- 作者:ピエール・バイヤール
- 発売日: 2008/11/27
- メディア: 単行本
一見安易なビジネス本のようなタイトルだが、
ヴァレリーの文学概念を支える主要な考えのひとつは、作者が無用であるだけでなく、作品も余計だというものである。(略)
ヴァレリーの関心はしかじかの作品よりも作品の「観念」にあるのである。(略)
作品の観念への接近は、作品じたいにあまり近づかないからこそ可能になる。作品に近づきすぎると、その個別性のなかに迷いこんでしまうからである。
てな引用を読めば、中身を読まなくても大体の見当はつくし、まあそれで済ませて問題がないといえばない、仮にどこぞのパーティーwでこの本の話題になった場合、ヴァレリー薀蓄を披露して煙に巻いたとしても恥はかかないかもしれない。
既読と未読の間には大きな差があり、未読者は情報的に劣位にあると思いがちだが、そうとも言えない。読んでしまった事でスポイルされてしまったかもしれぬし、読書に費やした時間自体がロスであるかもしれぬ。そもそも実際にこの本を読んだのか、いや読んでいたとしても正しく理解しているのかも定かではない。
などということがこの本に書かれているかどうかは、この本を読んでみないとわからないと言えなくもないが、読まなくてもわかるということが実は書かれている、ということは読まなくてもわかるということが……。
実際に読んだ人間より、読んでいない橋本治の方が内容を把握しているという有名な話もありますが。
終わりあたりをチラ見してOKなのかもしれない。
読書のパラドックスは、
自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さをもち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。
(略)
いまや重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分自身とのさまざまな接触点だということになるからである。その場合、作品のタイトル、〈共有図書館〉における作品の位置、作品を語って聞かせる人間のパーソナリティー、そのときの会話やテクストのやりとりのなかで生み出される雰囲気など、数多くの要素が、ワイルドのいう口実として、作品にさほど拘泥することなく自分自身について語ることを可能にするはずである。
『特性のない男』に登場する帝国図書館司書
どうしてわたしが全部の本を識っているのか知りたいとおっしゃるのですね、閣下? そのことなら、むろん言って差し上げることができます。つまり、一冊も読まないからなのです(略)
有能な司書になる秘訣は、自分が管理する文献について、書名と目次以外は決して読まないことだというのです。『内容にまで立ち入っては、司書として失格です!』と、彼はわたしに教えてくれました。『そういう人間は、絶対に全体を見晴らすことはできないでしょう!』
上記司書が提示した
「全体の見晴らし」という概念
教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ
(略)
したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。
完読したとしても忘却してしまうのであれば、それは未読と同じなのではないか。
すぐに忘却してしまうモンテーニュはその対策として末尾に感想を書くことにした。結果、忘却した内容を思い出すため末尾の覚書にたよることになる。また自分の書いたことさえ忘れてしまうモンテーニュは他人が引用した自分の文章を読んでも、他人の文章のように思えてしまう。
これらの書き込みについては、そこでコメントされている作品を読んだことも、作品内容も、モンテーニュが覚えているかどうかは定かではない。この書き込みを再読するモンテーニュは、分裂した立場に身をおいているように思われる。彼が引用しているコメントは、真に彼のものだとはいえないし、まただからといって他の誰かのものでもない。(略)
極端にいえば、ここでは引用と自己引用の区別がなくなっている。これらの作家について自分が何を言っていたかを忘れ、自分が何かを言ったということすら忘れているモンテーニュは、自分自身にたいして他者となっているのである。そして、記憶の欠落によって自己から隔てられている彼にとって、自己のテクストを読むことは、自己をふたたび見出す試みにほかならない。
著者がピエール・シニアック『フェルディノー・セリーヌ』という推理小説から抜き出したある状況。
ホームレスの書いた小説がベストセラー間違いなしと確信した出版社社長はホームレスを罠にかけ逆らえないようにし、小説の共著になる。事態はさらに複雑。ホームレスが書いた草稿は駄作で、彼を保護したホテルの女主人が秘書代わりになって草稿をタイプする間に彼女が書き換えてしまったのだ。とある事情で正体を明かせない女主人はその小説の中で戦争中の対独協力者を告発している。こうして自分が書いたものではない小説の作者としてテレビ番組に出演することになった二人は本の内容に触れることを避けようとする。
この設定に対し著者が色々な考察をするが、これはこの本を読まなければ楽しめない、したがって読まずに済ませていいともかぎらない。だが、ピエール・シニアックの小説を実際に読むより、著者の考察だけを読んだ方が、有益なのかもしれない。
申し分ないと思っている本をこき下ろす方法
バルザックの小説から。読まずに批評したりする出版界に驚く主人公に、さらに指南するルストー
ルストーはつづいて、申し分ないと思っている本をこき下ろす方法を伝授する。それにはまず「本当」のことを述べ、作品を褒めなければならない。このように冒頭で好意的な批評にふれ、信頼感をいだかされることで、読者は批評家を公平だと判断し、その先を読んでもいいと思うのである。
次にすべきことは、ナタンの著作はフランス文学が現在とらわれている傾向を反映しているということを示すことである。(略)この傾向の特徴は、描写と対話の濫用であり、イメージの氾濫である。逆にそこには、フランス文学の偉大な作品をつねに支配してきた思想がない。(略)
こうして「思想の文学」と「イメージの文学」が対置され、ナタンの文学は後者に属するものとして貶められる。しかもナタンは模倣者でしかなく、うわべの才能しかもっていない。
(略)
しかもルストーは、一冊の本を葬り去る方法はほかにもあると言う。たとえば「奥の手」と呼ばれるものがそれだ。(略)記事の冒頭に取り上げる本のタイトルを掲げるが、本文ではひたすら一般的考察に逃げ、最後に次の記事で本に言及することを予告する、しかし次の記事なるものが現われることはない、というものである。
他にも夏目『猫』美学者の作り話ネタとかも出てくるが、これも読まないと楽しめないのであるが、教養があると読まなくても見当はつくので、読まずに済ませることも可能といえば可能、などということが書かれているかどうかは……。