モータウン〜 その6 ノーマン・ホイットフィールド

前回の続き。

崩壊

モータウン初期のモーター・タウン・レビュー運営に不可欠の存在だったビーンズ・ボウルズは地方政治に首を突っこみ、会社のイメージに悪影響をおよぼしたとして解雇された(スモーキー・ロビンソンはそのすぐ後、彼を自分のツアー・バンドの音楽ディレクターとして雇う)。長年モータウンと黒人ラジオ局との橋わたし役をつとめてきたジャック・ギブソンもまた、モータウンのイメージにそぐわないという理由でエイルズによって解雇された。このためモータウンは、それまで彼らを支持していた黒人ラジオ局の多くを敵にまわすことになった(スタックス・レコードはギブソンにプロモーション・ディレクターの職を与える)。チョリー・アトキンズはラスヴェガスに居を移し、ステージ・ショーの仕掛け人としての評判をかわれてカジノ・ホテルで働きながら、自分の好きなR&Bアーティスト(グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス、テンプテーションズオージェイズ)との仕事を、フリーの立場でこなすようになった。1967年グエン・ゴーディーと離婚したハーヴェイ・フークアもフリーとなり、RCAと好条件でプロデューサー契約をかわし、ニュー・バースなどのバンドを世に送り出す(略)
いつもモータウンを自分の会社のように考えて制作部門の監督にあたり、ゴーディーにたいしては一家の誰にも負けない忠誠心を発揮してきたミッキー・スティーヴンソンは、1969年、モータウンの株主になりたいと申し出た。彼はもしそれがかなわなければモータウンを辞めて、彼自身のレーベルを持たせてくれるというMGMの誘いを受けるしかないと決意していた。ベリーの答はノーだった。スティーヴンソンは退社、キム・ウェストンも後を追う。そしてまもなくクラレンス・ポールも彼のもとに行くことになる。
(略)
[ベリーもH‐D‐Hだけは失いたくなかった]
ひきとめ策として彼らに一人当たり毎年10万ドルを、印税の他に出そうともちかけていたということだ。しかし、それはあまりにも少額だった。H‐D‐Hは自分たちの道を見出すべく、1968年にモータウンを離れた。結局、ベリーが皆に教えてくれたのは、自分自身で何かをやるしかない、ということだった。
[まずモータウンがH‐D‐Hに400万ドルの損害賠償請求。逆にH‐D‐Hがモータウンに2200万ドルの損害賠償請求。争いは70年代半ばまで続いた]

ノーマン・ホイットフィールド

 まん丸でふさふさのアフロ・ヘア、きれいに刈りこまれた髭、そして無愛想で横柄な表情が印象的な男ノーマン・ホイットフィールドは、もうモータウン・ファミリーの二流メンバーではなかった。H−D−Hの離脱、そしてますます焦点の定まらなくなってきたスモーキーの作曲能力を考えると、ノーマンこそが、多産だったモータウンの生産ラインを立て直すために求められる人物であった。この使命のために、彼は新編成となったファンク・ブラザースを活用しなければならなかった。(略)ベニー・ベンジャミンはすっかり弱っていて、しっかりしたビートのキープ役をまかせられる状態ではなかった。かわりにユリエル・ジョーンズがメインとなるリズムを刻み、ベニーはシンバルを叩いてリズムに色を添えただけだった。[69年、死去](略)
白人の若手ベーシスト、ボブ・バビットが、まもなくジェマーソンと仕事を分け合うようになった。(略)
 この新体制にたいしてホイットフィールドはモータウンの新しいサウンドはどうあるべきかを示した。彼はスライ・ストーンが市場におよぼしている影響の大きさをしっかりととらえていた。
(略)
 ホイットフィールドはスライ・ストーンの作品を念入りに研究した結果、レコードのプロデュースというものは「科学だ。サウンドの科学なんだ」ということに気づき、また音響的に見ると音楽は、モータウンサウンドもスタックスのソウル・サウンドも共に過去の遺物となってしまうような、よりスケールの大きな広がりのある時代に突入しつつあるという結論に達したのだった。ジェイムズ・ジェマーソンによれば、ノーマンはダンスのできる演奏というだけでは満足せず、二つか三つの基本的なコードを使っただけでしかもどのレコードもそれぞれ違った味を持つ「とてつもないファンク」を作ろうと考えていたみたいだ、と言う。1968年のこと、ユリエル・ジョーンズによると、ホイットフィールドは「ある日スタジオに入ってきて『何か違ったことをやりたいんだ。何か新鮮なことを』って言った」その結果できあがったのが〈クラウド・ナイン〉であり、長時間演奏を特徴とした新しい量産ソウルだった。そしてそれは70年代のディスコの大流行の発端となったのである。(略)
[〈クラウド〜〉から]忘れることのできない〈パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン〉[まで]を次々に送り出し、ホイットフィールドはモータウンを改革した。(略)
[〈クラウド・ナイン〉誕生秘話:ユリエル・ジョーンズ談]
 シンバルのビートから生まれたんだ。ノーマンがやってきて、シンバルはこんなふうにしてほしい、って言う。二、三分、シンバルだけで同じビートを刻ませておいて、次に足はこんなふうに刻んでくれって言うわけ。実を言うと、彼はそうやって僕の演奏を聴きながら、その上に何をつけ加えればいいか考えてるんだ。そうして次にはバンド全体で演奏させる。その間に彼はちょっとしたことを思いつくと、ここはこう、そこはこう、と指示する。彼の心の中では構想はもうできあがっているんだけど、僕らが実際に演奏しはじめてやっとそれが実体のあるものになるわけさ。演奏してるとミュージシャンがたまたま何かフレーズを編み出すだろ。そうすると彼は「それ使ってくれ。いいよ。そういうのが欲しいんだ」って言うんだ。誰かがひらめいて何かアイデアを出すまで、僕らは何度も何度も、ひたすらすわって演奏を続ける。そしてそのアイデアを使うわけだ。12人か13人の男が、ただリズムに合わせて演奏をやりつづけるんだ。


