ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影

 変態

[梅原北明(1901〜46)は左翼文芸誌を出すも売れず、1926年、資金稼ぎにお色気路線へ]
シリーズ本『変態十二史』と機関誌『変態・資科』を発刊したら、これが大成功。いまでも現役の“変態”という言葉はまさにこのときから日本に定着したのであった。親雑誌『文藝市場』も内容をエロティシズム一色にすると、待ってましたとばかりに大あたりした。(略)
しかし、艶本と発禁は紙一重。『文藝市場』が度重なる押収と発禁で廃刊に追い込まれると北明は事務所を上海に移転したように偽装し、後継誌『カーマシャストラ』を発刊する。これも北明自身が投獄されて“ポシャる”と、仮釈放後めげずに後継誌『グロテスク』を創刊して、警察当局との丁々発止を演じたのであった。

エロが跋扈した昭和初期

出版界や新聞紙面のエロの跋扈は、厳しい思想弾圧によって国民に不満や圧政感が溜まらないようにするためのガス抜きではないか、との観測は昭和初期の当時からあった。芥川龍之介の謂う「ぼんやりした不安」を裏返しにした刹那的な享楽主義を軍縮とリベラル思想が後押しして、暗黒時代などとは言いきれないどころか戦前期を通じて軽佻浮薄をきわめたのが昭和初期なのである。
 無責任にもほどがあるエロとジャズとゴシップの垂れ流し状態で誰にも手がつけられない。新聞・雑誌も公共放送のラジオでさえもあわよくば享楽的な方向に流れよう流れようという時代だったのは、まぎれもない事実だった。
 主義や思想に敏感な学生を息子にもつ親もまた「テロよりはエロ」「赤色に染まるなら桃色のほうがマシ」などと言い出す始末であった。暗い世相を背景に、必要以上にクローズアップされた“エロ”という概念があらゆる分野に浸透する……。それが昭和初期という時代だったのである。

雑誌『FRONT』

 1936年ごろには、欧米の輸入雑貨を扱う五車貿易が通販カタログを兼ねた雑誌『FRONT』を刊行していた。(略)
カタログ雑誌とはいっても洋画の新作やレヴューの紹介、アメリカカレッヂ便り、ヤンキー女学生の生態、アメリカのファッションや流行品の紹介、東京の人気喫茶店の喫茶ガール紹介、ジャズレコードの新譜案内、ラブ・アフェアーに富んだ海外紀行文、コント漫画、とその内容は豊富で、かつ明らかにターゲットを大学生に紋った構成が探られている。
 シーズンごとに「クリスマス号」「四月馬鹿号」など特集が組まれ、香水や煙草の吸いかた、会話などのモダン・エチケット講座、男の子のおしゃれ第一歩、リングのサイズの測りかた、海外のペンフレンド募集コーナー、英文の恋文名訳懸賞募集、読者文芸欄など(略)
 五車貿易が輸入していたのはアメリカの諸大学のペナントやカレッジリング、カレッジソング歌集、TPOに合わせた香水セット、スナップライター、男性向け美容器具(バイブレーター)、接吻カード、クリスマス・カード、ハリウッドスターの住所簿、撮影所のバッジ
(略)
▼我等の『フロント』ブラボウ!フロントの前途に祝福あれ!と、祈ると共に、お願ひね。情熱に燃上るスゲエところの「接吻カード」至急御送り下さいね。(京城 能勢静子)

モダンガール

[1923年雑誌上で使われ、1926年清沢洌が『モダンガール』上梓、そのころに定着]
清沢はアメリカ留学で現地のモダンガールをつぶさに見聞してきており(略)
 モダンガールは洋装で、多くの場合ボブカットの断髪にしていた。そのため「毛断ガール」と表記されることもあった。昭和期のモダン語辞典では、発展家でパトロンをもっているモダンガールが多いイメージから「もう旦那がある」とこじつけられることもあった。(略)
殊にモダン・ガールに対しては「毛断蛙」「毛断嬢」「もう旦那がある」等々云われてゐる。(『モダン用語辞典』)

