ニッポン エロ・グロ・ナンセンス・その2 毛利眞人

前回の続き。 

グロ

当初は怪奇的な美術様式を指す言葉として日本に上陸した。やがて犯罪性を帯びた背徳的な猟奇趣味を指すようになり、さらに“エロ”と結びついたことにより、そこに性的倒錯や性的頽廃など、変態性欲の意味がもたされた。
“グロ”の拡大解釈はとまらない。規格外のアブノーマルな個性を“グロ”と目する風潮もあらわれた。たとえば容貌魁偉の怪優として有名だった中山呑海は(略)「グロ代表」と名乗ったし、倭小な体軀と激しい体技を売り物とした榎本健一が(略)グロ男優という書かれかたをされたりもしたのである。エノケンとコンビを組んでいた二村定一は、声と演技はスマートだったが、鼻が異様に大きい面妖さと同性愛趣味からグロとされた。
(略)
二村の愛称は「ベーちゃん」。本人は「ベートーヴェンのベーだ」と言っていたが、もっぱらシラノ・ド・ベルジュラックのベーだというのが通説だった。勇ましい騎士の裏側にシャイなロマンティシズムを秘匿したシラノのように、二村にもパッと咲く華やかなキャラの裏面に、べったりとした隠花植物のような不気味さがあった。見てはいけないものをそっと覗き見るような背徳の魅力が、大衆の目を引きつけて離さなかったのである。エロ・グロ・ナンセンスをひとりで併せもった存在と言って過言でない。
〈アラビアの唄〉や〈青空〉など一連のジャズソングで一気に過熱したフタムラ・ブームが醒めないうちから、二村はコミカルな表現力を十二分に発揮したエロ・コミックソングを矢継ぎ早に繰り出した。
(略)
この時代、ほぼ時を同じくして大阪で発展したディキシーランド風のホットジャズも東上。刺激的なフォックストロットを通奏低音として、ジャズ、カフェー、エロのポリリズムが東京を舞台に咲き乱れた。〈ほんに悩ましエロ模様〉は、そんなジャズと桃色の夢のカクテルをみごとに再現している。
 この遊蕩気分ただようエロソングに続いて二村定一は〈女!女!女!〉〈エロウーピー〉〈キッスOK〉〈意味深長ね〉を立てつづけにタイヘイで歌った。〈キッスOK〉はレヴュー団の放埒な楽屋裏を覗き見する設定で、共演の井上紀久子の甘くねっとりしたセリフまわしや妙に艶かしいスライド笛の効果音もエロティックである。「アァッ。皆さんが見てるわよぅ」というリスナーを意識したメタなギミックも盛りこまれていて(略)
〈女!女!女!〉は、
〽女が欲しい おんな、オーンナ
と臆面もなく欲望をむき出しにした歌詞で、女性嫌いの二村定一に歌わせたところがミソだ。

イット

今は素足のはづむ肉
おまけに太いよ おそれるね
とこイットだね
(略)
 はじめ「容貌や肉体の美しさではなく、内面からにじみ出て異性を惹きつけてやまない性的魅力」だったはずの“イット”が(略)もはやエロそのものである。(略)1930年夏にジャーナリズムに再登場してから半年のあいだにすっかり変化してしまっていたことを示す。(略)
東京マネキン倶楽部の駒井玲子を記者が訪ねて「イットとは何ぞや」を問いただす[『読売新聞』の]記事である。
 彼女の眼はうっとりと嬉しいモノをみるやうにうるみ、彼女の耳は桜貝のやうに赤くひらき、彼女の裸の首はすべっこい樹皮のやうに……半ばはだけた白い胸に息が通って、組合はされた脚のあたりの曲線が、長いスカアトの下に悩ましく伸び……ぼんやりと放心したそのポオズの、なんと男ごころを掻き乱すことか!(中略)
 「イツトって悩ましいもんですねェ。からだが、ゾクゾクツ!としましたよ。」
 「どこか異性を惹きつける。(略)蓼食う虫も好き好きって云ひますけれど、その『たで』がつまりイツトぢやないんでせうか?」
 駒井玲子は正確に“イット”を把握しているのだが、記者は彼女の官能的な外面、つまりエロに魅せられた挙句、本来とは異なる“イット”を「これがイットだ」と麗麗しく記事にしてしまっている。

