磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義・その2

前回の続き。

坂倉準三、スメラ学塾

磯崎 まだその時代(五〇年代)は、スメラ学塾について語ることもはばかれていた。坂倉さんのところでスメラ学塾が開かれていたことなど、ひそひそ話で僕らは聞いていた。つまり、坂倉さんは日本主義に転向した人であって、戦犯なのだというくらいの印象を最初は受けましたね。大東亜共栄圏なんて語るのもおぞましかった。(略)
藤森 坂倉さんが建築界では最も右傾化して、海軍と組み、かつ、「シュメールクラブ」(スメラ塾)という右翼グループをつくっていたということも、戦中の話も、何となく伝わってきていたんですね。
磯崎 (略)建築界においては転向論はあまりに込み入っていて、誰も触らなかった。思想的に回心したのは、最若年の丹下、浜口ぐらいで、その上の世代の国際的モダニズムの洗礼を受けてしまった人達は元来、思想的に思考なんてしていなくて、流行ぐらいに思い、折衷的にこなしていたのではないですかね。だから、戦後になって、一様に口を閉ざしていた。建築村は一心同体で内部告発をするにも手がかりさえない。(略)
[文化学園創立者西村伊作は自伝で]
私のユリの夫、板倉は友人たちといっしょになって「スメラ」という団体を作っていた。スメラというのは、近東に昔、スメル人種というのがあって、それは人間が発生してから間もなく日本に来て住んだ、そして、日本というのは非常にいい国であるから、そこでスメル人が定住した。だから日本の天皇はすめら命であると、彼らは言っていた。その連中の中に仲小路という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった。(西村伊作『我に益あり』紀元社、昭和三五年)
(略)
純粋日本主義に凝り固まったと言われたスメラ学会は天皇さえも相対化してしまう世界主義だったとみえるんだけど、おそらく戦争中はかなり危険視された存在だったと言われていますね。スメル人を祖にする仮説は出口王仁三郎の著書にも出てくる。日本・ユダヤ同祖人説も別派をなしている。(略)
坂倉さんが奥さんの西村ユリさんと最初に住んだのが仲小路家のサロンの二階だったそうです。そして、そこで娘の(木田)三保さんが生まれているわけです。そこの離れに住んだのがイタリア料理店のキャンティのオーナーになった川添紫郎。彼はパリで有名なピアニスト原智恵子と一緒になった。このカップルがその離れに住んでいた。これはもちろん全員スメラ学塾のメンバーなんです。
(略)
三木清はドイツから帰国して、言論界の寵児になる。当時のニューアカですね。近衛内閣の思想的バックとなった「昭和研究会」なんかにも関わる。
 その三木清が京都から追われて東京に来た頃は、小島威彦が世話をして研究会なんかを組織したらしい。その彼がスメラ学塾をつくる。
(略)
[小島は]戦後はハイデッガー研究者としての一面があったのですが、戦争中はスメラ学普及、組織活動をやっている。スメラ学塾の講演会をしているうちに特高警察に捕まって一年くらいぶちこまれたりするんです。(略)
小島威彦は坂倉事務所では海軍へこのシステムを売り込む営業担当をやっていたらしく、出所後に坂倉事務所に戻り、日本中の木材業者を集めて軍用に開発したプレファブ住宅を組み立て始めた。そういう一種の企業家的組織については目先が利いているわけですよ。(略)
[戦後その組織力と行動力を発揮し社交クラブをつくる]
政財界の重要人物がパージされて社会的に活動できなくなった。三十代くらいのまだチンピラだった実業家達が、ばーっと表社会に浮かんでくる。こういう新しいジェネレーションの実業家と文化人を組み合わせる発想ですね。関西倶楽部というのをつくります。そして、その倶楽部を坂倉さんが設計します。彼はその後、今度は東京に経済同友会的な性格をもつ関東倶楽部をつくる。小島威彦はその役員、坂倉準三は倶楽部御用達の建築家というわけ。そこに関西では松下幸之助、東京では東急の五島昇、それから小田急利光鶴松といった人達が倶楽部のメンバーになる。

