モータウン〜 その5 ノーザン・ソウル、シュープリームス

前回の続き。

ノーザン・ソウル

[ビートルズ、マージービート他に押され、米ポップスは英国チャートから締め出されていた。モータウン首脳が訪欧]
EMIと配給契約を交わし、何組かのアーティストのツアーの話を持ち帰った。その中で特筆すべきは1964年のメリー・ウェルズとビートルズの合同ツアーだろうか。(略)
 イギリスでのモータウン人気に火をつけたのはシュープリームスだった。イギリスでの突破口を求めてベリーは1964年初め、当時、英国タムラ/モータウン鑑賞協会の創始者であり会長だったデヴィッド・ゴーディンをデトロイトに招き、現状の打開について話し合った。(略)[ゴーディン]はこう述べている。「そこで私は、一番いいのはモータウンという会社、そしてそのサウンドをまるごと宣伝して売っていくことだという結論に達したのです」(略)ベリーは彼に〈ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー?〉のレコードを聴かせた。ゴーディンは、この曲ならばイギリスでもヒット間違いなしだと直感した。
 イギリスでの〈ホエア?〉のリリースと時を同じくして、イギリスの沖合に停泊した船から送信する海賊ラジオ局のはしりとなったラジオ・カロラインが活躍しはじめていた。こうした海賊局は、政府独占のBBCのようなラジオ局ではまず放送されない音楽をガンガン流した。ゴーディンは語る。
 「(略)自分たちの影響力を知るためには、他の局では流していないようなレコードをとりあげるしかありませんでした。そこで彼らはディオンヌ・ワーウィックやエタ・ジェイムズやシュープリームスを流してみました。するとそれらのレコードがどんどんチャートを駆け上がりはじめたというわけです」
(略)
1966年になってタムラ=モータウンのアーティストが定期的にトップ20に食いこみはじめ、イングランド北部(ここではモータウンの音楽がしばしば“ノーザン・ソウル”と呼ばれていた)に熱狂的なファンが急増するにいたって、ベリーがゴーディンの意見を信頼したのは正しかったことがはっきりした。
(略)
[65年、タムラ=モータウン・レヴューが英国へ、収支はとんとん。モータウン目当てのファンが前座のジョージー・フェイムに激怒]
「異常に高価なチケットが災いして、ホールには半分しか客が入っていなかった」(略)
リヴァプールサウンドヘの反撃のために、“通”の間でタムラ=モータウンとして知られるデトロイトサウンドがやってきた」とボイルは書きたてている。「イギリスの連中よりもずっと洗練され、はるかにプロフェッショナルだ。ベルベットの手袋をはめた手で、強烈なパンチをくらったようなものだ」
 グラスゴーのある新聞は第一面にタムラ=モータウンのツアーを紹介し、「ついに、ビートルズのアイドルだったグループがグラスゴーヘやってきた」という大見出しの下、シュープリームススティーヴィー・ワンダー、マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスらの写真を掲載した。また小見出しには「これが“無名の人間”をスターに変えてしまう男だ」と書かれていた。ラムゼイ・ワトソンの記事にはこうあった。「軍事作戦のように緻密な計画の下、デトロイトサウンドが今夜イギリスのポップ・シーンに襲いかかろうとしている。世界中のヒット・パレードを総ナメにした半分ポップス、半分ジャズの、ヘヴィーで一度聴いたら忘れられないロックのビートが初めてグラスゴーにお目見えする。……その仕掛人は太っちょで童顔のニグロ、ベリー・ゴーディー・ジュニアだ」

