破産 カーヴァー評伝その2

売れるまでワーキングプア一直線だと思っていたので、創作科教授コースに乗りかけたり、中産階級入りしかけていたとは知らなかった。ダメンズなカーヴァーを健気に支える妻。

レイモンド・カーヴァー - 作家としての人生

レイモンド・カーヴァー - 作家としての人生

父の葬儀で妻子が一ヶ月弱家を空けた時に『頼むから静かにしてくれ』第一稿は書かれた

彼は客観的にこの瞬間を眺め(「それは演劇の一場面のようだった」)、それとは本質的に異なる自身の体験(自分がメキシコヘ旅したときのこと、メアリアンに対する思い、カリフォルニアを恋しく思う気持ち)から得たディテールや空想を取り入れながら、アイオワの冬という異国の地で妻に置き去りにされた自分の気持ちを充満させている。

ワークショップはポール・エンゲルが集めた予算で成立していた。特別研究員の候補にならなかったことでレイはショックを受けたが、メアリアンはレイの短編をすべてかき集め、美容院へ行き赤いドレスを着て、エンゲルに直談判、翌年の奨学金をゲット、アイオワで二年目を過ごせることになった……

そしていずれは規定の課程を履修し、創作論文を提出し、創作学修士号を取得して、ほかの大学で創作科の教授団に加われたかもしれない。あるいは、教授か編集者の目にとまって、多額の原稿料を支払う雑誌に短編を掲載できるようになったかもしれない。

 だが彼は、そのいずれも実行しなかった。(略)
 二度目の奨学金を与えられたことによって、レイのプライドは救われたが、自分にとって好ましくない環境でまた一年過ごすことが耐えられないと思ったのかもしれない。アイオワを立ち去るというレイの決断が自滅的なものだったと決めつけることはできない。(略)
メアリアンは、それから長い年月が過ぎても、アイオワを立ち去った理由について、「隣の芝生は青く見えた」という以上の説明はできなかった。

カリフォルニアに戻り義母が「仮免許を取得して高校で教えられるよう」手配してくれたが、新学期が近付くと「びくびく、いらいらして、ひどい状態」となり学校勤務を放棄、一種の「神経衰弱」に。仕方なく百貨店での入出荷フルタイム業務と夜の本屋バイト。その本屋で購入した64年版『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ(BASS)』のうしろで編者が「個性的な短編小説」としてあげた数百編の中に自分の『怒りの季節』が挙げられていることを「驚きと喜びをもって」発見。

[これを機に]本屋の仕事をやめ、夜は執筆に専念するようになった。危機は終わった、と彼はトム・ドハーティに宛てた手紙に書いたが、精神状態が急激に上向いたのは、短編を認められて執筆を再開したのと同時期であったことには、本人もほとんど気づいていないようだった。(略)
 十月になると、さらに良いニュースがレイのもとに届いた。「カロライナ・クォータリー」誌が『学生の妻』の掲載を決め、二十ドルの原稿料を送ってきたのだ。

しかし百貨店でクッキーが盗まれ同じグループ全員が解雇、夜逃げ同然で別居、妻は母の元に身を寄せる。レイは病院で用務員に。この時の経験が「検死解剖室」(kingfish.hatenablog.com)とかに反映。

サクラメントでの暮らしは、「ワーキングプアの詩人」や「ブルーカラーの絶望を記録する作家」としての彼に豊富な題材を提供した。だが彼は自分が描いているのが「負け犬や落ちぶれ果てた人々」だと感じることはなかった。「ウエイトレス、バスの運転手、機械工――この国には、そんな人々があふれている。彼らの人生は、私たちと同じように意味のあるものだ。私はこのような人々に引きつけられる。彼らは私の両親と同じように善良な人々で、自分にできる最善のことをしている」と彼は語った。

メアリアンは自己啓発的セールス研修プログラムの百科事典訪問販売を始め、外交的な性格がズバリはまり、順調に出世。65年妻は八千ドル、夫は三千ドルの収入申告。

250ドルの家賃のほとんどはメアリアンの給料から支払われた。彼女はサクラメント支社のマネージャーとなり、[社長]エアハルトの直属の部下として働いた。(略)
このときもマーシー病院の用務員として働いていた彼は、町の電話帳に職業を「ポーター(清掃係、用務員)」と記載していたが、彼が手紙の中で描写する暮らしは、四苦八苦しながらどうにか暮らしている労働者というよりは、家庭をもち、キャリアを積んでいる中流階級の男のようだった。レイの頭の中では、彼は両方の世界で生きているのだった。
 何年も単純労働をしてきたメアリアンは、面白い仕事につけたことをおおいに喜んでいた。(略)
 メアリアンは出張に出ることが多く、レイはそのあいだ、夜の数時間だけモップがけの仕事をして一日分の給料をもらっていた。(略)職場は死のイメージにあふれていて、そこに身をおいていると、自分をあわれに思う気持ちがわきおこった。彼はときどき、検死解剖室へ足を運んだ。そこの清掃を命じられることもあれば、自分の好奇心に導かれていくこともあった。赤ん坊の死体を目にしたときは、何週間も眠れなくなった。