『東京行進曲』

 そもそもエロ歌謡が登場する以前からジャズソングや流行歌にたいする世間の風当たりは強く、エロ歌謡の興隆に比例して批判も高まっていた。(略)
 同名の日活映画主題歌として作られた〈東京行進曲〉は〽昔恋しい銀座の柳……と銀座からスタートして、丸ビル、浅草、新宿と観光案内でもするかのように地名が歌いこまれる。その四番には当時、新都市として発展途上にあった新宿を始発駅として(略)小田原急行電鉄も採り上げられた。問題となった歌詞は、
〽シネマ見ましょかお茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか
 というフレーズである。(略)[1929年6月15日]二村定一の独唱で放送予定だった〈東京行進曲〉は、前日になって放送中止となった。放送を差し止めた逓信省・東京逓信局監督課の係官は「活動などならそれを希望して見に行くので何ともないでせうがラヂオは真面目な、そして少しも知らぬ若い子女に浅草であひびきして小田急で駈落するような文句はどうも困る」という理由を述べている。
 禁止された歌詞は以前から広く流行し、レコードやレヴューにもなっていたので、放送中止はJOAKやレコード会社にとって寝耳に水であった。(略)
 この放送中止にたいするリスナーや作者サイドの反響は、一ヵ月以上経ってから湧き上がった。
 まず『朝日新聞』の読者投稿欄「鉄箒」が「あの低劣卑俗な歌が、わが若き大衆の流行りうたかと思ふとなさけない気がする。(略)あまりに女性的でセンチメンタルのあわみたいなうたの流行は、それが国民性なり趣味なりに多少でも関係あるものと考えると、いささか失望を禁じ得ない。(略)あの亡国の送葬曲じみた節調に耳をおほひたいものは私一人ではあるまい」と、激越な筆致で〈東京行進曲〉を批判した。
 続いて7月28日にラジオ放送された「趣味の西洋音楽講座・第四講 現代の民衆音楽」では、音楽評論家の伊庭孝が〈東京行進曲〉を「低俗」「軽佻浮薄」「江戸っ子の面汚し。先祖の助六に済まない」などと三十分間にわたって痛烈に罵倒したうえで、二村定一とJOAKジャズバンドによる欧米のジャズソングを五曲紹介した。
(略)
[『読売新聞』で伊庭孝と西條八十が持論展開。まず伊庭が]
第一に「作詞作曲者が自分たちの利益しか考えず悪趣味な作品をものした」、第二に「類似の楽曲が陸続と現われて東京市民の趣味を堕落させる」と挙げ、欧米の高尚な流行歌に較べて日本のそれは「強健味を欠いた軟弱な、且つ悪趣味」だと断じた。
 それにたいして西條八十は「歌詞が扱う素材によって作詞の心特ちも自然に変化する。そこには上品も下品もない。そもそも自分は健全な歌詞も作っている」と困惑気味に述べ、中山晋平の作曲についても「いくら長調の豪快な新民謡を作っても大衆は短調の曲調を喜ぶ。批判するなら、それを歌う民衆を責めるがいい」と擁護している。

