『至上の愛』の真実

パスしかけたがRVGやらクリード・テイラー話で借りる。主に時代状況について引用。

ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実

ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実

1950年代初期反トラスト規制により映画スタジオとメジャー放送網から切り離されたパラマント劇場チェーンとアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)が合併したABCパラマウントはレコード業界にも進出。

1959年、ABCは大きな賭けにでた。レイ・チャールズに破格の前渡金と常識はずれの契約条件を提示したのだ。対等のパートナーとしての契約であり、すべてのレコーディングに関してアーティスト側に原盤権を認めるという内容だった。(略)賭けは成功した。チャールズは立て続けにベストセラー・シングルやアルバムを放ち、ABCの投資を何倍にもして返し、他の有望なプロジェクトに投下する資金を確保させた。

ニッチな企画アルバムで地道に実績をつくっていたクリード・テイラー

わたしはよく、パラマウントのビルから通りを渡ったところにあるレコード店に行き、レコードになっていない音楽ジャンルについて考えていた。たとえば東洋音楽だ。その店には東洋音楽のレコードがなかった。そこでわたしは『オリエンタル・ガーデン』というハイ・ファイのレコードを作った。とてもよく売れたよ。

ザ・ジャズ・プロフェッツ

ザ・ジャズ・プロフェッツ

ケニー・ドーハム&ザ・ジャズ・プロフェッツ』は

「当時としてはよく売れたよ。一万枚ほどかな」と、テイラーは誇らしげに語る。

ランバート・ヘンドリックス&ロスも大ヒット。ついに1959年ABCはジャズ専門レーベルを設立。レイ・チャールズの『ジニアス+ソウル=ジャズ』は数ヶ月で15万枚売れた。
ABC営業部で働いていたグレシャン・モンカー三世

ある日、キャノンボールとナット(アダレイ)が[契約しに]会社にやってきた。(略)彼らはデスクに向かって座っているわたしを見つけ、黒人がオフィスで仕事をしているのを見て驚いていた。キャノンボールはとても感動した面持ちで「やあ兄弟、会えて嬉しいよ」と言っていた。

ジョシュア・レッドマンの分析

そのころのマイルスのグループは、とても意識的な演奏をしているように聴こえる。ビートを細分化する方法、ひとつのリズム感覚をもうひとつのリズム感覚に重ねるやり方がはっきり分かるんだ。いっぽうコルトレーンのグループは、リズム感覚を重ねるやり方が自由で混沌としている。とても流動的だし自然発生的なので、表面には浮かび上がってこないんだ。

フューシャ・スイング・ソング+4

フューシャ・スイング・ソング+4

ルディ・ヴァン・ゲルダーのスケジュール

その手帳によると、1964年の終りには、仕事がひっきりなしに入っていたことが分かる。
「1964年12月7日の週はとても忙しかった」とヴァン・ゲルダーは語る。「月曜日から金曜日まで、毎日二つのセッションをレコーディングしていた」。たしかにそのとおりで、彼のスケジュール帳を覗くと、月曜日の午前中はクリード・テイラーがスタジオをおさえており、火曜日と木曜日はヴォックス・レーベルのクラシック・アルバムのマスクリングが予定され、金曜日の夜にはブルーノートのレコーディングで、のちに『フューシャ・スウィング・ソング』として発売されるサム・リヴァースのセッションが入っていた。
その週のうちほぼ半分はインパルスによっておさえられており、月曜日と火曜日の午後は、マッコイ・タイナーのセッションが入っていた。これは『プレイズ・デューク・エリントン』として発売されることになる(略)続く水曜日と木曜日の夜は、ボブ・シールコルトレーンのために予約されていた。ヴァン・ゲルダーの手帳には、暗号のような走り書きで、”BT””Trane”と記入されている。

タイナーは述懐する。「あのレコーディング・セッションでは、いつもと違ったことがあった---ルディが灯りを落としたんだ。ライトは点いてはいたけど暗かった。彼はたぶん雰囲気を出そうとしたんだろう。でも彼がそんなことをやったのは初めてだった」
「ああ、スタジオの灯りを暗くしたのはわたしだ」とヴァン・ゲルダーは認め、次のように付け加える。「雰囲気を少し変えるために、セッションでは、しばしばやってたんだ。いまでもときどきやってるよ」。彼がそれを始めたのはハッケンサックのスタジオで録音しているときだった。1954年、マイルス・デイヴィスの<ブルー・ヘイズ>のレコーディングのとき、深夜の雰囲気を出すためにやったことが彼の記憶に残っている。(略)
[『ラッシュ・ライフ』では]スタジオの灯りを全部消した---ミキシング・ルームもスタジオのなかも含めて、文字どおり全部だ。真っ暗な中から聴こえてくるのはジョー・ヘンダーソンの演奏だけだった。わたしはそれが〈ラッシュ・ライフ〉という曲に相応しいと思った。それがわたしなりの雰囲気作りのやり方なんだ。

