C・メイフィールド、山下達郎インタビュー

部屋掃除で発掘した雑誌を最後に一度読み返すシリーズ。
特集は無視して、1994年のカーティス・メイフィールド・インタビューから。

Cut1994年5月 Vol.30

『特集:フレンチ・ロリータ幻想』

VANESSA PARADIS バネッサ・パラディ
'90年代ファム・ファタルを徹底検証。
CHARLOTTE GAINSBOURG シャルロット・ゲンズブール
キャリア転換期を迎えた寡黙なシャルロットが初めてその揺れる心境を告白。
JANE BIRKIN ジェーン・バーキン
いまやシックな女の代名詞となった彼女が明かすセルジュ・ゲンズブールとの思い出。
ANNA KARINA アンナ・カリーナ
伝説となったヌーヴェル・ヴァーグ女優とゴダールの脆くも詩的な関係。
BRIGITTE BARDOT ブリジット・バルドー
フランス女優のシンボルとも言える世紀のアムルーズが語った稀少インタビュー。

ピープル・ゲット・レディ

ピープル・ゲット・レディ

事故以来初めて公式の場(グラミー賞授賞式場)に登場した

51歳のカーティス。

 オリジナルのウェイラーズはインプレッションズをモデルにしていた。ボブ・マーリーはハーモニーから服装のスタイルまで、すべてをそっくりインプレッションズから借りてきていたのである。