スティーヴィー・ワンダー

[〈フィンガーティップス〉以降ヒットがなく、社内から特別扱いに嫉妬の嵐。一発屋扱いにして契約解除してしまえという空気に。追い詰められたスティーヴィー、だが〈アップタイト〉のヒットで一転]
彼はそのドライヴ感あるテンポを、R&Bのシンガーなどではなくローリング・ストーンズの〈サティスファクション〉から得たと語っている。1964年、ストーンズとともにツアーを行ない、彼らのドライヴ感あふれるビートに聴衆が熱狂するのに深い印象を受けていたのだ。(略)チャーリー・ワッツのスタイルをモータウン・ミュージックにとりこんでしまうあたりは、開花する彼の天才ぶりをよくあらわしている。(略)
[次の次のシングルが]ディランの〈風に吹かれて〉のカヴァー・ヴァージョンだとは誰も予想できなかった。モータウンのスタジオに入っていない時、スティーヴィーはモータウン以外のポップ・ミュージックを自分流にアレンジして楽しんでいた。といってもそれはクラレンス・ポールが教えてくれたようなスタンダードではなく、ディランの〈ミスター・タンブリン・マン〉や〈風に吹かれて〉といった歌だった。クラレンス・ポールもそんな彼を応援し、〈風に吹かれて〉ではプロデューサーである彼の高音のバック・ヴォーカルを聴くことができる。(略)
この曲はスティーヴィーにとってかならずプラスになると力説して、ポールは社内の懐疑的な雰囲気をおさえこんだのだった。
 〈風に吹かれて〉はポップ・チャートの九位という好成績を残した。しかし一番重要なことは、この曲がソウル・チャートで一位となり、モータウンも含めた多くのレコード会社が考えていたほど黒人の音楽的嗜好が偏狭なものではないというスティーヴィーの信念を裏づけたという事実だ。まだ多くのことを学びつつあったスティーヴィーにとって、これは意義深い経験となった。これから後、彼はつねにファンの中核を成す黒人たちを前へ前へとひっぱっていこうと努め、けっして型にはまった作品でお茶をにごそうとはしなかった。
 〈風に吹かれて〉の成功後も、このレコードにたいするモータウンの社内的な批判は続き、その攻撃目標はスティーヴィーだけではなくなった。クラレンス・ポールが、自分が預かった若者を利用してシンガーとしての復権をはかったと糾弾されてしまったのだ。〈風に吹かれて〉のレコードに入っているポールの声が目立ちすぎている、スティーヴィーと一緒にステージに上がり、その曲を歌っている、といったことがその証拠とされた。
(略)
[ツアーのある朝]
ティーヴィーが頭を抱えて、死にそうなほど頭痛がひどいと言い出した時、後方では当惑の混じったくすくす笑いが起こった。その前夜、バンドの連中はスティーヴィーに初めてのマリファナ体験をさせたのだが、何事にも熱中しやすい彼はつい度を越してしまったのだ。ミュージシャンは彼の様子を見ているだけでおかしかった。ところがそのうちベリーが後ろをふりかえってスティーヴィーを心配しはじめたので、プレイヤーたちは落ちつかなくなった。何人かがスティーヴィーを黙らせようとした。ところがスティーヴィーはとうとう後ろを向いて、哀れな声でこう言ったのだ。「ねえ、誰かアスピリン持ってない? 夕べのあれで頭がガンガンするんだ」
 バスを降りて開かれたミーティングで、ベリーは断固とした口調で、スティーヴィーがモータウンにとってどれほど価値のある存在か、そしてモータウンが彼にどれほど金をつぎこんでいるかを皆に説いて聞かせた。もしこの少年に万一のことがあれば、かならず誰かに責任をとらせるぞ、と彼は宣言した。この一件に関係した人間は皆冷や汗をかいたが、ミュージシャンもスティーヴィーもツアー中に“ウロウロ遊びまわる”ことをやめようとはしなかった。(略)
すべては“リトル・スティーヴィー”から脱却しようとする彼の必死の努力だった。

ソウルを著作権登録

 ベリー・ゴーディーは設立を予定していたゴスペルのレーベル名に使用するために、“ソウル”という言葉の著作権を取得しておいた。抑制から解き放たれた、感情むきだしの黒人教会の音楽と“ソウル”という言葉を結びつけようと考えていたのだ。しかし1965年も終わりに近づく頃には、“ソウル”という言葉は黒人社会で、そしてブラック・ミュージックの中で、もっと広い意味合いをもって使われるようになっていた。一般的にはその言葉は、黒人にあって白人にない特質――白人とは違う話し方、歩き方、世界観などをさすようになっていた。
(略)
レコード業界に身をおく黒人たちは皆ベリーとの競争に息もたえだえだった。多くの者がモータウンを真似たが、モータウンを超えられた者は一人もいなかった。
(略)
 ところがスタックスは組織もしっかりしており、ブラック・ミュージック界では長い経験を持つ会社、アトランティック・レコードに配給を委託し、しかも白人、黒人の両方に受け入れられる独自のサウンドを持っていた。ヒップな白人や進歩的な黒人はベリーの立身出世志向や、時として作りすぎともいえるプロデュースぶりにうんざりしはじめていた。スタックスは“本物”であり“ヒップなもの”であり、アメリカの黒人社会の“本当の姿を反映”したものだった。それにたいしてモータウンはただの“ニグロの音楽”だった。
(略)
ソウルの人気はモータウンの軽めのサウンドにたいする挑戦であり、モータウンが中核として必要としていた黒人聴衆を奪われるかもしれないという脅威となった。これになんとか対処しようと、1965年ベリーはソウル・レコードをゴスペルではなく世俗的な音楽のレーベルとしてスタートさせる。
(略)
 モータウンで最初に“ソウル”のヒットを飛ばしたのはジュニア・ウォーカー・アンド・ジ・オール・スターズだった。

