漣健児と60年代ポップス

1998年の本なので糸井&大瀧インタビューもその時期と思われます。 

漣健児と60年代ポップス (Roots 60’s)

漣健児と60年代ポップス (Roots 60’s)

  • 発売日: 1998/12/10
  • メディア: 単行本
 

草野昌一は1951年ミュージック・ライフを創刊、59年に「赤鼻のトナカイ」等クリスマスソング集を新田宣夫名義で訳詩をつけ発売。60年「ステキなタイミング」の訳詩を漣健児名義で。

“漣”は「歌が漣のように広がっていくように」という思いから、また“健児”は石神井中学校在学中に“石中健児”と呼ばれていたことに由来

ミュージック・ライフ

[創刊時参考にした]モデルはないです。
(略)
[既存雑誌への不満]はありましたね。「ダンスと音楽」にはダンスのステップばっかり書いてありましたけど、僕はそんなことを知りたいわけじゃないのに、肝心な情報は2ページぐらいですし。「スウィング・ジャーナル」には載っていない、タンゴのことも知りたいし、とかね。
(略)
 最初は雑誌全体のことが見えていなくて、とにかくデキシーランド・ジャズからアルゼンチン・タンゴまで、何でも掲載していたんですけど、だんだん読者のことがわかってくる。読者の声が、編集方針に反映されてくるんです。例えば藤沢嵐子さんはすごくうまいシンガーだけど、彼女を載せても別に部数が伸びるわけではない、ということを肌で感じてきましたね。
(略)
 まったくの自己流ですよ。僕はアマチュアみたいなもので、しかも音楽という狭い世界だけでやっているわけですから。あるのは素人精神だけでした。だから、例えば誤植があっても「誤字?そんなの関係ない」という感じで、全然平気でしたから。校正の時に、切り貼りしてあった1センテンスが丸ごとなくなっちゃっても、「これどこに入るんだっけ?もういい、捨てちゃえ」みたいな(笑)。

詞作の秘密

「悲しき街角」だったら、まず原曲のストーリーに合わせて、タイトルを5通りぐらい挙げるんです。そして、それは一旦置いておいて、歌詞を書き始める。その時は、もちろん飯田久彦さんが歌うことを前提に書いているわけですから、書いていくうちに「ああ、この曲のタイトルは『悲しき街角』だ」と決まっていくんです。
(略)
最近のバンドの人たちに、「いつもどうやって詞をかいているの?」と聞くと、「なんとなくギターを弾いて、メロディを作りながら……」なんて言うんですが、それはダメだよと。「なんとなく」だと、鼻歌になってしまうんです。
 少しでも深みのある詞を書こうと思うなら、まずタイトルから書くのが第一。タイトルの候補がいくつか出たら、それに合わせてシナリオボードを書く。音を探るのは、それからですよ。音に乗せていくことで、自然に言葉が固まってくれば、最初のシナリオボードでは、7・7・6で収まっていたのが、7・7・7になるかもしれない。その時は自然にタイトルも決定できると思います。
(略)
 常にオーダーをいただいた方のイメージやキャラクターを、詞の内容に反映させていましたね。もう、原詞はこっちに置いといて。「あの娘はルイジアナ・ママ〜」とは、飯田久彦さんが歌うんじゃなきゃ、書き出さないわけだから。

漣健児トリビュート

漣健児トリビュート

 

糸井重里

人間みな、ある時に気づくんですよ。音楽というのは思想じゃないんだって。(略)
僕たちは何も伝えてない音楽を充分楽しんできたくせに、ある時期から急にラブだのピースだのと言い出して、ミュージシャンの思想を全部まるごと受け止めたような気になってましたよね。シングルからアルバムになる時代を通過して、音楽にどんなメッセージが乗っているかを、まるでクイズのように解いて、全部そのまま真似していたわけです。でも、いい年してやっと気づくんですよ(笑)。その時に、今まで本当にごめんなさいと、漣さん始め、色々な方の作品に対して反省するんです。
(略)
僕はほっとくと暗くなっちゃうんですよ。それを何とか自分の中にある明るい部分とやり取りをして、どのあたりのカラーに落ち着かせるかを、自分なりに決着をつけるんです。たぶん漣さんも、そうじゃないかなあ。陰の部分を持たないで、明るい光だけのものは作れませんから。(略)最近の曲の歌詞は、その光と陰の部分がなくなっちゃったから、つまらないんですよ。なだらかじゃないですか、みんな同じトーンで。どちらかと言うと、詞ではなくて、「みんな前向きに生きていこう!」ということを謳った企画書みたいだから。

山下達郎

洋楽のメロディに日本語の詞を乗せるという、我々が今も変わらずやっていることは、漣健児と岩谷時子、このお二方が書かれた詞の中で、ほとんどすべてが完結していたといっても過言じゃないんですよ。例えばロックンロールなら漣さん、シャンソンだったら岩谷さん、といった感じで、ほとんどお二人の独壇場でしょう。その後のロックやフォークにまで至る、僕たちの言語感覚は、当時のカヴァー・ポップスの中から生まれたんだと思います。(略)
僕自身、80年代までは歌詞に意味なんてほとんどいらないと思ってたんですよ。まあ、だんだん年をとってくると(笑)、そうでもなくなってきて、意識的に自分で詞を書くようになりましたけど、それでも言葉がスムーズに流れることの方を優先させますね。何を歌うかという意味論ばかりにとらわれていると、重たくなるというか、実際に歌ってみる時に違和感が出てくるんです。

大瀧詠一

 いつ漣健児さんを正当にようやくわかるようになったのかと言うと、ずいぶん後だね。
 はっぴいえんどで自分で作るようになって、いざ作り出すとこれは大変なことだなっていうことがわかって、先達はどうしてたんだろうかっていうようなことを考え始めた時に、これはすごいことしていた人がいたんだと気がついたんだ。

安井かずみ

「ステキなタイミング」のヒットでオファー殺到するも、雑誌の編集も忙しく、フェリス在学中のみナみカズみと分担することに

みナみカズみの名付けの親は、もちろん漣健児。「安井かずみじゃ名前が安くてよくないよ、南区に住んでいるから“ミナミカズミ”、ってどう“み”の字が3つ重なるから“み”はひらがなにして。みナみカズみ“」と言ったとか、

ビートルズ

スリー・ファンキーズの担当だった、実弟・草野浩ニディレクターから[「抱きしめたい」の訳詩を]頼まれたものの、漣健児は「今までのポップスとノリが違うし、リヴァプールなまりは日本語にならないから、難しくて書けないよ」と一度は突っぱねます。しかし、みナみカズみからの勧めもあり、最終的には手掛けることに
(略)
[マンフレッド・マン他の]マージー・ビートにも詞を付けている漣健児ですが、ビートルスを筆頭とする英国グループ勢の曲は「やっぱり違うな」と感じたそうです。「ストーンズの作品にも挑戦したけど全然書けなかった。今まで鉛筆で書いていたのに、急にマジックで書いている」ような違和感を覚え、「もう漣健児の時代じゃない」と思ったそうです

初ドライヴ

坂本九ダニー飯田とパラダイス・キングに紹介してあげたことに感謝した九ちゃんのお母さんが、自分の家で使っていた外車ルノーを無期限で貸してくれたのです。(九ちゃんの実家は料亭で自家用車を何台も所有していました。)「ウレシイー」とばかり免許もないのに川崎に取りに行くや、前進の仕方だけ教えてもらって、ギアをサードに入れ、そのまま信号もブッチ切って両国まで帰ってくるという今考えればヒヤヒヤものの初ドライヴを体験したとか。