――初めてギターを手にしたのはいつですか。
 「8歳か9歳のころ、わたしはノーザン・ジュビリーズというゴスペル・グループで歌っていたんだ。ジェリー・バトラーも一緒でね、とても仲がよかったよ。(略)
ピアノではすぐにブギ・ウギを弾くようになってね、あれは黒鍵を使うんだよね。[家にあった]そのギターを手に取り、いい加減に掻き鳴らしてみると、スペイン式のチューニングになっていた。つまりそれじゃコードが弾けないんだよ。すっかり調子がずれているからね。(略)そこで黒鍵に合わせてチューニングしてみた。つまりFシャープになったわけだね。そんなふうにして独学でギターを弾くようになったんだ。自分が何をやっているのか、あとになるまでわからなかった。アポロ・シアターでバンドと一緒にプレイすることになったとき、やっと自分がFシャープのキーでプレイしてるってことを知ったんだよ」
(略)
[ジェリーの妹を通じて、ジェリーと再会]
ジェリーはよくわたしの家に来ては、ウエスト・サイドのわたしのグループをやめて自分のところへ来ないかと誘った。ついにわたしも折れてね、それで夜になるといつも歌ってた。
 ジェリーとブルックス兄弟は「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」が気に入って、わたしたちはチェス・レコードで歌わせてもらう約束をとりつけた。冬の寒い日でね、胸まで埋まるくらい雪が積もっていて、その中をミシガン・アヴェニューの22丁目にあるチェス・レコードまで出かけていった。でもだれも入れてくれないんだ。わたしたちは1時間くらいぼうっと突っ立っていたんだが、そのうちふと通りの向こう側を見ると、ヴィー・ジェイ・レコードがあるじゃないか。わたしたちは歩道も歩かずにまっすぐそこを目がけて行った。アンプやら何やらすべて持って、雪の中を一直線にね。ドアをノックすると、ヴィー・ジェイの社長だったカルヴィン・カーターとユーアート・アブナーが中に入れてくれた。わたしたちは2階のオフィスに通じる階段で「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」を歌った。カルヴィンがこの曲を気に入ってね。それから3、4日のうちには、スタジオで「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」のレコーディングをしていたよ」
――「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」は最初のソウル・レコードと言われてきました。あの曲が当時のリズム&ブルースとちがうものになったのはどういう点からだと思います?
 「まあおそらくこういうことかな、ジェリーの力強いバリトン、それにわたしやブルックス兄弟のすごく高音のゴスペルっぽい響き――ハイ・ピッチのテナーが、サムのとても張りのあるバスに混じり合っていた。それでハーモニーがさらに広がりを生んだんだよ。もちろんわたしたちにとっては子供のころ聴いた響きだったんだが、世の中の人にとってはそれがよかったんだね」
――ジェリーはその後インプレッションズからはなれてしまいますね。
 「長くは続かなかったね、あのころはレーベルがリード・シンガーを引きはなして売り出すのがふつうだったんだ。たいていの場合はクロスオーバーが目的でね。(略)“ジェリー・バトラーとインプレッションズ”ということになって、当然ながらそれはかなり不協和音を生んだ。(略)
[ただ、そのおかげで]
ライター兼シンガーのカーティス・メイフィールドが、低くて小さな声にもかかわらずリード・シンガーになれたからさ。マイクロフォンとテクノロジーのおかげだね。だがわたしはジェリーのためにギターを弾くことはやめなかった。1年のうちには1000ドルくらいたまってね、それでインプレッションズはニューヨークに出ていくことになった。ABCパラマウントで初めてレコーディングしたのが「ジプシー・ウーマン」。そうやってだんだんと始まっていったんだよ、いきなりではなくてね」
――「ジプシー・ウーマン」で稼いだ金であなたは自分の著作権会社を作ったわけですね。そういうことができることまでどうして知っていたんですか。当時そういうことをやるアーティストはあまりいなかったと思うのですが。
 「どこで聞いたのかね、とにかく自分の曲の著作権を持っていなくちゃいけないってことを何かで知ったんだよ。それで最初、米国国会図書館に手紙を書いてみた。そこからちょっと教わって、曲の著作権をとるための書式も送ってもらったんだ。わたしはすごく若いころから、自分のものはできるだけ自分で持っていることが大事だと考えていた。子供のころ不安な思いをしたせいだろうね、貧しい家庭の貧しい学生だったからね」
(略)
とてもすばらしい、最高にビッグなアーティストの中にも、自分で持っているのは名声だけ、という人がいる。彼らには財産がないんだ。いつだって、自分のものはできるだけ自分で持っていなくてはいけないよ。いまでもわたしは30年前に書いた曲から小切手をもらってる。額の問題じゃない。自分で持っているということ、それがいまでも自分の生活に役立っているということだよ」
――当時のインプレッションズには(略)曲全体の根底にゴスペルがありますよね。
 「わたしたちはテンプテーションズではなくて、インプレッションズだったんだよ。ステージに出ていくと、いつでもオーディエンスはわたしたちを人間として尊重してくれた。ちゃんと聴いてくれたんだよ。わたしたちにいろんなステップを期待する人はいなかった。みんなわたしたちのハーモニーを愛してくれて、わたしたちが伝えようとしている言葉を愛してくれた。心の糧だったんだよ。インスピレーションを与えるメッセージを持ったものがちょうど待たれていたときだったんだ。だからちがいが出てきたんじゃないかな。
 わたしたちがデビューしたころは、なんだか教会でやっているようだったよ。オーディエンスの反応がそんなふうだったのさ。ひとりのアーティストにとにかく叫んでわめいて、ひざまずいたり踊ったり。だがインプレッションズが出てきたら、みんな静かに耳を傾けるようになった。「ピープル・ゲット・レディ」、あの曲をやるといつもシーンとなったのをいまでも思い出すよ。R&Bのヒット曲とはまるでちがっていたね」
――60年代に入るとあなたの曲には政治的な要素が強くなってきますが、あなた自身も政治活動をするようになったのですか。
 「いいや、わたしはアーティストでありエンターティナーにすぎないからね。あんまり政治的な人間ではないんだよ。わたしは自分の取り分がもらえるようにできるだけのことをやるしかない。個人として守るべきことを守ることにわたしの意味があると思うんだ。自分自身の意見を言う権利は行使しているよ、たとえば「ウィ・ピープル・フー・アー・ダーカー・ザン・ブルー」とか、「(ドント・ウォーリー)イフ・ゼアズ・ア・ヘル・ビロウ、ウィー・アー・オール・ゴーイング・トゥ・ゴー』といった曲がそうだ。
 政治の世界をなんとか揺さぶりたいとかいうわけではないんだよ。わたしはそういうタイプではない。ごく普通の人間だ。ただわたしたちはみんなの心に新たな糧を与えてあげることができた。ひとりひとりにものごとを考えさせ、人の決めたことに流されるのではなくて自分で決めるように」(略)

