アメリカ・宗教・戦争 西谷修・宇野邦一・鵜飼哲

「テロ」という言葉

西谷 (略)アフガニスタン攻撃が一段落して以来、いつの間にか次はイラクだということになって、9・11には直接関わりのないイラクフセイン体制を「除去」することが、世界の緊急課題のように語られています。というより、それが今すぐにやらないと世界が危険だといったキャンペーンが張られて、世界の耳目はそこに釘付けになっています。しかしどう考えても、最大の大量破壊兵器を持ち、それを使うと公言しているのはアメリカであって、アメリカは自分が使うのだけは正義だと思い込んでいるようですから、これは手のつけようがない。
(略)
鵜飼 (略)もう一つは、「ナチスと同じでなければ何をしてもいい」という考え方。とりわけナチの犠牲者であったユダヤ人であれば、「ナチには核兵器がなかったから、核兵器を使ってもいい」ということまで含まれます。今でもイスラエルとナチズムを比較するような議論が出ると、シオニストユダヤ人から出てくる最初の反応は、「どこにガス室があるんだ」ということですね。つまり「ガス室さえなければ、なにをしてもいい」と言わんばかりのことを言う。
(略)
西谷 (略)グアンタナモ以降、あるいはタリバンアルカイダの殲滅以降、「人権が適用されないカテゴリーが人間にはある」ということが、公然とまかり通るようになった。
(略)
「テロ」という言葉がうまく機能して、「テロリスト」というレッテルを貼ったら、もう「人権などない」というふうにされ、それが全世界で正当化されて通用するようになったのは、9・11以降ですね。

鵜飼 (略)今度のアメリカのイラクヘの先制攻撃を正当化する議論は、ヨーロッパ人の目から見たら、ヒットラー的なものへの回帰以外の何物でもない。戦争を違法化することで、ヨーロッパはなんとか新しい秩序をつくろうとしてきた。そのすべてをご破算にしようとする。それこそ逆行であって、こんなものが通るんだったら国連自体を破壊することになる。イデーにおいて。しかし、可能性としてそういう事態が見えてきた以上、国連秩序は完全に脱構築過程に入りましたね。
西谷 国連というのは、「戦争をやらない」「戦争は悪である」ということでできる安全保障機構なんだよね。それを、「戦争をやろうとする者がいるから、それを先につぶすんだ」ということになると、国連体制なんてまったく根底から突き崩される。(略)
だから何で今ごろみんながアガンベンをありがたがるのかわからない。アガンベン9・11以降に言ってることなんて寝言だよ。「国家の役割が安全保障だけになると、その国家はテロリスト的になり、それは危険だ」と言っている。「なに寝ぼけてんの!」っていうこと。アメリカはもうその先をいってるんだから。だから、哲学者という連中は、哲学のなかから問題を持ち出してきて、哲学の更新とかをやっているわけ。それは現実世界と直接関係ない。現実世界に照らし合わせてみて、「あ、これはこういうふうに言えるな」とか反りを合わせるだけで、現実世界はなんら哲学なんて必要としていない。そういうことに哲学はあまりに鈍感すぎる。特に哲学を解説する連中がね。

 鵜飼 イギリスの場合、フランスのアルジェリアと比べると、引き際がはやかった。やばくなると逃げる、パレスチナでもそうでした。それで、結局フランスのように頭から転ぶみたいなことはなかった。フランスは、ベトナムでもアルジェリアでも頭から転んでるわけですね。
(略)
 西谷 たしかにイギリスは植民地からなんとか早く引いて、イラクみたいな人工国家をつくらせたり、連邦に取り込んだりして、なんとか経営の続きをやろうとしてきた。

親鸞

宇野 仏教の近代化というのは、どういう方向で、例えば何宗で起きていることですか。
西谷 いま念頭に置いているのは浄土真宗ですが、真宗は明治国家の形成にいろいろなかたちで深く関与している。思想的には個の自我の宗教ということを言い始めた。それが清沢満之で、ヘーゲル宗教哲学を訳した人なの。おもしろいことに、浄土真宗のなかでは明治の終わり頃まで親鸞はほとんどみんな知らなかったんだってね。『歎異抄』は危ない本だからというので、ごく一部の偉い人しか見ちゃいけないものだった。蓮如以降しかみんな知らない。親鸞の存在さえ知られていなかったと言いますよ。それを清沢満之が、もう一度親鸞まで戻って、他力本願とか親鸞の道ってなんだということを問い直す。それもヘーゲル宗教哲学なんかを参照しながら考え直して、信仰というのは個的な主体の自覚として生まれるものだと、まさにヘーゲルなんだけど。それが近代における「悪人正機」の文字通りの発見ですよ。
鵜飼 プロテスタンティズムだな。
西谷 まさにそう。そういう形で清沢満之が『歎異抄』を忘却から引き出して教学の中心に据える。みんなこれを読まなくちゃいけないと。ところが、清沢満之は肺をやられて40歳前に亡くなってしまって、「精神界」という雑誌をやっていた清沢のグループから暁烏敏という人物がイデオローグとして出てきて、彼が個の自覚が「悪人正機」というのを、いわばきわめて小乗的にというか機会主義的に解釈した、「天下国家のことよりも、精神のうちで個の自覚としての信仰を掘り下げなさい」と。それが戦前、戦中の浄土真宗を戦争体制のなかに引っ張っていったんですね。
鵜飼 悪人正機説からは死刑廃止論も出ても良さそうなものだけどね。
西谷 大正時代以降の浄土真宗というのは江戸時代までの浄土真宗と全然違うらしい。特に戦後はそれがひどくなったらしい、『歎異抄』がブームになるでしょう。またそれが時代の気配とぴったり合っちゃったということもある。もともとは法然にある専修念仏という考えは、「絶対他力」を打ちだすことで、ある超越の審絶を確保するという、きわめて一神教的な面があります。だからプロテスタントというより、大川周明ではないけれど、イスラームの構造を思わせるところもあります。そこらへんのことも課題だと思う。

靖国

鵜飼 (略)靖国自体は、今の視点から見れば明らかにこれは輸入品であって、そのモデルはギリシアですね。
 古代ギリシアのポリスにおける、戦死した同胞や市民の弔い方がベースになっている。それ以前は、例えばフロイトが『死と戦争に関する時評』で強調しているけど、前近代においては神道的な宗教、当時のフロイト的な展望で言えば未開人の宗教においては、たとえ戦争に勝っても、自分たちが殺した死者たちの崇りを恐れるところに戦争と宗教の接点があった。だから、自分の共同体の領域に入る前にみそぎをする。清めることによって、自分たちが殺した相手の怨念を払った。ここに宗教というものの根拠があったわけで、自分の国の死んだ人間だけを祀るなんていうことはあり得なかったわけです。「殺した者は崇るはずがない」という前提に立っている以上、これはもう伝統とは関係ない。日本の神道とか仏教だって、最初から「国家安寧のために」って言われるけれども、「菅原道真の怨霊が怖い」とか「平将門の怨霊が怖い」と言うことでやっていたわけだから。
 今のアメリカのアーリントン墓地でもそうだけど、基本はギリシアです。その場合ギリシアの原理はなにかと言ったら、アテナイの場合は、「女が子供を産むんじゃなくて、アテナイの大地が子供を産む」(略)という考え方です。そこから生まれた者がそこに帰るということで、神聖な国土という観念が生まれるわけ。