橋本治 失われた近代を求めて〜北村透谷

北村透谷、近代最初の「挫折した少年」

神奈川県臨時議会の書記となって金を得た透谷は、満で十五歳数えで十七歳の時期に、八王子の遊廓へ入り浸りになっている。そこで金がなくなると横浜のグランドホテルでボーイになって働き、東京専門学校(後の早稲田大学)の政治科に入学し、多摩の地で自由民権運動に加わる。妻のミナは、その自由民権運動の基地となるような豪農の娘だが、やがて追い詰められた自由民権運動が過激化して、満で十六数えで十八歳の北村透谷は闘争資金獲得のための強盗をやるように同志から持ちかけられ、そのあり方に疑問を感じて自由民権運動から離脱する。その離脱に際して透谷少年は頭を丸めたというから、彼はかなり傷ついていたはずで、それからすると北村透谷は、近代最初の「挫折した少年」ということになる。
 「遊郭に入り浸り」ということを経験した透谷の結婚は、「性的飢餓感から女にフラッとなっての結婚」というものではない。「年頃だから身を固めろ」と言われた結婚でもない――それにしては若過ぎる。
(略)
三歳年上の石坂ミナ(略)は、当時最先端であったキリスト教のミッション教育を受けたエリート女性でもあって、他に婚約者がいたにもかかわらず北村透谷の求愛を受け入れた、《やは肌のあつき血汐》と「あつき血汐の頭脳」を兼ね備えた女性だから、いくら「恋愛の必須」を訴える厭世詩家の北村透谷だとて、妻に当たり散らして家庭を破壊するようなことをしない。かえって逆に、その家庭を守ろうとして働き、刀折れ矢尽きるような形で死んでしまう。ある意味で、北村透谷は、「恋の素晴しさだけを歌う浪漫主義の詩人」とは対極的な存在である。
 《戀愛は人世の秘鑰なり》(→『厭世詩家と女性』青空文庫)と言われて、恋に憧れ恋に後ろめたさを感じていた若者は、「おおッ」と思い身を乗り出すだろう。しかし、北村透谷は恋に憧れる男ではない。《戀愛は人世の秘鑰なり》と言われてうなずく男でさえ、実体験のないまま恋に憧れるだけのことが多かった時代に、既に北村透谷は《秘鑰》を我が物としてしまっている。「恋への憧れの心」が「浪漫主義」を生んだのかもしれないが、北村透谷は違う。彼が「浪漫主義の人」であるならば、北村透谷はそこに存在することによって、「浪漫主義」の変改を迫るような人でもある。
(略)
 『楚囚之詩』でデビューしながら、北村透谷はいつの間にか詩人ではなくなって、文芸評論家というものになっている(小説も少しは書くけれど)。(略)彼の評論の中心にあるのは、「そうじゃない、それは違う」と言う明確な声で、「じゃどうすればいいの?」という問いに彼は答えない。
 『厭世詩家と女性』はまさにそういうもので、前半では「恋愛は人の世の秘密を解く鍵である」と言って恋愛を肯定し持ち上げ、後半になると打って変わって、「恋愛の素晴しさを知っている厭世詩人が結婚すると、その恋愛の対象だった妻は俗の権化となる」と言って、「詩人の妻なんかになったら大変だ」と結ぶ。こういうものを『女学雑誌』という女性誌に発表するのだから、文学に関心を持つ女性読者は、「じゃ、私はどうすればいいの?」ということになるだろうが、これに北村透谷は答えない。ただ「現実はそういうものだ」と言うだけなのだが、それが北村透谷で、だからこそ彼は、「そうじゃない、それは違う」と言い続ける。「じゃ、どうすればいいのか」と「その先」を提示する前に、「現実のここが違っている」ということを指摘し続ける。北村透谷はある種の理想主義者だが、その理想の前に横たわる現実の歪さ――現実認識の至らなさ、歪さを衝き続ける。
(略)
 「いやだ、いやだ」の十五歳が終わると、(略)[書記]、横浜のグランドホテルで英語を学習するために働き始め、別のところで速記法も習って、遊郭通いも覚え、前年に創立されて坪内逍遥が講師になっていた東京専門学校の政治科に入学するが、すぐに中退。数えの十八歳になって、過激化した自由民権運動から頭を丸めて離脱して、同じ東京専門学校の英文科に再入学するが、これも長続きはしない。
 当時の作家の多くは「しかるべき学校を出てそれなりの職を得る」というコースを辿るが、北村透谷はインディペンダントでフリーなライターであり編集者に終始する。そのことによって生活苦に喘ぎもするが、小学校在学当時からフラッと家出をして旅に出てしまうような北村透谷にとって、学校ではなく現実の中で学ぶ風来坊的な人生は、人にとやかく言われる理由のない、当たり前のことだったのだろう。
 そういう小学校を卒業したばかりの少年の前で、自由民権運動は徹妙に性質を変えて行く。板垣退助は暴漢に襲われ、福島県令の三島通庸自由党員を徹底的に弾圧する。議会開設を目的として来た運動が、開設の約束を勝ち取ると、議会開設までにまだ間のある中で、自由を弾圧する専横的な敵と実力で戦う方向に進んで行く。自由民権運動が先鋭化して行くのは当然の成り行きだが、それはまた政治家を志す少年にとっては、政治が分かりやすくなって行く道筋でもある。

