フランス現代史 戦争のタブーを追跡する

順番を飛ばして、最終章を先に。

アルジェリア戦争、アルキの虐殺

 フランスによるアルジェリア植民地支配と、その結末は、両国に禍根を残した。ドゴールが手を引いたアルジェリアを巡るフランスの近現代史は、第二次大戦中の対独協力政権と並び、国民にとって、あまり触れられたくない過去だ。
(略)
[トゥールーズ大学教授(現代史)ギ・ペルヴィエ談]
「フランスは長い間、アルジェリア戦争を忘れるべき悪夢のように扱ってきました。反対に、アルジェリアでは、強迫観念のように、アルジェリア戦争を記憶に残すための政策がとられました。アルジェリアの独立国家としての起源は、独立戦争を生み出したナショナリズムにあります。そして二つの国の記憶に関する政策は相いれないものであり、両国間に問題があるたびに、アルジェリア政府は反フランスのプロパガンダを強め、対立は深まりました」
 アルジェリア戦争をフランス政府が「戦争」と呼ぶようになったのは、1999年に呼称を巡る法律が制定されて以降だ。それまでは、単に「北アフリカにおける治安維持活動」と呼ばれ、戦争として認められていなかった。
 フランス政府がアルジェリア戦争について謝罪しない理由の一つには、1962年の「エヴィアン協定」がある。休戦とアルジェリアの独立を認めたエヴィアン協定は、「裁判で双方の責任を追及しない」と規定している。フランス人には、この協定で責任問題は解決済みとの意識がある。一方(略)アルジェリア側でこのエヴィアン協定を知るのは約半数に過ぎない。
 アルジェリアの独立後も、両国の狭間でアイデンティティを失い、翻弄され続けたのが、アルジェリア戦争フランス軍側に付き、アルジェリア民族解放戦線(FLN)と戦ったアルキと呼ばれる現地出身の兵士たちだ。(略)フランス軍所属の公的な資格はなく、小さな契約書が交わされるだけだった。
このアルキへのフランスの処遇が、ドゴールへの憎悪につながった。
(略)
FLNとフランス軍の暴力が交錯する中、どちら側につくかは偶然の要素も左右した(略)
アルキになるのも、FLNに参加するのも、政治的理由からではなく、生きるためだったということです。
(略)
[1962年、フランス軍撤退後にFLNが20万人いたアルキのうち6〜8万人を虐殺]
アルジェリアの独立を認めたドゴール政権は、事実上、アルキを見捨てた。
(略)
 「フランス軍から『君たちはもう必要でなくなった。三ヵ月分の給料をやるので家に帰るように』と言われました。私たちは『どうすればよいのか。このままでは殺される』と訴えましたが、フランス軍の幹部は『心配するな、これは命令だ』と言っただけでした」
 中には「君たちをここに残すことはできない」と泣いて話すフランス軍中尉もいたが、多数派ではなかったという。
(略)
 なぜアルキは見捨てられたのか。当時、「元アルキは虐殺される恐れがある。救うべきではないでしょうか」と尋ねる当時の国防相にドゴールは「それはできない。戦争が再発する恐れがある」と答えている。
(略)
 ライダウイは言う。「ドゴールは、アルジェリアに20万人いたアルキに、フランス本土に来てほしくなかったのでしょう。彼にとって、私たちは土着民に過ぎませんでした」。
(略)
命からがら地中海を渡った元アルキと家族たちは、収容キャンプに入れられた。当時、アルジェリアからの引揚者のうち、欧州系の人たちには低所得者向けの住宅が用意されており、元アルキと家族だけが異なる扱いを受けた理由は、表向きには、文化や宗教の違いから、フランス社会への適応に時間がかかると考えられたことがある。だが、実際には、旧植民地の住民に対する一種の蔑視のような感情抜きには説明がつかない。(略)
キャンプ生活は長い人で14年間続くことになる。
(略)
[アルフィが5歳の時]
FLNは、おじ二人を殺害し、父を目の前で殴打し、重傷を負わせた。「彼らは元アルキを捕まえ、頭部を切断したり体を切り裂いたりしました。周囲は血の海で、その時の映像が、今も目に焼き付いています」
[1975年、4人の居住者が管理棟を占拠しキャンプ閉鎖を要求]
(略)
 ライダウイは語る。「私は補償金など要らない。傷つけられた名誉を回復してほしいだけなのです。最後の最後までフランスのために戦い、捨てられた私たちの気持ちを世の中に分かってほしい。アルキを見捨てたのはドゴールの失策であり、戦争犯罪です」。
 フランス国家による最初のアルキ顕彰式典が開かれたのは2001年9月25日。アルジェリア戦争終結から39年後のことだ。
(略)
[当時23歳だったシラク大統領はアルジェリアに従軍]
シラクの小隊は残虐行為を行わず、住民に礼儀正しく接したことから、後にアルジェリア大統領から賞賛された。シラクは著書で、従軍経験からアルジェリアとフランスの関係に特に問題意識を持ち、アルキの処遇にも疑問を持っていたと記している。
 シラクは元アルキを前にした2001年のエリゼ宮での演説で、「あなた方と同じように従軍した私は、あなた方のフランスヘの貢献を知っています。また、あなた方の見捨てられたという思い、不公平だという思いが分かります」と述べ、フランス軍撤収後のアルジェリアで起きたFLNによる元アルキ虐殺についても言及した。「アルキとその家族は恐ろしい悲劇の犠牲者になりました。フランスはアルジェリアを離れることで、虐殺を防ぐことができませんでした。助けることができませんでした」。シラクは直接的な虐殺の責任はFLNにあるとの立場を示す一方で、当時のフランス政府が放置した責任も認めた。