エロの次はミリとテロ

1930年にはじまったエロ・ブームは1932年に入ると大きく失速した。(略)
 「エロの次はミリだ」
 「エロからテロ」
 これは暴露雑誌「人の噂」の[アンケート回答]〕(略)
「ミリだ」と答えたのは東郷平八郎の側近で海軍中将、宮中顧問官の小笠原長生。「テロ」と答えたのは社会主義者の山川均、女性史研究家の高群逸枝[等](略)
 ミリとは「ミリタリー」を略したもの、流行語に浮上したのは前年九月に勃発した満洲事変の反映であろう。(略)
 テロは(略)「血盟団事件」や五・一五事件の影響である。日本の世情は国際情勢をめぐって右傾化の色を強めていた。
(略)
[1931年暮れからビクターが〈満州行進曲〉などの時局レコードを大プッシュしブレイク、ライバルのコロムビアも追随。追い風となったのは友軍の進路を拓くために爆死した「爆弾三勇士」の軍事美談。1932年のレコード総目録に「軍歌」ジャンルが新設されたことで、レコード会社のエロから軍歌への転換が明確に。]
マイナーレーベルも敏感に軍歌ブームに便乗した。いち早く動いたのはニットー、タイヘイ、ツルの面々。つまりエロ歌謡で大活躍したレーベルが、こんどは陸続と軍歌を作りはじめたのである。

レコード検閲

 昭和初期、図書や新聞、映画には検閲があった。(略)
 演劇の舞台も上演前に内務省警保局に台本を納本せねばならず、客席の最後列には一段高く臨官席が設けられて、芝居が認可した台本どおりに進行するか監視されていた。台本と異なることがおこなわれたらその場で上演差し止めとなる。(略)
 しかし、これだけ体制が固まっていたにもかかわらず、レコードにだけは検閲がなかった。図書には出版法を適用すればすんだが、レコードは取り締まるための法律も整備されていなかったのである。昭和初期、エロ歌謡の時代が花開いたのも、じつはレコード検閲が存在しない野放し状態が生んだ徒花だったのである。(略)
 とりあえず過激なエロ物件や左翼思想が顕著なレコードは、既存の法令を適用して取り締まった。(略)これらの法令はレコードのプレスを停めることはできないが、さしあたり公開の場での演奏は取り締まることができたわけである。
(略)
[1933年]ツルレコードが十月新譜で発売した描写劇〈五・一五事件 血涙の法廷(海軍公判)〉と〈昭和維新行進曲 海軍の歌/陸軍の歌〉を含む計三枚が発売禁止となった。(略)
筒井二郎が注目したのは海軍における軍法会議であった。(略)
海軍公判のレコードドラマ化に憲兵隊は難色を示したが、筒井が日参して「これはふざけたレコードではない。蹶起グループの真意を国民に問う企画だ」と説き伏せ、その熱意にほだされた憲兵隊が公判資料一式を提供したと伝えられている。(略)[「悲愴」「運命」]のさわりをBGMに使って、無味乾燥になりがちな裁判スケッチをドラマティックに盛りあげている。筒井がこのような企画を思いつくほど世論も五・一五事件の実行者である海軍青年将校や陸軍士官候補生らに同情的だったのだが、商品となると話は別である。これを奇貨とした内務省は「テロの表立った賛美である」として、摘発の対象としたのであった。
(略)
 これをきっかけとしてレコード検閲はぐいぐいと法制化に進行。(略)
レコード検閲がはじまると、エロ歌謡が続々と摘発された。1934年の段階でエロ歌謡は古賀メロディーや軍歌に圧されて下火になっていたが(略)[全盛時のレコードが]さかんに廉価盤で再発されて、夜店などで売りさばかれていたのである。
(略)
検閲がはじまった当初は検閲官も取り締まりの線引きに苦慮したのか、問題点を挙げながらも「不問に付す」という案件が多かった。その処分もメーカーヘの自粛要請にとどめる案件が多く、手探りで検閲基準を構築していったさまがうかがわれる。製作停止という処分も、再プレスを禁じる以上の効力はなく、すでに販売してしまったレコードに関しては不問であった。過去に発売されたレコードの取り締まり(公衆前での演奏禁止)も、実際にどの程度の効力があったのか疑問だ。
 レコード検閲がはじまって最初の発売禁止レコードが出現するのは、改正出版法が施行されてから五ヵ月が経過した1935年1月のことであった。それは漫才〈お客本位〉で、靖国神社をめぐるやりとりがふざけすぎているという理由で発禁に処せられた。
 レコード検閲室は新譜レコード以外に過去のレコードも聴かねばならなかったから、検閲も雑にならざるをえなかったがそれでも徐々に能率が上がり、旧譜には治安警察法を適用した製造停止を、新譜は図書と同様に安寧(国体の嘲弄、思想関連)と風俗(エロ)の二本立てで検閲をおこないながら、監視の目を厳しくしていった。

