丹下と岡本太郎「夢の島は動物園だ!」

前日のつづき。

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ

「東京計画1960」と岡本太郎
1960年丹下は皇居から東京湾を横断し木更津までという「都市軸」を提案する。なぜ東京湾なのか。磯崎にはピンときた。

[丹下の命で岡本太郎邸を訪ねた磯崎]
用件はなぜか「都市計画」で、相手は、「東京湾夢の島に第二東京として、独立王国みたいな都市を作るんだ!」と鼻息荒い。どうやら岡本太郎の方から師・丹下に持ちかけた企画だったらしい。
「(新旧)二つの東京を猛烈に競わせ、相互に刺激させるためにである。行政・立法の機関も二つに引き裂かれていい。東京の現在に不満をもつ、あらゆる人間がそこに移り住んで、アンチ東京を結成するのである。(略)
 「夢の島は動物園だ!」と叫ぶ太郎から飛び出してくるのは、象やら鹿やらほとんどマンガみたいな絵ばかり。スケールもハナから無視である。磯崎はせっせと地図や資料を持参しては、「これじゃ道路が通りません」とかなんとか論理的な説明を試みるのだけれど、相手は一向にお構いなしである。しかもそれを雑誌に発表するのだと言い出す始末。[実際に1957年『総合』に掲載]

「都市軸」と「空中都市」

なぜ一直線の「都市軸」でなければならないのだろうか(略)
磯崎が抱く東京の実感は、「秩序だった整然とした構築は不可能なのではないか。私たちの世界は流動し、変転し、混沌へと突き進むだろう」というものだった。(略)
[一方、丹下は無秩序に広がっていく都市を直線的に一方向へまとめて海へ出す]
磯崎の「空中都市」には、丹下の提唱する「都市軸」は必要ない。コアの柱は、空いている土地さえあればどこに建ててもよく、その位置は都市の流動、変転、混沌の状況によってランダムに変化する。(略)

  • 丸の内第二庁舎

磯崎の独立直後、岸田日出刀に呼ばれ都庁高官の海外市庁舎視察のお供をしろとの指示。何度も海外留学のチャンスを逃してきた磯崎には願ってもない話。が、今度は丹下に呼び出され、旅費はこちらが出す、都庁の派遣ではなく、丹下研からの派遣とすると言われてしまう。
実は丸の内第二庁舎建設が絡んでいたのだ。
当然丹下は自分がやるつもり。だが丹下の設計した第一庁舎は職員には不評で、東京都は岸田に第二庁舎の設計は丹下以外でと暗に伝えていた。そこで岸田は独立したての磯崎に目をつけた。
ヨーロッパ視察に出た磯崎、感動したのは近代建築ではなくローマ時代の建築物etc、もっと見たいと施主たる都庁高官だけ先にアメリカに行かせてしまい、その政治感覚のなさを岸田&丹下双方から怒られる磯崎。
50代は建築家の最盛期なのだが、大阪万博後、丹下の国内での仕事は激減。オイルマネーで潤う中東の仕事で食いつなぐことに。1966年岸田が亡くなり、丹下がその地位につくところだが、大手ゼネコン設計部が仕切るようになり、かつての東大の権威は薄れつつあった。

