「らしい」建築批判 新国立競技場、伊東豊雄

「らしい」建築批判

「らしい」建築批判

  • 作者:飯島洋一
  • 発売日: 2014/08/22
  • メディア: 単行本

確信犯だった審査員達

[新国立競技場の半分の延床面積の東京国際フォーラムですら1647億円かかったのだから、1300億円なんてそもそも無理。しかも「ハディドの大胆で、無理のあるアクロバット案」なのだから、予算の倍以上になるのは]
このコンペの審査のはじめから、建築の専門家なら誰にでもわかり切っていた話だった。(略)
だから、このハディド案を選択した建築関係者は、審査委員長の安藤忠雄に限らず、その全員が確信犯なのである。
 なぜ確信犯だと言えるのか? その根拠がある。NHK総合テレビが、2013年1月19日午後9時に放送した『SANAAの冒険』では、新国立競技場計画の最終審査の模様が各メディアに公開されていた。その中で、ハディド案について審査委員の内藤廣は「技術的には可能だろう。ただしコストは知りません。コストはかかるかもしれない」と言っていたのである。すでにコストに問題があるのは、審査の決定時に、よくわかっていたのだ。それでも審査員たちはハディド案を選んだのである。
(略)
 端的に言えば、東京五輪招致の際のプレゼンのために、この派手なハディドの案と、さらに言えば、世界的建築家ザハ・ハディドの名前とがとにかく必要だったのである。
(略)
ブランド建築家の作品なのだというストーリーさえあれば、アリーナのデザインが減額した後に多少まずくなったとしても、それはそれでいっこうに構わない。つまり減額され、原案より数段落ちる代物になろうが、それでも世界的な大建築家のザハ・ハディドがデザインしたのだと、そう大きく胸を張ることが最低限できる……。たとえば関係者が、最初からそのように考えていたのだとしたら、この強引とも言える最優秀賞の決定の意図が、実によく理解できるのである。
(略)
 審査委員の一人だった鈴木博之は、2014年1月号の『建築ジャーナル』に(略)「メインスタジアムであり、ナショナルスタジアム」だから、「象徴性、祝祭性が必要とされる」。その上、「永続性を持った記念性も必要になる」と書いている。だから、「安い仮設ばかりを金科玉条として追求するのでは、未来に対する文化的遺産を形成することはできない」と続けている。つまりはじめから審査員達は、定められた予算内の案を選ぶつもりなどなかったのである。
 さらに鈴木は、神宮外苑につくるのは不文律であり、にもかかわらず「新国立競技場が絵画館を中心とするこれまでの景観を破壊すると主張するなら、新国立競技場の建設自体を否定すべきであり、つまりはオリンピックの招致を辞退するか、オリンピックを否定するか、オリンピックを粉砕すべきなのである。オリンピックの招致には賛成するが、新国立競技場の建設には反対するという論理は、現在のオリンピック招致のための与条件の否定であるから成立しない」と書いている。
 鈴木は現在のオリンピックの在り方が、20世紀の高度成長期と同じような近代的な理念でつくられるものだと考えているようである。(略)その考え方は、如何にも古臭い。そしてその古臭さが、安藤忠雄を含めた審査員や主催者の「総意」だったように思われる。