最初に戻って。

「大戦」

 フランスで「大戦」と言えば、通常、第一次世界大戦を指す。その死者は約150万人[第二次世界大戦の三倍](略)
フランス各地の役場の近くには必ず両大戦の戦没者慰霊碑があるが、どこへ行っても、圧倒的に第一次大戦戦没者の数が多い。ある意味で、第一次大戦で多大な犠牲者を出した厭戦気分が、第二次大戦での敗退と、ドイツ協力政権の樹立につながった。

強制連行

[戦後信じられていた「レジスタンス神話」は]
1970年代に入り、アメリカの歴史学者ロバート・パクストンが著書で発表した研究をきっかけに、ドイツ占領下のフランス政府がユダヤ人迫害や強制連行を積極的に進めた事実が次々に明らかになって行った。
 パクストンは豊富な資料を丹念に調べ、当時の政府がユダヤ人への差別的政策を、ドイツによる直接的な圧力がない中で策定し、厳格に適用したと解明し、政府が、ナチスによるユダヤ人の強制連行を助け、国内のユダヤ人の状況を悪化させたと説明した。
 またフランスの一般国民も、一部はユダヤ人を助けたものの、多くは結果として迫害を黙認するような態度を取ったことが分かっている。歴史学者の間では、フランスでのユダヤ人に対する差別意識は、1920年代には比較的弱かったものの、30年代に入り、増幅したとみられている。
 パクストンは2015年の仏紙「ラ・クロワ」のインタビューで、「30年代に、不況と失業、国家衰退の意識、外国からの文化的影響に対する恐怖の中、ユダヤ系移民の流入が多くのフランス人に、ユダヤ人が自分たちの不幸の根源であると考えさせた」と指摘している。
(略)
 当時の強制運行について、現在のフランス政府がどこまで責任を認めるかという議論は続いている。対ドイツ協力政権は、ドイツ占領下という特殊な状況にあったため、今のフランス政府とは関係がないという立場と、フランス政府が行ったことには変わりはなく、ユダヤ人を検挙したのもフランス警察だとして責任を認める立場に分かれている。
[歴代大統領では95年にシラクが初めて公式に責任を認め]
オランド大統領も2012年7月の追悼式で「この罪はフランスで、フランスにより行われた」とフランスの責任をあらためて認めている。
 強制連行の傷跡は、70年後の現在も国際社会に暗い影を落としている。2014年12月、フランス政府はアメリカ政府との間で、第二次大戦中に仏国鉄を使って強制連行されたユダヤ人の中で、現在は、米国籍やイスラエル国籍を持つ人に対し、総額6000万ドルの賠償金を支払う取り決めを締結した。フランス政府は既にフランス国籍ユダヤ人に対しては賠償を終えていたが、新たに数千人が対象となった。
 背景には、フランス国鉄が進めるアメリカでの鉄道事業への参入が、アメリカのユダヤ人社会と議会の反発で、進まなくなっていた事情もあった。この仏米政府間の取り決めによって、今後、フランス政府は、強制連行に関するアメリカでの賠償責任を免除されることになっている。
 国鉄は当初、「ナチスの占領下において、会社としては強制連行の他に選択肢がなく、歯車としての役割を果たしたにすぎなかった」との態度を取ってきたが、事業への影響を無視できなくなったこともあり、政府による賠償とは別に、アメリカとイスラエルで虐殺を記録する博物館などに400万ドルの寄付を行うことを決めた。