モガ・淡谷のり子

SOS、ドライヴ、ラブホ

デビューしたての昭和初期には浅草電気館の「パラマウント・ショー」で映画主題歌を歌ったり、榎本健一二村定一の劇団「ピエル・ブリヤント」のレブューに出演したり、と庶民にもっとも近いところで歌っていた。したがって流行にも敏感で、新しい時代の女性を歌うと、モダンガールの衿特と共感がにじみ出たのである。
 彼女は歌手デビューして間もなく、水町昌子という変名を用いてそのようなモガ・ソングをいくつも吹きこんでいる。矢継ぎ早に作られる流行小唄をどんどん吹きこめる実用的な歌手はまだ少なく、淡谷のり子は即戦力として重用された。
(略)
 〈S・O・S〉
さあさ行きましょ ドライヴしましょ
ルームライトもフッと消して
などと可愛いの S・O・Sよ
(略)
リフレインにテナーサックスで港の汽笛が表現されているのは海難信号のS・O・Sのつもりだろうか。
 昭和初期、流行作家の牧逸馬林不忘)が『世界怪奇実話全集』の一話としてタイタニック号の沈没事件を描いた「運命のSOS」によってこの国際信号はちょっとしたブームとなっており、〈恋のSOS〉などのようにラブソングの記号としても機能していた。(略)
このドライブでめざす「郊外」というのが、驚くなかれ現在の新宿のことなのである。
 関東大震災の被害を直接受けなかったことで、被害の大きかった都心からの移住者が増え、人口が増加した新宿。(略)まさにモダン都市になろうとしつつあったのだが、その一面、旧甲州街道沿いの二丁目、三丁目あたりは遊郭地帯が残り、三越百貨店裏にはエロを売り物にするカフェーが新興勢力として擡頭していた。旧来の遊郭も負けてはおらず、1930年にはダンスホールをそなえた辰村楼、八幡楼、蓬莱楼などのモダン妓楼があらわれる。モダン妓楼は遊びかたもスマートで、ちょんの間から泊まりまでチケット制。娼妓も洋髪洋装にハイカラな源氏名という、ダンサーにかぎりなく近い様相を呈していた。
 エロカフェーやモダン妓楼からこぼれ出たカップルをくわえこむ「円宿ホテル」も雨後のタケノコのように出現していた。(略)[円タク円本]同様に一円均一で泊まれる連れこみ宿をいう(ただし一人一円なのでカップルだと二円)。(略)いまも昔も新宿は恋愛にアグレッシブな街だったといえよう。
 新宿を含め、東京府下で237軒を数えた連れこみ宿は「円宿ホテル」という新味のあるネーミングと、「牛乳風呂」「レモン風呂」などの奇抜なサービスで利用者を増やしていた。
(略)
ホテルと云っても宿る人は十人に一人、一時間位で帰る客が多いさうだ」(『モダン語漫画辞典』)という、まさに現代のラブホテルそのままの代物で、「夜の郊外ドライヴしましょ」がホテルヘの誘い言葉になっていたことが、これらの歌詞からうかがえる。

ウルトラ・モダン、尖端ガール

 新しい女性の象徴であった“モダンガール”も、流行とともに流れ去る。そもそも“モダン”という言葉自体がモダンではなくなりつつあったのだ。
 1930年7月22日にはすでにモダンのさらに上をいく“ウルトラ・モダン”が『読売新聞』の「モダン語消化欄」に登場している。「モダン中のモダン」、「超モダンの意」(略)
 分派的には“ウルトラ・モガ”という用例があるほか、『読売新聞』に連載された中村正常の「ウルトラ女学生読本」(全十回)がムーラン・ルージュ新宿座の初開場でレヴュー化(略)レコード流行歌では〈ウルトラモダーン〉や〈ウルトラガール〉がある。また、歌詞のなかにあらわれる例としては、
好みはエロティックで ウルトラ・モダニズム――〈恋人〉
ウルトラ・モダンのミス・シブヤ――〈渋谷行進曲〉
レヴューガールは ウルトラモダン ジャズのパレードグロテスク――〈エロ行進曲〉
祈るウルトラモダンな願い 梅にゃキッスの月が出る――〈松島エロソング〉
三一年型ウルトラ・モダン 尖端ゆけ青空をゆけ――〈ノンノンシャラリン〉
(略)
 1930年、モダンガールは女性の社会進出にともなって、流行や現象を冠した“〜ガール”へと多岐的に進化した。
 たとえば“尖端ガール”だ。
 “尖端”という言葉を使いはじめたのは画家・演劇人の小生夢坊で、彼の発表文をまとめた随筆集『尖端をゆくもの』が出版された1930年3月にはすでに流行のきざしがあった(略)
 しかし“尖端”が注目を浴びる直接のきっかけとなったのは(略)川端康成が『東京朝日新聞』に連載していた「浅草紅團」であった。娯楽と背徳の街・浅草への注目をがぜん高めたこの連載(略)第31回に「『せん端的だわね。』といふ、すさまじい小うた映画を、松竹蒲田で作るさうな」というかたちで“尖端的”という言葉が登場したときに始まるのである。(略)
〈尖端的だわね〉(作詞・作曲松竹蒲田音楽部)
見てもわからぬ舶来トーキーわかる顔して見るつらさ
なまじ断髪洋装の手前
隣りの外人をちょいと真似てお茶を濁した苦笑ひ
オヤ尖端的だわね
オヤ尖端的だわね
(略)
「『尖端的』とはアメリカ風のモダン味とロシア風の左翼味である」という新居格の総括にもっとも近いのが、この〈尖端小唄〉といえる。(略)「恋のストック山ほど積んで 実費特売ローマンス」で自由恋愛の風潮を、「好いて別れて三分二秒 愛の合理化 無駄嫌い」で刹那的な恋愛を、「恋の共産 情のギルド おっと危ない綱渡り」でマルクス主義を、と1930年の“尖端”をきれいに掬い取っている。

