- 「ヘイ・ジュード」に負けた『ベガーズ・バンケット』
- 見下されるリヴァプール
- ハンブルクとリヴァプール
- ブライアンの苛め&DV
- 洗練された初期ストーンズ
- アンドリュー・オールダムの戦略
- 猿まねバンドに苛立つジョン
- ビートルズに衝撃を受けたストーンズ
- デッカと契約
「ヘイ・ジュード」に負けた『ベガーズ・バンケット』
一九六八年夏、オープンしたてのヒップなモロッコ・スタイルのバーで、ミック・ジャガーの誕生パーティが開かれた。(略)
ミックは、スペシャルなお楽しみとして、リリース直前の(略)『ベガーズ・バンケット』を持ち込んでいた。クラブのスピーカーからその曲が流れると、ダンスフロアは瞬く間に人で溢れかえった。(略)
そのとき、ポール・マッカートニーがふらっと入って来て、サンチェスに一枚のレコードを手渡した。(略)発売間近のシングル『ヘイ・ジュード/レヴォリューション』だった。「ヘイ・ジュードのスローで雷鳴のように響く楽曲が、クラブをゆさぶった」(略)客たちは、七分もあるその曲を繰り返し流すよう求めた。ようやくクラブDJが次の曲をかけると、誰もが「『レヴォリューション』をはき出すジョン・レノンの鼻にかかった歌声を聞いた(略)曲が終わったとき、ミックはいらだちを隠せなかった。ビートルズに主役の場を奪われてしまったんだ」
(略)
ビートルズは、ほとんどのマージーサイド出身者とおなじように、少しでも見下されることに対して敏感だった。二つのグループが最初に出会ったとき、すでに成功を収めていたビートルズがなぜストーンズに対して尊大に振る舞ったのか、察しもつくだろう。
しかしほどなくして、ビートルズは、自分たちのかわいらしいモップのような髪型イメージに息苦しくなり、比較的自由に動けるストーンズを羨むようになった。そして、ストーンズが、ヒステリックで軽薄な十代の少女ではなく、見る目のあるボヘミアンという「正しい」タイプのファンからの支持を獲得すると、ビートルズはいらだちを隠せなかった。中でも、とくにジョン・レノンは、それまでのように自分の個性を抑え込むことを嫌がるようになった。(略)
見下されるリヴァプール
人口は雑多だが、多くがアイルランドからの難民の子孫からなるリヴァプールの中心街は、粗野な船員と薄汚れたパブばかりで、洗練さなどひとかけらもなかった。多くのリヴァプール人は自らを「スカウサー」と呼んだ。その語には、いくばくかの誇りと、頑なさ、そして自らへの卑下がこめられていたが、イギリス中の嘲りの対象にすぎなかった。対照的に、ストーンズはロンドン郊外の生まれだった。(略)
ジョン・レノンは、「俺たちは南部の人間たち、ロンドンの人間に、動物みたい
に見下されていた」と振り返る。
(略)ジョン、ポール、そしてジョージは、マージー川の「ましな側」の木々が生い茂る郊外地域に住んでいた。(リンゴだけはリヴァプール中心街の出身だった。彼はディングルと呼ばれる、評判の悪い地区のおんぼろ長屋に生まれた。)ジョンだけが、屋内に水道がある家で育った恵まれたビートルだった。この当時のイギリスで屋内にトイレがある家は半分にも満たなかったので、とくに驚くことでもない。ポールとジョージは州が助成する「公営住宅」の半マイルも離れていないところに住んでいたが(略)当時の多くの労働者階級の暮らしにくらべると、はるかにましだった。
ずっと後に、ジョージの姉ルイーズは、自分たち家族がとんでもなく貧乏だったと見られることに不満を述べている。「父はバスの運転手で、母が家で私たちの世話をした(略)母はクリスマスの時期になると働くこともあったけれど、自分たちが貧乏だなんて思ったことはない。後になって、ビートルズがスラムで育ったとかそういう話をたくさん読んだ。[でも]私たちは素敵な、暖かい、仲むつまじい家族生活を送っていたのだ」。
(略)