渡邉はま子〈忘れちゃいやョ〉

 甘い歌詞は昭和初期のエロ歌謡とさして変わらないが、あの刹那的・即物的なエロ歌謡とは決定的に異なる点がある。
 渡邉はま子は〽こんな気持で いるわたし ねえ 忘れちゃいやョ 忘れないでネ のフレーズを、鼻にかかった甘い声音で歌ったのだ。その歌いぶりには従来にないウェットな表現であった。このとき、初めてエロ歌謡に実感がともなったという言いかたもできるだろう。いま現在、〈忘れちゃいやョ〉を聴いても、そこに過剰な色気を感じることはないだろう。しかし一部の歌手を除いて感情表現の抑制された戦前流行歌においては、まとわりつくような甘え声の「ねェ」は画期的な表現だったのである。
 このレコードは一、二ヵ月のあいだに関西方面から流行し、六月までに十万枚を売り上げた。(略)
[内務省の店頭演奏自粛要請が出た程度だったが、アサヒが“パクリ盤”を出して警視庁の態度が硬化]
検察当局は即刻アサヒ盤を発禁にし、あおりを食って本家〈忘れちゃいやョ〉も愛知県内で接客業者が演奏することを禁止された。
 アサヒに続いて、テイチクほか他社も甘い声で囁きかけるような類似レコードでヒットのおこぼれにあずかろうとした。ジャーナリズムでは一連の〈忘れちゃいやョ〉式流行歌を“ねェ小唄”と呼んでもてはやしたが、内務省警保局はカンカンだ。(略)類似レコードはすべて発売禁止あるいは製作停止(発売直後の処分なので事実上の発売禁止)に追いやられた。オリジナルの〈忘れちゃいやョ〉も6月25日になって治安警察法が適用され、日本全国で街頭演奏禁止になっただけでなく、販売店に出荷されたレコードも急ぎ回収された。
(略)
 一方、他社も一連のレコード発禁・製作停止をものともせず、類似の甘美なエロ歌謡を陸続と発売した。おかしなことにレコード検閲は厳しさを増しているというのに“ねェ小唄”ブームは年をまたいで翌1937年になっても続いた。タイヘイレコードのごときは「ネエー小唄コンクール」を開催して、その一等当選歌〈“貴方”来るまで〉を盛大に売り出した。
(略)
大量のレコードを毎日聴きつづけるレコード検閲官にとって、歌詞の内容まで踏みこんで吟味することは事実上、不可能に近かったにちがいない。
 その点、歌いぶりで検閲できる“ねェ小唄”は効率的だった。「当局では今後歌詞は差し支えなくともエロな声を出すレコードはどしどし発禁するといつてゐる」(『読売新聞』)という宣言どおり、この種の甘い声色のレコードは1937年になってから続々と発禁になった。
 レコード会社も黙って発禁を受け入れていたばかりではない。(略)
[二葉あき子の〈だまってゝね〉が発売禁止に]
コロムビア側もそれを見越していたのか、月報に「右レコードは都合により発売を中止することゝなりましたからご諒承願ひます」という紙片を挟みこんで煽り、翌七月新譜でさっそく改訂盤〈だまってゝね〉を発売した。初めから発禁を見越して改訂盤を作っていたのである。こうなると狐と狸の化かしあいだ。発禁を逆手に取って改訂版で売り上げを伸ばす手法は図書ではしばしばあったが、レコード商法にもその影響があらわれた例である。

