レイモンド・カーヴァー評伝

父と母

[父のC・R・カーヴァーが]自分が不運つづきであることをぼやいていた。「俺のやることは、何一つうまくいかないんだ」と言いながら、言葉に熱が入って彼は手を前にのばした。彼の甥のドン・アーチャーによると、まさにその瞬間、「鳥が彼の手の上に糞をした。レイモンド叔父さんは、まばたきもせずに言ったよ。『ほら、言ったとおりだろ!』 ってね」
(略)
[母]エラは驚くほどの熱意を持って仕事に取り組み、絶えず働いていないと落ち着かないようだった。頻繁に転職し、カフェや小売店、果物倉庫で数週間から一年間働いた。(略)「自分の殼に閉じこもる人だった――自分や息子たちの面倒は見るけど、ほかの人には関心がないみたいだった。(略)
C・Rが大酒を飲むと、エラはますます仕事に打ち込むようになった。(略)
 カーヴァーは、職を転々とする母の疎外感を察していた。そして低賃金で働く誇り高い女たちのことを、同情を込めて書いている。彼のフィクションにはウエイトレスがたびたび登場する

狩猟

[1951年祖父母を亡くし動揺するレイのために父は同僚のフランク・サンドマイヤーに息子を狩に連れて行ってくれと頼む。『怒りの季節』『隔たり』のモデルになった]
[『隔たり』の主人公の少年の父親は死んでいる]
レイの父はまだ健在だったが、サンドマイヤーは彼の心の隙間を埋めてくれる存在だった。C・Rは体力が衰えており、慎重な性格だったが、サンドマイヤーは屈強で勇敢な男だった。(略)
[レイは]「ひどく神経質でびくびくして、せっかちで頑固だったよ。とにかく気が短かった。でも目標を実現する意志の強さは持ち合わせていて、そこは問題がなかった」(略)
釣りや猟に熱中し、屋外にいるだけで、レイは[酒乱の父・両親の不和という]家庭内の緊張から解放され、ほかの男たちと友情を育み、自分の技術と成功に誇りを持ち、大地と一体感を持つことができた。鴨や雁、高地の動物の狩猟は、「私の日々の感情に影響を及ぼした。私はそれについて書きたいと思った」とカーヴァーは語っている。しかし、感情の接点となっているのは暴力だった。魚を釣り上げたり鴨を撃ち落としたりすることによって、彼は日々の欲求不満や激しい怒りを打ち砕いていた。

高校時代

地面に足をつけているのを見られるくらいだったら死んだ方がましだとたいていのヤマキの若者が思うような年齢をとうに過ぎても、彼は町なかを歩いたり自転車で走ったりしていた。
(略)
 不良のふりをすることはあっても、レイと友人たちのほとんどは、言葉を愛する若者だった。独自のロゴス中心主義を育んでいた彼らは、男は口数が少ない方がいいとされていた地域では特異な存在だった。(略)
彼は自分のことを「変わり者で、いつも図書館に入り浸っていた。本を抱えて帰るところを見られるのがちょっと恥ずかしいと思っていた」と語っている。(略)
[高校のラジオ制作というクラスで]レイがとくにおもしろがった課題は、インタビューの録音を編集し、意味をわざと取り違えさせるために質問と回答の順番を変えてつなぎ合わせ、ユーモアやプロパガンダを作り出すというものだった。[教師の]シェルトンはのちにカーヴァーのフィクションの短い台詞の切り返しに気づき、もしかしたら「彼はいつも人を観察し、人の話を聞いていたあのクラスで会話を聞く耳をきたえたのではないか」と考えた。