クラウド・ナイン〉はきわめてあからさまにハイになることを歌った歌で(略)「あの曲が発表になった時には、当局側はちょっとばかり肝をつぶしてたよ」とオーティス・ウィリアムズは言う。
(略)
[それまでのアルバムはヒット・シングルと穴埋め曲から成り立っていたが]
シネマスコープ・ソウルともいうべき壮大な曲 〈パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン〉の11分45秒全部を楽しむためにはアルバムを買わざるを得なくなった。モータウンはここで初めて、45回転レコードでは手に入れることのできない、33回転ならではの歌を世に送り出したわけだ。
 1940年代に始まった黒人向けラジオは、早口のジャイヴを得意とするDJがやつぎばやにヒット曲をかけていくというスタイルでずっと続けられてきたが、ホイットフィールドの野心的作品の長さ(略)や、その扱うテーマ(ぶらぶらしている困った親父)から挑戦を受けることになった。ホイットフィールド=ストロング、そしてヘイズ、メイフィールドなどの作品の影響で、黒人ラジオ局はロック専門の“アンダーグラウンド”なFM局にも対抗できるような、しゃれた大胆なものに変身することを余儀なくされた。都会的センスを持った、ゆったりとした喋り口のアナウンサーが、昔ながらの黒人DJの座を徐々に奪っていった。
(略)
ホイットフィールド=ストロングは暴力的なまでにリズミックな演奏を作りあげ、見せかけのヒップさと流行の先端をいく社会意識がごちゃまぜになった歌詞をあおるようにもりあげた
(略)
 そのうちホイットフィールドはヒット以上のものを望むようになった。彼はスライやヘンドリックスの音楽を高く評価していたが、それと同じくらい彼らの衝撃的なファッションにも心を奪われていた。〈ファンキー・ミュージック〉を歌うテンプテーションズにはスエードのベスト、金縁めがね、マルチ・カラーのパンツというファンキーな流行ファッション(チョリー・アトキンズはそれを見てすっかり面くらってしまった)もそれなりに効果を発揮したが、ホイットフィールドが後押ししていたグループ、アンディスピューテッド・トゥルースに関しては話はまた別だった。ブレンダ・エヴァンス、ビリー・カルヴィン、ジョー・ハリスは若くてやる気満々の三人組で、ヒット曲のためならホイットフィールドの言う「コズミックなこと」――顔を白っぽくメークアップしたり、ブロンドのアフロにしたり、銀色のメタリックな衣裳を着たりすることもよろこんでやった。
(略)
ホイットフィールドの言葉を借りれば「ヒット・マシンのスイッチをオンにし」て、〈スマイリング・フェイシズ・サムタイムス〉を彼らに手渡した。これは暗い調子の妄想がかったレコードで、ノーマンが大衆の動向に敏感なことを示す曲だった(当時、リベラル派の人間の多くがこの曲をニクソン政権にたいするコメントとうけとった)。〈フェイシズ〉は第三位に入り、ノーマンはこのグループなら音楽的にも視覚的にも自分の理想を実現してくれる、と考えた。
 その頃ホイットフィールドとテンプテーションズの関係はすっかり冷えきってしまっていた。ホイットフィールドがテンプテーションズの歌う曲を他のアーティストにも歌わせてしまうことを彼らは不愉快に感じていた。(略)
ノーマンは、すべてのグループに〈ウォー〉や〈ファンキー・ミュージック〉のシングルを録音させようとしたのだった。

