米有名作家58歳が16歳女子高生の処女を

 

前日のつづき。
年末だし扇情的なタイトルにしてみたゼエw。

イーストマン夫人とドライサー

 社会評論家マックス・イーストマン夫人だったイヴェット・セーケイ・イーストマンは、十六年間に及ぶセオドア・ドライサーとの交際をつづったメモワールを1995年に出版している。(略)1929年、十六歳の女子高生だった彼女は、五十八歳の有名作家ドライサーに紹介され、ほどなくして援助交際とでも呼ぶべき極めて親密な関係(彼と会うために借りた部屋の家賃を負担してもらっている)を彼と結ぶことになった。
(略)
[ドライサー家のパーティーで]
ドライサーは「これをしまっておいて、ひとりきりのときに読みたまえ」と言いながら、小さく折った紙片をそっと手渡して、すたすたと立ち去ってしまった。
(略)
その紙片には「火曜日の五時、五十七丁目のシュラフトの店で、ふたりだけでお茶をしよう」と書かれていた。
(略)
[お茶の後、場末の映画館で触られ]
「私が欲しいのはロマンスと詩と称賛とサポートであって、体の愛撫ではない――彼からの愛撫でもないし、いま愛撫されることでもない」と感じた

寝室へのプレッシャーは日々高まり、とうとう別荘で

「暖炉の前の揺り椅子に腰を下ろして、私を膝に抱き上げ、何も言わずに、私を抱いたまま椅子をゆすっていた」が、やがて二階の寝室ヘイヴェットをいざなった彼が最初にしたことは、ニューヨークから携えてきた医者の往診鞄のような黒いレザー製の鞄から、ゴム製のシートを取り出して、それをベッドの上に広げることだった。(略)「おお、僕らが必要とするものさ。ゴム製のシートにリゾール液が少々」
(略)
ピストン運動で私の内なる粘膜が破れて、短い激痛が走った後、『オー・マイ・ゴッド、オー・マイ・ゴッド、オー・マイ・ゴッド』という長いうめき声が聞こえてきた。この声に私はおびえ、驚いた」
(略)
TD[ドライサーのこと]が下手な冗談でも言うような口調で『子豚みたいに血が出ているよ』と言うのを耳にした。見ると血が流れていた」
(略)
ついでながら、1917年11月14日の日記にドライサーは「私の生涯において、処女を犯したことは一度もないということを、ここに記録しておきたい」と書いているので、この発言を信じるとすれば、それから十三年ばかり後のイヴェットとの関係はその最初のケースということになるかもしれない。
 行為が終わった後、ドライサーはイヴェットの先に立ってバスルームヘ行き、例の黒い鞄から膣洗浄器とリゾール液の瓶を取り出すと、「ゴム袋に水と適量のリゾール液を満たしてから、私に便座に座るように言った。まるまると太った大きな裸の赤ん坊みたいな彼は、ふくれあがった赤いゴム袋を思い切り腕を伸ばして捧げ持つ格好で、私の前に立ちはだかると、先端にノズルのついたチューブを差し出して、どこにそれを差し込めばいいかを教えてくれた。行為が終わって、すっかりうれしくなっていた私は、洗浄液が私の体のなかを洗っている間、彼を仰ぎ見るようにして笑いかけながら、『松明を掲げている自由の女神みたい』と言った」
(略)
リゾール液による洗浄は、避妊用のピルが開発されるまでは、性交直後の最も効果的な避妊手段と考えられていた。この章の冒頭で触れたように、不特定多数の女性と交わったドライサーが相手を妊娠させることがなかったのは、彼が「生殖不能者」だったからだろう、というのがメンケンの診断だったが、イヴェットの回想記はドライサーが意外に慎重で用心深いプレイボーイだったことを証明しているのではないか。
[二人の関係は15年後ドライサーが他界するまで続いた]

デューイの不倫

 約束の地アメリカで、肉体労働を余儀なくされていたイージアスカは、ユダヤの伝統にこだわる父親に反発して実家を飛び出し、働く女性のためのホームで暮らしているうちに、コロンビア大学奨学金を得て教育学部で学び、1904年に卒業して教職に就く。だが、作家になるという野心を捨てきれない彼女は、家庭科の教師の仕事を数年で辞め、二度目の結婚で産まれた幼い娘ルイーズの養育を夫に押しつけたまま、1917年のある日、母校の教育学部長の研究室へアポもとらずに押し掛ける。将来に関する助言を求めるためだったが、そのときの学部長がほかならぬジョン・デューイ教授だった。デューイは58歳、イージアスカは35歳前後

イージアスカ『私がなれなかったすべて』のスコット教授の手紙はデューイの文章から借用したもの

「君は世界の美しさを雄弁に語ることができるのに、うまく話すことができないと言う。うまく話すことができないのは僕だ。話し方を学ばなかったからだ。その能力を備えて生まれてきただろうけれど、それを封印してしまっている。それに対して、君は透明だ。世界そのものの理解と愛情が君をすり抜けて光っている」

