市民の共同体 国民という近代的概念について

「市民」の新たな支配

 しかしながら、イタリアやドイツ世界の〈自治都市〉が教会や皇帝に対抗するには、政治団体としてあまりに脆弱であることは明らかだった。ウェーバーは、政治組織が集権化されればされるほど、都市の自律性は発展できなくなっていったと記している。国王がコミューンの独立した権力を警戒心を持って見ないはずがなかった。実際、西洋の強大な君主制国家の国王こそが、領域的国家の創始者として、封建領主や〈自治都市〉の特権、皇帝の野望、教会の権力といったものに対抗して、「教会に対する政治体の独立」を作り上げたのである。国王こそが、すぐれて人間的な社会としての政治体の基礎を築いたのである。18世紀末には、〈都市〉の市民権とは、絶対王政の中から生まれた近代国家が解体しようと取り組んだ、これらの特権の一つをなすにすぎなかった。
 政治による超越には、歴史的にさまざまな形態があった。イギリス的自由の伝統たる多元主義は、地位、団体、階層、そして特殊なグループに対して場所を与えるのだが、それはフランスにおいて乱暴な仕方で認められた市民権という単一的で総合的な概念と伝統的に対立している。イギリスの民主主義は、社会の主要な勢力の政治的代表者たちに由来するさまざまな対抗勢力を形成することによって自由を保証するという考えから生まれた。多元主義は、イギリスの民主主義のなかで、公共の自由の「自然な」表現として認識されている。誰しもが特殊な共同体への帰属によって市民なのである。複数投票という形態は、ウェストミンスター(イギリス議会)で諸団体が代表者をもつことを保証しつつ、1948年まで維持された。たとえばオックスフォード大学やケンブリッジ大学は複数投票の廃止まで、議会に代表者を有していたのである〔大学卒業者には居住する選挙区での投票権の他に、出身大学を選挙区とする大学投票権が与えられていた〕。イギリス的伝統が拠って立つ理念とは、つねに恣意的なものになる可能性のある権力に対して、人間の真の自由を保障するために、特殊な帰属と特殊な愛着との多様性を尊重せねばならないというものである。バークがそう述べたように、「まさにわれわれの家族のただなかにおいてこそ、われわれの政治的感情は始まるのであり、親族の関係に鈍感な人物は決してわれわれの国に忠実な市民にならないと言うことができる。われわれは、われわれの家族から近隣の人びとへ、われわれがよく付き合いをする人びとへ、そして田舎にあってわれわれが愛着を待つ滞在地へと通り過ぎていくのである」。国民は長い歴史の帰結でしかありえず、国民や地域的権力を構成する特殊なグループの諸権利を尊重せねばならない。バーク曰く、「われわれの国のこれら旧来の区分は、数世紀の結果であって、権力が突然に行ったことの所産ではなく、いずれもわれわれの偉大なる祖国の小さなイメージである。それらはわれわれの心を奮い立たせる。こうした個人的な愛着が、われわれが祖国の全体に対し抱いている愛を損なうことは決してないのである」。より一般的にいえば、一般的利益は特殊的利益から構成される。〔ジョン・ステュアート・ミル曰く〕「それぞれの階層は他の人びとの知らない物事を知っているものであり、それぞれの階層は多かれ少なかれ特殊な利益を持っているものである」。イギリス的民主主義の基礎にある功利主義的論理に則るなら、さまざまな社会的グループはその特殊性をまさに理由として政治的空間のなかに現れ、その固有の利益を守りながら、一般的利益や社会全体が順調に機能することに貢献するのである。
 「市民」の新たな支配を宣言することにおいて、フランスの革命家たちはまずルソーの思想の影響を受けた。ルソーにとって、不平等の源泉たる人間相互の従属関係や市民たる個人と国家との間にある中間団体は、人間が自由であることを妨げるため、解体されるべきものだった。市民は、〈一般意志(意思)〉を直接的に表明する存在であり、イギリスとはまったく反対に、あらゆる中間にあるつながりから独立し、国家と密接で直接的な関係を結ばねばならなかった。
(略)
それぞれの市民の利益と意志とは、集団的な利益と意志とに一体化する。一般的利益は特殊的利益の総和、あるいは合成からは演繹されない。市民権は、国民のようにまったく不可分であり、一つの集権化された国家によって準備され、保障されねばならない。そうした国家が一般意志の表出として、社会を生み出すのである。

国民とは歴史的構築物

 国民は、とくに非ヨーロッパの国々では人工的なもの[作りもの]と評価されている。国民の最初の理念が西ヨーロッパで、より正確にはイギリスで作り上げられたということは本当である。イギリスの例はモンテスキューヴォルテールによって大変深く感嘆・称賛され、歴史的主体としてのアメリカ国民やフランス国民の出現に寄与した。そしてフランス革命戦争ナポレオン戦争が今度は全ヨーロッパヘ、加えてヨーロッパ人植民者が海外に定住することで生まれた国々のなかに、革命的な国民というモデルを普及した。ヨーロッパの国々では、国民の形成とは、どちらかといえば内生的なプロセスであった。反対に他の地域では、国民のモデルはヨーロッパ列強の直接的または非直接的な支配によって押しつけられたものだった。そうした地域では、国民とは、歴史や政治的な創意工夫の直接的な産物ではなく、人類学で意味するところの借用物となっている。このことで、国民を断罪するには及ばない。つまり、人類学によってわれわれは、文化というものが文化的なまとまり同士の交換、借用、そして自らに同化しようとする再解釈に基づいた一つの集団力学であるということを学んだのだから。借用しているからといって、言葉の軽蔑的な意味で人工的である[作りものである]ことを必ずしも意味しない。いたるところにおいて、国民とは歴史的構築物なのである。実際には西ヨーロッパの古い諸国民においてでさえ、市民の諸権利が認められたすべての人びとが民主主義的公共生活に参加しているということはない。北アメリカや西ヨーロッパの諸国民を、つい最近に政治的ユニットたる国民として構築された世界の残りの国々から区別するものとは、自然/人工の対立ではなく、形式的市民の数である。つまり形式的市民とは、公共領域や公共領域が機能する諸規則を遵守する必要性があるという理念を実際に内面化し、そうした諸規則を遵守する存在である。「国家を輸入する」ことよりも、一つの政治社会が機能する諸規則を輸入することのほうがずっと困難である。諸規則の形成は、長い歴史の産物だからである。