「ハディドらしい」に潜む問題

[ハディド案についてある批評家が「ハディドらしい作品だ」とコメント]
 この批評家の指摘はある意味では正しい。なぜならこれまでのハディドの作風を字義通りに解釈すれば、彼女の案はどれも確かにハディド「らしい」ものばかりだからである。だが、同時にこのハディド「らしい」という評価の中に、実は現代建築がいま世界的なレベルで抱えている極めて重大な問題が隠されている。
(略)
場所や歴史に関係なく、常にハディド「らしい」建築をいつも出して来る。(略)どの国のどの都市の設計競技があったとしても(略)[ストックしておいた案を]ポンと拾い出して、それをそのままのかたちで、そのコンペに提出する。
 ハディドは与えられた敷地などをよく調べようとしない。
 しかし、こういう美学優先主義は、いまやザハ・ハディドだけに限った事柄ではない。[フランク・ゲーリーレム・コールハースなど]
(略)
コールハースの場合は、世界のどこでも構わないから、莫大な資本がある場所へと常に移勤して、ビッグ・マネーの渦の中で自作をつくろうとする。彼の建築は、そのように“マネー・ゲーム”と“建築ゲーム”とが、いつも一緒に繋がっている。そしてコールハースの建築事務所のOMAで働いた経験があり、他の誰よりもコールハースからの強い感化を受けているのが(略)ザハ・ハディドなのである。
(略)
[コールハースの主張を]言い換えると、それは今日のような市場経済社会の欲望の渦の中では、建築も建築家もブランドのようなものになっていかないと仕方がない、と言い切っているようなものである。
 またアメリカの建築史家ケネス・フランプトンによって、ある時期は「批判的地域主義」の建築家の一人だと高く評価されてきた安藤忠雄にも、いまやコールハースと実によく似た市場主義の論理に関わる傾向が顕著に見えはじめている。
(略)
 フランプトンの発言を待つまでもなく、本来なら与えられた敷地とその周辺の場所性をまるで無視して、自らの作風を一方的に押し売りする行為などは建築家に到底許されるはずがない。建築は美術館の中で、ガラスのショーケースに飾る美術品とは全く異なるからである。しかしそれが、つまり現代アートのような建築が、いまや堂々と建築の世界ではまかり通っている。それはなぜなのか?
 この答えは、実に簡単明瞭である。一つには彼らを選択する国際設計競技の審査委員や、彼らに仕事を依頼する資本家たちが、まるで現代アートのような、その建築家「らしい」建築を必死になって欲しがるからである。有名建築家たちの方も、実はその要望の存在を十分に熟知しており、審査員やクライアントの期待に応えるために自分たち「らしい」建築を、次々と世界中のコンペなどに提供する。
(略)
施主たちはザハ・ハディド安藤忠雄やフランク・ゲーリーレム・コールハースの仕上がりの良い建築を、実は第一義には求めてはいない。彼らが欲しいのは、たとえばこれは安藤忠雄がデザインした建築だという事実の方だからである。
(略)たとえばプラダのロゴがついてさえいれば、それがたとえ気に入らないデザインであっても、それだけでその商品が如何にも高級そうなものに思えて安心する心理と、これはよく似ている。