パリ万博日本館設計

磯崎 (略)[もともとは、歴史主義の前田健二郎の和風の屋根だったのを]
図面調整を理由にして、坂倉さんが最初から設計し直したと僕は理解しています。
 その当時、[パリ万博でのスターリンムッソリーニへの売り込みに失敗し]コルビュジエはまったく仕事がなかった。(略)空いている製図版が何台でもあるわけ。だから、うちでやれよというようなことを言って、坂倉さんに場所を提供したのだと思います。それで、他の連中が坂倉さんにああやれ、こうやれと言って焚き付けていたんじゃないかと。坂倉さんは、それならいっそのこと、全面的に改案して、コルビュジエ事務所のスタイルでいっちまえ、とデザインした日本館が名作になった。
(略)
藤森 日本の大使館は屋根のついてないような建物は日本的でないから、建築部門の賞に応募するなって言って応募しなかったが、審査委員会のオーギュスト・ペレが(略)坂倉さんの日本館をグランプリに選んだ。ペレはコルビュジエの先生です。(略)
坂倉さんはパリ万博の日本館について、フランク・ロイド・ライトから怒られたって言うんです。なぜお前は屋根をつけなかったんだと言って。ライトの考えていた屋根というのは、前田健二郎の屋根とは違って、ライトの「ロビー邸」のような屋根のことと思いますが。(略)
コルビュジエ、ライトとくればあとはミースです。ミースは日本館に影響を受けたにちがいない。
磯崎 ライトはコルビュジエが嫌いだったんですよ。コルビュジエが会いたいと言っても、ライトはアポイントメントを入れさせなかったと言われています。一方で、ミースのことは評価しています。
(略)
藤森 日本館は木造の考え方をもとにして鉄骨造をつくっているから、フレームをつくって間にスッキリとガラスを入れるんです。(略)
[ミースは]おそらく日本館を見て、柱梁のフレームにガラスをぽんと入れるということが美学として成立することを知ったんだろうと思います。それでシカゴヘ渡って自分の作品でも実践したんじゃないか。ただ、坂倉さん自身は自分のやっているすごいことに、気づいていなかったんじゃないかと思います。
磯崎 その納まりを、坂倉さんはどこで学んだのかな。
(略)
藤森 確かに日本館は、日本の木造の柱構造の美学をそのまま鉄骨造に移せることを見事に実践した例だと思います。ただ、板倉さんが自覚的でなかったことが問題なんです。
(略)
日本の伝統をどうするかという、独自の課題に取り組むことで、日本のモダニズムは本当にモダニズムの思想と美を体得した、と思います。(略)それがあったから、丹下さんが戦後だーっと走り出せたんだと思います。坂倉さん、前川さん、レーモンドが土台になっていたんです。だけど、丹下さんばかりしか、みんなの目に映らない。(略)
世界も、今はレーモンドを知っている人はまずいない。坂倉さんのパリ万博の日本館も、前川さんも知られていません。欧米に比べて建築家への注目が低い国だからしかたがない。日本の社会の中では、水面の上に一輪だけ丹下健三という蓮の花が見えるわけだけど、その下には、葉もあれば茎も蓮根もあることを知ってほしい。

