- 新たな出版社を求めて
- カーヴァー・ギャングに加入
- 「中国行きのスロウ・ボート」
- 冬の時代
- 翻訳は買い取り
- 翻訳者交代を巡る見解の相違
- ルービン・ジェイ、村上作品との出会う
- 『ねじまき鳥クロニクル』
- ついに『ねじまき鳥』でブレイク
前回の続き。
Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち
- 作者: 辛島デイヴィッド
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2018/09/11
- メディア: 単行本
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新たな出版社を求めて
[プリンストン大の知人の紹介でクノップフのトップ、サニ・メータと食事。一時苦境にあったメータは、『さようならウサギ』『迷宮の将軍』『ジュラシック・パーク』とベストセラーを連発し絶好調、しかも]
アメリカではほぼ無名だったカズオ・イシグロを招き、書店イベントなどを通じて『日の名残り』を大ヒットさせた。つまり、村上と会った時点で、メータは村上と似た境遇の作家(略)を成功させた実績を持っていた(略)
[それゆえ]初対面の席で村上にいきなり出版のオファーをできた
(略)
クノップフは、もともとは一九一五年にアルフレッド・クノップフと妻のブランシェによって設立された。ロシアやヨーロッパの作家たちの作品を翻訳することから事業を始め、一九二九年にはノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンを英訳でいち早く出版したことでも知られる。翻訳書に加え、アメリカの名だたる作家たちの作品の出版もすぐに開始し、一九六〇年にランダムハウス社に買収されるまで独立系の出版社として良書を出版し続けた。(略)
英語圏のトップクラスの作家だけでなく(略)[マルケス、ナボコフ]などの世界的に名高い非英語圏の作家の作品も数多く出版している。
(略)
現在ペンギン・ランダムハウスの出版グループには「古臭いハイブロウな雰囲気のクノップフからマスマーケットを相手にした商業主義のバンタム・デルまで」
(略)
クノップフは、日本人作家の英訳出版の歴史も長い。長年、川端、三島、谷崎のいわゆる「ビッグ・スリー」や(略)安部公房らの作品も出版してきた。(略)
[これらを取り仕切ったハロルド・ストラウスは]
陸軍語学学校で日本語を学び、第二次世界大戦直後に占領下の出版監視のために日本に赴任(略)「ビッグ・スリー」の独占出版権を取得(略)
現代日本文学の名作群のリストという形で今でもペンギン・ランダムハウス社のなかで燦然と輝いている。(略)
ストラウスの数々の後継者たちの努力により、想像力に富んだカバーデザインやキャンペーンによって絶えず新たな息吹がもたらされ、新たな読者を獲得し続けている。
(略)
自らもクノップフが出してきた訳で最初の日本文学に親しんだルークは、ストラウスが日本に行って、日本そしてその文学と恋に落ちなければ、今日英語圈の日本文学の景色は少なからず違っていただろうという。
「(略)ストラウスの文学のテイストや日本に対する関心は明確だったし、それが作品選びにも明らかに出ている」
カーヴァー・ギャングに加入
[92年夏、アマンダ(ビンキー)・アーバンと契約]
なぜ村上は最終的にアーバンを選んだのだろうか。(略)
[村上談]
レイモンド・カーヴァーのエージェントをしてたからというのが大きかったかもしれない。
(略)
[逆にアーバン側の理由を春樹はこう分析]
ひとつは『ノルウェイの森』が日本で百万部以上売れていたということ。
(略)
もうひとつは、僕がレイモンド・カーヴァーの翻訳をやっていたということです。サニ・メータもビンキーもまさにレイモンド・カーヴァーの担当をしていた人たちです。(略)
彼らは言うならばレイモンド・カーヴァー・ギャング、「カーヴァー組」なんです。いまはだんだんと結束がゆるやかになってきたところがあるけれど、その頃はまだ絆がかなり強かった。
[三つ目は「ニューヨーカー」誌などでの評価で「将来性」を買われた]
「中国行きのスロウ・ボート」
村上は、クノップフから出した最初の短編集に収められた作品のいくつかは、「翻訳されたときに少しばかり手を入れた」と述べている。特に「「中国行きのスロウ・ボート」についていえば、かなり手を入れた」としている。
村上は次のように続ける。