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Let's Do It Again

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『スーパーフライ』

――「スーパーフライ」のプロジェクトに係わるようになったいきさつを教えてくれませんか。
 「わたしがニューヨーク・シティリンカーン・センターでショーをやっていたとき、フィル・フェンティ(脚本家)とシグ・ショア(プロデューサー)が一番前で観ていたんだよ。ショーのあとでふたりが楽屋に来て自己紹介すると、脚本があるんだが映画のサントラを書いてみる気はないかと言うんだね。(略)
脚本を読んで、アンダーラインを引いたり、曲がうまくはまりそうな部分に書き込みをしたりしたんだ。わたしはすぐフレディに心を惹かれてね、曲を書き始めた。既に「リトル・チャイルド・ランニン・ワイルド」という曲ができていて、それが脚本にぴったりに思えたから、映画の出だしで使うことにした。
 映画そのものを観たとき、これはすごく切り詰めた予算で作ったんだなってすぐにわかった。だが表面は服や車ですごくきらびやかに見えるんだ――いろんな意味で、まるでコカインのコマーシャルみたいだったよ!見ているとちょっとちがう方へ引っ張られてしまいそうな感じなんだ。ちゃんとしたストーリーがあったのに、コークをやりすぎてるものだから観る側を混乱させかねない。それでわたしは、自分の曲では徹底してほんもののストーリーを書かなくてはいけないと思った」
――なるほど。するとあの曲は、映画のイメージに逆らうことを目的にして書かれたのですか。
 「そうなるようにしたいと思っていた、正直なところそれがわたしの目的だったんだよ。音楽と歌詞が批評の役目を果たすように作った、映画が進んでいくのと一緒に誰かが話してるみたいにね。映画が公開される2、3カ月前にアルバムをリリースしたから、映画が始まったときにはキッズはもう曲を知っていたんだよ。みんな映画を観ていても、その奥にあるものはもうわかっていた。ちょっと論争にもなったが、わたしはとても満足だったよ。みんなわかってくれたんだ、きらびやかな服とストーリー・ラインの間に――生き延びようとする黒人がいるって。彼は無知な人間ではない。彼は知性を持ち、抜け出そうとしている人間だ、だからわたしは「スーパーフライ」の歌詞の中でそこを讃えたんだよ」
(略)
『スーパーフライ』、『クローディーン』『レッツ・ドゥ・イット・アゲイン』、『スパークル』、どれもビッグ・ヒットになったからね。(略)あるときシカゴのダウンタウンを歩いていたら、ステート・ストリートでわたしの映画3本が同時にかかっていた。どの入口にもわたしの名前が出ていてね、見ていてなかなか気分がよかった」
――あなたがビッグ・ヒットを出していた時期は、そのころがちょうど最後になるんですね。
 「まあね、そのあとにディスコ時代がやって来て、わたしは突然見捨てられた。いったい何をしたらいいのか、どんなふうにしたらいいのかもわからなかった。(略)わたしは初めてパレードの先頭に立てなくなったんだ。(略)クリエイティブな面ではわたしにとって一番つらい時期だっただろうな。そういう時代だったからなのか、あるいはそのときのわたしが燃え尽きたような感じだったのかもしれない。よくわからないよ」

サンプリング

――ディスコのあと、ブラック・コミュニティではラップが優勢になりました。そうしたラップ・アーティストがあなたの曲をサンプリングして使っていることについてはどう思います?
 「若い者たちの多くは、本質的にはミュージシャンではないんだよ。だが、自分たちではつなぎ合わせられないかもしれないものを、技術的な能力によってサンプリングすることができる。だからと言って彼らがクリエートできないということではない。彼らはサンプリングによって新しい創造方法を生み出したんだ。音楽を組み立てる新しい方法だよ、これはすばらしいことだ。いろいろな絵を切り貼りしてひとつの模様を作ってみるようなものだね。ちょっとはなれたところから見て、『うわ、見ろよこれ』って今度は近づいてみると、よく知ってる絵を寄せ集めてちがうふうに見せたものだってわかる。あの子たちがやっているのは、根本的にはそういうことだ」
(略)
[サンプリングして]うまく使ってくれて嬉しいよ。わたしにはあんなこと思いもつかなかっただろうね(略)彼らのやることには脱帽だ、彼らがそれで金を稼いでるからって責めるわけにはいかん。要するに、やっぱりこれは商売だっていうことさ。個人的なものでありクリエイティブなものであるけれども、商売でもあるんだよ。自分のやり方で金を稼ぐには、みんなのやり方も借りなきゃいけないわけさ」