アート化がもたらす閉じた建築

 こうした事態に並行するのが、一部の美術館の学芸員の、建築に対する最近の際立ったスタンスである。(略)若手建築家の、「建築」としては構造的にとても実現できないプロジェクトを面白がって、それを「建築作品」として自分たちの美術館で堂々と展示している。
豊田市美術館東京都現代美術館のような公立の美術館ですら、いまや学芸員の意図的な仕掛けによって、建築家の展覧会や展示において、そのような在り方がまかり通っている。これは、よく言われるように建築が美術品として、一部の学芸員にマークされているからである。むろん美術界の新しいマーケット商品としてである。
(略)
若手建築家の石上純也(略)は柱を極限まで細くしようとする。(略)
長谷川祐子は、自身も企画に参加した東京都現代美術館の(略)カタログに寄せた「新しい環境、新しい体験のためのポリティクス」の中で(略)石上の《空気のような建築》について次のよう触れている。
 《空気のような建築》は直径0.02mmのアラミド繊維と直径0.9mmのカーボンファイバーという極細の部材を組み合わせて、列柱のように立てたものだった。そのほとんど不可視の建築は、石上のいう、自然−人工の対立項にある建築ではなく、建築そのものが自然/環境になっていくこれからの時代のメタファーとなっている。(略)
私は、建築としてかなり華奢な「建築(のインスタレーション)」の意味を全部は否定はしない。だが、それが長谷川祐子の言うように、「震災後の建築のありようについて問われた石上が、「家」という要素を抽象化し、いくつかの本質的要素に還元してみせた言葉は、災害や環境の変化に対して、この建築の本質が揺るがないものであることを表している」とまで言われてしまうと、かなり当惑する。
(略)
石上純也は(略)こう書いている。
 ぼくは、建築の抽象性に強く惹かれている。(略)抽象性とは、建築を豊かにする大きな要素であると思っているからである。(略)3・11以降、そのことを特に強く感じるようになった。
 要するに、石上は、まだ震災の直後の段階では、自分の極めて華奢な「建築」が、あのような大災害が起きた後でも有効であると確信を持って言っている。
(略)
豊田市美術館では、震災直前(略)「石上純也展」を開催した。そしてその展覧会のオープン初日(略)石上の「作品の一部が倒壊」したことを、豊田市は自身のホームページで釈明している。(略)
「作品は限界ぎりぎりの構造体なので、些細な衝撃が加わると倒壊する恐れがあり、先のベネチアビエンナーレでも子どもの衝突などでも倒壊し、一部が破損しました」としている。
豊田市美術館学芸員の能勢陽子[の解説文は]
 まるで倒壊しても、そのデザインが大胆かつアクロバットで、そして大きな賞さえ取れたら良い作品なのだと開き直るかのような口ぶりである。それが建築的な実験だと称しているが、要するに「倒壊する建築」というスキャンダラスな物語に、多くの人の話題が集まるだけの話である。
豊田市のホームページでは、「倒壊した作品は、復旧過程を公開し展示して観覧していただけます」としている。つまり倒壊という事件までが展示に取りいれられて、しかたかに、復旧のプロセスまでが新たな見せ物に仕立てられるのである。
(略)
能勢陽子は、同じ解説文で(略)
未来に向けた建築の可能性を追求した先にみえてきた、建築のあたらしいかたちなのである。
 こうして能勢陽子のような学芸員が、石上純也の建築の“インスタレーション”をまるで正規の「建築」のように見做してしまう。それが破損しようが、実験的「建築物」なのだと言い切ってしまう。だから石上純也自身も、それで良いと思い込んでしまう。こうして建築はアートと本当に肩を並べたと、この若手建築家は大きな勘違いをすることになる。
(略)
かつての啓蒙主義的な考え方では、美術も美術館も生き残れなくなった。(略)いまやあらゆる手法によって、美術館のマーケティングに余念がない。
(略)
1970年代における篠原一男のように、〈芸術〉として建築を捉えることで、建築を資本主義から隔絶させようとする「倒錯」した考え方とも少し異っている。ある意味で現在の流れは、より資本主義に敏感に反応するアートの方へと、建築が逞しく吸いとられている。しかもそれによって建築が、以前よりも決して自由になったわけではない。事態はむしろその全く逆である。全て、より高額の値段で建築という商品が売れるために行われているだけだからだ。この事態は、ただそれだけのことなのである。
 すると建築家は、まるでガラスのショーケースに入れる高額な工芸品や美術品のように、社会から閉じたその建築家「らしい」建築を、ますます生産し続けるようになる。新国立競技場計画におけるザハ・ハディド案も、このような1970年代以降の建築界の政治的かつ経済的なシステムからの論理的な帰結として、最優秀賞に選定された。
 同時にこの絶大なる資本の論理こそが、建築をいまその本筋――社会性から、どんどんと遠くへと引き離している最大の要因なのである。

伊東豊雄

 伊東は、バブル時代には、コルビュジエ丹下健三のようなモダニストの時代は、もう古いと考えていた。そしていまも、伊東の本音はおそらく同じである。(略)
1980年代の伊東が、建築家はブランドであるという認識、つまり建築家は、私の言い方だと、その建築家「らしい」建築をつくるべきであるという認識を、誰よりも一早くに持っていたのは、これでもはや明らかな事実である。
 伊東は『あの日からの建築』の中で、その論文について、次のように書いている。
 また80年代は建築がファッションのように消費される時代でもありました。そうした傾向を批判する建築家も多くいましたが、私は批判するだけでは駄目だと思っていました。そこで敢えて「消費の海に浸らずして新しい建築はない」と言い切りました。建築の自律性や芸術性を追求する試みが有効であったのは70年代まででした。新しく建築の概念を問うには、消費的な都市生活のリアリティのなさを嘆くのではなく、そこに新しいリアリティを見つけるべきではないのか。そしてそのリアリティは消費の手前にあるのではなく、消費を突き抜けたその先に見つかるのではないか。当時の私はそのように考え、消費生活のイメージを建築に置き換えようと試みたのです。