この小説は僕が生まれて初めて書いた短編小説だったので、書き方がよく分からず、あとになって読み直してみると、不満の残る箇所がいくつかあった。二度にわたって書き直したので、この作品にはヴァージョンが三つある。(略)アメリカ版の翻訳テキストとして使ったのは、たしか二つ目のヴァージョンではなかったかと思う。(略)
[短編集に収録する作品は編集のゲイリー・フィスケットジョンが選択した]
個人的に入れたかった作品で含まれなかったものはなかったか尋ねると、村上は「特に思い浮かばない」という。「アメリカの雑誌に売れたものを中心に集めたから、自然にこうなっちゃったという感じですね、僕が選んだというよりは」
逆に個人的には気が進まない作品で含まれたものはあるという。
「「午後の最後の芝生」。これは僕は好きじゃないから、僕が“こんなの入れなくない”って言うと、ゲイリーは“僕はこれが好きだ”って言って。おもしろいよね」
冬の時代
[村上談]
ゲイリーもメータも「アメリカのマーケットでは、よほど名前が通った作家じゃないと、短編集はまず売れない。だからあまり期待しないように」と[予言していたが、実際に売れず](略)
93年にプリンストン大学の生協でサイン会をやったときには、たった15冊しか売れなかった(略)このへんが僕にとっての、アメリカ・マーケットでのいわば「冬の時代」だった
(略)
[だがフィスケットジョンは『象』の売り上げは無名米作家のほとんどの作品集を上回ったと述べている。部数は一万から一万二千部]
翻訳は買い取り
翻訳者のインセンティブを高めるために、村上は雑誌掲載に関しては、原稿料を折半する形を取った。
「僕のシステムは、翻訳者が出版社から印税をもらうのではなくて、僕が翻訳を買い取るんです。そして、著作権は僕が全部持つ。その代わり、雑誌なんかに売れた場合は、報奨金というか、手当はきちんとする。だから翻訳者との信頼関係はずっとあって、みんな長いですよね。フィリッ プにしても、ジェイにしても、テッドにしても。
『ニューョーカー』はすごくギャラがいいんです。僕は最初から翻訳者とは、雑誌に売れた場合は原稿料を半々にしようって決めてたんです。だから、翻訳者はけっこう潤ったと思う(笑)」
翻訳者交代を巡る見解の相違
[ジェイ・ルービンはバーンバウムが『ねじまき』の頃には燃え尽き気味だったと証言]
アルフレッドが疲れをみせたタイミングが、私にとってはきわめて都合がよかったことになる。
(略)
[村上も]
「アルフレッドはその頃自分の仕事が忙しくなって、長編小説の翻訳まで手が回らなくなっていた[と証言するが]
(略)
一方、バーンバウムは、当初「ねじまき鳥クロニクルの翻訳を依頼されなかった」としていた。(略)村上の英訳チームから自分は「一方的に外された」ものだと認識していた。(略)
[だが村上がルークに送った手紙では]
アルフレッドと話したとき、彼は自分自身のためにやらなくてはならないことがあり(略)翻訳をしたくないと言っていた、とルークに報告した。
[再度、バーンバウムに確認すると、記憶が定かではないが、人生に迷っていた頃で混乱していたのかも、と回答]
(略)
村上は言う。
「アルフレッドは、どちらかというとポップな感じのものが好きだし、だんだん僕の書くものは、そのポップというのから外れてきてるから、彼はやっぱりその流れが合わなかったんだと思う。
(略)
「短い休みを取るつもりが、ちょっと違う意味での「ロング・グッドバイ」になってしまった」と、バーンバウムは笑う。
「Murakami&co.が僕と距離を置いたことについての感情は複雑だね。(略)当時の心境を振り返るならば、単純な誤解やミスコミュニケーションだったのか、僕に対する何らかの不満があったのか、もう少し計算高い動きが――でも誰によって?――あったのかがわからなかったから、もちろん裏切られたという苦い思いもあったし、単純にがっかりする気持ちもあったけど、何よりも困惑が強かったかな。(略)
でもいま振り返ると、村上の作品群の翻訳から解放されたのは良かったと思う。少なくとも僕の個人的な意見では、作品の魅力は徐々に薄れているように思うから。負け惜しみだと言われるかもしれないけど、もう最近の作品は読んでもいない」
ルービン・ジェイ、村上作品との出会う
[ヴィンテージ編集者から『ワンダーランド』が翻訳に値するか読んで欲しいと依頼があり、「世間でどんな駄作が読まれているか」知ろうと引き受け、読んでみて「大胆で奔放な想像力」に驚愕]