Smiling Faces - The Undisputed Truth

テンプテーションズ

[エディ・ケンドリックスの]グループ脱退によって、ポール・ウィリアムズは哀れにも心の支えをなくしてしまった。徐々に生活が乱れつつあった彼は、支えとなってくれる存在をどうしても必要としていたのに。その時すでにポールはひどい抑鬱状態におちいっており、ドラッグや酒によってその症状はますます悪化の一途をたどっていた。彼にはいつもどこか不幸の影がつきまとっていたが、誰にもその本当の理由はわからなかった。ただ一つ確かだったことは、1967年頃からそれが始まっていたということだ。かつてはテンプテーションズ一番のダンサーだったポールがリズムにのり遅れるようになった。どっしりとしたバリトン・ヴォイスは不安定にふらつくようになった。歌詞も忘れがちになった。(略)
[リチャード・ストリートとメンバー交代]
ベリーはポール・ウィリアムズモータウンの相談役にするという寛大な措置をとった。ケンドリックスが 《デトロイト・フリー・プレス》に語った表現を引用すれば、「街角にたたずんで、自分の人生に何かが起こるのを待っている」ウィリアムズにたいしてベリーは給料を払ったわけだ。彼は理髪店の株を持っていたし、振付けに関してはまだテンプテーションズを手伝ったりもした。「でもそんなことも、壁にかかったゴールド・レコードを見て暗澹たる気持ちになる彼にはなんの役にも立たなかった」ケンドリックスが最後にウィリアムズを見たのは1973年8月中頃だったという。別れ際にウィリアムズは彼の腕をとって、「忘れるなよ。人間、引き際が肝心だぜ」と言ったという。一週間後の1973年8月17日、彼は駐車した車の中で、水泳パンツ一枚の姿で、自分の頭を撃ち抜いた。ヒッツヴィルのスタジオからほんの2ブロックしか離れていない場所だった。