ビートルズは、みな小さな頃にイギリスの食料と燃料の配給を経験したが、それも当時としては当たり前だった。生卵、生乳、果汁はめったにお目にかかれなかった。四人のビートルたちは、戦争で吹き飛ばされた建物や、黒焦げの瓦礫の中を歩き、そこで遊んだ。
(略)
ブライアン・ジョーンズは、チェルトナムのアッパー・ミドルクラスの家庭の出身だった。父親は航空宇宙技師で教会指導者でもあった。ミック・ジャガーはケント州ダートフォードの出身で、高学歴の父親は学校の准教師で大学でも物理学を教えた。母親は美容師だった(イギリスでの美容師は、アメリカの美容師よりも敬意が払われる職業だった)。
(略)
子どもの頃の家は、ベッドルームが三つあって、名前までついていた(ニューランズと言った)。小さな頃、家族はスペインやサントロペで休日を過ごした。
(略)
ビル・ワイマンとチャーリー・ワッツは、完全に労働者階級だった。ビルの父親は煉瓦職人で、チャーリーの父親はトラック運転手だった。
(略)
[脚注12]
[リンゴ13歳は慢性肋膜炎で二年間入院し教育を受け損ね]リンゴの家族も、教育を受けてはいなかった。ビートルズのファンクラブの秘書、フリーダ・ケリーは、リンゴのファンへの返事を手伝ったと言う。「冗談でしょ、と彼に言った。『お母さんかお父さんに頼みなさいよ、みんな親がやっているでしょう』。でも、彼は悲しそうに立ったままで、こう言った、『俺の母さんにはできないんだ』」。
(略)当初ビートルズは、その出身地のために(おそらく彼らが理解していたよりもずっと)深刻に割を食っていた。デッカ・レコーズの重役ディック・ロウ――またの名を「ビートルズをはねつけた男」――は(略)ビートルズが悪いと思ったわけではなかった。だが会社の資金が限られている中での選択を迫られた。ビートルズとサインするか、あるいは[ロンドン出身の]ブライアン・プール&ザ・トレメローズでいくか。(略)
「会社に負担をかけることなく、昼も夜もブライアンと仕事することができる。リヴァプールはずっと遠いのだ。[蒸気機関の]鉄道に乗って、ホテル代だって払わなくてはならない。何日滞在することになるかもわからない。加えて、ロンドンにとってイギリス北部はあまりに不慣れな場所だった。(略)リヴァプールは我々にとってのグリーンランドだったのだ」。ミック・ジャガーの元恋人マリアンヌ・フェイスフルも、成功した仲間内では、ビートルズの出身地に対する偏見が根強かったことを認めている。「私たちは彼らを、とても田舎者で、古くさくて、ロンドンより少し遅れた人たちとみていた」と言う。その後しばらくして彼女は、そうした態度が「とても横柄で、真実とは異なる」ことを知った。
ハンブルクとリヴァプール
ジョン・レノンは(略)小学生の頃からその辺によくいるような悪ガキで(略)路面電車のバンパーにしがみついてただ乗りしたり、タバコを盗んで売ったり、女の子のズボン下を引っ張り下ろしたり、電話ボックスを壊したり、火遊びしたり、学校でひょうきんなことをして笑わせたり、居残り罰をさぼったり、賭け事をしたり、喧嘩したり、友達と自転車を乗り回して危険なことをしたりした。レノンは、本人も認める同年代の子の「ガキ大将 kingpin」だった。(略)
「ウールトンの町で、自転車に乗ったジョン・レノンとその悪ガキ仲間に出くわすのは、嬉しいことではなかった」(略)
リヴァプール芸術学校に進学(略)
辛辣なウィットで武装したレノンは、すさまじく残酷になった。(略)
「彼は、それまで会った最悪のいじめっ子だった。学校では、出自などお構いなしに誰彼かまわずいじめて、笑いものに仕立て上げたのだ」。障害やけがなどで身体的悩みを持つ生徒が、とくにレノンの標的になることが多かった。酒を飲むと余計に意地悪になった(略)