出版社に英訳の出版を勧め、もし現状の訳に不満があるならば自ら翻訳する用意があると伝えた。しかし、「いずれの点でも助言は無視された」
(略)
[入手できる村上作品をすべて読破したルービンは村上に手紙で翻訳を申し出た。エージェントから連絡があり「パン屋再襲撃」と「象の消滅」の試訳を送った。「パン屋再襲撃」がプレイボーイ誌に掲載されることに]
ルービンは今でも「パン屋再襲撃」は最も気に入っている作品のひとつだという。
「私に言わせてみれば、一九八五年は村上春樹のピークの年だね。なんせ「パン屋再襲撃」、「象の消滅」、そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が発表された年だから」
『ねじまき鳥クロニクル』
しかし、ルービンが五年かけて仕土げた英訳には、ひとつ問題があった。村上とクノップフの間で交わされた契約で指定されていた文字数の上限を大きく上回っていたのだ。(略)
作品を(少なくとも自分ほどは)深く読み込んでいない編集者に刈り込まれるのを懸念したルービンは、クノップフに二つのバージョンを送った。ひとつはカット無しの完全版、もうひとつは大幅に(ルービン本人の概算では訳文で約二万五千ワード[1379頁中の61頁](略)削った短縮版だ。
村上としては、可能であれば短縮するのは避けたいと考えていた。しかし、当時はあまり強く意見を主張できなかったという。(略)
[三巻本を英語版では一冊にまとめて出すことに]
ルービンが行った削除と変更の大部分は、第二部の終盤と第三部の冒頭に当たる。第二部の終盤は「第三部にはほとんど関わりがない」と考えたからであり、「ここまで混沌としたものになるはずだったとは到底思えな」い第三部を原作よりも「締まりがありすっきりし」たものに整理した。第二部では終盤の十五章と十八章(と十七章の一部)が削除され、第三部では最初の章が他の章と統合され、第二章が後ろにずらされ、第二六章が省かれている。また、第二部の最終段落については、十七章の最終段落と(省れた)十八章の数行が継ぎはぎされる形でつくられており、原作とはかなり印象の違うエンディングとなっている。
ついに『ねじまき鳥』でブレイク
ルークは言う。(略)
[翻訳の文体は]締まりに欠けてだれがちで、物語は延々終らないので興味を保ちつづけることができなかったし、最後は綺麗にまとまるわけでもない。しかもほぼ独断で二万五千ワードだかを削ったあとでそうなんだからね。もっと削るべきだったと思う。(略)
昨年読み直したときもやっぱり同じことを思った。しかしこの本は成功して大きな反響を呼び、惚れこんだ批評家も何人かいた。(略)
フィリップ・ワイスが「ムラカミはデリーロやピンチョンを超えた、『ねじまき鳥』は今年の最高傑作だ!」と書いていたことを覚えているよ。
(略)
[一方、バーンバウムは]
英訳するときにまとまりのない部分、長すぎる部分をもっと削ったり形を整えたりしようと考えなかったのかとね。僕が編集者だったらもっとカットや大掛かりなリライトをお願いしたと思う。個人的に言えば、本当に第三部は必要だったんだろうかとすら思っている」
(略)
[英国では]
ハーヴィル・プレスは、ハミッシュ・ハミルトンが村上作品の出版継続を断念したのをきっかけに出版を引き継いだ。
「ハミッシュ・ハミルトンは『ねじまき鳥クロニクル』を出版しないという判断を下した。理由として考えられるのは、それ以前に出した村上の本の売上が芳しくなかったんだろう
(略)
ハーヴィル・プレスは、『ねじまき鳥』を六万部発行した。(略)
愛読者たちの熱意に突き動かされて作者はロンドンで講演することに
(略)
通常版とは別に、金属の箱に緑と赤の二巻本を収めた特装版として出した『ノルウェイの森』は、今や貴重なコレクターズアイテムになっている。もちろん日本で販売された原作を参考にしたものだ。
(略)
チャリング・クロスにある書店の店長時代には、イギリスで絶版になっていた村上作品をアメリカから輸入し販売していたポール・バガリーがハーヴィル・プレスに入社したのは一九九八年六月。
(略)
「八〇年代後半の書店員から見た村上春樹は常に「熱狂的ファンが一定数ついたカルト作家」であって、人気が爆発するには読者の数が足りていなかった(だから彼の本も絶版と再版の繰り返しだった)。(略)
「[『ねじまき鳥』は]イギリスでその時期に出すのに最適の本だったと思う。出版社もそれを出すことをとても重視していたからけっして失敗は許されなかった。この大作が村上の再評価につながり、その地位を絶版中のカルト作家から国際的作家にまで押し上げた」