糟糠の妻

[レイが聴講したサクラメント州立大のワークショップで指導していた詩人デニス・シュミッツの妻・ロレッタ談]
メアリアンは、レイの作品を世に出すこと、彼に立派な仕事をさせることが、自分の任務だと考えているようだった(略)
 彼女は大きな夢を抱いていて、自分の夫は優れた作家ではなく、偉大な作家になるのだと信じていたわ。そして彼が家で短編小説をいじくり回しているあいだ、自分はウエイトレスでも百科事典の販売でもやってやろうと思っていたみたい。
(略)
 デニスの目から見ると、レイを売り込むメアリアンの熱心さには、「ある種の無邪気さがあって、それがときにはユーモラスに感じられた」という。「彼女は彼の才能を猛烈に信じていたけれど、意味もわからないまま、なりふりかまわず出世させようとしているところもあった」(略)
「二人は頭が切れたし、教養があった。けれども、若くて傷つきやすくて、打たれ強くなかったんだ。どちらも現実の問題に対処する術を身につけていなかったし、親の力を頼りにすることもできなかった」というのが彼の感想だ。
(略)
 1960年代の政治やファッションや音楽がサクラメントに浸透しても、レイはあいかわらず「〔百貨店の〕JCペニーで買ったみたいな服を着ていた」とシュミッツは言う。ほかの人はエスニックやカウンターカルチャーのとっぴなファッション、軍の放出品、あるいはジーンズとワークシャツで自己主張をしていた時代、レイは無個性な格好をしていた。

10年目の危機

[1966年カーヴァー家はメアリアンの赤いコンパーチブルに象徴される豊かな暮らしをしていた]
なんとかミドルクラスの仲間入りをしようとしていた。週ごとの給料で綱渡りをしているような暮らしが何年もつづいたあとで、彼らは急に裕福になったような気がした――だがすぐに、貧しかった時期をはるかに上回る額の負債を抱えるようになった。収入が増えれば増えるほど借金も増えるという循環の中で、メアリアンは仕事のために家を空けることが多くなった。彼女にとっては、高い収入も魅力的だったが、ウェルナー・エアハルトから聞く自己啓発の理論も彼女の活力になっていた。人生を変革し、頭脳の力で経験を塗り替える方法についてのエアハルトの講話は、レイのような状況の男が快く受け入れられるものではなかっただろう。嫉妬と不安に駆られたレイは、酒場に入り浸って金を使い、カーテンを閉め切って家にこもることが多くなった。
(略)
「レイは私の仕事と、私が職場で力を発揮して注目されていたことに嫉妬していた」とメアリアン

破産

1967年初めには、彼は自分が方向を見失っていることを思い知らされ、方向転換をするために、思い切った手を打った。(略)バーで破産弁護士と出会い、制御不能の世界から技け出す方法を提案された。「私は自己破産することには猛反対だったけど、レイには恥ずかしいという気持ちはまったくなかったみたい」とメアリアンは言う。
(略)
借金を基盤にして欲しいものを手に入れることは、その後のアメリカでは当たり前になった。「私たちは二人とも高収入を得ていたし、請求書の支払いもできた。債権者ともめているわけでもなかった。でもレイは、もうこんな生活はこりごりだと思っていたの」
(略)
手続きが進むにつれて気分が晴れ晴れとして、メアリアンの声も甘やかに聞こえるようになった、とカーヴァーは『破産』という詩に書いている。「今日、僕の心は、まるで玄関の扉みたいに/見事に開けっぱなし。ああこういうの本当に何カ月ぶりだな」

夢枕に立った父が53歳で死去

 C・Rの死は、レイ自身の飲酒にも影響を及ぼした。彼の詩やメモは、彼がすでに自分のアルコール依存を自覚し、ひそかに心配していたことを明らかにしている。父の死後、彼は父を殺した物質そのものをますます受け入れるようになった。それはまるで父と気持ちを通い合わせる手段を探し、酒瓶の底に隠された秘密を学ぼうとしているかのようだった。