女性への態度の悪さは有名だった。デートした相手に対してはとにかく独占欲が強く、そのくせ誰にも誠実ではなく、臆病でベッドをともにしない相手をけなした。
(略)
ハンブルクはリヴァプールと似たところがあった――どちらも港町で、移住者のコミュニティがあり、第二次世界大戦では猛爆撃を受け、さらには緯度までおなじだった(北緯五十六度)。しかし、ビートルズが演奏したザンクトパウリ地区は、リヴァプールで最も危険なスコッティ・ロードが平穏にみえるほど荒々しかった。誰もが、ザンクトパウリは世界でも最も「罪深い」場所と認めた。(略)
ストリッパー、売春婦、こそ泥、そして暴力団が経営する売春宿やセックスクラブ、暗くて汚いバーに潜む最もたちの悪いごろつきであふれていた。
(略)
端整な顔立ちのビートルズにとって、ハンブルクでセックスを求めるのは――イギリスでよりもずっと――簡単で(脚注34:イギリスでのセックス事情について、ジョージ・ハリスンは(略)「それはそんなに簡単なことじゃなかった。女の子はみんなブラジャーとかコルセットを着けていて、まるで強化鋼のようだった。どこでも手に入れられるものではなかった。そんなのを外そうとして、手の骨が折れそうになったものだ。パーティで女の子にキスしつづけて、八時間もあそこはたったままで、しまいには痛くなってしまったことを覚えている。もちろん救いはないさ。いつもそんな感じだ。そんな時代だった」。)(略)
誰もがスタミナしだいで、たいがい「一晩、ニ、三人の女性」を相手にした。(略)
マッカートニーは、「それはセックス・ショックだった(略)セックスシーンに飛び込むちょっとした洗礼だった(略)手綱を外された僕らは自由だった」。レノンはもっと率直に語る、「淫売女とグルーピーに挟まれて、俺たちのあそこはみな眠りについたものさ」。
(略)
リヴァプールのクラブやダンスホールに戻ってくると、ビートルズは必ず何かしらハンブルクっぽさを匂わせた。(略)
「いつもレザー・ジャケットを着て、キューバン・ヒールの黒ブーツを履き、髪はあちこちを向いていた。スウェードの襟のジャケットを着て、全部を青と黄色であわせた、当時ありきたりの他のグループとはまったく異なっていた」。(略)
[DJのボブ・ウーラー]は、レノンが「ステージを支配し、目を見据え立つ姿」を覚えている。「足を大きく開く、それが彼のトレードマークだった。もちろんそれはとても性的な表現だった。ステージ正面の女の子は彼の足を見上げて、目の前にある股間を凝視していた。彼はとても挑発的なスタンスをとったのだ」。ビートルズのメンバーは、(ポールのガールフレンドが勤め先の薬局から盗んでくる)プレリーズやパープルハーツを服用しつづけた。バンドがランチタイム・セッションをやるときには、レノンが観客と、とくに近所のオフィス・ワーカーと皮肉たっぷりにやりとりした。「シャーラップ!スーツ族」というのがレノンのお決まりのフレーズになった。
(略)
有名になる前の彼らは、その辺で寝て、クスリを飲み、酒をあおり、たまに喧嘩するなど、かなりラフに生きていた。(略)こなれた感じの厚かましさでファンを迎えるカリスマ的リーダーに率いられ、怪しげで危険ですらある完璧なオーラをまとっていた。イギリスの音楽ジャーナリスト、クリス・ハッチンスは、「ハンブルク時代のビートルズは、のちのストーンズの姿だった」と表現する。
ブライアンの苛め&DV
ブライアン・ジョーンズの生い立ちは、レノンとはまったく異なっていた。両親はともに大学出で、ジョーンズ自身も優秀だった。十五歳のとき、一般教育修了証明で九つのレベル合格を獲得し、シックス・フォームに進学した。「彼は反抗的だった。しかし、試験となるととても賢かった」と、子ども時代の友人は振り返る。(略)
[17歳グラマー・スクール退学処分、二人を妊娠させ、ロンドンへ逃れ、眼鏡店、デパートメント・ストアで働き、盗みで解雇、レコード店等でも盗みで解雇]
