磯崎新の「都庁」

都庁コンペでの師匠丹下と弟子磯崎の戦いを描いているが、そっちよりも建築家業界の実情の方が面白かったというか、(略)ケンチクカトイウノハドウモウサンクサイキガスルw。

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ

  • 作者:平松 剛
  • 発売日: 2008/06/10
  • メディア: 単行本

出来レースの都庁コンペ

出来レースと噂される都庁コンペ。なにせ都知事選で鈴木俊一の後援団体の会長をやったのが丹下健三。移転が決定する五年も前から鈴木&丹下は新宿新庁舎構想を共有していた。しかもコンペ審査委員会設立の発案者が鈴木の顧問である丹下。「出来レースじゃないコンペなんて、世界中どこにもないと思ってますよ」と笑い飛ばす磯崎ではあったが。
説明コンペ会場に現れた丹下は弟子の磯崎だけでなく、自身の師である前川國男さえ無視。事務所スタッフを前に「ぶっちぎりで勝とう!」と連呼する72歳の丹下。

  • 超高層一棟案

使い勝手がいいのはシングルタワーだが、都庁予定地は三つに分かれているのでツインorトリプルタワーが相場。ただ特例措置をとれば敷地を一つにして超高層一棟が可能になる。特例を好まない官僚体質を考えれば一棟案は冒険だ。かといって他の参加者に一棟案をぶつけてこられるのも怖い。そこでコンペ主催者への「質疑応答」を丹下は利用した。「質疑応答」で下手な質問をすると余計な制限事項が課せられたりするし、質問内容から他の参加者に手の内が読まれてしまうので大人しくしておくのが得策なのだが、あえて「本庁舎を超高層一棟案でつくってもよろしいか?」と質問した。当然答えは「不可」。これで他の事務所が超高層一棟をぶつけてくる可能性が消えた。
一方磯崎は都庁が超高層を望んでいるの知りつつ低層案を選択した。
審査結果は審査委員十名中五名が丹下、反対三名、白票二名。丹下の勝利は「ぶっちぎり」とはならなかった。
丹下最後の仕事となったお台場のフジテレビ社屋。これが磯崎の新都庁コンペ案にそっくり。
コンペ顚末はこれくらいにして、後は建築話。

  • 摩天楼

磯崎の卒論は超高層建築について。

指導教官は助教授だった丹下。

[1922年のシカゴ・トリビューン本社ビルコンペ落選案に超高層デザインのアイデアが百花繚乱]
磯崎がこのシカゴ・トリビューン社のコンペから学んだのは、「摩天楼というのは着せ替え人形と同じじゃないか」ということだった。一皮剥けば全部同じ鋼鉄の骨組みで、ただ表面に貼り付けるデザインが衣裳のようにくるくる変わるだけなのだ。
 あとは高さ競争だった。

黒幕・岸田日出刀

1929年30歳で帝大教授就任。同年『過去の構成』上梓。

 磯崎は言う。「岸田さんの『過去の構成』は、日本の近代建築の歴史の中で、最も評価されるべきものだと僕は思ってるんです」(略)
[三脚で全体像を収めるのが建築写真の定番だったが、岸田は手軽なライカ一眼レフで建築の部分を切り取って撮影]
岸田が焦点を絞ったのは、京都御所桂離宮など昔の日本建築の細い柱・梁の骨組構成、障子や連子窓のパターン、軽快な階段のステップといった部分だった。
 「で、それが、実は近代的な構成、コンポジションになってるわけね」
 岸田が初の渡欧で感得してきたヨーロッパ最新のモダン・デザインの特徴である軽快な幾何学的構成=コンポジション、つまり19世紀までの重厚な石造りの建築様式とは異なるそれが、実は日本伝統の古典建築に散見される構成、すなわち「過去の構成」に相通じる部分を持っている。こんな視点を岸田は恣意的に取り出したのであった。
[帝室博物館コンペにモダニズム・スタイルで臨んだ前川國男を推すも教授二年目で発言力もなく前川は落選。世代交代が進み帝大教授として絶大な権力を握った岸田は丹下健三を見出す。戦後になっても東大教授の権威は絶大であり、中央官庁・地方自治体の仕事すべてを岸田が振り分けていく。特に重用されたのが丹下。これが丹下健三黄金時代の仕組み。]

大東亜共栄圏原爆ドーム

[1942年、祝「大東亜共栄圏」として実際には建設しないアイデア・コンペ]
 建築より先に丹下がまず計画したのは道路だった。東京の皇居を出発し、富士山へと至る「大東亜道路」である。これを「主軸」として、その道路沿い、富士山の裾野に「大東亜建設忠霊神域」なるものを設ける。(略)主軸の大東亜道路を挟んで南側に広場を、北側には伊勢神宮にそっくりな形の社殿を置いて構成される。(略)
 富士山と皇居に伊勢神宮もどきの三点セット。大日本帝国侵略戦争をセレブレートするのにこれほど相応しい組合せはない。丹下の案は「ぶっちぎり」の一等に輝いた。(略)
 丹下健三は、都市計画的規模の大胆な構想力を駆使してコンペの基層に潜む構造を炙り出し(この場合は富士山や皇居が象徴する大日本帝国のイメージ)、さらにダメ押しとして審査員の覇権を握る人物の嗜好をくすぐり、狙い撃ちする([岸田が絶賛した]伊勢神宮、朝鮮神宮)。まだ弱冠29歳ながら、実に優れた戦略、まさに「老獪」である。(略)
[1949年原爆跡コンペ]
 今回、富士山に代わって、丹下が軸線のターゲットに選んだのは、原爆ドームである。
 (略)丹下は原爆ドームから敷地に、まっすぐ直線を引き下ろし、これを中心軸に定めると、この軸上に巨大なアーチと原爆記念陳列館を並べた。(略)
多少、変形は加わっているものの、軸線にせよ、日本の古典建築の構成をモダニズム建築に結びつける手法にせよ、丹下のデザイン手法は戦争中から一貫している。「国家」の唱える題目が、敗戦を境に「国威発揚」から「平和」に変わっただけだ。加えて背後に目利きの黒幕・岸田日出刀の存在。すなわち、丹下健三の建築家デビューは、戦前の旧東京帝国大学のシステムそのままに実現したのである。

原爆資料館

[1953年丹下40歳]まだ駆け出しの助教授だった。東大の建築学科では相変わらず耐震工学などのエンジニアリングを重視する伝統が支配的であり、戦中からのコンペの連勝にも拘わらず、丹下は学内では軽視される存在に過ぎなかった。(略)
 丹下の広島計画は以前から雑誌で図面や模型を目にしており、興味を持っていたけれど、実際に現地を訪れてみると、先入観は吹き飛んでしまった。(略)
[原爆資料館は資金難etcで放置状態]
磯崎が訪れた当時、そこはまだ荒れ放題の墓地だった。
 乱雑に墓碑が立ち並ぶ荒涼とした焦土の上に巨大なコンクリートの塊が鎮座している。
 「建築」という言葉が漂わせる整然とした秩序などとは無縁の物体だ。未完成のその建物が、磯崎には、むしろすでに朽ち果てつつある廃墟のごとくに感じられた。そして、その感覚は、彼がもともと裡に持っていた原風景と、どこか触れ合うところがあったのだろう。強く印象づけられた。(略)
[卒業後そのまま丹下の研究室に入った磯崎]

明日につづく。