『私〜』の18年後に書かれた『白い馬の赤いリボン』では

「僕の人生は人生からの逃避だった。僕は感情の代わりに理性を使い、安全な抽象概念の殼の背後に隠れていた。いまの僕の感じていることを君に伝えたくても、感じることに対する恐怖に抑圧されているために、うまく話すことができない――言葉を外に出すことができないのだ」

デューイの詩

コロンビア大学司書ミルトン・トマスは毎日デューイ研究所のゴミ箱を漁り掘り出し物を図書館に保存していた。

 ゴミ箱から拾い集められたデューイの詩が彼自身の作であることを確定するために、[『ジョン・デューイ詩集』の]編者ボイドストンはデューイの筆跡はもちろんのこと、彼が使った活字の異なる六台のタイプライターの印字を照合したり、加筆訂正のプロセスを検討したりするなど徹底した校訂作業を行い、その結果を長文の序論、個々の詩に関する詳細な解説という形で公表している。その準備段階で、デューイが主宰した[プロジェクトに参加していたイージアスカの自伝的作品を読み漁るうちに、一部の関係者以外知らないデューイの詩が引用されていることに気付き、二人が特別な関係にあったと考えた]

 だが、フィラデルフィア・プロジェクトが終わって、ふたりの関係に終止符が打たれた後、デューイはイージアスカを一切無視するようになる。出版されたばかりの『飢えた心』を中国で講演旅行中の彼に送ったが、何の返事もなかったと言われている。こうした彼の心変わりに反発(略)
[『ブックマン』で『民主主義と教育』の書評を書き]
「その大いなる社会的ヴィジョンにもかかわらず、デューイ教授が彼自身の心のなかの感情を窒息させた結果、頭ではなく心で考える一般大衆に訴える彼の内なる力を抹殺してしまったということはあり得るだろうか」と問いかけ、「彼は頭のはるかな高みで考えているので、彼の螺旋状に展開する考え方を理解できるのは、少数の知的な人間だけに限られている」と結論している。(略)
『約束の地の恋――アンジア・イージアスカとジョン・デューイ』の著者メアリー・ディアボーンによると、このボイドストンによる労作はデューイ学者の注目さえも集めることなく、あっけなく忘れ去られてしまったらしい。「デューイの詩が無視されてきたのは、彼の公的なイメージがそれを受け入れることができないからだろう」とディアボーンは解説している

ボーヴォワールが熱愛したシカゴの恋人、アメリカの作家ネルソン・オルグレン。

 手紙のいたるところで、ボーヴォワールオルグレンを「私の夫」、「私の最愛の夫」「私の最愛の、結婚していない夫」などと呼んでいるが、それはふたりが1947年5月10日にニューヨークのホテルで「結婚」したからだった。この夫という言葉は、彼女がサルトルに宛てて書いた膨大な量の手紙でも、いっさい使われていないことが指摘されている。(略)
[オルグレンが贈った銀の指輪をずっと身につけ、オルグレンの没後]
指輪のことを何も知らない伝記作家ベアーが素敵なジュエリーですねと褒めたのに対して、ボーヴォワールは「それ以上のものなの。これはネルソン・オルグレンがくれた指輪なのよ。いろいろあったけれど、私は一度もはずしたことがないわ。これからもずっと」と答えたと言われている。
[四年後その指輪をしたまま埋葬]

オルグレンへのサルトルと別れられない理由説明

いま以上に私はあなたを愛することも、あなたを欲しがることも、あなたがいなくて寂しく思うこともありません。そのことはあなたも知っているでしょう。でも、こういうと生意気に聞こえるかもしれませんが、どんな風にサルトルが私を必要としているかということも、あなたは知ってくださらなければなりません。じつを言うと、彼はとても孤独で、内面ではとても苦しみ、とても不安定で、私が唯一の真の友人、彼を本当に理解し、彼を助け、彼と働き、彼にいくらかの平穏と落ち着きを与えることができる唯一の人間なのです。二十年ばかりの間、彼は私のためにあらゆることをしてくれました。彼は私が生きるのに、自分を見つけるのに、力を貸してくれました。私のためにいろいろなことを犠牲にしてくれたのです。四、五年前から、私は彼が私にしてくれたことをお返しし、そんなにも私に力を貸してくれた彼に力を貸すことができるようになっています。私は彼を見捨てることができません。多少とも重要な時期に彼から離れることはできますが、ほかの誰かに私の人生のすべてを捧げることできません。このことは二度と話したくありません。あなたを失う恐れがあることは知っています。あなたを失うことが、私にとって何を意味するかも知っています。

サルトルをとってオルグレンとの旅行を早めに切り上げてフランスに戻ったのに、サルトルが愛人ヴァネッティと一ヶ月過ごすことになり、やっぱり会えるかもと、うその口実をしらっと書いちゃうボーヴォワールw。
戯曲の映画台本作成に必要とサルトル言われて戻ったんですけど、それがドタキャンになって、サルトルが悪いからシカゴに行ってもいいよって言ってるんですけどお。
さらにサルトルとの関係を問い詰められ

