喪男・フーリエ・愛の新世界

前日のつづき。
20代の姪に翻弄された喪男が放つ『愛の新世界』とは

シャルル・フーリエ伝―幻視者とその世界

シャルル・フーリエ伝―幻視者とその世界

多婚でオープンに。
ニガw部分をデカ字にしてみた。

愛の新世界では愛のいとなみは通常昼間行われる。またたいていの場合共同体の活動でもあり、手早く成就される。人々が夜部屋へ退散するのはまず眠るためでしかなく、通例眠るときは独りである。(略)単婚者の徒党を除けば、調和の性的活動の一切は屋外で行われるという。「多婚愛の諸階級では、一切隠すところのありえないように」されるのだ。
 フーリエが性的活動の開放性を強調した理由は、これによって文明にあれほどはびこっているセックスに関する偽善に終わりが告げられるというものだった。調和では、「今日見受けられるような、恋愛に繊細な神経のゆき届かない者が感傷愛の使徒を詐称するといった真似はなくなる
(略)
 したがってフーリエの愛の新世界の構想は、ルソーの夢想の具体化であり、ある意味ではそのカリカチュアである。人々が相互に「透明」で、直接的、自発的に関係を結び、策略や欺隔が絡まない社会。

いちゃつくカップルへの怨念

利己的で自己本位の恋愛には揶揄たっぷりだった。「会合という会合で日がな一日いちゃいちゃし合っている二人の若い恋人たちは、誰に何を言われようが、愛撫をやめないのである」。フーリエはこうした振舞いには「慎みが欠けている」と考え、調和社会から追放しようと万策を尽くした。
(略)
 調和人の多婚的愛戯の称賛、その開放性・透明性の強調のうちには、フーリエの愛の新世界の底流に流れる暗い色調があるように見える。(略)
フーリエは数節を費やして、朝ベッドに横になって愛を確かめる若い既婚カップルヘの憂さを晴らしている。彼の教えるところでは、調和社会ではこのようなカップルは朝四時にベッドからたたき出されるか、そうでなければ「その家庭的美徳によって、嘲笑の的になる」。(略)
地球を回る「天空鏡」が発明され、二人きりで森や野原に隠れようとする恋人たちを見つけ出すことができるようになると予言している。
(略)
開放性の強調や、覗き見的な懲罰の空想、単婚カップルが「慎みなく」その姿をさらけ出すことへの怒りは、何かしら示唆的である。(略)単婚制攻撃の向かう先は、抑圧的制度だけでなく、カップルを結合させうる強い情動的絆でもあったようだ。フーリエのエロスのユートピアは、表面的には放蕩者的であるとはいえ、まさしく彼には生涯手に入らなかったその種の情念――他者への焼き尽くすほどの絆――を根こぎにしようという欲望を表しているようである。

トンデモ喪男扱いばかりではなんなのでちょっといい話?

 リュビーヌの回想によれば、父の死後シャルル少年は自分の部屋を与えられた。彼は一つしかない部屋の鍵をもち歩き、許可なしには誰にも入室を許さなかった。部屋は少年だけの聖域になり、そこでなら誰に気兼ねもなしに地図を見つめられ、ヴァイオリンを練習できた。ところでさまざまな孤独な興味のなかで彼がいちばん情熱を注いでいたのは、花々を愛することだった。彼は部屋を鉢植えの花でいっぱいにし、種類や色を慎重にえらんで飾り立てた。秩序への情熱は植木鉢にまで延長され、色、大きさ、形ごとに花々がひとまとめに集められた。
(略)
ドアから窓へ延びる細長い通路を除けば、部屋の全体が豊かに盛りあげられた土壌で覆われ、花々は文字通り床から生えてきていた。「真ん中の細道しか通路はなく、両側は美しい花々が、ゲッカコウやチューリップなどが床一面を飾っていました。

 旅行者としてフーリエはいつも数え収集し分類していた。出張のときメートル尺をもち歩き、目を惹いたものならどんな建物でも、モニュメントでも寸法を側った。弟子たちによれば、彼は老いて後も、記憶からこうした寸法を精確に述べ、出張販売員をしていた年月に訪れたほとんどの街の人口とか地勢とか気候についてこと細かに説明することができた。

経済的観点から女性解放

 フーリエの女性擁護論は、その思想の諸側面のうちで、彼が名を挙げるもとになったものの一つであり、今日でもこれはよく知られている。(略)「女性問題」についての彼の論述はフロラ・トリスタンその他数多くのフランスの先駆的フェミニストたちによって大絶賛された。また彼の弟子たちも1830-40年代の社会主義運動内部に女性解放論を広めるために大いに努力した。とはいえ、ある相違があったのは強調しておくべきである。1840年代の社会主義者たちが採った立場(女性の解放を博愛主義的道徳的基盤から諭じた)とは違って、フーリエの議論の主要点は功利主義的なものだった。彼によれば女性の奴隷状態は社会総体に被害を及ぼす「大失態」なのであり、その結果とりわけ経済領域では際立って、社会の発展が遅らされているのだ。

対抗倉庫

 自分の経験と観察を考えてみればフーリエには、商売で成功しようと望む限り、誠実を旨とするのは得策でないのは明らかだった。商品を不当表示し買い手を欺く商人のほうが、誠実に取引しようとする商人よりもはるかに成功しやすいのだ。(略)
すべての商人にあたかも誠実と徳への愛がその最も基本的な衝動であるかのように行為させる、「保障あるいは一般的保護の方策」
(略)
こうした計画のうちには、商人の全体を一群の保険会社に組織するという提案もあった。この保険会社は「交換と分配を行ってもらうために彼らに社会から依託された生産物に対して集合的に責任を負う」。商業組合を設立することを通して、商人の数を減らし、商業活動を規制しようという特認制度もさまざまに計画されていた。この場合、商業組合のメンバーは年毎に高くなる特認料の納付を義務づけられ、さもなければ「農工業など生産的事業」に鞍替えしなければならない。フーリエは協同倉庫網結成の計画まで作っていた。財をこの内部で流通し価値評価させることによって、小売商人をはじめとする仲買人の所有に帰することはけっしてないようにしようというもので、彼はこれを対抗倉庫と名づけた。最後に挙げた計画はとどのつまり商人を完全に排除することになるものであり、この計画を通してフーリエは、やがて「商業の害悪」と呼ぶことになるものを解決するにはアソシアシオンの原理を適用するしかないと思い定めるようになったのではないか。

では最後に1829年『産業の新世界』の広告文で苦笑いしてサヨウナラ

産業の実質生産の即時四倍化。酷税、塩・煙草・籤等の間接税の廃止。国庫の全負債の近日中の消滅。今日の祝典・舞踏会・宴会・見世物を凌ぐほどの、生産的労働の誘引化・密謀化。黒人と奴隷の無賠償解放の実施。封建制ギリシアその他の農奴制、海賊行為、海上その他の独占の失墜。熟達した知識人・文学者・芸術家・教育者のすべての即時の莫大な富の取得。夢だ、幻だと、諸君は言うだろう。断じて、この著作こそは、新しい、きわめて体系的な学問なのだ。