自律的に描画する「アーロン」

表紙に使われている絵を自律的に描く(100回描けば100枚の違う絵ができる)「アーロン」をプログラミングした画家ハロルド・コーエンについて書かれた本。

 

google:image:aaron Cohen Haroldで画像検索すればどんなものかわかりますが、一応線画を一枚貼付。
https://art.runme.org/1047021569-20994-0/aaronfigures.gif

ルールで描いてみる

コーエンは「意味と表象」という基本的な関心から離れ、ルールによって事物がいかに配置されるかという問題に取りつかれるようになった。(略)
 転回点となったのは、白い地の上に描くのではなく、背景に色を撒き散らすことを初めて試みたときだ。絵は急速に地図のような形状を有するものに変っていった。
 「そのときの戦略は、まず絵の具を撒き散らし、その後は簡単なルールに従うというものだった。絵の具の付いた部分の周囲を回るのはこんなときで、単に方向を変えて別のところへ向かうのはこんなとき、といったことを定めたルールだ」

画家と鑑賞者

「私は解釈という問題とそれに伴う明らかなパラドクスに大きな関心を払ってきた。というのは、芸術家には観賞者が絵画の中に何を見るのかを知る術がない(略)
にもかかわらず、それでもなおそこには明らかに、絵画によってもたらされる共有/聖体拝領の行為が存在する

「絵画の中のマテリアルで特別なのは、それが単に観賞者にとって新しい情報、つまりその人の精神の領域から欠落した情報を含んでいるだけではなく、その組込みに関する情報、いわば、その配線説明書を含んでいることだ

機械により芸術思考過程が明確に

「しかし、いまでは一般に『コンピュータ・アート』という名で知られている、うんざりするような幾何学的な図形を描こうと考えたわけではなかった……私が最初にコンピュータに魅了されたのは、その正確さのせいではなく、驚くべき作業能力のせいでもなく、またその驚嘆すべき多芸さのせいでもない。それは、ある場合にはこうせよ、別の場合にはああせよ、といったきわめて単純な意志決定の機能から、人間の論理展開に奇妙なほど類似した複雑な機能を構築していくその能力にあった。そして、それはいまなお私を魅了している。私にとって機械それ自体は重要なものではない。しかし、機械を使用することで、芸術活動の過程とそれに付随する事柄を明確化する、正確で厳密な定式化が可能になる」

自己定義

「私は、すべての芸術――作品としての芸術ではなく、行為としての芸術――は、自己定義への没頭ということで、ある程度まで特徴づけられると考えている。ここでいう自己定義とは、芸術家は、芸術がいったい何であるかを定義するためにそれを生み出しているということだ。この限りにおいては、コンピュータを使用することは、それ以外の芸術的行動様式と本質的に異なるわけではない」

変換ソフトとはちがうのだよ

いわゆる「コンピュータ・アート」は単なるイメージの作成にすぎない、と彼は述べる。安物のカメラと一巻のフィルムで誰もがやっていることを、ただコンピュータとプリンターに置き換えて行っているだけだ、というのである。「プログラマーはまずスヌーピーの絵を注意深く数値化する。次はポリゴンの回転だ。そして、多項式関数へとたどり着けば、毎年恒例のカルコンプ社主催、コンピュータ・アート・コンテストに応募する準備はできたというわけだ」
(略)
コンピュータは単にイメージを変換するのに用いられているにすぎない。上からオリジナルを放り込むと、下からその変換されたイメージが出てくる。その過程においては、それを操作する人間の選択や量的なコントロールはあるが、いったいどうなったかを機械が読み返すことはいかなる時点にも行なわれない。

マークがイメージとして機能するには

[アメリカ・インディアンの絵文字に触れ]
「その存在は、人がイメージだと認めるようなマークを作り出すために、いったい何を必要としたのだろう。ここでイメージというのは、単なるマークではなく、何らかの意図を伝達するマークのシステムのことだ」。別の言い方をすれば、次のようになる。最低限どのような条件があれば、マークの集合はイメージとして機能するのだろう。