一番に驚かされたのは、東日本大震災からしばらくして、伊東豊雄が《みんなの家》と言いはじめたことであった。(略)[「らしい」建築ばかりつくっていた伊東が震災後]使う人のことをまず優先して設計する気持ちになったと言いはじめたからである。
(略)
震災以後、伊東はこのように、「社会性」の方へと大きく舵を切っている。(略)彼の「社会性」をめぐる主張を安心して信用してしまって、いいだろうか?(略)「否」である。なぜなら、それは伊東豊雄の、またしてもの「前言撤回」に過ぎないからである。
(略)
伊東は「社会に背を向けて、芸術的で美しいものをつくるしかない」と考えていた。篠原一男は「社会から隔絶された小さな住宅内部にのみユートピアが宿る」と言っていたが、伊東自身もその篠原の発言を十分に認知していた。それどころか、伊東豊雄の世代の建築家こそが、篠原一男とともに、こぞって「社会性」から撤退したのである。彼らは1970年代に、「社会性」を捨てて、実際に閉じた建築の中に没入していた。
 それからしばらくして、1980年代にバブルになると、今度は驚くべきことに、伊東は資本主義を、いわば無批判に受け入れた。(略)
彼は「建築だけが消費の外にあり得るという想いを、建築家がどれほど徹底的に棄て切れるか」と、そう言っていた。また「私の関心はしたがってただひとつ、このような時代にも建築は建築として成り立つだろうか、という問いである」と言い切っていた。
 そのような伊東豊雄が、東日本大震災を契機にして、今度は、資本主義社会の社会ではない「社会性」の方の「社会」が、やはり大事になったと言いはじめているのである。
(略)
伊東はしばらくすると、この社会性とは違うキーワードを、その「空欄」にまた臆面もなく書き入れるはずである。(略)あと数年もしたら、全く同じ文章の「空欄」に、伊東は「次のテーマになる言葉」を平気で書き入れるだろう。
(略)
被災した高齢者らの素朴な要望を細かく聞いて、その人たちの希望の通りに仕上げた(略)
《みんなの家》には、新しい建築原理の探求が入り込む余地など、全く存在しない。建築家の「創造性」「独創性」「個性」などは、そこに微塵もない。だから《みんなの家》は、確かに伊東「らしくない」建築になった。(略)
伊東はようやく、建築家という職能の人が本来やるべき仕事を、《みんなの家》でやっている。だからこそ、伊東をいま前向きに評価すべきだろうか?(略)「否」である。
(略)
 仮に、伊東がマスコミと無関係に、《みんなの家》をただ黙ってつくっていたら、それは本当の意味で「社会性」のある、しかも建築家として、実に筋の通った行為になっていた。
(略)
《みんなの家》が評価されるのは、それが本当に被災者のための《みんなの家》だからだけではない。この建築が高く評価されているのは、その建築の力だけではなく、この家が東日本大震災という悲劇の物語を、背負っているからである。その悲劇の物語があるからこそ、人々は、その小さな家に、否応なく注目せざるを得なくなる。(略)
 そして、そのような「吸引力」が被災地にあるのを、伊東は内心で、実はとてもよく知っている。それをよく知った上で、伊東は《みんなの家》を思いつき、それを繰り返し「被災地の中」に限定して、つくり続けている。つまり伊東は《みんなの家》と称して、東日本大震災という悲劇の物語を、自分自身の建築家としての「業績」に、都合よく取り込んでいるのである。
(略)
 新国立競技場計画の伊東の応募案は、伊東「らしくない」建築ではなく、何よりも伊東「らしい」建築だった。伊東豊雄は、東日本大震災以降に、「被災地の中」と「被災地の外」とで、明らかに作風を変えている。(略)
「被災地の中」では歴史性や地域性を考えて、「被災地の外」では歴史性や地域性を考えていない。そして「被災地の中」では、伊東「らしくない」建築をつくり、逆に「被災地の外」では、伊東「らしい」建築をつくっている。
(略)
「対談隈研吾×妹島和世」の中で、二川由夫が「伊東さんの振れ方は、本当に極端ですよね。それまでの成果に対して、反語的に活動されている」と発言したのに対して、隈研吾は、次のように実に的確に、伊東豊雄という建築家を分析している。
 そういう意味でも、伊東さんは「エクストリーム主義」なんだと思う。例え作風を振るとしても、極端じゃないと作品にならないから。(略)結局、エクストリーム主義である限り、「作品主義」の範躊から抜けられないんじゃないのかな。
(略)
 まさに、隈研吾の言う通りである。伊東は、東日本大震災以後も、大震災以前の「作品主義」にしっかりと留まっている。つまり《みんなの家》は、伊東豊雄自身の多大な宣伝のおかけで、すでにボランティアの意味を遥かに超え出て、伊東の新たな「作品」として「有名な家」になっているのである。

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