(略)
ブライアンはワールドクラスのいじめっ子だった。(略)臆病でごますりのルームメイト、ディック・ハットレルをいじめていたか、のちにキース・リチャーズが語っている。(略)
ディックに真新しいハーモニーのエレキギターを買わせ、自分のアンプを修理させ、新品のハーモニカ・セットを買わせた。(略)ものすごく寒い最悪の冬の日に(略)「おまえのオーバーコートをよこせ」(略)「キースにそのセーターをやれよ」(略)俺たちは地元のウィンピー・バーに入る。「そこにいろよ、おまえは入ってくるな。で、二ポンドよこせ」。ディックはこのハンバーガー屋の外で凍えながら待ってる。
(略)
[恋人にはDV]
「ブライアンが赤ん坊のような大きな目でじっと見て、柔らかくて舌足らずな育ちの良さそうな声で話すと、彼の背後にどんなカオスが積み重なっているのか想像できなくなる(略)残酷な傾向のあるボッチチェリの天使」と呼んだ人もいる。生い立ちの良さと、ときおり見せるシャイでもの静かな性格は、他人を傷つける恐ろしい力を覆い隠した。(略)
十代のミック・ジャガーは、ミドルクラスの快適さに慣れきっていて、シカゴのブルース・レーベル、チェス・レコーズの定期的な通販顧客ですらあった。「十二歳から十五歳くらいまでに、気が狂ったような思春期なんてなかった」とジャガーは言う。「勉強に集中していたし、……当時はそれが自分がやりたかったことで、楽しかったんだ」。
(略)
[女子やR&Bへの興味で成績は下がったが]
難関のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに合格した。ジャガーは完全に大学に溶け込み、政治とビジネスの世界へのエリート・キャリアを描き始めた。
(略)
「最もスタイリッシュな若者(略)チャーリー・ワッツがストーンズに加入するにあたって譲歩したのは、ギグのときにはネクタイを外すことだった」。(略)
[ビル・ワイマン談]
「僕らが出会ったときに、音楽以上に問題だったのは、ストーンズのメンバーと僕とのあいだの大きな違いだった。僕は妻と九ヶ月の子どものいる家族人で、昼間の仕事もしていた」と言っている。ワイマンは、他のメンバーの平均より六歳も年上だったのだ。
(略)
ミック・ジャガーはポーズを取るのがとてもうまかったと周囲は記憶する。ストーンズに加わるずっと前に、マイケルという自分の名を、よりマッチョに聞こえるミックに変え、正しいロンドン・アクセントもイースト・エンド出身であるかのように下町ロンドン[コックニー]訛りっぽく、いとも簡単に切り替えてしまった
洗練された初期ストーンズ
ある人物は、初期のストーンズを次のように表現した。「彼らは洗練されていて、アートスクールのナイスガイのようにもみえ、気取った感じはなかった。まるでジャズ・ミュージシャンのようだった。そして、ぎこちなく、ナイーブで、フレンドリーで、カリスマ性なんてなかった。自分たちの音楽を演奏しているだけだった」。
(略)
「R&Bはつねに守られるべきマイノリティの音楽だった」と、ジャガーは回顧する。「そこには十字軍的な使命感があった」。対照的にロックンロールは弱々しくみえた――アートとしては妥協があり、商業的な堕落があった。ストーンズの客のほとんどはボヘミアンや知識人で、多くが男性だった。
(略)
[脚注71:ロックンロールは労働者階級のものと思われていた。「上品で立派なグラマー・スクールの学生はジャズを好んだ」と、ピーター・ドゲットは(略)私宛ての非公式なメールで書いた。「それで、彼らはそういった方向を経由して、ブルースにたどり着いた。五〇年代にロックンロールを好きなことは、不良であるか、不良になりたいと認めることだった。ミドルクラスの家庭出身の少年たちは、友達に笑われるから、ポップとかロックンロールが好きでも、嫌いなふりをしたのだ」。]