ステッキガール、キッスガール

“ストリートガール”はズバリ街娼そのものだ。この外来語は1928年に日本に伝わったが、それほど流行らず(略)[そこから派生した“ステッキガール”は]なにがしかの金銭で片腕を貸して銀ブラにつきあう女性(略)
[これはネタではないかと問題視されたが、嘘から出たまこと、大阪で実際に出現。ハート食堂の女給6名と経営者が検挙]
 ハート食堂では「夏の夜の散歩にステッキ?すばらしい美人を御同伴ください」など客の興味をそそる大広告ビラを貼り出して、一時間五円でステッキガールを派出していた。一時間五円は銀座のステッキガールの五十銭のなんと十倍にもなる破格な金額であるから、ステッキガールは世を欺く仮の姿でその実、春を鬻ぐ値段だったのかもしれない。
(略)
 ステッキガールが非実在ならばキッスガールも妄想の賜かと思いきや、こちらはほんとうにいたからややこしい。キッスガールは文字どおりキスを売る娘である。プロの街娼ではなく洗練されたモダンガール風体で、引っかけやすそうな男にチラと目配せして公園や映画館の暗がりで唇を提供する。ソフトな援助交際といったところだろうか。その第一号が1930年6月14日、横浜で捕まっている。
 【キツスガール 一回五十銭、口には消毒ガーゼ 「ハマ」の公園に店開き】
 横浜市野毛山公園噴水他のほとりのベンチに美装した二十歳位の令嬢風の美人がモボと相抱擁して盛にキッスをして居る、とその最中へ樹蔭にかくれてゐた戸部署の風俗係が躍り出で驚く二人を戸部署へ引致した、女は東京市外渋谷山下町九 坪内きよ子(二三)と自称し持つてゐたオペラバツグの中には石鹸や消毒用のガーゼが詰め込んであり男は中区根岸町某貿易商の息子で(略)

円タクガール

“円タクガール”は、往来でエロ味たっぷりなウインクを送ってタクシーにいっしょに乗り込み(あるいは助手席から通行人に流し目を送って車に誘いこみ)、ある程度走行したところで自分だけ降りてしまうという新商売である。もちろん円タク運転手と結託しているのだ。

骸骨団、『バッド・ガール』

[牧逸馬が「君、ボク」と男言葉で訳した『バッド・ガール』]
「キミ、ボク」という男言葉の流行は、松竹少女歌劇団の大スター・水の江滝子が起源である。ターキーは1931年6月公演《先生様はお人好し》で断髪・男装を披露し、翌月公演《メリ・ゴランド》で「ボク」を連発して男らしいセリフを喋りまくった。それから少女歌劇ファンを中心に広がった流行である。この流行は女学生の世界では特別な意味をもっていた。下級生が上級生を慕う、あるいは同級生どうしが恋情を募らせる、いわゆるエスの関係と強く結びついていたのである。
(略)
不良少年団は多くカフェーを根城として小悪事をはたらき、時にはピストルをぶっ放して他の不良少年団と抗争したりなどして、しばしば新聞紙面を賑わせた。大正末期に大阪のバー・カフェーに出没していた「骸骨団」はチームソングまで作って団結ぶりを社会に示している。
 不良少女のほうも負けてはいない。実在する不良少女で実弾を使用した例では、新宿界隈の喫茶店でブローニングをぶっ放してチンピラどもを縮み上がらせた“ガルボのお政”が挙げられる。また、1930年の浅草には16歳の丸山マツ、通称“坊ちゃん”が率いるグループがあった。彼女は配下の不艮少年たちを引き連れて夜中の12時くらいから浅草を徘徊し、ゆすりたかりをくりかえしていた。この断髪の美少女マツは懐に拳銃を忍ばせていたというから、舞台となった街こそ違えど、まさに「銀座のバッド・ガール」的存在であった。フラッパーからの脱皮を描いた、いささかタイトル倒れな小説『バッド・ガール』は、アメリカを遠く離れた日本でさらに勝手に成長する。タイヘイレコードはすぐこの流行に飛びつき(略)ジャズソング〈バットガール〉を発売した。不良のフラッパーを二村定一が女性の声色で歌っているという性倒錯を匂わせるこのレコードは、二村が女性嫌いのゲイだという背景を知って聴くと味わいもひとしおだ。

エロ歌謡第一号

記念すべきエロ歌謡第一号は、その名も〈エロの唄〉[1930年](略)機をみるに敏な関西のレーベル、ニットーだった。しかし地方レーベルの悲しさで全国ヒットにはいたらず、エロではじめて人心をつかんだのは、日活映画-ビクターという大資本のタイアップ企画であった。それは《エロ感時代の歌》。あたかもロマンポルノを思わせるタイトルの日活映画《むすめ尖端エロ感時代 第一篇 私の命は指先よ》の主題歌である。(略)
“モガ”“尖端”“〜ガール”という、それまでにレコード界に提示された流行の要素がもれなく含まれている。

次回に続く。