エレクトロショック・その2

前日のつづき。

エレクトロ・ショック

エレクトロ・ショック

ガルニエ18歳

僕はその頃いい機材を持っていなかったから、テープを録音するのにけっこうな時間がかかった。ベルト・ドライヴ式のターンテーブルが2台、ピッチコントローラーはなし。セッションを用意するのに最低6時間はかかったし、1曲1曲を音の強弱によってミックスするんじゃなく、BPMの増加回数によってレコードを繋いだ。たとえBPMの差が倍であっても、手を使ってアナログのスピードを調整しながらミックスしたものだ。

はじめてのマンチェ

町の第一印象は最低だった。建物の壁は汚いし、道路と空はともに灰色、建物の醜さに胸は圧しつぶされたものだった。それは過去の工業都市マンチェスターの廃墟だった---レンガ、数キロにもわたって広がる空き地。すべてが冷たく、灰色で、そして汚かった。強烈な悲しさ、厳しさの感覚が町には漂っていた。(略)
学生連中はみんな地元のポップ・シーンを代表する伝説的なバンド、ザ・スミスニュー・オーダー、ア・サーテン・レイシオなんかのTシャツを着ていた。そもそもこの町にはスター・システムなど存在しない。みんな気持ちよく匿名で動きまわり、同じ場所で遊ぶ。そう、同じドラッグをやって、酔っぱらって、同じパブでサッカーのことで下らない喧嘩をして、そして踊りに行く前に仲直りするためまた一緒に飲むんだ。

変遷

20年代になるとアメリカの黒人によるジャズ・バンドが---ヨーロッパ・ツアーのあいだだけアメリカにおける彼らの社会的身分から脱け出して、この雨の町(レイニー・シティ)を歩くようになった。差別も虐待もないジャズのエルドラドだ。(略)
1930年代になると北の産業は息切れを見せはじめ、マンチェスターはこの危機に動揺した。町の風景も変わり、工場から人もいなくなって、見捨てられた倉庫は静かに苛立つ亡霊のようだった。ところが1948年には、雨の町はマンチェスター・マーク1(初のプログラム保存機能を持つ電子コンピュータ)によって未来のヴィジョンを産出し、モス・サイド地区には夜遊びする人たちのためのクラブが並ぶエリアが出現した。50年代のなかばになると、アメリカの黒人が演奏するリズム&ブルースのレコードが大量に入ってきた。ためらうことなく週末に給料を使い果たすソウル・ミュージック好きの労働者階級のキッズからの増え続ける需要を満たすために、レコードはアメリカから直で輸入されていた。1960年。マンチェスターの若者たちは経済的に安定した最後の10年間を迎えようとしていた。雨の町はその当時、すでにイギリスではいちばんのナイトライフ文化を持っていた。

ノーザン・ソウル

何しろ、ここではエルヴィスも、ナッシュヴィルと白人のアメリカン・ドリームも、堂々と無視されていたのだから。そう、ここではラジオからノンストップで打ち込まれるストーンズビートルズでさえも、ただ受け流されていただけだ。ヒステリックなダンスとその極端さで知られる週末を待つことによってね!
ロックが世界を皮膚のように覆っても、ここではレアで数年前の古いソウルの音源がもてはやされた。白人プロレタリアが住む郊外の過熟した会場で、栄光を忘れたシックスティーズの黒人アーティストの7インチをみんなは思い切り楽しんでいた。これこそ70年代に訪れたレトロな波だった!
(略)
で、ノーザン・ソウル爆発の一世代あとに、マンチェスターは第二の革命を体験することになる---それがハウス・ミュージックだったわけだ。