マーヴィン・ゲイ 〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉

 1969年後半から1971年までの間、マーヴィン・ゲイは途方に暮れて毎日をすごしていた。ライヴで歌うこともせず、モータウンのプロデューサーたちと仕事をするのもやめて、一日中酔っ払って妻のアンナと喧嘩ばかりしていた。タミー・テレルの病気の一件があって以来、マーヴィンはセックス・シンボル、スター歌手としての生活と、父親から受けた宗教的教育との矛盾に悩んでいた。説明のつかない深い虚しさが、彼の心の底に住みついてしまっていた。
(略)
[70年、31歳になったゲイは]デトロイト・ライオンズに入団しようと決めた[が門前払い]
(略)
 ジャズにたいする興味、そしてルーツであるドゥーワップやゴスペルの影響を反映して、マーヴィンの作曲スタイルはより個人的な色彩を強めていった。彼にとっての過渡期は大詰めに近づいていた。
友人のちょっとした助けがあればすぐにでも新しい局面を迎えることができる、そんな状態であった。(略)
スモーキーの〈アイ・セカンド・ザット・エモーション〉の共作者でもあるアル・クリーヴランドはある日の午後、レナルド・ベンソン[フォートップス]の家をぶらりと訪ねた。ベンソンは何をするでもなくアコースティック・ギターをもてあそんでいるところだった。60年代末の社会的大変動についてクリーヴランドと話しているうちに、ベンソンは幻想的なメロディーをギターで奏ではじめる。二人は協力して、そのメロディーを歌らしい形にまとめていった。三週間後、クリーヴランドは車の中からミシガン湖を眺めているうちに、例の歌を傑作にしてくれそうなサビの歌詞を思いついた。ベンンンとクリーヴランドは完成した曲を聴きながら、これはマーヴィンのしなやかな歌声と瞑想的な性格にぴったりじゃないかと感じたのだった。
 最初マーヴィンは〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉のレコーディングにあまり乗り気ではなかった。
 「僕らは一ヵ月くらい彼を説得しつづけたんだ」とクリーヴランドは回想している。「彼はその時もう一年半もレコードを出していなかったし、経済的にも楽じゃなかった。当然、精神的にも健康とは言えなかった」クリーヴランドロスアンジェルスに行っている間、テープはマーヴィンが持っていた。(略)彼の留守中にマーヴィンは〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉を録音してしまった。(略)
 ところがレコードがあまりにも急激に評判となったため、一つ問題が起きた。アルバムの準備がまったくできていなかったのだ。クリーヴランドとベンソンがあわててデトロイトに戻ってみると、マーヴィンはアレンジャーのデヴィッド・ヴァン・デピットの協力を得て、大急ぎでレコーディング・セッションのお膳立てをしているところだった。「僕らはあの曲を書いた時点でアルバムのコンセプトについてもいろいろ話し合ってたんだ。なのにマーヴィンは僕らに相談もなしでスタートしてしまったんだよ」今になってもなお、クリーヴランドはいくぶんムッとした調子で語っている。(略)
[ジョニー・グリフィス談]
「ある日、マーヴィンは一時間半も遅れて、バケット一杯のフライド・チキンを持ってあらわれた。『今回はちょっと変わったことをやるんだ』と彼は言った。(略)
 「すこしやってみて、聴き返す。『ワオ、いい感じ』」アルバムの制作についてマーヴィンはこう話す。「別のところを聴いてみる。『待てよ、このバックにはこれを入れてみるといいんじゃないかな』で、やってみる。『ほら、ベルみたいだろ、ディンディンって。な?』そんなふうにして作っていくわけさ。組み立てていったんだ。画家が絵を描くのに似てるんだ。最初はゆっくり、一つ一つ描いていくしかないんだ」長い年月を経た今もなお、アルバム《ホワッツ・ゴーイング・オン》には、まるで空中に掛かる一枚の絵のように、画家の作品の手触りがある。

スティーヴィー・ワンダー覚醒

[21歳になり、モータウンが預かっていた100万ドルを受け取る。契約更新をわざと半年引き延ばしたあげく]
彼はモータウンにこう告げたのだった。「僕はあなたがたの言うことにはもう従わない。僕との契約は破棄してほしい」
[71年NYへ。CSB、アトランティックが接触。トントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンド(マルコム・セシルとロバート・マーゴレフという二人のミュージシャン兼技術者)のアルバム<ゼロ・タイム>を聴いて、シンセ中毒に。二人に会い、環状にシンセを結合した巨大な機械トントをいじらせてもらう。三人で「心の詩」から「ファースト・フィナーレ」までのアルバム四枚の土台となる素材を一年で録音してしまう]
巨大なシンセサイザーは(略)グリニッチ・ヴィレッジにあるジミ・ヘンドリックスのエレクトリック・レディー・スタジオヘと移された。三人は共同でアルバムを一枚制作する予定だったが、当時ワンダーの下で働いていたある人間の言葉を借りれば彼らは「すっかりのめり込んでしまったんだ。ずんずん、ずんずんとね」仕事は夜になっても続けられたし、真夜中過ぎにスタートしてそのまま朝を迎え、午後までぶっ通しということもしばしばだった。同じスタジオでヘンドリックス自身が《エレクトリック・レディーランド》を制作した時のような熱気で仕事は続けられ、彼らはレコーディングの費用だけで25万ドル近くを費やしてしまった。スティーヴィーがアイデアを出し、マーゴレフとセシルが技術的な知識を提供するというかたちで、最初の一年だけでも彼らは35曲分のリズム・トラックを完成させた。セシルの概算では、四枚のアルバムに使われた曲の他に、完成されミックスも終わった曲があと40曲はあり、「いろんなかたちで作業途中の」曲が240くらいはあるはずだという。プロになって以来ずっと、スティーヴィーはこうした自由を待ち望んでいた。シンセサイザーを手にした彼は、それまでポップ・ミュージシャンが持ったことのない支配力を、レコーディングにおいて振るうようになったのである。(略)
エレクトリック・レディーのスピーカーから流れてきた音楽は、スティーヴィーを1970年代最も革新的なミュージシャンの一人に位置づけた。

まだまだあったけど、6回やったので終了。