ホームズの科学捜査を読む

コナン・ドイルが参考にしたであろうヴィクトリア時代の法医学学話あれこれ。

死体解剖

[公式に提供される処刑死体だけでは足りなかったので、医学校は近隣の墓から違法に死体を調達した]
入手のしかたがうさんくさい死体をあまりに熱心すぎる捜査員から隠さなければならない場合に備えて、解剖室のそばに隠し場所があった。(略)
解剖の第一段階は、解剖用死体から身元のわかるような特徴を取り除いて、墓がからっぽなのに気づいて逆上した縁者がその死体の所有権を主張したりすることは絶対にできないようにすること。着衣があれば廃棄された。法の規定で、死体を盗むことは軽罪だが、衣類の窃盗は重罪であり、それに対する刑罰は厳しかった。
 たいていの解剖用死体は――盗んだものであればなおさら――裸で、麻袋か樽に入れられて届く。遠くから運ばれてきたものだと、アルコール漬けで梱包されて、「豚肉」や「牛肉」と慎重に表記したラベルを貼られていた。子どもの死体は「小型」と呼ばれた。

法病理学の進歩

法病理学の訓練も受けていなければ経験もない三人の医者が、川で見つかった少女の身元と死因を特定する任についた。医者たちは、ひどく青白い肌色の、手も足もやわらかくてきれいな爪をした女性の身体を前に熟考した。性器がかなりふくれあがっている。(略)
 こうした観察結果に基づいて、医者たちはおごそかに結論を報告した。死亡した少女は若くても18歳で、それよりやや年上かもしれない。特権階級の出である。肉体労働に慣れていないが、性器が膨張しているところからは、性交渉には慣れ親しんでいたことがうかがわれる。死因は貧血。
(略)
[再鑑定]
経験豊富なブダペストの医師団は、死体は骨の未成熟さからして15歳未満の女性のものだと主張した。性器がふくれあがったのは、性交渉ではなく水中に長期間漬かっていた結果であり、非常に色白なのは皮膚表層が水ではがれて青白い真皮のみ残ったことによる。真皮は皮膚内部の層で、そこから血液がにじみ出ていった。
 異様にきれいな手足の爪は、爪などではなく爪床、外側の部分は川の流れがもぎとってしまったのだ、とも指摘した。さらに、水がひどく冷たくて死体の腐敗が進んでいないため、彼女がその凍てつく墓に三カ月いたということも大いにありうる、と

元祖変装名人ヴィドック(1775年生)

[革命後の恐怖政治、ヴィドックは]
狂気にとりつかれた人々が、自分が訴えられるより先に近所の人たちを訴えようと躍起になっているさまを目にしたという。なかでも、ドゥ・ヴュー=ボンという不運な人物は、ペットのオウムがどことなく「国王万歳」と聞こえないこともない鳴き方をしたというそれだけのことで、首をはねられたという。(略)
 ヴィドックは数年のあいだ、法に抵触するすれすれの綱渡り人生を送った。治安妨害から密輸までのさまざまな罪でたびたび逮捕、収監されては逃亡し、逃げることが習い性になって、そのために手の込んだ変装をする。(略)
[ナポレオン帝政時に逮捕されたヴィドックはスパイとして生きることに]
自分が調査した犯罪者たちの手口について詳細な報告書を作成していった。当時としては革新的なことだ。犯罪者たちの身体的特徴や仲間たちのことも書きとめる。(略)大勢の元受刑者たちを助手として雇って訓練し、彼らを刑務所に配置して情報を入手するのだった。彼の組織した工作活動が上首尾をあげるものだから、フランス政府はそれを発展させることにした。それが初期のパリ警視庁となり、やがて世界に誇る治安組織へと成長していった。(略)
[有名になりデュマ、ユゴーバルザックらとも親交ができる。彼の『回想録』には小説の影響による潤色があるし、逆に小説家達もヴィドックの体験をネタにした。]
クルミ色の染料で顔色を浅黒くしたり、蜜蝋でにせの水ぶくれをつくったり、糊状にしたコーヒーかすで顔に傷を模造することもあった。