パーマー通信講座

[父が25ドル払い通信講座を受講]
受講生が課題を郵送すると、赤鉛筆でコメントが書き込まれた原稿が送り返されてきた。(略)
提出前のレイの作品を読んだジェリー・キングは、こう回想する。「レイは、誰かの自動車のマフラーの熱さについて――いや、逆だったな――ピストルの銃身が、土曜の夜の安物のマフラーより熱くなっていた、と書いていたよ」。
(略)
パーマー通信講座は、二つの点を何度もくりかえし強調した。真面目に努力し、レッスンを順番にすべて完了すれば誰でもプロの作家になれるということ、そして小説は「売る」準備ができた段階で初めて「完成」したと言えることだ。
(略)
彼は作品をアウトドア雑誌に送り、出版社とのやりとりのために私書箱を借りた。ある友人は、彼が「勢い込んで郵便を取りにいって、断り状を何通も持って出てきた。そういうときは、けっこう落ち込んでいたよ」と回想した。あるときなどは雑誌の販売部にまで原稿を送ったとカーヴァーはのちに振り返っている。
 カーヴァーの作品が持つ最大の長所は、その多くがパーマー講座の第一回のレッスンで推奨されていることだ。(略)良い短編小説は読者を登場人物の立場に置くものだということ、短編は長編小説より人気があること、そして優れた短編は無駄がなく、力強い表現が用いられる、と書かれている。

17歳の夏・妻との出会い

[いとこ談]「メアリアンは背が高かった。百七十三センチくらい。(略)私たちは夏のあいだはたいてい短パンで過ごしていたけど、彼女の脚はどこまでもつづいているみたいだった。美人で、優雅で、知的だった」
(略)
レイは、彼の友達にとっては不器用な「とんま」だったが、メアリアンの目から見ると、「テレビ広告に出てくる男の人みたいにハンサムで洗練されていた。クール・ジャズが流れている広告で、太い額縁の色眼鏡をかけているような人」だったという。
(略)
メアリアンから見たエラは、「絵に描いたような南部美人だった。『風と共に去りぬ』のスカーレットを見ればわかるわ。あれはエラの姿そのものよ」という。(略)「レイにとってエラは理想の母親で、レイモンドは理想の父親だった。やさしいところや基本的な性格は父親から受け継いでいたけれど、彼の――何と言ったらいいのか――強い意志や傲慢さ、ある種のプライドの高さや冷静さは、エラから受け継いだものだった。すばらしい自負心を持っているの」
 レイは甘やかされて育ったため、「いつでももっと多くのものを欲していた」とメアリアンは考えている。

結婚、娘の誕生

[製材所での怪我による敗血症、鋸の目立てに使う道具による鉛中毒、鬱病、アル中、などにより父は神経衰弱に]
クリスティンの祖父クリーヴィー・レイモンドは、二階上の精神科病棟に入院していた。おじいさんになったんだよ、とレイが彼に知らせると、四十四歳のC・Rは、「おじいさんになった気分だよ」とこたえた。

師・ジョン・ガードナー

[高校卒業後いくつかの仕事、ちょっとの入隊等あってから1958年大学へ。創作科教授は新任のジョン・ガードナー博士。]
 当時は誰も知らなかったが、ガードナーはこれより十三年後には小説家として華々しく成功し、長い白髪を肩までたらし、黒いモーターサイクル・ジャケットをはおった姿で「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を飾ることになる。(略)二十六歳のガードナーは、文学に真剣に取り組み、自らの文学的思想を実践し、それを説くことに日夜情熱を傾けていたからだ。三年後、ガードナーにチコ州立大学を去るよう促した学長も、「私の見たところ、お前は競走馬らしい。しかし、それよりもこの大学に必要なのは、馬車馬なんだよ」と述べた。
(略)
[学生を集めたガードナーは]
カーヴァーの回想によると、「ここには作家になるために必要なものを特っている者は一人もいないと思う、と彼は言い放った――彼の見たところ、作家になるための内なる炎を抱いている者がー人もいないと。それでも彼は私たちのためにできるだけのことをすると約束した。〈中略〉これから旅に出発するから、帽子が吹き飛ばされないようにしっかり押さえておけ、と彼は言った」
(略)
 まるで雷に打たれたみたいだったよ。〈中略〉それまでに出会った人物とは、そもそもの成り立ちからちがうような気がしたんだ。彼はとても力になってくれた。〈中略〉それに、そのころの私は、何でもどんどん吸収する時期だった。彼のひとことひとことが血となって私のからだの中を巡り、私のものの見方を変えた。
(略)
 その学期の課題は、一篇の物語を書き、ガードナーが納得するまでそれを何度でも書き直すことだった。ガードナーが学生の原稿を何度も読むことをいやがることはめったになく、この過程を通じて彼は「作家というものは、自分が何を述べたかをたしかめる継続的な過程の中で自分が何を述べたいかを見つけるものだ」ということをレイに教えた。ガードナーは、伝統的な構成で組み立てた物語を好み、構成を図に描いてみせた。カーヴァーは、「そういう方面のこと」には興味を持たなかったものの、書く上で大事なことは自己表現だけでなく、優れた文章は、特定の形式にのっとって書くことに真剣に取り組むことによって生まれるものだという教訓を得た。