事故、リハビリ

――あの事故が起きた夜のことで何を覚えていますか。
 「あんまり話せることはないんだよ。(略)わたしは野外ステージの裏の階段を昇っていった。昇り切って、3歩か4歩歩いて、その次に気がついたときには床に転がっていた。ギターもどっかに行ってしまってて、靴も履いてない、眼鏡もない、そして体がまるっきり動かなかった。みごとに伸びてたんだよ。にっこり笑ってステージに向かっていったその次の瞬間には、まっすぐ夜空を見つめてた。雨が降り出してたなあ。
 すべてめちゃくちゃになっていた。動かせるのは首だけだった。自分がどうなってるのかと見回してみると、ぬいぐるみみたいに床の上でぶざまに寝そべっているんだよ。もちろん目は開けたままでいた、目を閉じたら死ぬんじゃないかって気がしたのさ。みんなが来てわたしを運んでくれた。病院はすぐそこにあった。どこまで深刻な状態なのか自分ではわからなかった、生きるか死ぬかもね。……どこがどうしてどうなったのかまるでわからなかった」
――いまはどんなリハビリを行っているんでしょうか。
 「正直に言うと何もしていないんだよ。ただ 単に、リハビリのしようがないからだがね。わたしが完全に寝たきりにならないようにと家族が手足のストレッチをさせてくれる。できるだけ体が固くならないように。でもどこも丈夫なんだよ、麻庫してるだけで。どこかのいいお医者がいつか魔法のような方法を見つけて、麻痺した部分を生き返らせてくれるかもしれない。そういうことが起こらないかぎり、おそらくわたしはこのままで死ぬんだろうね。
(略)
わたしは自分を哀れんではいないし、人から哀れみを受けたくもない。わたしはとても感謝しているんだよ、いまもこうして生きていられて、これほどすばらしい評価を受けて、たくさんの人たちがわたしに愛情を示してくれて――ほんとうにありがたいと思っている。わたしは憎しみを持たない、わたしは恨みも何もしない。ときには泣きながら目を覚ますこともあるが、それはわかってもらえるだろう。ミイラのようにがんじがらめに縛られていて、どうしても抜け出せないような気がすることもあるんだよ。でもけがをした者にとって、そういうことはふつうだろう。それを除けば、わたしはとても楽しく過ごしているんだよ」
(略)
――いまでも頭の中には音楽のアイディアがあるんですか。
 「ああもちろん、わたしは音楽のために生きているんだからね。きみとの話からでも4つか5つ曲ができただろう。できることなら、ボイス・アクティベーターとかこれから出て来るいろいろなものを使って、いつかそういう曲を作れるようになったらいいね。そうすればわたしはできるだけ人に頼らずに、もう一度この業界で役立てるようになるかもしれない」(略)

イギー・ポップ

(『アメリカン・シーザー』を発表した頃)

――今回のライブではストゥージズ時代の曲など昔の曲もやっていましたが、どうしていま、昔のハードな曲をやるのでしょう
「昔の曲を発表した当時は、すごくクオリティの高い作品だと思ってた。いまでもそう思ってる。べつにハッタリかましてるんじゃなく、ホントにハードな作品だったんだよ。でも時代とマッチしなかったのか、当時は正しい評価を受けなかった。俺はね、絶対諦めない人間なんだ。だから20年前の俺の作品が未だに有名で、売れることを確信してる。だからいまもあの当時のアルバムを宣伝して、著作権料を稼ぐ。これは俺のプライドの問題でもあるんだ。それに俺のやってることの基本を見せる意味もある。だってあの曲は俺がやらなきゃダメだろ?俺がいなけりゃ世間に認められなかった作品なんだぜ。いまではあの頃の曲は発表当時よりも有名になった。俺が歌ってみんなに聴かせてきたからさ。やっといま正当な評価を受けるようになってるんだよ」
(略)
――この10数年の間、あなたの中で何が変わったと思いますか。
「前のようなエネルギーはないけど、その分強くなった。経験も積んだ。くじけないっていうのは大変なことだよ。成熟したと思うし、前よりハッピーだし、いまでは昔はなかった金や車や家もある。曲を発表し始めた頃、自分ではすごい作品だと思っても同意してくれる人はほとんどいなかった。でもいまでは大勢の人があの頃の作品を評価してくれる。だから自信もついたし、何よりも自分を信じてよかったと思う。その一方で、ヒットを飛ばしてあっという間に金を稼いで、数年も経ったら忘れ去られてしまう人たちをこの20年の間に見てきた。だからいま、俺はすごくいい気分だよ。ポップ音楽の世界でも正義がある、当然の報いがあるんだ。いい作品はいつかは評価を受けるものなのさ。若い頃はそういうことにも気づかないで、ただ犬みたいにやってたけどね(笑)」(略)