第一歩:閉じた輪郭

 このことを心に留めながら、コーエンは、閉じた形態と開いた形態とを区別するだけの能力を機械に付与するコンピュータ・プログラムを書いた。このプログラムは、最初は閉じた形を作り、その後、閉じた形をグループにまとめて、閉じてはいるが内側が分割されているような、もっと複雑なオブジェクトを作るようになった。さらにその後、「クロス」「ジグザグ」「スクリブル(なぐり書き)」といった閉じていないマークを生み出した。
 「まず最初は閉じた形だった。私はいつだって、閉じていることこそが基本的な認知のモードだと確信している。というのは、まあいまだから言えることで、当時それが分かっていたとは思わないが、この世界にある物体を認識するわれわれの能力は、きわめて精緻な知覚構造に依存していて、そこではわれわれの目は、単なる明るさの測定装置ではなく、エッジ(縁)の検出装置として機能しているからだ。われわれは長い時間をかけて、見るという体験のすべてを物体の輪郭線に置き換えてきたんだと思う。それはまるで、認知のプロセスのある部分が、かたまりとしての形態それ自体ではなく、その形態の〈速記法〉、つまり、閉じた輪郭線によって部分的に機能しているようなものだ」
 「だから、アーロンがはじめて生を享けた1973年、最初に行なったのもそのことだった」

表象ではなく喚起

 最初の段階では、アーロンはもっぱら人間の認知の内的側面だけを扱った。このことは、世界を「表象する」のではなく、世界を「喚起する」ということを意味していた。そして、それは1980年あたりまで続くことになる。この最初の段階で、アーロンは図と地、内側と外側を区別することができた。また、閉包、相似、分割、繰返しといった概念や、向こう側にあることを意味する「上」のような空間的な配置に関する概念についても理解し、それを活用した。
 このような認知的プリミティヴの相互作用がドローイングを生み出した。
(略)
 最初期のアーロンでは、世界中のあらゆる「岩絵」にならい、閉じた形態が重なることは許されていなかった。プログラムがある形状を描き始める。すでにその場所に別の形状があるのを発見する――つまり、線の行く手がさえぎられている――と、重なるのを避けてその線の行き先を変更する。(略)
 重なりを避ける手続きによって得られたのは、変更される以前の閉包ルールが生み出していたものよりも、ずっと豊かで予測しにくい形態の集合だった。(略)アーロンは紙の上にランダムに点を打ち、まず形状を描く。そしてそこから先を続ける。そのとき拠りどころにしているのは、すでにどこに線が引かれているかを知っているということだけだ。

「生み出すのにその人は何をしているか」

「しばらくすると、もうこれ以上新たな認知的プリミティヴを発見できないことに気づいた。始めたときと同じだけの認知的プリミティヴしかなかったし、それ以上明らかにすることはできなかった」。(略)
 さらに彼は、これら少数の普遍的な存在であるプリミティヴは、一つのより根源的なものに源を発するものであり、われわれは〈見たもの〉を〈知っているもの〉の方向へと歪曲しているのではないかと疑い始めた。この推測こそが、彼のそれ以降の仕事を特徴づけることになる。
 「もちろん、われわれが認知と呼んでいるのはまさにそのことだ。われわれがイメージをいまのような方法で生み出しているのは、単にそれが精神の働く方法であるからにすぎない。私はいつも、プログラムのふるまいという側面にいちばん大きな関心があった。つまり、これを生み出すのにその人は何をしているかということにであり、これは何をしているのかということにではない」

変換じゃない、認知プロセスが問題なんだ

 ここでコーエンは、いわゆる「コンピュータ・グラフィクス」の一群に対し、決然と、そして永遠に別れを告げることになった。これらコンピュータ・グラフィクスは、写真という表象のパラダイムと伝統的な遠近法的変換を拡張するものにすぎない。「十五世紀のはじめ以来ずっと西洋美術が採ってきた戦略は、現実世界を平面上にまるっきり機械的に変換することの上に成り立っている。しかし、これでは<われわれは何をするか>という根源的な疑問を避けてしまっている。この幾何学的な変換が何をするかではなく、世界に直面したわれわれが何をするか、という疑問をだ。われわれが行なっているのは変換なんかじゃない。遠近法的な変換は目の網膜までのことで、それより先で行なわれるプロセスはまったく知ったことじゃないのさ。見るということは単なる光学的なプロセスではない。それは認知的なプロセスでもある」

ポール・ヴァレリー

 かつて詩人のポール・ヴァレリーは、彼にきわめて大きな影響を与えた三人の芸術家、レオナルド、ポー、マラルメに関する研究の序文で次のように述べている。「本当のところ、私を深く魅了する作品というのは、それを生み出した生きて考えるシステムを私に思い描かせるような作品である。そんなシステムなど、疑いもなく幻想だ。ただし、純粋に受け身である読み手の姿勢の中には見出すことのできないエネルギーを発達させる幻想なのだ」

明日につづく。