「彼は私が書いたものを真剣に受け止め、細かいところにまで注意して読んでくれた。どうしてそこまで、とこちらが恐縮するほどだった。彼が私の作品について述べる批評には、完全に意表を突かれたよ」
(略)
ガードナーがすべての物語に適用する一つの原則があった。それはすなわち、「言葉や感情に誠意がなく、作者が知っているふりをしたり、ごまかしたり、自分がどうでもいいと思っていることや信じていないことを書いたりしたら、誰もその作品には興味を持たない」というものだ。
(略)
「人間というものは、おもしろい。彼らの話をよく聞くんだ。街に出ろ。誰かの家のドアをノックしろ。アパートを探していると言えばいい。そして、ただ話を聞くんだ」とガードナーは言った。
(略)
 カーヴァーがガードナーから学んだもっとも重要なことは、情熱を持って真剣に取り組んでいる作家であっても、作品が出版されないこともある、ということだったかもしれない。(略)[ガードナーのオフィスの]山と積まれたその原稿を見たおかげで、それから何年も希望を持ちつづけ、辛抱強く書きつづけることができた。

1960年夏、ジョン・ガードナーから離れ、ハンボルト州立大学でリチャード・コルテス・デイのクラスに

「彼が好んで話題にするフィクションは、チェーホフカフカヘミングウェイのもので、彼の話の内容は、私自身がよく話すことと似ていた。つまり、『彼がここでしていることを見ろよ!』とか、『いったいどうやってこんなことをやったんだろう?』というようなことだ。彼はいつも、物語がいかにして語られるかということに興味を持っていた」 デイはカーヴァーに、もっと身近なところに題材を求めるべきだとアドバイスした。それからのカーヴァーは、「製材所の労働者の話や、貧困に追いつめられ、少しずつすべてを失う夫婦や子供たちの話を書くようになった」という。

パラノイア

「もしかしたら、カフカドストエフスキーに感化されたのかもしれないな。二十代の半ばでレイは、世の中は危険なところで、誰も心からは信頼できないと気づいたみたいだった。レイは、『やつら』(警察、政府、あるいは彼の家の前を通って学校へ向かう高校生たち)が、何かよからぬことをくわだてているんじゃないかと警戒して、わけもなく恐怖に襲われることがあった。だから窓のブラインドを下まで降ろしていた。(略)
あるときには、レイは子供用の小さなスーツケースを持って、デイの家にやってきた。「『助けてくれ――やつらが追ってきたんだ』と言うんだ。北に逃げるから、ヒッチハイクができるところまで連れていってくれ、と頼まれたよ。(略)
ただのパラノイアだよ。だから、逃亡する必要はないとなだめたんだ」
 レイの被害妄想は、感じやすく、暗示にかかりやすい性質から生まれたもので、おそらくは飲酒のせいで悪化したのだろう。だが、彼の不安には根拠があるものもあった。1961年にベルリンの壁の危機が発生し、陸軍予備軍が召集されると、レイは自分が陸軍予備軍の義務を果たさず、徴兵委員会とも連絡を取っていないことを思い出して不安になった。

明日につづく。