白井晟一

磯崎 「浮雲」は、バラックみたいな温泉宿の部分的な増築をしたものですね。(略)
白井さんの設計は、設計者の立場から見ると理屈に合わない。和様折衷とも違うシュールリアリスティックな接合というか、白井さんが自分で詳細な図面を引くというよりは、当時は大工にいちいち直に指示を出してつくっていたんでしょうね。白井さんはおそらく「浮雲」に居候していたんでしょうから。
(略)
藤森 白井さんが戦前に初めて本格的につくった「歓帰荘」(略)[ドイツから]帰国して本気でつくった最初の建築で、簡単に言えば白井さんの愛人の家です。(略)
白井さんは「浮雲」のときのように、白石館に長逗留して、その一画に「歓帰荘」をつくっている。その間に、女将さんと関係したとして訴えられ、女将さんは姦通罪で旅館を追放されてしまった。この女将さんはあまりに有能で(略)堤康次郎に拾われ、彼女は最後には堤系の伊豆方面の三つくらいの旅館とホテルの総支配者になった。
磯崎 まるで、高台寺の和久傳と同じストーリーじゃないですか。(略)
和久傳の先代の女将は、白井さんと最後に一緒になった人ですよ。白井さんの最後の作品「雲伴居」の女将さん。あの人は高台寺で旅館をやっていた。そこで白井さんが長逗留しているうちに、彼女がころりと白井さんに惚れてしまった。そこで「雲伴居」をつくりましょうということになった。
(略)
藤森 建築史上に落ち着く場所がないんですよ。縄文とロマネスクとチューダーとモダニズムの要素をそれもバラバラに組み合わせてしまうんですから。
(略)
磯崎 (略)「浮雲」という旅館の名前は、恋人であった林芙美子さんとの関わりがあったんじゃないかという説が一つあり、さらに「浮雲」の旅館の女主人とも同じ関係にあったから、あの仕事ができたという説もあるんですね。もうこの話の時点で何人も女性の影があって、どんどん増えていくわけですよ。(略)
藤森 白井さんの風貌は独特ですよね。インテリ界の杉良太郎というか。梅沢富美男というか。(略)
雨の日に白井さんが突然やって来る。雨の中、傘もささず、レインコートを着て、フランス人と同じようにフランスパンをそのままポケットに突っ込んで(略)そんな姿を見せられると、女の人は陶然として言う通りになる。(略)
磯崎 同じような気分で白井さんを叙述しているのは林芙美子ですね。林さんの小説の中に友達の若い建築家というのが出てくるんですが、その後ろ姿が描かれている。パリで彼女と別れて駅に向かって行く。(略)その後ろ姿の描写が今、藤森さんの言った感じとそっくりなんですよ。
(略)
戦前のものでは、僕は中央公論社の社長の家が燃えたという伝説だけは知っています。僕は中央公論社の人からいろいろ話を聞いたんですが、家のオープンのときに暖炉に火をつけたら建物まで全部燃えちゃった。これは白井さんがいかに素人かっていう証明だよ、というんですね。
藤森 暖炉の火が茅葺きに移ったんだ。

建築は芸術扱いされていなかった

藤森 (略)[地下化した共産党が隠れ蓑として芸術運動をコントロールしようとNAPFをつくり]
新興建築家連盟結成のバックにいた。それを潰したのは佐野利器です。(略)そのあたりの事情を知っていたのは岸田日出刀さんですが最後まで語らなかった。(略)
佐野さんの立場に立つと、佐野さんは、内務省の中で、内田祥三に託して同潤会をつくり、貧しい人達の住宅を供給している。俺のやっている方法が正しく、お前らの革命をやろうってのは間違っていると思っている。新興建築家連盟が潰れて何が起こったかと言うと、今泉、梅田穣の創宇社系は、地下に潜っていく。帝国大学系の山田、谷口、土浦、前川などは、社会主義路線を捨てて、リベラル左派に変わり、バウハウスを範に日本工作文化連盟を結成する。
(略)
ここで重要なのは、思想の取り締りをやっている国の側に、表現としての建築への興味がなかったことです。軍国主義日本は、美術、演劇、映画、演劇、文学、音楽、運動の七つの分野の表現者を連れて第二次世界大戦の思想戦、文化戦を戦った。そこに建築は入ってなかった。
(略)
日本とヨーロッパを比較するときに注意しなければいけないのは、日本という国が建築を表現だと見なしていない問題です。ヒットラーモダニズムは許さないと言って、古代ギリシャ、ローマを基本にしろと言ったようなことを日本の政治家は考えない。だから、戦争が煮詰まった段階でも建築表現はまったく関係なかった。
磯崎 つまり、実用物で、イデオロギーとは無関係のテクノロジーの産物と見ていたというわけですね。国体だけが保持できれば、どんなデザインでも受け入れる。