ペタン、ヴィシー政権

 だがピエール・ラボリは「1940年を、単純な軍事的敗北だけに矮小化して語るのは間違いです」と言う。
 ラボリは、崩壊の大きな原因として、第三共和制と呼ばれた当時の政治制度への不信感を挙げる。(略)
大統領は儀礼的存在で、また首相や内閣の権力も弱く、70年間に100を超える内閣が誕生する不安定な体制だった。
「1930年代、既にフランス世論の中には、民主主義制度の機能不全への批判が出ていました。(略)
今までやってきたことがすべて、間違っていたのではないかという自信喪失が、救世主としてのペタンへの期待へとつながったとラボリは指摘する。(略)
 ラボリは「1940年当時の国民には、第一次大戦で反ドイツの英雄だったペタンが、ナチスに簡単に、また本心から協力するとは想像できませんでした」と語る。(略)
[1942年]パリで大規模なユダヤ人一斉検挙が行われた。「この段階で国民のペタンヘの幻想が消え、現実が直視され始めました」。
 それでも戦後、50年代以降まで、ペタンとドゴールが実は裏で手を組み、国内でドイツをなだめる役と、ロンドンから攻撃する役を分担していたとする「盾と剣」説が広がった。ペタンを、祖国に身を棒げて奮闘したものの、うまくいかなかった悲運の人物として見る説と、国家の裏切り者だと見る説とで二分した。
 だが80〜90年代になると、対ドイツ協力政権が、ドイツからの指示ではなく、自発的にユダヤ人の強制収容所送りを進めていたという事実が次々に明らかになる。(略)
最近20年間では、ペタンを支持するのは極右勢力だけになり、ペタンは悪の象徴になりました」
(略)
地元選出の下院議員、ジェラール・シャラスも「ヴィシーの住民は、自分たちの街が、このような形で語られることに、もううんざりしています。ヴィシーが(ペタン政権を)誘致したわけではないからです」と語る。
(略)
 「ヴィシーの住民がナチス協力者だったわけではない。ヴィシーにはレジスタンスがいたし、拷問されたり、銃殺されたりした人もいました。ヴィシーはできる限り抵抗し、仕方なく対ドイツ協力政権を受け入れました。1944年8月26日に解放されるまで自由はなく、他の都市よりもナチスに協力したというわけではありません」
 背景には、戦時中のユダヤ人移送などの罪をすべてペタン政権に求め、心理的負担から解放されようとする、戦後のフランス人の微妙な心理がある。国立科学研究センターのアンリ・ルソは「ユダヤ人迫害に協力したのは『ヴィシー政権』であり、一般国民ではなかったという物語をフランス人は信じたかったのです」と語る。
(略)
[流刑先のルー島での右翼主催追悼式]
「私たちの目的は、歴史の真実に立脚し、ペタン元帥の記憶を守ること、そして永続化された虚偽を告発することです。1940年の敗戦の責任をペタン元帥にかぶせることで利益を得ているすべての者による嘘、それによって自分の名誉を回復している者たちによって作られる嘘をです」。
 批判はドゴールに向けられた。「ドゴールは1945年の勝利を、フランスに身を棒げたペタンを犠牲にしながら、横取りしたのです。ドゴールはフランスを分裂させ、私たちは今もその分裂に苦しんでいます。この和解がなされない限り、私たちは前に進むことができません」。(略)
人権とは、人間には個人としての権利があるという思想です。だが、私たちは、人の権利は社会環境の中で守られるべきだと考えます。例えば子供の権利は誰が守るのか。人権そのものではなく、親であり家族であるはずです。今起きていることは人間や、信仰を根無し草にすることです」(略)
 またベネデッティは、「国民に働き口がなく、家族が崩壊し、祖国が失われようとしている今こそ、ペタン元帥の思想が重要になるのです」と主張する。(略)
「私たちは移民の停止を主張しているのではありません。移民が母国に戻るよう訴えているのです」
(略)
 ベネデッティ出身も、祖父はイタリア出身だ。だが、自身を含め、欧州出身の移民であればフランス人として認めるという主張だ。(略)
 筆者は2012年の大統領選を前に、南部マルセイユで極右政党「国民戦線」の集会を取材した時のことを思い出す。この時、フランスの移民受け入れ政策を批判する参加者の中に、明らかにポーランドなど移民系の名前が目立った。参加者に「移民系のあなたが移民受け入れを批判するのですか」と疑問をぶつけると、「だからこそ自分は同化しようとしてきた。それができない人は許せない」という答えが返ってきた。
 宗教や風習がフランスに近い欧州からの移民は、より「フランス人」になろうとすることで、自らの居場所を確保する。一方、文化的背景が大きく異なるイスラム系移民は、伝統的なフランスになじむには限界があり、結果として差別を受ける。

