クラブ・カルチャー史

真面目に引用箇所をチェックしていたのだけど、途中で“So what”な気分になり放棄。
歴代トップDJのプレイリストが載ってマス。

ミックスなんて問題じゃない

デイヴィッド・マンキューソ

 まるで機織りのように、マンキューソは異なる繊維を一緒に織り込み、複雑な音楽のタペストリーに仕上げる。レコードは使われている楽器や歌詞の意味によって続合され、そのつながりが広がるにつれて、常に物語も音楽的形式の枠を越えて展開した。
(略)
「デイヴィッドは独特の雰囲気を作り出せたんだ」とフランキー・ナックルズは言う。「部屋じゅうに信じられないくらいのエネルギーを充満させておいて、突然、熱帯の嵐を起こすことも出来た。部屋が真っ暗になって、雷の音が聞こえるんだけど、それがだんだん大きくなるんだ。すごく暑くて、半分裸みたいな連中もいたけど、みんな突っ立ったまま、ヒューヒュー口笛を吹いたり、大声を出したりしていると、風の音が聞こえてきて、実際に風を感じるようになった。デイヴィッドが扇風機のスイッチを入れるのさ。(略)あれは紛れもなく本物の体験だった。アシッドをやっていたとしても、幻覚なんかじゃない。あのとんでもない出来事は現実だったのさ」
(略)[当初はミキサーなし]
「すぐにレコードがかかることもあれば、すぐにはかからないこともあったけど、常にフィーリングが途絶えることはなかった」。そして約一年後、マンキューソは初歩的なミキサーを手に入れ、“ブレンド”を姶めたが、より広大なドラマの文脈の中ではミキシングの概念はそもそも問題ではなかった。「デイヴィッドは決してミキシングを必要とはしていなかったし、それはみんなも分かっていたんだ」とナックルズは言う。「ミックスする、しないは問題じゃなかった。デイヴィッドに関して重要だったのは、音楽の趣味が素晴らしく良かったっていうことと、その音楽をどうプレイすべきか心得ていたってことさ。(略)
ただレコードを載せて、音楽を流し、その曲を楽しんだら、今度は次の曲って感じにね」

デイヴィッド・マンキューソのサウンドシステム

採石場に流れ込む小さな川があってね。たぶん幅は数フィートくらいで、スピーカーみたいな小さい渦巻きが出来ていたから、かがんで、ぎりぎりぬれないですむくらい耳を近づけてみたんだ。その音といったら、信じられなかったよ。あんなに澄んだ音を聞いたことはなかったからね。それに、その音にはあらゆる情報が詰まっていたんだ。まるで言葉ではなく、音楽で生命の歴史を語っているかのようだった」とマンキューソ。(略)
あの小川のせせらぎのスピリットを自分の部屋でも聴けるようにしたかったんだ」
 1972年、マンキューソはあるアイデアを思いつき、彼のサウンドシステムは革命的に進歩した。高音域用スピーカーユニット、ツイーターの列(ツイーターアレイ)をひとつ加えたのだ。
マンキューソは八つのJBLツイーターを設置し、それぞれ東西南北に向けて花のように配置しようとした。
「(略)立体視野を作り上げて、みんなが音を絵画のように見ることが出来るようにしたくて、ツイーターで出来るか試してみたかったんだ」
(略)
ダンスフロアの頭上にツイーターアレイを配置したことで、新たなリスニング環境が生まれ、部屋の中央から発した周波は下ではなく横に広がっていった。「まるで水面のさざ波のようだった」とロスナーは言った。「すべてのサウンドがダンスフロアから聞こえるような気がしたんだ。実際にダンスフロアから発していたのは高音部だけなのにね」

世代交代。『ディスコ・バイブル』

ニッキー・シアーノも同意見だった。「70年代未には、俺たちもまったく影響力を失って、大量にレコードを売ることもなくなった。ラジオがまた支配権を取り戻して、クラブのDJはもはや以前ほど重要ではなくなってしまったんだ」
 前世代のDJたちがマンハッタンで安定したレジテントの職に就くのも難しくなっていった。プライドから、古ぼけたレストラン兼ディスコでプレイするのを拒んでいたという事情もあったが、若い世代の、よりハングリーなDJたちが出現してきたことも一因だった。こういった若手DJの多くはニューヨーク州北部で発行されていた『ディスコ・バイブル』という雑誌を愛読していた。同誌はリズムのペースに基づいたレコード評を掲載していたことから、読者も歌詞やサウンド的互換性ではなく、ビートを合わせたミックスが可能かどうかでレコードを分類する方法に関心を寄せるようになる。初期のDJたちに言わせれば、このような基準は見当違いも甚だしかった。出版者のトム・ルイスは「完全にスムースな流れを作り出すには、これ以外に方法はない」と豪語しているが、『ディスコ・バイブル』は冒とく以外の何者でもないと見る向きもあった。「ベテランのDJたちは極端にテンポの違った曲どうしでも驚異的なチェンジをすることが出来たけど、同じエネルギーを持っていたから上手くいっていたのさ」とゴメスは言う。「でも、70年代の終わりには、遅い曲から速い曲までBPMごとに分類されたリストとドットマトリックスが印刷されたシートの付いた雑誌を頼りにミキシングするようになってしまったんだ。ボビー・ガタダローはあれを『ヴァイナル帝国の没落』って呼んでいたよ。ボビーの年代のDJはもう職に就けなくなってしまった。新しいタイプのDJが出現したおかげでね」

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