時代劇の作り方

杉良『一心太助』から『鬼平』まで、能村庸一プロデューサーが自身の手掛けた時代劇について語る。

時代劇の作り方 プロデューサー能村庸一の場合

時代劇の作り方 プロデューサー能村庸一の場合

巻末に石橋蓮司と著者の対談。

以下全て石橋の言葉

[『御家人斬九郎』での踊りがうまかったと言われ]
児童劇団の時から日本舞踊だけは続けてきたから。藤間流の。(略)だから、基本的な所作は全部出来るわけよ。だから、踊れるけど、それを潰して、崩してやってる。それが、勝さんにはすぐに見抜かれたけどね。「おまえは出来るのに、敢えてやらないんだな」って。役者を辞めようかと思ってた時もあったけど、踊りだけはなぜか続けてたんだよね。Gパンにリーゼントのプレスリーみたいな格好の頃でも、日本舞踊だけはなぜか続けてたんだよね。で、名取りになる時に、お金が凄くかかるんで、「ああ、じゃあもういらねえや」って。それでやめたんだ。(略)男優さんがやると、オカマのふりをするけど、俺は普通に出来ちゃう。オカマのふりなんて全然しないで、舞踊の要領でスッと出せるわけだよ。時代劇でも、着物を着た時の二枚目の立ち姿も去り方なんかも、呼吸で分かってるわけ。(略)
(中村)吉右衛門さんと話をしていて物凄く分かるんだ。もちろん勘三郎もいいけどさ、勘三郎は自分自身を崩すんだよね。言ってみれば勝さん流の芝居の持ち込み方だけど、吉右衛門さんの芝居ってそういう崩しをしないで、スッと普通に落としている。

[『清水次郎長物語』の黒駒の勝蔵]
あの頃ね、ちょっと月形龍之介さんの芝居を真似ようって、(北大路)欣也ちゃんと一生懸命やってたんだ。彼が父親の市川右太衛門さんの真似をし、俺は月形さんの真似をするなんて言って、二人で作品観たりしてね。「ここは間を長くとろうよ」とかってやったんだけど、どうも真似できなかったね。(略)右太衛門さんが語りかけた時に、月形さんって「な〜〜〜〜に〜〜〜〜〜」って言いながら振り返る。そのぐらい芝居の間が長い。それでいてリアリティがあるんだよ。『旗本退屈男』という映画の空間の中では、リアリティがあるわけ。それで「やってみよう」となるんだけど、どうしても本番になると「なに?」って言っちゃうんだよね。頑張ってやっても間が持たないんだ。よっぽどの自分の中のエネルギーを出さないと出来ない芝居なんだ。その凄味は本当に思いましたね。

本文の方は。

夜8時ドリフの裏なのに地味過ぎ、和田アキ子とかをゲストに出せとスポンサーから圧力かかるも断固拒否。

父親の小兵衛役は、池波原作のモデルは中村又五郎だけど(略)[スケジュール的に無理、フジテレビは辰己柳太郎とか森繁を挙げるも、池波が却下]
三人の名前を挙げてきた。まずは「田村高廣を老けさせてやる」というのが先生の案でね。あと木村功、それから山形勲と。(略)で、スケジュール的に山形さんになった。

三船敏郎

三船さんという人は本当に几帳面で、あんな大スターなのにわがままなんか全然言ったりしない人で、三船プロの撮影所へ行くと、社長自ら、その辺の部屋を掃除していたりする。我々に対しても非常に腰が低くて、時々ボソッとダジャレなんかを言ったりするような素朴ないい人だった。撮影の時とかも泰然自若とした感じで出番を待っているし、それこそ手がかからない。(略)あんな大スターなのに、ヨイショしたりする必要のない人なんだ。

弐十手物語』の失敗

[名高&泉谷しげるでヤング層狙い、東映時代劇の常識を打ち破る意気込み]
しかも、あそこの神様である萬屋錦之介さんを付き合わせたんだから、「なんて企画だ」と思われたらしい。錦之介さんは病気が治ったばっかりで、試運転みたいなところもあったんだけど、非常に不満だったみたい。後で聞いたら、渡辺謙さんが出ていたことも覚えてないって言うもんね。錦之介さんが、「渡辺謙の梅安はいいね」って言うから、「『弐十手』に出たじゃないですか」と周りの誰かが言ったら、「えっ、あれに出ていたか」とか。
 とにかく、東映の拒否反応が凄かった。

忠臣蔵』オープンセットの高い塀が突風で仲代の方に倒れ、全てが終わったと思うも、寸前、勝野“テキサス”洋が仲代の腕を引っ張り、セーフ。

「勝野君は僕の命の恩人だ」と仲代さんも後で語っていた。あの事件が外に漏れなかったのは仲代さんの寛大さによるものだね。感謝しています。