オラドゥールの虐殺

[ナチスによる虐殺があったオラドゥール村は]ドイツとの和解を拒み続け、欧州統合の牽引役として急速に友好関係を築いた両国の最後の難関となった。ドイツのガウク大統領が、同国首脳として初めて、この地を訪れ、虐殺現場で祈りを捧げたのは2013年。事件から69年後のことだ。(略)
[村長の]フリュジェは「ガウク氏こそ、ナチスの過去と闘ってきた人であり、村の訪問にもっともふさわしい大統領でした。(略)
「ドイツ側に求めたのは、謝罪ではなく、事実を認めることでした」と回想する。「ドイツの大統領に、私の村に許しを請いに来てくださいと求めるのは、相手にとって屈辱的です。そして許す立場にあるのは犠牲者たちだけです。私はそれよりも、ドイツ政府で最も権威のある大統領が来て、まさにその場所を見て、公的な立場でそこで起きた恐ろしい虐殺を認めてほしかった。それは、許しを求めることよりも、もっと意味のあることでした」。
(略)
[襲撃したナチス親衛隊には14名のアルザス出身者がいた。戦後、強制徴用された13名は禁固刑、志願兵は死刑。これにアルザス住民が反発し、数日後、特別法で恩赦に。これにオラドゥール村が激怒]
「オラドゥールの住民は、アルザスの住民が自らドイツ軍の制服を着て、ナチス戦争犯罪に参加したと考えています。だがドイツ軍の命令に従わないと銃殺が待っていました。彼らには選択肢がありませんでした」
(略)
[仏独の歴史を客観視する取り組みの経緯を記した最後に]
 一方、仏独関係を日中韓関係の模範とすることについては、フランス国立科学研究センターのアルノ・ナンタ准教授(日本近現代史)が限界を指摘している。(略)
「第二次大戦においても、力関係が対等に近い参戦国の間では、戦後に歴史認識を巡る重大な争いは、ほとんど起きていません。仏独や日米、日露がその例です。他方で、ドイツと和解したフランスも、かつて支配したアルジェリアとの間に、植民地支配に対する謝罪を巡る確執が残っています。ドイツもポーランドや東欧諸国との間では、歴史認識を巡る問題が解決していません。植民地支配など対等な関係になかった国々の間では、かつての支配国側の優越感と、支配された側の屈辱感が、和解を妨げているのです。この点で、日本と中国、朝鮮半島の関係と、独仏関係との比較は適切とは言いにくい面があります」
 ナンタの指摘は、安易な仏独模範論に陥りがちな日本のメディアや論壇に一石を投じるもので、鋭い。

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