(略)
[シンシア談]「(略)ブライアンが、メンバーにスーツとネクタイを身につけるように言ったとき、ジョンは何日もぶつぶつ言っていた。それはシャドウズ――ジョンが最も軽蔑していたバンド――がやっていたことだったから」。
(略)
のちに、フーリガンのように振る舞っていても成功することは十分に可能だとストーンズが示したとき、レノンはすこし不愉快だった。「ストーンズはビートルズの『オリジナル』のイメージを乗っ取ったのだといつも考えていた」と、どちらのバンドとも親しかったクリス・ハッチンスは言う。
アンドリュー・オールダムの戦略
[アンドリュー・オールダムは、16歳でマリー・クワントに取り入りブティックの使い走り、夜はロニー・スコッツのウェイター、広報の仕事を得てフィル・スペクターに出会い、フィルの素行の悪さにはまり、しつこく成功の秘訣をせがんだ。次にブライアン・エプスタインに取り入り]
ビートルズをラジオ・ショーや雑誌のインタビューに引率するという輝かしい機会にも恵まれた。
(略)
[『レコード・ミラー』誌ピーター・ジョーンズからストーンズの存在を知らされる]
「リズム・エン・ブルースはそのうち大きくなる。彼らを一度観ておいたらどうだい」(略)
オールダムはマネージングの経験がないばかりではなかった。登録住所を持たず、代理人としてのライセンスを申請するにはまだ二歳ほど年齢が足りなかった。彼が最初に電話したのはエプスタインだった。ローリング・ストーンズとのマネージメント契約の五十パーセントを与える代わりに、オフィス・スペースとレコーディングに必要な前金を支援してもらいたいという申し出だった。(略)
オールダムはその「厚かましさと直感力を見事に織り交ぜて、十九歳とは思えない見事な売り込みをやってのけた。(略)ロンドンの大物風情で、ミック、キース、スチュ、ビル、そしてチャーリーに近づいた。(略)彼らとおなじ反抗者で、マルクスっぽい理想と、純粋なブルースと、R&Bをより多くのオーディエンスに届けるという伝道師的熱意を持ったアウトサイダーを演じた」。アンドリューがR&Bファンだというのは、じつは大きな嘘だった。彼は、知ったばかりの流行を手に入れようとしていただけだった。
もちろん、オールダムはビートルズとのコネクションを強調した。「彼はたしか、『私はビートルズの広報だ』といった。なかなかの台詞だろ」と、ジャガーは振り返る。(略)
ビートルズのような成功を収めるには、ストーンズはイメージと人員の調整が必要だとオールダムは主張した。(略)[成功するには]一人多いという理屈で、ピアニストのイアン・スチュワートをメンバーから追い出させた。アンドリューの好みからすると、なんにせよスチュワートのえらが張りすぎていた。キース・リチャーズ(Richards)は、ラストネームからsをとってキース・リチャード(Richard)にするよう唐突に指示された。アンドリューが言うには、「そのほうがもっとポップ」だった。その一方で、バンド名にはgを加え、ローリング・ストーンズに変えた。そうでもしないと、誰もまじめに受け取ってくれないと言うのだ。二十六歳のビル・ワイマンは、二十一歳のふりをするように言われた。最も重要だったのは、バンドの演奏を柔らかめにするよう説得したことだった。
(略)
ストーンズをアンチ・ビートルズに仕立てるというアイディア(略)は、もうすこし後になってからだった。当初のオールダムの考えは、それとは真逆だった。(略)
ワイマンは、オールダムが「自分たちをカーナビー・ストリートへ連れて行き、スーツにタブダウンのシャツとニットタイを着せた」日のことを覚えている。またあるときには、ストーンズはタイトなブラックジーンズと、黒いタートルネック、そしてビートルブーツという恰好だった。(略)