大江宏

藤森 大江さんに、なぜ数寄屋をやらないのかと直接聞いたことがある。そしたら、あんなもの建築家がやるものじゃないって言われた。(略)神社や、書院造の設計はするけれど、数寄屋はやらないというところに、建築家として矜持をもたれていたんではないかと思います。
 岸田日出刀達、つまり大江さんの先生の世代が伝統に目覚めるわけです。伝統とモダンには接点があると。それで実際に丹下、大江世代はその中を生きる。みんな学生時代から伝統建築を見て回っていた。丹下さんの方法は明快で、伝統建築のかたちの真似はしないけれど、構成はどんどん学ぶという路線でいく。かたちについても、木造の柱梁を打ち放しコンクリートに読み変えることで大きな成果を挙げていく。それが大筋です。磯崎さん達は、その世代の尻に付いて始めるわけです。
磯崎 大江さんと丹下さんはしょっちゅう一緒にいましたね。(略)岸田さんが怖くて仕方がないという感じで、常に師の影から一歩、いや十歩は下がらないといけないというくらいの感じなんですよ。逆に僕らの世代は岸田さんが退官された頃に学生だったので、ちょっと飲みに行こうと誘われてお供をするような状態だったんです。
藤森 孫扱いですね。
磯崎 お酒の席ですから、僕らもいろいろと勝手な口をたたくわけですよ。それを見ていた大江さんは、何かの会のときに、お前らジェネレーションはもってのほかだ、大先生に対する礼儀を知らない。(略)と叱られました。
(略)
藤森 (略)大江さんが文部省に入ったのは、お父さんの関係でしょう。(略)大江新太郎は、伊東忠太と一緒に内務省で神社をずっとつくり続け、晩年は、大江国風建築塾を家でやっていた。だから当然大江宏さんは、神社系の人達がお父さんと一緒に神社について勉強したり設計したりする様子を日常的に見ていたわけで。バウハウスでもコルビュジエでもない、当時としては、珍しい経歴です。この「国史館」の計画案では伝統とモダニズムを混ぜた不思議なイメージでやっている。

サバイバル建築とリバイバル建築

藤森 結局、大江さんはアスプルンドから始まって「乃木神社」などの神社にまでいくわけですが、考えてみれば日本の伝統建築って、法隆寺以来サバイバルをして今までずっと生き延びている。今でも、神社の関係者や宮大工が伝えてつくっている。
 一方で、日本の伝統建築で、近代になって、サバイバルでなくリバイバルしたものは意外と少ない。リバイバルとは、一度消えたものをまったく新しい観点でもう一度学んでそれを再生することです。ルネサンスの時代にもサバイバルしているものはある。たとえば、英国のゴシックはずっとサバイバルしていて、田舎へ行くとゴシック的な建築を今でもつくり続けているんです。日本の建築家で、伝統のリバイバルをやったのは、大江さんだけかもしれない。ちゃんとモダンも知りながら、自分の好みや同時代の動きを知っていて、でも俺は神社をちゃんとやるぞというのが大江さんです。リバイバルの人だからサバイバルと違う。だから意識的に数寄屋と茶室はやらない。俺は社寺と住宅では書院造という正統だけをやるというわけです。
 逆に言うと、建築家達が伝統建築とどう付き合うかは大問題で、丹下さんなんかがそうです。木の柱、梁の構造をコンクリート打ち放しに置き換えるとか、法隆寺の左右非対称で軸線の先には目立つものはないというのが丹下さんの構成。そういう「本質を学ぶ」というやり方はリバイバルでもサバイバルでもない。もう一つ別の論理がある。磯崎さんもそうだし、僕もそうです。伝統や民家も好きだけど、あれから直接もってくるのは嫌だ。
磯崎 とりわけ日本はそうなんだけれども、たとえば建築家が戦争中に大東亜の朝鮮神社、台湾神社などのアジアのさまざまな神社をつくるじゃないですか。そうするとだいたい、靖国神社のスタイルなんです。明治神宮もそうで、あれは伊東忠太さんがやり始めたんですよね。伊東さんの理解で、いわば神社建築のモダニズムのかたちみたいなものが出来上がった。それが一九三〇年代、四〇年代に流行ったけれども、戦後、がたっと崩れて、後は仕方がないから、このていのリバイバルではなくて、修復したり、屋根を葺き替えたり、新築したりしているけれど、すべて権現造とかそこら辺の様式でしょ。徳川の時代までに成立したものを今、再現しているというだけで、藤森さんがおっしゃるように新しいモダニストが神社を設計していないわけですよ。そんな中で大江さんはこれをやったということに、僕は関心があります。
藤森 やっぱりリバイバルは、大江さんが初めてやったんですよ。伊東さんは歴史的様式の建築をやるけれども、あの人の歴史主義はサバイバルなんです。(略)
磯崎 だけど、「平安神宮」はもともと大極殿を模したものだから、神社建築じゃなかった。それを神社にしちゃったという由来がありますね。
藤森 (略)[大江さんの]お父さんは伊東忠太の跡を継ぐ。それで日本の神社建築の多くをやる。お父さんは基本的にはサバイバル的にやってきている。(略)
大江宏さんはお父さんのサバイバルをずっと見ていて、自分はああいうかたちではやらないぞってはっきり意識していたのかもしれない。

次回に続く。

 

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