橋本治 性のタブーのない日本 BL源氏物語

性のタブーのない日本 (集英社新書)

性のタブーのない日本 (集英社新書)

 

 平安の「恋多き女」は「男の不実」を嘆く

[求愛する男と顔を見せない高貴な女の間をとりもつ女房は]顔こそは見せはしないけれど、人にたやすく「気配」は感じられてしまう存在で、だから男からは軽く見られ、そのことに対して、宮仕えする女房だった清少納言は怒っています
(略)
顔を見られることを怖れる女達は(略)基本的に物陰にいる。自分の姿が見られないようにして男の姿を見ている。これが進めば、物陰に隠れて、そこを通りかかる男に声を掛けて、「なによ、ちゃんと答えられないの?サイテー!」というようなことにもなってしまいます。清少納言は気づいていないのかもしれませんが、そういうことをするから、思う男は《宮仕へする人を、あはあはしう、わるきことに》言ったり思ったりするのでしょう。
平安時代は、今の常識からすれば不思議な時代です。まず、女達に貞操観念というものがありません――と書いて、「現代とおんなじか」と思ってしまいました。そして、強姦罪というものがありません。女が平気で二股三股をかけて、「色好み」とか「恋多き女」になっているのに、そのくせ「男の不実」を嘆くこともあります

女房は「非正規雇用の派遣」

平安時代は「女房文学の時代」とも言われて、多くの数の女達が宮仕えに出ましたが、彼女達のあり方は、今で言えば、「非正規雇用の派遣」と同じです。
(略)
その立場は不安定で、それだからこそ彼女は「えらい人とだっていくらでも会える」というような自慢をして、その挙句に「晩年は悲惨なことになった」という言われ方もします。
(略)
[世襲の階級社会、出世のチャンスは身分の高い男を婿にするくらい。そんな父親に]
娘は厳重に、人目に触れないように、陽の光にも当たらないように育てられるから、夜中に不意の侵入者が現れても、声を出すことさえ出来ない。入って来られたらやられちゃうのが当然だから、貞操観念もへったくれもない。女の方にそのつもりはなくても、男の方が「お試し感覚」で一度来て、やったらもうそれっきりということだってある。(略)
なにしろ平安時代は一夫一婦制の時代じゃありません。既婚の男が平気で「恋」を求めてやって来て、「別にここで結婚を成立させなくてもいいか」の不倫状態になることはいくらでもあるし、男が求めるものが「女」であるのか、「女にくっついて来る財産」であるのかどうかもはっきりしない。だから、何人もの男が同時に「逢わせろ」と言ってやって来たりして、女にそのつもりがなくても二股、三股状態になってしまうことは当たり前にある。

顔がわからないネット恋愛状態

[相手の顔がわからない]そんな時代に男がなにによって恋に落ちるのかと言ったら、「噂によって」ですね。それ以外に「恋の相手」となる女の知りようはない。噂を元にして自分の妄想をふくらませるわけですから、出会い系のネット恋愛に似ていなくもありません。「高貴な姫君だからさぞかし――」と妄想を募らせた光源氏が実際にやった相手は、「意志薄弱なブス」だったというのは、『源氏物語』の末摘花の巻に書かれることですが
(略)
 女がやりたくなって男の所へ出掛けて行くなんてことは、まずありえない。「男がやって来る」ということがセックス可能の条件で、男は律儀にも夜しか来ない。
(略)
暗い夜の間は「秘め事の時間」で、暗い夜道を行くしかない男達は、夜空に満月が煌々と輝いて道を照らすのを見たら、「女の許に行け」と言われているような気分になるのでしょう。女の方だって、「今日は夜道が明るくて来やすいから、彼だって来るんじゃないの?」という気分になってしまうでしょう。