「あきらかに、アンドリューは俺たちをビートルズに似せようとしていた。(略)我々をビートルズの敵役ではなく、そっくりの後継者にしようとしていた」。
(略)ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に出演して、アメリカ征服を果たした頃には、オールダムはストーンズを「あなたの親が嫌ってしかたないバンド」として積極的にプロモートした。
(略)
ストーンズは早い段階で二度変化したということになる。最初は、リヴァプール出身のポップ・グループのように、揃いのスーツを着てネクタイを締めた。そして数カ月のうちに、自ら発案した異なるアプローチを試し始めた。だらしなく着こなし、自身のセクシュアリティーを強調し、反抗的に振る舞った。
猿まねバンドに苛立つジョン
レノンは明らかに、ビートルズのスタイルと感性を猿まねするバンドに苛立っていた。「俺たちをつまみ食いして、ビートルズとまったくおなじことをしているバンドがある」と、レノンは憤った。「すみからすみまでだ」。
[脚注3:レノンは明らかにフレディ&ザ・ドリーマーズのことを指して言っている。彼らは、ジェイムズ・レイの「イフ・ユー・ガッタ・メイク・ア・フール・オブ・サムバディ」のカヴァーでトップ五ヒットを記録したが、この曲は、彼らが自分たちの演目から盗み取ったのだとビートルズは主張した。マッカートニーは、どこで「盗難」されたか正確に知っているとさえ言った。「フレディ・ギャリティは、俺たちがマンチェスターのオアシス・クラブであの曲を演奏したのを見たんだ。そして盗んだんだ」。ビートルズ自身が、アメリカのアーティストから拝借した曲を、他のバンドが「コピー」したとぼやくのは奇妙でもある。しかし、彼らにはそれなりの言い分があった。当時、イギリスのグループが自分たちの曲を演奏することは珍しかった。ほとんどがあまり知られていないアメリカの曲からなる演目が組まれることが多かったのだ。あるグループが気に入った曲を発見したら、それはそのグループのレパートリーに加えられた。その曲は彼らの「所有物」だと広く理解されたのである。]
(略)
「あげくの果てには」、レノンは不満を述べる。「このリズム・アンド・ブルースの流行に乗っかろうとするバンドが他にもあるんだ。……俺たちが二年前にやっていた曲を演奏して」。それは、チャック・ベリーやバディ・ホリーのアメリカンR&Bのカヴァーで、ビートルズが薄汚いバーや場末のダンスホールでビートを刻んだものだった。(略)「髪型だってそうさ。どこかのグループは俺たちとおなじロングなヘアスタイルだ」。
(略)
ジャガーはそのシャギーな髪型の由来を聞かれると、いつも受け身に回った。(略)
「アートの学生は、何年も前からこういう髪型をしてるんだよ。ビートルズがヘアクリームで髪を固めていた時代にだってね」
ビートルズに衝撃を受けたストーンズ
ブライアン、ミック、キースのエディス・グローヴでのフラットメイトだったジミー・フェルジ(略)は、ストーンズがビートルズをはじめて聴いたのはBBCのラジオ番組だったと明かす((略)一九六三年一月二十六日放送の『サタデー・クラブ』だと思われる)。(略)
「ラヴ・ミー・ドゥ」の最初の小節を聞いたとたん、「ブライアンは驚愕して」隣の部屋にいたキースを呼び寄せた(略)
「オー、ノー!」、ブライアンは言った。「聞いてみな、やつらがやってるよ!」
「待て、ギターはどうだ」、キースはそう言って夢中で聴いた。
「やつらはハーモニカもやるのか」、ブライアンが言った。「俺たちがやってないやつだ」。
演奏を聴いて、私はビートルズはなかなかいいと思った。しかし、だからなんなんだ。また新しいグループが出てきただけだろう。「何が問題だい?」私は尋ねた。「聞こえないのか?」キースが言った。「やつらはハーモニカを使ってるんだ、先を越されちまった」。