教会と国家との分離

 フランスの事例は、その激しさによって、宗教的なものから政治的なものへの正統性の移行を説明してくれる。革命家たちは国民主権を公言したのだが、教会と国家との分離を打ち立てることができたのは、一世紀以上にわたる対立の後のことにすぎなかった。この対立は、政治的正統性の原理そのものに向けられており、ある人たちにとっては、神聖なものの意味が宗教から国民へと移っただけに、より一層激しいものだった。国民は真の崇拝の対象となった。つまり〈国民〉と〈共和国〉とは、儀式、祭壇、寺院、そして聖人とともに、一つの市民宗教になったのだった。非宗教化のさまざまな行程は宗教戦争のような雰囲気のなかで展開した。しかし、「非宗教性」が政治的伝統の不可欠な部分であることを力強く公言し、そうした非宗教性を基本法のなかに記している国においてですら――スイスやドイツのように、教会が一般税収入から割り当てられた補助金を受け取っていたり、宗教が行政文書のなかで言及されていたりすることなどそこでは想像できないだろう――、宗教組織の責任者は国家の代表者と一定の関係を維持し、国家当局や地方当局との間で宗教教育、祝祭の遵守、そして儀式の実施の諸条件について交渉しているのである。

フランス

私はフランスの例が国民の普遍的モデルであるなどと主張するつもりはない。フランスの例は、歴史的な理由で例証となるにすぎないのである。イギリス国民が内生的プロセスから、そして民主主義的な要求に対する政治組織の実際的適応から生まれた一方で、市民的国民は、フランスで革命が勃発するなかで突然に出現した。市民的国民はただちに考え出され、具体化されたのである。「フランスは主として啓蒙思想個人主義を純粋かつ端的に確立したことによって特徴づけられる。結局、似たような個人主義に多くの伝統を結びつけることができたイギリスに対して(略)そしてまた1800年頃に強く異文化を受容することで、イギリス的伝統とは反対に啓蒙思想個人主義が不可欠な要素として現れる文化を構築したドイツに対して、フランスはそうなのである。(略)われわれのフランスの伝統的な物の見方は、社会生活の現実とまったく妥協することがなく、明白でシンプルなのである」。そこでは他のいかなる国にも見られないような国民建設の諸原理が表明され、共和主義的、統合的、かつ普遍主義的モデルが公共生活や学問のなかで絶え間なく言及されてきた。〈国民〉の正統性と主権、特殊なアイデンティティや文化を国民の論理に従わせる必要性、非宗教性が、他の国々よりも大々的に主張されてきた。革命以来、政治的かつ抽象的に、国民について、そして国民が要求するものについて絶えず議論されてきた。イギリスは、実際に自由で平等な市民の共同体としての国民の理念を発明したが、フランス人は、ひたすら個人的市民権の理論や、政治社会の少なくとも傾向としての普遍性を理論化し、主意主義的な仕方で政治社会を建設するよう努めた。――だからといって、本書の序論で引用したアメリカの学者たちが言っているように、フランス人がつねに自分たち自身の理論に忠実だったなどということはない。

1789年と福祉国家

 フランス革命の時点ですでに、「社会はすべての成員の生計を満たさねばならない。彼らが仕事を手に入れられるようにしたり、働ける状態にない人びとには生存する手段を保障したりすることによってである」と宣言されていた。労働や扶助に対する市民の権利が、それ以降、個人的・私的な慈善という考え、つまり宗教的な精神に基づいた考えの代わりとなった。それぞれの個人が市民であるとき、たしかにその個人は、食事をし、家を持ち、政治的諸権利を具体的に行使できるよう子供をきちんと育てる手段を手にする権利を有している。
(略)
1789年のフランス革命の革命家たちが福祉国家の発展など考えてはいなかったにせよ、福祉国家とは、市民の新しい主権や平等の宣言の、時間的にズレで現れた一つの結果なのである。結局、経済的・社会的諸条件の不平等をより小さくしていくよう行動することなしに、政治的・法的平等を社会的紐帯の淵源にしていくことはできなかったのである。この意味で、自由民主主義の政治は、税制上の再分配と社会的介入の諸政策によって作用するのであり、近代的・民主主義的国民の考え方そのもののなかに含まれている。そして、近代的・民生主義的国民は、この点で根本的に古代民主主義とは異なる。
 福祉国家自由主義国家に対立するわけではない。つまり、福祉国家自由主義国家の延長にあり、政治的正統性の原理から生まれる帰結を発展させるものなのである。一目瞭然に分かる不平等を是正し、市民権の抽象的な概念に具体的な中身を与えるという役割を負って、福祉国家はその論理を明らかにする。市民は、諸権利を具体的に行使することを可能にしてくれる物質的諸条件から、恩恵を受けねばならない。このまさしく政治的な次元は、社会政策の正統性の淵源であり、職業活動をもとに人生設計を実現するだけの力がなく共同の公共生活から排除されるに至ってしまう可能性のある人びとを、補償的な施策によって統合するためにとられる措置全体の正当性の淵源である。