたり、バランスや対比といった美的調整を主観で行ったりするのではなく、世相から導き出した社会思想の傾向や、社会科学における都市の定義、歴史様式に登場するひとつの類型を取り出し、その意味を誇張したりひっくり返したりして再解釈したのです。それは意図せずズレてしまったのではなく、どうすればズラせるかを積極的に考えていった結果のズレでした。
(略)
建築を要求される機能から乖離させることで、「便利だからそうした」「楽だからそうした」「使いやすいからそうした」という世俗的な理由から建築に対する評価そのものを切り離すことには成功しました。そのおかげで、建築の分野に「脱構築」などの哲学を持ち込むことに違和感がなくなったのです。これは、いま現在の建築界に受け継がれている磯崎氏の「功績」といえます。
 さらに1970年代には、磯崎氏の恩恵を受けて「若手建築家」なる人たちが現れ始めます。(略)
磯崎氏のおかげで、たとえ実作がなくても、建築の理論に長け、理論をこねくり回し、新たな読解の方法論を指し示すだけでも偉大な建築家と認めていいのだ、という風潮が出始めたのです。(略)
 このあたりからです。日本の建築が少しずつおかしな方向、非常識な方向に進み始めたのは。

次回に続く。
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