「やつらは、俺たちとおなじように、ブルースをやろうとしているんだ」、とブライアンは言った。「これから先、彼らが何をやるか聴いておかないと」。私はその曲が気に入ったし、ハーモニカもちゃんと聞こえていた。しかし、音楽はストーンズのものとは似ても似つかなかった。ブライアンは、ビートルズはブルージーな音を使っていて、もし彼らが成功したら誰もがまねするだろうと言いたかったのだ。(略)放送の終わりの方でチャック・ベリーをやったときには、ストーンズはさらに気落ちした。
[脚注32:しかし、このショーでは(略)フェルジが言うように終わりの方でチャック・ベリーの曲はやってはいない。]
(略)
[25年後]
「あれは北からの襲撃だった」と、キース・リチャーズは言った。「俺たちは、自分たちを世界で唯一の存在だと思っていた(略)奴らは長髪でむさ苦しい格好で、けれども、レコード契約を結んでいた!(略)そして彼らのレコードはチャート・インしていた。ブルースっぽいハーモニカが入った『ラヴ・ミー・ドゥ』だ。そんなものを聴かされて、俺はほとんど気が狂いそうだったよ」。
(略)
[ゴメルスキーからビートルズが来るかもと伝えられたストーンズ]
一セット目にはビートルズは来なかった。ブライアンが近づいてきて、『来ないじゃないか、来ないじゃないか』と言った。(略)
二回目のセットをはじめて少し経った頃だった。ワイマンは、見上げたら「四人の影のような姿」が肩を並べて観客の中に立っているのが目に入って、たじろいだ、と言う。四人はおそろいのスエードのオーバーコートを着て、レザーキャップをかぶっていた。「マジかよ!ビートルズだ!」ワイマンは声を殺して叫んだ。リチャーズもおなじように回顧する。「(略)勢いのあるショーをやって皆がのってきたときだった。ふいに振り向くと、そこには黒い革のオーバーコートに身を包んだ四人が立っていた。うわっ、なんてこった!奴らがここにいる!」ミックは、「俺は彼らを見ようとしなかった」と振り返る。「かなり動揺していたんだ」。
初期のビートルズは、テレビやラジオではおどけて優しそうに見えたが、普段の彼らはときにまったく異なる印象を与えた。ライターのバリー・マイルズは、この時期のビートルズは「意図的に威嚇するようなイメージ」を出すよう決め込んでいたとみる。(略)長いレザー・ジャケットを着ることで、彼らは「ガン・ファイター」のようにみえた。(略)[オールダム談]
スポットライトとカメラから離れると、彼らは「ふざけんな、俺たちがすごいことはわかってるんだ」と言わんばかりの態度をにじませたと言う。(略)
クールなミック・ジャガーでさえ、最初にビートルズをみたときには、「四つ頭の怪物」に見えたと認める。
(略)
ライヴ終了後(略)[スラムのようなエディス・グローヴのアパートに]
ビートルズがやって来たとき、「彼らはプロっぽい雰囲気をまとっていた。取り巻きも、ビートルズとおなじ濃い色のオーバーコートをスマートに着こなしていた。一つの大きなチームという印象だった」。
(略)
一晩中、ひっきりなしにレコードが回って(略)互いに好き嫌いを言い合った。(略)
フェルジは振り返る。「ときおりミックかジョンが、アーティストや曲名をあげて『あれが好きなんだ。昔よくやったよ』、などと言う。(略)ストーンズはIBCスタジオで録音していた五つのデモトラックをビートルズに聴かせた。そしてアメリカから輸入したお宝コレクションを熱心に見せた。
「ジョンはとてもいいやつだった」と、ミックはのちに語っている。「『ラヴ・ミー・ドゥ』でハーモニカを吹いていたから、『ハーモニカをやるんだろう?』とたずねると、レノンは『ああ、だけど君らみたいにはできないさ。ただ吹いたり吸ったりしているだけさ。ブルースをちゃんと演奏することはできないんだ』と答えた」。しかし、ストーンズにとってのブルースの英雄、伝説のジミー・リードを、レノンが素っ気なく切り捨てたことには、彼らは不意を突かれ驚いたようだった。