  • 内部

海外視察、サン・マルコ聖堂内

 ふと何か煌くものを感じて目を上げると、西側の高窓から夕陽が射し込んでいる。強い光ではない、柔らかな赤い光である。けれどそれが堂内の金モザイクに当たると、沈んだ暗がりの中で仄かに鈍い光を宿し、磯崎の目を吸い寄せたのだった。そして、その微光は周囲に立ち籠める闇をかえって強く意識させた。いつの間にか、闇の気配が体全体を締めつけるように取り囲んでいる。床、壁、天井はみな暗闇のなかに溶け混じり合って、もはや区別がつかない。ただ自分の身を闇が包み、空間が包み、締めつける。けれどそれは不快ではなく、実に不思議な感覚で、磯崎はしばらくそのまま佇んでいた。(略)
身体を締めつけるような空間の力。それまで磯崎が丹下から学んできた近代建築とは、全く種類の違う何ものかだった。
(略)
[ラ・トゥーレット修道院内]
青一色に塗られた天井面に、「光の大砲」と名づけられた筒状の天窓が三つ割り貫かれ、筒の内側がそれぞれ赤・青・白に塗り分けられている。原色に染められた光がこれら大砲から降り注ぎ、祭壇を照らす。
 ――エロスの充満する深海の奥部の光景――(略)
 サン・マルコ聖堂とラ・トゥーレット修道院。二つの体験に共通するのは、建物の外ではなく、内部の空間に身を置いていたこと。そして、その感覚は、「視覚」にではなく、「身体」に直接訴えかけてくる何ものか、であった(略)
ひょっとすると建築の手がかりは、外観より建物内部の「空間」にあるのかもしれない。(略)これが、師・丹下健三の骨組みのプロポーション感覚から脱け出す一つのきっかけになるのではないか。

都庁のファサード
(コンピューターチップをイメージしたという丹下の説明は後付)

[アメリカ人ノーマン・カーヴァーの『日本建築の形と空間』を見ていた]
スタッフが古市に示した本のページには、大阪に残る江戸時代初期の豪農・吉村邸の天井見上図があった。細長い格子状のパターンが連続している。(略)
[なるほどこれは面白いとコピーして模型に貼り付け]
翌朝、事務所に現れた丹下は、模型に目をとめるや、「これはいい!」と歓声をあげたのである。難航していた新都庁のファサードが決った瞬間だった。(略)
[こうして外国人の目に映ったエキゾチック・ジャパンが都庁の顔に]

  • 「広場」と「道路」

当初、丹下は敷地の西側にある新宿副都心中央公園を正面としてデザイン、周囲から敷地外の公園なんか勝手に入れたらコンペに落ちてしまうと止められていた。
一方磯崎は、本庁ど真ん中の空隙に屋根をかけ「広場」にしようとしていた。そこには道路が通っており「屋根」をかけると法律違反となるが、都庁が「公共用の歩廊」と見なせば問題はない。そこで面白い過去が蘇る。
1969年新宿西口広場に機動隊が投入された際の当局の見解は「新宿西口広場は道路交通法上の道路にあたる」というものだった。名前は「広場」であるが「道路」であり、歩かずに留まってフォークソング集会などやるのは規正の対象になる。標識も「広場」から「通路」に書き換えられた。
「地下広場」を「地下通路」を言い張ったのなら、磯崎の提案する広場を「公共用歩廊」と見なしたっていいじゃないかと。

  • 2005年丹下死す。享年91歳

 告別式で弔辞を読む磯崎は、時折、思わず声をつまらせた。
 師が引いた数々の軸線、富士山、原爆ドーム、皇居、太陽の塔……。徹頭徹尾、国家を想いつづけた建築家だった。
 しかし、そんな師に対して、大阪万博以後は国家の方がソッポを向いてしまった。仕方なく、オイルマネーで潤う中東諸国で仕事を展開し、そして80年代、再び日本へと戻ってきた師は、さながら浦島太郎だった。バブルが始まろうとする商業国家と化した日本には、もはや、師の強力な軸線が向かうべき国家を表象する超越的な何ものかが消えてしまっていたのだ。
 それでも師は、心変わりした国家に片思いを寄せ続け、妥協を重ねた。師が執念をたぎらせて完成させた新都庁舎も、磯崎の目には、公共の建築というより、どこか巨大企業の広告塔、単なる商業ビルにしか見えなかった。
 「つまり、丹下さんは日本の国情に合わせて商業建築家として帰還した」
 後に建築史家・藤森照信が大著『丹下健三』を執筆した際、本文中に磯崎のこの言葉を引用しようとした。しかし、出版前に原稿を検閲した丹下は、その一文の削除を命じたという。あとで磯崎はそれを藤森から聞かされた。
 あのバブルとは、一体、何だったのだろうか。