1900(明治33)年開催パリ万国博覧会で出会った、「アール・ヌーヴォー」が日本図案界に影響を与えた。
- 明治三十年代京都の図案集と「図案の芸術化」(土田真紀)
津田清楓、職人からの離脱に失敗
[明治36年『うづら衣』]
もともと画家志望の青楓が、生計を立てるための手段として慣習に従い漫然と描いてきた図案を反省し、「自己の図案を作らねばならん」という自覚をもって制作に臨んだ初めての成果が『うづら衣』に収められた図案であった。「こう成ると写生が必要で図案は元来想化を尚ぶ物だとしても初めはどうしても写生からやらねばならんそんな考からして矢営付近のいなかを材料にして写生図案がやって見度い様になり日曜の十二時間を利用して久し振で筆を採ったのが即今度のうづら衣である」というように、青楓にしてみれば、従来のように過去の図案を下敷きにしたアレンジということを避け、戸外での写生から出発して「自己の図案を作」ろうと懸命に試みたはずであったが、最初の二巻が売れず、五巻の予定が三巻で終わることになり、「今後の著書は矢張以前の様な職人的図案を少くも半分は加える事にしてやって行こうと思う何と云っても食わずに働く事は出来ない」という顛末に終わった。
(略)
「僕のこれ迄やっておった事を考えると全く他動的で自己の感想を主眼として図案を作ると云様な事は夢にも考えなかった皆世間の嗜好に依った物許りで云わば他人の図案を作っておったのである」、その結果として「藤原時代の図案もあれば元禄調の図案もある支那やギリシャを模倣した物もあり西洋を焼直した物もある」と述べている。
(略)
『うづら衣』では、「僕の愛している宇治川の周囲にある畑、ヤブ、森、山、宿場、水車、ハネツルベ、ウリ、ナスビ、スギナ、ゲンなどをモデルとして」と述べているように、当時青楓が駐屯していた兵営付近の身近でありふれた風景や草花をモティーフにしている、青楓の言のとおり「写生」に忠実であろうとしているせいか、モティーフの構成は絵画的で、それを図案化する手法にも、これまでの青楓の図案にみる四条派風の絵画的意匠や同一文様の繰り返しといった型を抜け出そうとする工夫が確かに見て取れる。また、多くの図案でアール・ヌーヴォーの影響を思わせる思い切った単純化・抽象化も試みられている。全体として未だ試みの段階に留まっており、明確な個性を感じさせるには至っていないものの、絵画的表現のうちに自然の風景や草花に対する青楓独自の視点も感じられ、従来の匿名的図案とは確かに異質に思われる。
アール・ヌーヴォーに影響を与えたジャポニズム、
[パリでアール・ヌーヴォーを体験してきた浅井忠を訪ねた青楓らに、浅井は光琳の名を出す。古香が自作の煙草入れを見せ]
「こんな突飛な物許りやつて居るのです」と言ったのに対し、浅井が「光琳なんかから見るとこらまだ突飛ぢやない、光琳の蒔絵は賓に突飛の極ですナア」と答えたというのである。指摘されているように、浅井忠はパリで『光琳百図』を購入している。つまり浅井はアール・ヌーヴォーに出会うとほぼ同時に、アール・ヌーヴォーを通じて光琳(さらには光悦、大津絵、浮世絵など)を再発見したのであり(略)
浅井の一言によってアール・ヌーヴォーに向けられていた三人の関心が、彼らにとってなじみ深い琳派に引き戻されたであろうし、やがて琳派の蒔絵作品の再来を思わせる浅井と古香の合作につながっていったのであろうと推測される。
(略)
[部外者浅井と京都の職人三人のズレ。青楓らが]
図案家の職人主義的な制作態度を変えること、すなわち「図案」と呼ばれるようになった領域の根本的なあり方の変革を求めていたのに対し、浅井の助言や批評は、あくまで図案制作の手法上の問題に限定されている点に、そうしたギャップははっきりと現れている。浅井訪問の際、光琳の造形の突飛さを指摘する浅井に対し、青楓は「光琳なんかヾ描くと奇妙な物でも梅なら梅に許してくれるが僕等が描くと世間の奴が許さぬので困る」と答えている。青楓たちにしてみれば、浅井もまた当時の京都において光琳と同じような扱いを受けていると感じられたのではなかろうか。実際、客観的にみると、『うづら衣』や『小美術』の図案より、琳派や大津絵を積極的に取り入れようとしている浅井の図案の方が、はるかにアール・ヌーヴォーに近く、むしろ西洋的である。にもかかわらず、浅井の死後『黙語図案集』によってその図案における仕事は顕彰され、浅井は「明治の光悦」とさえ呼ばれた。一方、青楓の『うづら衣』は失敗に終わり
(略)
図案集も図案も明治三十年代の京都ではあくまでも実用的なものでなければならず、そのためには、光琳や浅井忠という一部の特別な存在を除き、図案家個人の「自己図案」である必要はみじんもない
神坂雪佳
「関西図案界の二大流派」のうち、「高等工芸校の趣味」の中心が浅井忠とすれば、もう一方の「美術工芸学校調子」の中心的存在が神坂雪佳であった。そのどちらでもない図案を目指した津田青楓もさすがに雪佳の図案は認めていたらしい。
(略)
雪佳のアール・ヌーヴォーヘの評価は非常に手厳しく、自分自身は「最初より新美術の厭うべきに嘔吐を催す程なれど」とし、ヨーロッパでもすでに流行を過ぎた取るに足りぬものであることを強調している。そしてパリを訪れる前には注文に応じて「新美術」を応用したこともあるが、それは本心からではなく、「今後も余は新美術を応用するの意志なし」と断言している。この言のとおり、京都の工芸を知り尽くしていたであろう雪佳にとって、ジャポニスムの影響がそこここに見て取れるアール・ヌーヴォーが珍しくもなく、取るに足りないというのは、負け惜しみではなく本音であったといってよいだろう。ただ、だからと言って雪佳がアール・ヌーヴォーにライヴァル心を燃やしたことなどなかったと言い切ってよいだろうか。アール・ヌーヴォーに出会って、さらっと受け流すというのではなく、むしろ敵意を剥き出しにしているところをみると、雪佳にとっても少なくともアール・ヌーヴォーは無視できぬ存在となっていたのではないかという疑問が湧く。
(略)
雪佳の場合、青楓たちと違い、「図案の芸術化」即「自己の図案」の確立ではなく、職人主義も否定すべきものではなかった。後者にとってすでに西洋型の芸術家が理想型となっていたのに対し、雪佳にとっては、画家であり図案家であり工芸家でありプロデューサーでもある光悦や光琳こそが偉大な芸術家であり、彼ら優れた先達の貴重な遺産をいかに受け継ぐかが問題であった。
もろガレな1909年図案
和製ロートレックな『黙語図案集』