シュガー・ベイブ『ソングス』CD化記念、

特別対談 山下達郎VS渋谷陽一

(略)竹内まりやさんのレコーディングで多忙を極め、どうしても執筆不能ということになってしまいました。CUT創刊以来、5年間連載していただいているのですが、落としたのはこれでまだ2度目、ということで許して下さい。今回は番外篇ということで、CUT前編集長の渋谷が、むりやりスダジオに押し入り[対談]
(略)
山下――渋谷君、最近なんだか岸信介に似てないか?
渋谷――週刊文春で「似たもの同士」っていうのに岸信介と出たんだよ。
山下――えっ「似たもの同士」でほんとに出たの?
渋谷――出たよ。
山下――すごいね、それ。
渋谷――すごかねえよ! ひとつも。
山下――ははははは。まあ渋谷君、体質は似てるよ、体質は。
渋谷――そのうちに“山下達郎ゲゲゲの鬼太郎”とか出るんだよ。
山下――俺はそういうのはもうそんな生易しいものじゃないもん。昔はもう言われ放題言われたからね。ハッキリ言って。
渋谷――はははは。何だよ、具体的に何を言われたの?
山下――昔はねえ、何だっけなあ……忘れちゃったよ。もう顔の話はやめよう。
(略)
[シュガーベイブ時代は色々酷い目に会ったという話があって]
山下――だからメディアに無条件で受け入れられるそういう人の中で長命を保った人はひとりもいないってのかなあ。(略)残ってる人は何らかの形でみんなやっぱりネガティブ・ファクターを投げられて、それに「この野郎!」っつって立ち向かってきた結果が結局フタを開けてみたら何とかいまでもいるっていうかさあ。
(略)
渋谷――だけど、そういう怨念の籠もったシュガー・ベイブを今回リマスターして出すというのは?
山下――いや、べつにアルバムに怨念はないもん。
渋谷――ああ。これはやっぱりちゃんと残したいなという非常に素朴なものなの?
山下――うん、ちゃんと残したいってだけで。前号にも書いたけど、当時出たまんまのマスターってのにそんなに好感がなかったの。何故かっつうと、その記憶とリンクしてるから。(略)
すごくレコーディングの条件が悪かったのよ。(略)エレック・レコードって新宿2丁目にビルを持ってて、そこの2階にあった小さいスタジオでレコーディングしたの。これがもう天井がほんとに低い、2メートルないような天井のコンクリの打ち放しで、マイクもなければ何にもないの。
渋谷――えっマイクがなくてどうやってレコーディングするの?(笑)。
山下――マイクがないって、たとえばレコーディングでピアノを録る時にはピアノに適したマイク、ドラムを録る時にはドラムに適したマイク、そういうようなマイクのバリエーションがないの。もうほとんど1種類か2種類のマイクが何十本とあるっていうさあ。PAだってこんなの使わないっていうようなね。そういうんで全部録音せざるを得なかったの。でもっと悪いことにその時にエレックっつうのは左前で(笑)。たとえば卓が拓郎の抵当とかスピーカーが泉谷の抵当とか。
(略)
大滝さんってエンジニアとしては素人だったでしょう、それがよかったの。あれがあの当時の日本のレコード業界のプロのエンジニアだったらめちゃくちゃにやられてたよね。(略)
そういう自由がきかなかったとこで、大滝さんがエンジニアやってるってことでいろんな実験ができたからさあ。そういうことで音としては非常に特徴があるし、また気が籠もってんだよね。不思議な言い方だけど。やっぱり大滝さんの熱意とそれから我々の熱意ってのが音に込められてて、それがうまい具合いね。確かにダイナミック・レンジとかオーディオ的に考えれば悪いかもしんないんだけど、気は入ってる。それがわかるまでに時間がかかったね。
(略)
今度、全曲このシュガー・ベイブのレパートリーでライブやるんだけど。それで当時の日本のロックの曲を2〜3曲やってみようと思って、どんな曲がいいかいろんなレコードを聴いたんだよ。すごくショボいの、どれも(笑)。(略)
音にガッツがないの。でも、これは不思議と普遍性があんだよ、ヘンな意味でのね。で、こないだシングル切った“パレード”なんかにしても、これにしても妙な具合の普遍性がね。だから音は古いけど、いま聴いても鑑賞には耐えるっていうさあ、不思議なエネルギーがあるっていうねえ。それはやっぱり大滝さんがやったからなんだろうね、ということはよくわかる。(略)