シュープリームス

ベリーはシュープリームスのステージがあるといつも一番前で椅子を舞台の方に向けてすわり、しばしば、まるで何かに夢中になっている子供のように口を開けていた。チョリー・アトキンズの上品で女の子っぽい振付けに合わせて、フローがぽっちゃりした女性らしい体を動かす様をベリーは眺めた。彼女のいたずらっぽい微笑みはフットライトを越えて、その人柄をうかがわせていた。メリーはきらきらと輝いてみえ、美しく、不自然なほど楽しげだった。
(略)
 ベリーは些細なミスにも残酷なまでにきびしかった。中でも彼の批評を集中的に浴びたのはダイアナだった。ベリーは彼女をグループの中心とみなしていたからだ。ダイアナはショーの花形でなければならなかった。もし彼女がベリーの望むとおりの熱意をもって義務を果たさないようなことがあると、彼の怒りは爆発し、ダイアナは彼のにらみつける前で泣きくずれた。するとベリーは態度を一変させて彼女を慰め、抱き起こしてやり、やさしい言葉をかけて彼女をうっとりさせてしまうのだった。ベリーとダイアナの間にはこうした“アメと鞭”の関係があった。ベリーは愛情と規律を使い分けることにより、彼女のエゴを思いのままにふくらませたりしぼませたりした。ベリーは必要となれば、人の心を操る名人だった。ダイアナは“それ”――つまり愛、人に認められること、スターの座――をなんとしても手に入れたいと望んでいた。(略)
 「文字どおり最初から、ベリーは彼女を自分のものにした」とビーンズ・ボウルズは語る。「彼女がステージから降りてくると彼は『とてもよかったよ、でもこれこれのことをしたほうがいいな』と言うんだ。彼女はいつでもそういったプレッシャーをかけられていたよ」
(略)
ベリーはダイアナを作りあげていった。しかしそのために、かえって彼女のほうが誰も気のつかないところでベリーにある種の支配力を持つようになる。二人は恋人同士だったのだろうか? ベリーもダイアナもそのことを公には認めていないし、記録に残るような形でそれを肯定した者は誰もいない。しかし盲目か馬鹿ででもないかぎり、ベリーが彼女の進路に示した特別な関心や、彼女がベリーについて話す時の、崇拝するような愛情あふれる様子を見逃すことはできなかっただろう。二人は恋人以上だった。お互いが相手によって作りあげられた存在だった。彼なしではダイアナはけっしてスターにはなれなかっただろう。そしてダイアナこそ、その存在のすべて――ポップな歌声、野心、忠誠心、向学心、ベリーのセックス・シンボルであり娘であろうとする努力――を賭けてベリーの夢を実現させた人物だったのだ。
(略)
1965年、彼女たちは“世界八番目の不思議”と言われたヒューストンのアストロドームの完成記念式典に、ジュディー・ガーランドとともに出演。1966年にはポップ・グループとしては初めて、リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールの舞台に立った。モータウンの許可を得て、シュープリームス印のパンまで発売される始末だった。政治的雰囲気が濃厚だった60年代中頃のアメリカにおいて、デトロイトから出てきた三人の女の子が有名なハリウッドのスターと共演したり、クラシック音楽の殿堂にのりこんだり、果てはスーパーマーケットの棚まで占領したりすることは、きわめて強力なシンボル性を持っていた。
(略)
 台風の目はダイアナ・ロスであった。彼女のエゴはいまやシュープリームスのレコード売り上げと同じくらい大きくふくらんでいた。(略)
「(略)ナンバー・ワン・ヒットもないくせに大スターみたいな顔をしてウロウロしているいんちきな人をいっぱい知ってるわ。私にはそういう人たちにはない何かがあるの。ファンのみんなにはそれがわかってる。私は本物なのよ」
(略)
 1966年中頃には、ダイアナはもうシュープリームスの次のことを考えていた。(略)
ダイアナがグループを脱退するという噂がひろがりはじめたのはこの頃だった。それはたぶん、モータウン自身から“洩れた”話だった。いつもながら、シュープリームスに関するモータウンのタイミングのよさとニュース操作の巧みさは完璧だった。
(略)
〈ルースターテイル〉で、ダイアナがフローのことを「おとなしい人なの」と紹介した時、フローはバカにしたように「あなたがそう思ってるだけよ」とやり返し、客を笑わせた。後になってフローは、アーティスト養成部の用意したダイアナのあのセリフは、おそらく自分にたいする遠回しのメッセージだったに違いないと断言する。モータウンがフローをどう扱うつもりか、それはまもなくあきらかになった。(略)
あるリハーサルの時のことだった。フローはステージの前面に出て〈ピープル〉を歌いはじめた。ほんの四行かそこらを歌ったところで、ベリーが曲を中断させた。その曲はダイアナに歌わせろ、彼はそう命令したのだ。心臓をえぐられたように、フローは後ずさりし、そして泣いた。それ以降彼女がシュープリームスでソロを歌うことは二度となかった。
 スポットライトの輪がダイアナにしぼられていき、ヒット曲が次々に生まれるなかで、フローはだんだんと暗闇の中に埋もれていった。彼女はすでに、青春の夢のかごに閉じこめられてさえずるバックグラウンド・シンガーにすぎなかった。メリーはどうしていたのか? 彼女は自分の出番が来るまではしっかりと口をつぐんでいた。彼女は静観していた。何が起きているのか、語ろうとはしなかった。そして体をゆらゆら動かしながら、〈ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー?〉のバックで「ウー、ベイビー、ベイビー」と、甘くささやくように歌っていた。

次回に続く。