1910年の探偵船長

 モントローズ号という名前の船がゆっくりとヨーロッパからカナダヘ向かっていた。船長はハリー・ケンドール。探偵小説に興味があって、細かいところまで鋭く観察する人物だった。その彼が、ロビンソンという名前の乗客二人のことをおかしいと感じた――父親と息子という組み合わせだった。父親のほうは唇の上の皮膚に青白い一画があって、つい最近までそこに口ひげがあったようだ。鼻の両脇にかすかについている跡は、このあいだまで眼鏡をかけていたしるしらしい。
 ロビンソン坊ちゃんは16歳ということだったが、声がやけにかん高い。歩き方が妙に思える。ケンドールは二人を綿密に観察した。若い息子の服は身体に合っていない――背中に裂け目があって、安全ピンでとめてある。父親は息子をやたらと気づかい、ディナーの席ではナッツの殼を息子にむいてやるほどだ。(略)
[妻殺しで逃亡中のクリッペン博士と見破った船長]
彼が航行させているのは無線の搭載を誇る数少ない船のひとつだった(略)
容疑者はよく甲板に座って帆桁上部の無線アンテナを見上げては、「なんともすばらしい発明だな!」と口にしていたという。(略)[船がケベックに着くと]
誰あろうデュー警部だ。港湾案内人に変装している。
 警部は甲板にいる《ロビンソン氏》に、心をこめてあいさつした。「おはようございます、クリッペン博士。……わたしのことを覚えておいでですか?」
 クリッペンはロンドンに戻り、妻殺しで有罪となった。

刺青

犯罪者の身元を確認する最初期の手法は、身体にしるしをつけることだった。(略)[死刑執行人は副業で]焼印を押したり鼻をそぎ落としたり、ときには手足を切断したり(略)
 ロシアでは、19世紀半ばになってもまだ、囚人たちの顔にはたいてい焼印があった――ひたいに大きな一文字、それといっしょに左右の頬にも一文字ずつが焼き付けられた。(略)
[一方で犯罪者自ら景気のいいフレーズを刻んだ]
ラッセンは、胸に彫った赤と黒のギロチンをひけらかしていた。(略)「おれは悪に始まり、悪に終わる。こいつがおれを待ち受ける最期だ」と、赤字の銘が添えられている(略)
「悪の星のもとに生まれる」、「現在がおれを苦しめる、未来はおれを怯えさせる」、「勝算なし」といったものから、すごんでみせる「くたばれ浮気な女ども!」、「復讐!」(略)
[ヴィクトリア時代ロンドンの上流階級のあいだに刺青が流行、チャーチルの母の手首には優美な図柄の蛇]

ベルティヨン式人体側定法

[十一の身体測定値に加え写真・身体的特徴etc、完璧なシステムではなく、手間もかかった]
それでも、飛躍的な進歩だった。(略)このシステムは産業化された国々の大半で広く標準となった。フランスに先を越されることを快く思わない英国さえ、ベルティヨン式人体側定法導入を検討していた、
 気むずかしくて内向型のベルティヨンは出世した。(略)
 1893年にはドイルが『海軍条約文書事件』で、ホームズといっしょに移動中のワトスンにこう語らせている。「彼はベルティヨンの人体側定法を話題にして、このフランスの学者を熱心に賞賛していた」(略)
[だがすぐに指紋鑑定が登場]

このベルティヨン、ドレフュス事件で専門外にもかかわらず登場し、軍事機密が記されたメモの筆跡をドレフュスのものと鑑定。「彼の名声が高かったため、説得力は絶大だった」。ドレフュスは有罪に。後に判決が覆り、「ベルティヨンの評判は地に落ち、文書鑑定への大衆の信頼感ははげしくぐらついた。」

1917年のスパムメール

 第一次世界大戦中の1917年、フランス、テュール市の住民たちが、たちの悪い匿名の手紙を受け取りはじめた。受け取り人たちは、たいていは性に関する変わった性質の、さまざまな不品行を責められていた。女たちは戦地に出かけている夫の不貞を知らされ、テュールから従軍している男たちは、放蕩三昧の妻を責める手紙を受け取った。(略)
笑い話にもならないのは、精神病院送りになるぞ、最後はそこで死ぬんだ、という手紙を受け取った男が、その後すっかり鬱状態をつのらせてしまった一件だ。
 悪意ある手紙は戦争中ずっと、20年代はじめになってもやまず、社会の空気を汚染した。
[容疑者は筆跡鑑定で有罪に。]

ニコチン

ヴィクトリア時代には機略縦横のものすごい治療法がふんだんにあった。患者を落ち着かせたり腸下部の痙攣を緩和したりするためには、煙草の煙というかたちでニコチンを直腸に注入すると有用だと考えられていた。ジョージ・B・ウッド博士は1860年に出版された『治療学・薬理学論――薬物学』で、その適量投与のしかたを解説している。開業医への助言にいわく、パイプか葉巻に火をつけ、漏斗を使ってその煙を、患者に煙を注入するという目的のためにつくられた巧妙な器具のほうへ向ける――一対のふいご状のごく単純な器具で、腸を傷つけないよう鼻口部に革がかぶせてある。

アンデッド

男性の死体のなかには、発見されたときに《野蛮な徴候》を示している、つまり、ペニスが勃起しているものがあった。ガスで膨張した結果に違いない。その同じガスのせいで死体が破裂して、地上にまではっきり音が聞こえることもよくあった。(略)こういったことが何もかも、《死にきっていない者ども》がいると信じ込む心を不滅のものとするのにひと役買ったのだ。