「犯される」というのは「顔を見られる」こと

 女と夜との相性はよくて、女にとって夜は、「身を守ってくれるヴェール」でもありました。だからこそへんてこりんなことも起こるのです。
 つまり、光のない闇の中で性行為が行われるわけですから、女が男に袴の紐を解かれて「ホト」を丸出しにされても、女にとっては「するべきことをされている」というだけで、「見られている」とも思わないし、「恥ずかしい」という気になる必要もないのです。だから、『古事談』に語られる清少納言のように、「私は女よ」ということを証明するために「顔」ではなくて「下半身の性器」を丸出しにしてしまうのも、平気だったのかもしれません。
 この時代の女にとって、「犯される」というのは、夜の中の性交の方にではなく、「顔を見られる」というところにあったはずで、紫式部は『源氏物語』の中でそういう「強姦シーン」をちゃんと書いています[若菜下の巻]。
(略)
[飼い猫が暴れて簾が持ち上がり]柏木と源氏の息子の夕霧は(略)女三の宮の姿を見てしまいます。
 夕霧は、自分よりずっと年下の新しい父の正妻のあり方を「たしなみのない困ったものだ」と思って、咳ばらいをして「見えてるよ」と教えますが、柏木の方は恋に落ちてしまいます。時刻が夕暮れ近くで、簾の端がめくれただけなので、屋内の女三の宮の顔の辺りはよく分かりません。でも「気配」だけで恋愛感情を発動させてしまう時代に、一瞬でも姿が見えたわけですから、その生々しさは「裸を見た」と同じ程度の衝撃力があります。「見えてしまった」ということは、「やれるんじゃないか――」という思いを柏木の胸の中に刻み込んでしまったということで、その思いを四年間引きずってしまった柏木は、ついに女三の宮の部屋に忍び込んでしまいます。
 四年の間に、柏木は女三の宮の腹違いの姉である朱雀院の女二の宮を妻にして[いるのだが](略)
顔の見えない夜の中で一方的に口説き始め、ついに抑えられなくなって実行行為に及んでしまいます。そこを紫式部は、「柏木は必死になって口説く内、自分はいつか見た猫を渡そうと思って来たんだけど、それをいつ渡してしまったんだろうと思う夢を見てしまった」と書きます。
 「なんだってその最中にうとうとして夢まで見なきゃならないんだ?」とは思いますが、当時的には「獣の夢を見るのは妊娠したということ」の考え方があるので、「猫の夢を見た」は、ストレートに「柏木は女三の宮とやった=妊娠させた」です。忍び込んでもう「逢う」はやっているので、もっと突っ込んで「猫の夢を見た」です。闇の中の出来事なので、婉曲に見えてストレートで、ストレートであっても婉曲になりうるのは、「逢う=やる」の法則があるからですが、これが少したつと具体的な残酷描写へと変わります。
 女三の宮は泣いているから、闇の中でも柏木は自分が嫌われているのを知って、「あなたが私を好きになってくれないなら死んでしまう」と、女三の宮からすれば「なに勝手なこと言ってるのよ」的なことを言って、ついには彼女を抱え上げ、かすかな夜明けの光が届く所にまで連れ出してしまいます。性交シーンに関しては「猫の夢を見た」ですませてしまう紫式部は、ここのところを具体的に書きます――。
(略)
その残酷さは、行くところまで行った柏木が女三の宮に「顔を見せろ」という迫り方をすることによってピークに達します。

BL『源氏物語

 『源氏物語』の中には、《女にて見む》とか《女にて見ばや》というへんな表現が登場します。男が男に対して使うもので、つまり「女として見たい」です。(略)
「女装させたら似合うだろうから、メイクさせてみたい」というようなもんではありません。「女として(女にて)やりたい(見む)」です。「見る」は「やる」で、「女だったらいいな、やっちゃうんだけど」であり、「やりたい気がするから女になっちゃえばいい」です。「いい男」を見た男が、こんなことをひそかに考えます。
(略)
[国文学者の三田村雅子に]「《女にて見む》ってなんですか?」と聞いてしまいました。三田村さんは「そういうツッコミを入れるのはあなたくらいだ」というような表情で、「紫式部以前にはない言葉の使い方なんですよね」と教えて下さいました。(略)「紫式部の造語表現か」と思って、なんだかモヤモヤしていたものが解けました。
(略)
 どういうわけか私には、「平安時代の男は、いい男を見ると“女だったらやっちゃうのにな”と思っていた」とは考えられません。しかし紫式部は、「そう考えたらおもしろい」以上の意図を持って、《女にて見む》という願望を持つ男達を書いたのです。
(略)
[兵部卿の宮の方は]はっきりと「性的対象」にしていて、やらないのは光源氏が実際には女じゃないからです。光源氏だって、《女にて見むはをかしかりぬべく》と思っているのですから似たようなもののはずですが(略)「そういう見方もあるだろうな」程度です。
 兵部卿の宮は、[光源氏が密通して孕ませた]藤壷の女御の兄で、後に紫の上となる[光源氏が誘拐して密かに養育している]少女の父です。二人の女との間にオープンにしかねる関係を抱えている光源氏は、兵部卿の宮と親しくなって、秘密の重圧を和らげたいのです。(略)
 男に対して突っ込んだ親近感を抱いてしまうと、「女だったらやっちゃうのに」になるというのはかなりムチャクチャな話のようですが、でも紫式部はそのように認識しているのです。
(略)
[病死した柏木の妻と同情から恋に落ちた夕霧が憔悴してやって来ると]
五十の父親が三十前の息子を見て、「美しい、女だったら抱いちゃうのにな」と思っているわけですね。まともに考えれば「とんでもない変態オヤジ」ですが、「女」というものを介在させないと愛情表現が出来ないので、男に対しても「どうして女にして愛さずにいられようか」ということになってしまうわけですね。《女にて見む》という表現を創出した紫式部は、BLの色彩を散らつかせながら、「私の生きる時代の男達は、“女”というものを介在させずに男同士の関係を――親子であっても成り立たせることは出来ない」と言っているようです。
 光源氏と夕霧の父子関係も奇妙なもので、初めの内、光源氏は夕霧のことをまったく愛していません。息子に関して思うのは「実の母を亡くした息子が、義理の母[紫の上]に恋したらやばい」ということだけです。

次回に続く。