内閲方式

 エロ摘発の風俗部門でなく、これが治安維持の安寧部門となると厳しさも格段にちがってくる。
(略)二・二六事件を取り扱った〈弔殉職五警官挽弐人天野少佐告兵詩〉は、同年三月に吹込者とメーカーから「こういうものを出しても太丈夫か」と自発的に照会があった。警保局と戒厳司令部が考査した結果「其ノ内容相当刺戟的ナルモノアリ(中略)時局全ク安定ニ到ル迄発行留保」と回答したのだが、レコード会社側では時事的なニュース物件として売りたかったのか五月にフライング的に発売し、即刻販売禁止となった。(略)
映画説明〈空襲送葬曲〉は日米開戦をテーマとしたSF戦記物で(略)[1932年リリースの]再プレスなのだが、きわめて厳重な処置を取られた。(略)演出がタイミング的に“不謹慎”であった。(略)
只今より陸軍警備司令の手に移る事になりましたのでプログラム全部の中止を致します(略)
 という台詞が二・二六事件当時のラジオ放送「兵二告グ」を彷彿とさせるとして問題になったのである。それだけでなく帝国海軍の作戦行動や軍艦の航続距離を写実的に描き、しかもストーリーの最後に「日本帝国ノ壊滅ヲ思ハシムル筋」もあったため検閲官の逆鱗に触れ、シスターが発行した五十組百枚のレコードがすべて押収された。(略)
1936年にはレコード検閲は内閲方式に移り変わっていた。これは内務省警保局とレコード会社のあいだで懇談をもって、レコード会社側である程度危険なレコード企画をスポイルして検閲に臨む、いわば事前検閲システムである。
 内閲はレコード検閲にかかる人数や時間の乏しい検閲官にとっても都合のよい方式だった。レコード会社は、ときどきポカはするものの、やがて内務省の意向を受けた無難なレコード制作をするようになるだろう、という自粛ムードの形成である。

国家総動員

[支那事変勃発]
 戦時の懸賞募集歌はレコード産業とタイアップの形で軍歌ブームをさらに盛り上げてゆく。九月にはまだ「浮気ものゝ流行歌は時局の風雲急なる時にこの波に乗らうといふよりも、慌てふためいて、埓もなく我鳴つてゐるといつた調子である。(中略)九月の新譜には非常時局の影響は比較的に尠い」(『レコード音楽』)と言っていたのが、十月には「ネ
エ小唄もハア小唄も何れも物の美事にケシ飛んでしまひ、流行歌は急激に九十度ばかりの方向転換を余儀なくされた」という変わり身の早さである。
(略)
内務省警保局も8月31日にレコード製作業者および関連する有力者と懇談をもって、挙国一致をレコード界に徹底することが決まった。これにともなって検閲も戦時体制を取ることとなった。(略)
“ねェ小唄”の自発的原盤破棄が指導された。

アイドル

 エロ歌謡がカタログから一掃されたあとには平井英子や轟夕起子、若原春江などハイティーンのアイドルが歌う、健全な流行歌が爽やかな風を吹かせた。(略)
大正末期から昭和初期に(略)国民的な人気者だった童謡歌手の平井英子は昭和十年代にはハイティーンに育っており、大人向けの流行歌を歌うようになっていた。(略)
[平井英子の〈あたし大人〉1937年]
〽世間の人は あたしのことを うん〜ん
 まだちっちゃい 子供と言うけれど ん〜ん〜〜ん
 あたしはこれでも 素敵な大人 アハハ!
 恋も情けも 知ってるわよ
 ご覧なさい この目は
 あなた愛しと 潤んでるの
 ネエ、これでもベビーなの?
 それってあんまりひどいわ アハッ!
 あたし大人
 題名どおりの“あたし大人”な背伸びっぷりが清純さを引き立てているが、この中高生のようなキャピキャピしたキャラがあんがい当時の流行歌手にはなかった。それまで大人の世界だったレコード流行歌にハイティーンの青っぽい要素をもちこんだかたちで、平井英子は二度目のブレイクを迎えることとなったのである。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com