技術的質問に対してヴァン・ゲルダーの口が堅いのは

どんな音を録るときでも、これさえあればオーケーというようなマイクはない。たまたまセットした装備によって、それがわたしの技術のすべてだと受け取られたくないんだ。

当時の会社販促状況

意気盛んなABCは、年頭にあたってビルボード誌にレーベルの躍進を伝える見開き二ページの広告を打った。ボーリングをイメージしたデザインの広告で、「最高のアルバム群がみなさんのレーンの向こうに並んでいます」というキャッチコピーが書かれていた。広告に掲載されたLPのなかでも、特に目立つ位置に置かれていたのは、『レイ・チャールズ・ライヴ』、インプレッションズの『ピープル・ゲット・レディ』、フランク・フォンテインの『アイム・カウンティング・オン・ユー』、『シンディグ』(ABCテレビのショウ番組『シンディグ』の音楽を収録したアルバム)、そして---初めてジャケットが一般公開された『至上の愛』だった。

何はさておき、急速な拡大の波に乗ってチャンスに賭けろ式の考え方が社内を押し包んでおり、『至上の愛』もその気運に後押しされることになる。ビートルズの大ブレイクやそれに続く”ブリティッシュ・インヴェイジョン”ヘの対抗のためもあり、レーベルの責任者に任命されて間もないラリー・ニュートンは、一月の第一週、ティーン向け音楽専門の傍系レーベル、アプト・レコードを再開した。

衝撃的ではなかった

「当時のニューヨークでは、『至上の愛』は、単なるひとつのアルバムにすぎなかった。なるほど、次はどんなものになるんだろう、という雰囲気だった」と語るのは、サックス奏者のデイヴ・リーブマンだ。「一般には発売されてから少し後になって大きく広まったけど、ミュージシャンのあいだではそれほど話題にはならなかったと思う。『アセンション』で巻き起こしたほどの大反響ではなかったよ。『アセンション』は本当に衝撃的だった」

アセンション

アセンション

黒人には闘争音楽だったが

アーチー・シェップによれば、アルバムが発売されたタイミングは黒人の抵抗運動が激しさを増した時期と重なっていた。「『至上の愛』が発売されたとき、人々はもうキャノンボールの〈マーシーマーシー〉は歌っていなかった。人々はアラバマ州セルマで行進していた。マルコムXが寺院で説教していた」黒人たちのアメリカにとって、執拗に迫る情動的なサウンドの波に乗って神に訴えかけるこのアルバムは、あまりにも時代にマッチしていた。マルコムXは二月二十一日に暗殺された。黒人大衆の逮捕と暴動が続いたあと、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは二万五千人を率いて、セルマから州都まで五十マイルに及ぶ”アラバマの行進”を行なった。「それがこの音楽から聴こえるものなんだ」とアミリ・バラカコルトレーンについて語る。「敵対する勢力に対する闘争が聴こえる。だが同時に、いまあるもの、これからなるであろうものを超自然的に抱擁しているのが、彼の音楽のなかに聴こえるはずだ」

白人はスピリチュアルにラリっていた

サックス奏者デイヴィッド・マレイ(略)によると、コルトレーンは「ヒッピーを中心とするあらゆる”フラワー・チルドレン”の心に触れた。彼らはほかのジャズ・アルバムを何も知らないだろう。でも『至上の愛』だけは知っていた」。マッギンと同様、マレイもコルトレーンのメッセージの口当たりのよさに注目する。「(略)彼はあらゆる宗数的なものを純粋にスピリチュアルな感性のなかに取り込んでいた。彼がヒッピーたちに受け入れられたのはそこだったんだ。素晴らしい時代だったよ」

ヒッピーのメッカとなる一年前、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーで流れていた音楽

あれは、春の夜、ヘイト・ストリートを歩いているとよく聴こえてきたレコードだった。街を歩いていると、誰かが(ボブ・ディラン)の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』をかけている。誰かが(マイルス・デイヴィスの)『スケッチ・オブ・スペイン』をかけている。そんな街じゅうで流れていたレコードのひとつが『至上の愛』だった。みんな家の窓から聴こえてきた。

カルロス・サンタナ

傑作だったのは、わたしをジョン・コルトレーンに向かわせてくれたのがポン引きだったってことさ。(略)そいつは素晴らしいレコードをたくさん持っていた---ハウリン・ウルフマディ・ウォーターズにオラトゥンジ---だけどなぜか『至上の愛』ばかりかけていた。そして別の部屋に行って電話をかけ、女に連絡していた。わたしはまだハイスクールに通っていたけど、そこでマリファナを喫いながら『至上の愛』を聴いていた。音楽の二面性に気がついたのはそのころのことだ---暴力的でありながら同時に平和的でもあるということにね。

アセンション』以降の急速な客離れ

1966年に頻繁にマンハッタンを訪れ、コルトレーンを追いかけていたデイヴィッド・S・ウェアは、目に見えるかたちであれ、見えないかたちであれ、ビートの消失が、コルトレーンのライヴに空席が目立つようになった理由だとする。「安定したしたビートをキープするかぎり、どんなにアヴァンギャルドになってもかわない。だけどコルトレーンはそれを崩してしまい、多くのファンが離れていった。彼は別の世界に入り込み、多角的なリズムを用いて混乱したサウンドを創り出してしまった。