文人のすることは事業じゃない」と

山路愛山にブチキレ

《事業》という言葉に込めた独特の意味を説明するのに《心霊》というおどろおどろしいような言葉が登場するのは、頼山陽荻生徂徠を論ずる「史論家」と言われた山路愛山が、一方ではキリスト教の牧師でもあったからで、山路愛山と北村透谷の親交の仲立ちをしたのはキリスト教なのである。(略)
山路愛山のこの文章を読むと、依怙地に凝り固まってヒステリックになってしまった北村透谷の哀れさが透けて見える。
 『頼襄を論ず』の当該部分を読めば《事業》という言葉がかなり特殊な使われ方をしていることは分かるし、「頼山陽の偉大さと影響力を称えるために《事業》という言葉を使ったのか」ということはうっすらと分かる。北村透谷ならそれくらいのことは分かるだろうが、それを曲げて「文人のすることは事業じゃない。文人のすることは人の内面に関わることで、お前の言うことを借りれば“空を撃つため”だ」と怒ってしまう。更には、山路愛山が史論家であり評論家であって詩や小説を書く人間ではないことから、「俺とお前は違うんだ。俺は純文学だが、お前は非純文学だ」なんてことまで言ってしまっている。デビューした頃の北村透谷は、こんなことを言う人ではなかったはずである。
(略)
 北村透谷が、近代初めの「小説バブル」と言いたいような状況を作り出している作家達を《歓楽者》と非難するのは、《彼等世外に超然たり》ということになっているからである。彼等は現実の外に超然として、いやな現実を見ない(略)「上から目線で空回りしていることを自覚していない」と言っている。(略)
この彼の論調は、三年後に彼を激怒させる山路愛山の言うところとほぼ同じである。《文章即ち事業なり。文土筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず》(略)というような山路愛山の言葉は、この時の北村透谷が言っておかしくないことなのである。
(略)
[二ヶ月後の]『時勢に感あり」は、『当世文学の潮模様』より一歩進んで「世の中に生きる他人達のことを考えてやれよ」と言うものである。
 『当世文学の潮模様』では「皮肉な独り言」のニュアンスを持っていた透谷の怒りは、ここでもっとストレートになって、当時の書き手達(明治23年段階では、坪内逍遥でさえやっと三十の坂を越したくらいで、みんな若い)に訴える――。
(略)
《人は魚の如し、暗らきに棲み暗らきに迷ふて寒むく食少なく世を送る者》なのだから、我が身の不幸を嘆かざるをえない人は《幾百万》もいる。だから、「どうして彼等の方を向いて慰めてやろうとしないのか? 彼等が求めるのは侮蔑でも冷笑でもなく、温かい一滴の涙に象徴されるシンパシイだ」と、北村透谷は言う。これは「文章が空を撃つようなものであってはならない」と言う人の発言であるはずである。
[それがなぜ三年後に変質して、「“事業”なんか糞食らえだ。俺は空の空を撃つことに誇りをかけている」と言うようになるのか。]

宗教と《個人的生命》

[『今日の基督教文学』]は、宗教の外にある文芸雑誌に発表されたものではない。宗教の機関誌でもあるようなものに発表されたものである。そう思って見れば、微妙な違和感を感じ取ることも出来るだろう。北村透谷は、「宗教や哲学は文学より上」と考えてはいないのだ。「文学は宗教より上」であって、宗教は哲学と併置されるようなものである。ここには「宗教の優越性」などがない。だから、「布教の為に文学を利用しようとしても無駄だ」ということが、逆転した形ではっきりとは書かれている(略)
 北村透谷にとって、宗教というものは、《文学の舞台にまで達し》て、やっと《社界の一動力》となりうるものである。(略)自分の編集するキリスト教系雑誌の中で至ってクールに、「宗教自体にそれはどの力はない」と言ってしまっている。
(略)
 自由民権運動に挫折した――と言うよりも、変質した自由民権運動に絶望してこれを去った北村透谷の中に、「社会変革の意思」がないはずはない――、『当世文学の潮模様』の中で「自閉した文学空間の中ではしゃいでいるだけでいいのか」と言った北村透谷が、《事業》の語に嫌厭を示す理由などない。しかし、「前向きな《事業》ばかりやっていたら、《個人的生命》はどうなるのか?」――そう考えるのが北村透谷である。だから、北村透谷は「社会運動家」にも「宗教家」にもならず、「文学家」であり続けた。北村透谷の「変質」あるいは「混乱」の根本にあるのはこの問題のはずで、これこそが近代日本文学の混乱の因だろうと、私は思う。
(略)
 北村透谷は、彼なりに「人は皆同じ」を考える。たとえばそれは、「霊性」と言われるようなものである。キリスト教的には「霊性」だが、仏教的には「仏性」である。「そういうものが人の根本にある」と考えれば、「人は皆同じ」が成り立つ。山路愛山の言葉を借りれば「心霊が心霊に影響を及ぼす」が可能になって、人と人の間の壁が取り払われる。社会変革の一々は面倒な大事業だが、人の中核にあって埋れている「霊性」のようなものを目覚めさせれば、一挙に「みんなが平等な社会」が出来上がる――という考え方だって存在する。社会主義国家の国民に「学習」が必須だったのもこのためで、北村透谷のキリスト教への接近は、「みんなが同じ」を達成する理論の可能性を考えてのことではないかと思う。
 しかし、「皆同じ」になって、北村透谷は嬉しいか? 北村透谷の中には皆と違う固有の欲望――《個人的生命》もあるのである。

次回に続く。