22歳のときに知り合ったサルトルが、彼女の「最初の恋人」になったが、「彼は性生活にあまり興味がないという理由で」、彼女がサルトルに抱いたのは「愛情というよりはむしろ深い友情だった」ことを強調する。「彼はどこででも熱心で、快活な人だけれど、ベッドではそうではない」ということに気づいた彼女は、「恋人同士でいることは、徐々に不必要に、不謹慎にさえ思われるようになった」ので、八年か十年ぐらい経ったころから、愛し合うことをやめてしまった。その時期に、ボーヴォワールサルトルの教え子で年下のジャック=ローラン・ポストと関係を持つようになったが、「それは情熱も、嫉妬も、虚言もない快適な関係、友情と優しさにあふれた関係だった」ことを認めている。(略)
[その他に人生で三回、男性と一晩だけ過ごしたことがあり、そのうちのひとりがアーサー・ケストラーだと告白]
だが、この告白もまた結局は「私はもう一度あなたに会うまで、どんな男性とも寝ることはできないと分かっています。愛するあなたの手や唇をこんなにも激しく求めているのに、ほかの男性の手や唇に触れたりするのは、耐えられないことです。私はずっと従順で昔かたぎな妻として貞操を守ります」というシカゴの恋人へのメッセージを強調するためだったのだ。
(略)
サルトルとはもちろん、いずれの男性との関係においても性的な満足を得ることができなかったらしい。だが伝記作家ベアーによると、オルグレンと初めてシカゴで結ばれたとき、ボーヴォワールは「最初の完全なオーガズム」を経験し、「男女の愛がこれほどまでに情熱的になれること」を発見したのだった。
(略)
 たしかに、ボーヴォワールオルグレンを愛していることを、どの手紙においても繰り返し強調しているのだが、そのふたりの関係にサルトルの存在がほとんど常に影を落としていることは否定できない。

1954年2月15日には、「あなたを愛したように人を愛することは二度とできないでしょうし、愛することもありません。何かが永遠に終わったのです」と書きながら、[27歳の]ランズマンとの関係に触れて、「私が一緒に暮らしているこの若者(私よりもずっと年下なのです)」は、「ほかの何よりも母親の優しさを求めてくる」ので、「恋人というよりは近親相姦の息子のようです」と説明し、「彼自身の頑固なまでの愛情と誠実、それに私に身を委ねてくる姿勢によって――子どもっぽくはないのですが、まるで子どものように身を委ねてくるので――私の心を奪いました」と「新しい恋愛のチャンス」に恵まれたボーヴォワールオルグレンに報告している。

 『レ・マンダラン』の英訳本が出版されたのは、1956年のことだったが、その表紙にはカクテルパーティでオルグレンとおぼしき男性に女性が話しかけている姿が描かれていた。この本のコメントを求められたオルグレンは、「マダム・ド・ボーヴォワールは彼女自身のプライバシーを侵害したらしいな」と笑い飛ばし、「まともな女性作家は、自分自身のプライベートな庭を掘り返したりしなくても、書くだけの材料を充分に持っているべきだ」と語っているが、心中穏やかでなかったらしく、「あの女はセックスをするたびにメモを取っていたに違いない」と知人に漏らしたりしている。(略)
さらに、ボーヴォワール自伝『或る戦後』の英語版が1964年に出版され、そこで「ふたりだけの関係」が暴露されていることを知って、怒り心頭に発したオルグレンは、「あの女は中年の独身女みたいに男女関係を妄想している」と皮肉り、ボーヴォワールのいわゆる「偶発的恋愛」の実験台になったと信じ込んだ彼は、「あの女がおしゃべりを止めることはあるのだろうか?」と毒づいていた。その結果、細々と続いていたパリからの便りも、年明けの1965年からは完全に途絶えてしまう。(略)
[1981年のインタビューでも]
「ラヴレターは私的なものであるべきだ。私は世界中の売春宿へ行ったことがあるが、そこの女たちは、韓国であれインドであれ、いつもドアを閉めている。ところが、この女はドアを開け放って、一般読者とマスコミを招き入れたのさ」と興奮した口調で、ボーヴォワールに対する鬱憤をぶちまけた。

オルグレン死去

作家仲間のカート・ヴォネガットの回想によると、1981年5月9日、サルマン・ラシュディが彼の家を訪ねてきていて、出版されたばかりの『真夜中の予供たち』の最も的確な書評を書いたオルグレンに会いたいと言い出した。
(略)ヴォネガットが彼の家に電話をすると、「サッグ・ハーバー警察です」と男の声が返ってきた。掛け違ったかな、と思って電話を切ろうとするヴォネガットに、「オルグレン氏は亡くなりました」とその声が追い討ちをかけたというのだ。