アーロン2:輪郭、分離、色彩

前日のつづき。

輪郭化の段階

「子供たちのお絵描きにおける輪郭化の段階は、彼らがその絵に表象的な意味を与え始める時期とちょうど重なるんだ。これが単なる偶然ではないとすると、私の推測では、子供たちがいたずらがきに輪郭を付けるのと同じように、棒線画に輪郭を付けてやることで〈妥当な表象〉を生み出すこともおそらく可能だということになる。
(略)
 動物には一本の背骨、前部と後部にそれぞれ一対の足、そして尾と首と頭がそれぞれ一つずつある、といった単純な考え方からコーエンはスタートした。そして、そのような棒線画をプログラムに構築させ、その周りに線を描かせてみた。こうしてでき上がったドローイングは、単に動物らしく見えたばかりではなく、アフリカのブッシュマンが描く動物画に驚くほど似たものだった。そして、動物の体のふくらみを表現するため、背骨を簡単な四辺のポリゴンに置き換えてみたとき、そのドローイングは北ヨーロッパの洞窟に見られる旧石器時代の芸術の様式に似たものへと変貌した。

「動物」とわかる絵を描くことの問題

 アーロンにおける抽象から形象化への変化は、きわめて困難な技術的変化だった。そして、ハロルド・コーエンにとっては、それはまた大変困難な概念上の変化でもあった。彼が直面する二つの大きな問題についてはすでに述べた。つまり、それはまず、もしアーロンのドローイングの土台となっていた喚起の力がより明示的な何かに変えられてしまったなら、ドローイングの質や価値は損なわれるのではないか、という問題である。そして、明確に認識できる像により喚起される意味がこの世界についての知識を暗示しているのなら、はたしてどのような知識がどれだけあれば十分なのか、という問題である。

「喚起というものは、事象に意味を付与しようとする鑑賞者の性癖の上に成り立っている。新たに生み出されたドローイングは、そういった性癖の行使を減ずるどころか、明らかにそれをより高い位置へと持ち上げた。(略)意味の付与は、その要素――この場合、明らかな何かの形象になるのだけれど――が表わすと思われるものによって生み出されるドラマティックな関係に対してなされるんだ。形象的なドローイングには、鑑賞者が操作できる情報がきわめて大量に含まれているらしい。

それにはどれだけの知識が必要か

この問いに対する答えは、「驚くほどわずか」であった。(略)
表象が実体化する知識に比べれば、表象に含まれている知識はずっと少ないんだよ。適切な表象の戦略が与えられさえすれば、知識のかたまりは、それがどんなに小さく、特定の目的に対して不適切であっても、独自の表象を生成する。

「意味の豊かさ」は

伝達されるものの中にあるのではなく、芸術作品が持つ「意味」の感覚を生成する能力の中にあるのだということだ。つまり、ひとたび鑑賞者があるイメージの中に誰か別の人間の意図的な行為を見出したなら――あるいは、見出したと感じたなら――そこから意味を生み出すのは鑑賞者なのである(略)
 コーエンは語る。「自分が目にしたものを説明しようと意味を構築するとき、われわれは何かについて知っていることすべてを利用している。知っていることが多ければ多いほど、その意味は複雑なものとなる。
(略)
イメージの質というものは、鑑賞者に対してどれくらいの数のレベルで喚起を起こすかで示される。優れた芸術作品とそうでないものとの違いとなっているのは、おそらくこういうことだ。つまり、優れた作品はきわめて豊かな意味の集合を生み出すことができる。一方そうでない作品は、単にわれわれが知っていることを思い起こさせるにすぎない」

彩色

われわれは通常、色彩を三つの要素で語る。つまり、それが光のスペクトルのどこに位置するかをあらわす「色相」、スペクトルの一個所にすべて集中しているのかあるいはいくつかの色相の混合なのかをあらわす「彩度」、その色の明るさを黒から白への尺度の中で示す「明度」である。このうちもっとも重要な要素は、色相でも彩度でもなく、なんといっても明度だ。
(略)
 色相のコントロールは将来の課題として残し、アーロンの作業を明度のコントロールだけに限定しておくことができると分かってから作業は順調に進み、一年目の終わりにはアーロンはかなり上手な色の使い手になっていた。

全体の色の構図はどうするか

アーロンは私が行なっているような方法では色を扱うことができない。というのも、そもそもアーロンは視覚を持たないからだ。私だってもし視覚がなければ色を効果的に使うことなど絶対にできない。逆に私は、アーロンが持っているような、紙に印ひとつ付けることなく複雑なイメージを「想像して」組み立てる能力など持っていない。私の仕事はプログラムに私が色の構図をどうやって組み立てているかを教えることではなく、プログラムが扱える手段を用いて、色に関して私が持っている知識を表現することである。そしておそらく、その手段は私自身には扱えないはずのものだ。

分離を生む色彩

 色彩に関して私が知っていることの一つは次のようなことである。人があるイメージに対して抱く感情的な反応は、大きな形態の色の関係に依存するところが大きいのかもしれないが、そのイメージの「見分けやすさ」はそれらの形態を分離している「縁」で何が起こっているかに依存している。こうした分離は、形態と形態の色相の差よりも、明度の差によって決定される。実際、明度をコントロールするだけでこの分離は実現される。モノクロ写真がその例である。だがもし感情的なインパクトを与えるために色彩を使うのなら、人間の画家であれコンピュータ・プログラムであれ、そのとき必要となる作業は、色相、彩度、明度の三者を同時にバランスを取りながら適切な分離を生み出すことだ。人間の芸術家はこの作業があまり得意ではない。ああでもないこうでもないとあれこれ調整を繰り返すのはこのためである。一方、アーロンにはこれはたやすい作業だ。そしてアーロンは現在、私の色彩家としての能力に再考を迫るほど刺激的な色の構図を生み出している。