パロアルトの教科書出版会社SRAで編集の仕事につく。妻に結婚か仕事、どちらかを選べと迫る。

レイの仕事は、大学生が興味をもつような読み物を選び、それを初級レベルの読者にもわかりやすいよう短く編集することだった。(略)勤務時間の大部分を費やして短編やエッセーを読めることを知って大喜びした。
(略)
[採用したメリダカミンスキーは]カーヴァーがSRAで身につけた、文章を解体して短く簡潔にする能力が、彼の切りつめたスタイルの確立に役立ったのではないかと考えた。
(略)
[ギンズバーグブローティガンが一世を風靡した時代]
このような時代の波に乗らなかったことは、それ自体が彼を定義していた。彼は革新者や実験者を横目で見ながら、時代にそぐわないダークな家庭の物語を書きつづけた。

カート・ジョンソン談(最初の編集者で友人)

「メアリアンはあらゆることについて明確な意見をもっていて、それを強く主張した。いつもぴりぴりしたエネルギーがあふれそうになっていて、美しいと言えなくもない顔立ちをしていた。彼女は饒舌だったし、レイにとっては、彼の性格をうまく補ってくれる人だったんじゃないかな。彼が弱いところは彼女が強かったから」
(略)
[レイの飲酒について]
彼は、人がお互いにちょっとずつ傷つけ合うのが耐えられなかったのだと思う。彼が自己憐潤に浸っていたというわけじゃない――彼はただ、自分が執筆に励むことができるように、みんなとうまくやりたかったんだ。彼はとにかく書くことに情熱を燃やしていた。会話を楽しむのもいいし、仲間と一緒に過ごすのも、恋人と愛し合うのも好きだし、子育てもなんとかやっていたけど、どれも彼が書くことの妨げになっていた。彼はただ書きたかったんだ。

イスラエル

[68年深く考えずイスラエルへ。周囲の会話を題材にするレイは、理解できない言葉に囲まれ、エネルギー欠乏状態に。留学先にフィレンツェではなくイスラエルを選んだ妻に怒る。「なんだって俺はアジアなんかにいるんだ?」と繰り返し、やがて欝状態に]
レイはそれから何年もアラブ人に対して偏見をもちつづけた。1970年代にアラブのことが話題にのぼるたびに、「アラブ人はみんな気がふれている」と言いつづけた。
(略)
[レイとは逆に]
メアリアンはこの時期、人生の中で最高に楽しい日々を過ごしていたからだ。彼女は大学で勉強し、ヘブライ語を学び、ゴルダ・メイアの演説を聴き、ユダヤの民族舞踊を踊っていた。彼女はエアハルトのもとで働いていたときに、すでにスピリチュアルな探究の旅を始めていた。(略)「その後の私がスピリチュアルな現実に関心をもつようになったことを考えると、私にとって本当に理想的な場所だった」
(略)
[帰国をめぐって夫婦は言い争い]
「彼は父の死についての深い悲しみを無視して、自分を傷つけ、シニシズムの甲羅をますます硬くしていた」
[四ヶ月滞在後帰国]

シカゴのカート・ジョンソン宅訪問

政治の話になると、憂鬱なことばかりだ、と彼は嘆いた。それ以外のことでは、「レイはいつでも愛想がよかった」とカートは回想する。「けれど、あの旅行のときは落ち込んでいた。たいていの作家は自己主張が強いけど、レイはちがう。いつも人の話に耳を傾け、それに応えるように自分の物語を話して聞かせた。でも彼が書いた文章から判断すると、あのときは何もできない状態に陥っているみたいだった。自分が無力だと彼自身が感じていたのかもしれない。でも酔っ払っているときをのぞけば、彼はとても有能な男だった」
(略)
[高揚していた妻とはちがい]
三十歳になったレイにとっては、パーティーはすでに終わっていた。「金もなく、家もなく、幻滅し、とにかくゆきづまっていて――貧乏白人みたいな態度だった」と彼はあとでジョンソンに送った手紙に書き、「客としては最低だったと思う」と謝罪している。

つづいて文無しでロスの義妹エイミー夫婦宅に転がり込む

 エイミーはレイのために、シネラマ・ドーム劇場でプログラムを売るアルバイトを見つけてきた。それは楽な仕事のはずだった――大きな声と、ちょっとした芝居っけがあり、すばやく釣り銭を出せればできる。だがレイは呼び売り商人としては失格だった。ロビーの片隅で山と積まれたプログラムの横に立ち、ちらちらとまわりを見ながら、「プログラムはいかがですか」と誰にも聞こえない声でつぶやくだけだった。
(略)
カウンターカルチャー系の新聞「オープン・シティ」には毎週、「ある変態男のノート」のタイトルで、当時はまだ無名の詩人で郵便局に勤めていたチャールズ・ブコウスキーの短編や論説が掲載されていた。
[69年の小説、フィリップ・ロス『ポートノイの不満』、ヴォネガットスローターハウス5』、そしてベストセラー『ゴッドファーザー』]

ゴードン・リッシュ登場!につづく。