レノンとブライアン・ジョーンズは話し込んで、二人にはそれぞれジュリアンと名付けた男の赤ん坊がいることを知った。(略)
何年も後に、レノンはその晩ブライアンが「ラヴ・ミー・ドゥ」で吹いているのはハーモニカなのかハープなのかと聞いてきたと振り返っている。二つのタイプのハーモニカの細かな違いはまったく理解せずに、レノンは「ボタンのついたハーモニカだよ」と答えた。それはクロマチックハーモニカと呼ばれるもので(略)(レノンのは一九六〇年に、オランダのアルンヘムにある楽器店で万引したものだった)。クロマチックハーモニカには、ボタンで動くリード・セットが付いていて、西洋音楽の十二音すべてが表現できる。一方、ダイアトニック・ハーモニカー「ハープ」とも呼ばれるは、それほどたくさんの音階は出ないが、音をベンドすることで哀調のこもったブルースらしい音を出すことができる。有名なブルース演奏家はみなハープを使っており、もちろんジョーンズのような熱狂的なブルース・ファンは、クロマチックハーモニカは古くさいと考えていた。
(略)[ポール談]
「ミックは、(あの出会いが)ロックンロールに向かうきっかけだったと言っている(略)彼は僕らが入ってくるのを見て思ったのさ。「ちくしょう、あのコート欲しいぜ!あんなロング・コートが欲しいけど、それには金を稼がなくちゃならないんだ」ってね。(略)
ジャガーは、ジョンとポールがすでに一〇〇曲もの曲を書いた(略)と自慢するのを聞いて、衝撃を受けた。さらに、レノン&マッカートニーが自分たちの音楽会社であるノーザン・ソングス・リミテッドに共同出資していることにも驚いた。
(略)
[4日後、ビートルズに招待されたストーンズはロイヤル・アルバート・ホールへ。終演後、間違えられてファンに囲まれたブライアンは]
『ジョルジオ、ジョルジオ、あれだよ、俺が欲しいのは、あれだよ、俺が欲しいのは!』(略)
デッカと契約
[ジョージからストーンズを教えられたデッカのディック・ロウに、オールダムが猛アタック]
ビートルズは賞味期限に近づいている、マージーサイドの波はすでに頂点に達している。だが、ストーンズはちがう!ザ・ローリング・ストーンズこそが次に来る大物だ、次のビートルズだ!デッカは、おなじ間違いを二回も犯してはならないのだ。
このアイディアに敏感に反応したのはロウだけではなかった。デッカの大株主サー・エドワード・ルイスもおなじだった。(略)
[ロウ談]
「彼は、我々がビートルズを逃したことに相当苛立っていて、ストーンズがやってくれると決め込んだ。彼は、(ストーンズが)何者なのかまったくわかっていなかった。それでも[テープを聴いて]言った。『ファンタスティック!』私は彼を見入ったよ。『ファンタスティックだって?』(略)
ディック・ロウが自らストーンズを見立ててからわずか二日後、ストーンズはデッカと契約した。まともな交渉力を持たなかったビートルズは、両面シングル一枚につきわずか一ペニー(小売り価格の一パーセント)という、EMIの安い印税率を受け入れざるを得なかったが、ロウはレコード売り上げの五パーセントという、ストーンズにとって破格の好条件を提示した。
ストーンズのデッカとの契約には、もう一つ特筆すべ点があった。(略)フィル・スペクターは、オールダムにアドバイスをしていた。もしグループをマネージすることになったら、どんな状況であっても(略)自分のポケットから資金を出し、自らスタジオ・セッションを確保し、レコード会社にはバンドのマスター・テープをリースせよと(略)[前例はなかったが]デッカはこれに同意し、ストーンズは音楽著作権を保持することができ(略)ストーンズにとてつもない財産をもたらすことになった。
次回に続く。
